小話 難解な二人の、問題提起
見上げるとそこには、灰色に満ちた空が広がっていた。自分の顔と頭上が平行になるほど眺めながら哲郎は、白よりも黒の方が比の多い灰色だと、ぼんやり考えた。ふと頬に何かが落ちてくる。やがてそれは数を増し、地面を水玉模様に染めていく。服越しに感じられる冷たさで、ようやく雨が降ってきたことを理解した。
サァーっという木々のざわめきにも似た雨音と、周囲の商店街を歩く人々の慌ただしい足音が耳を通っては抜けていく。哲郎も紙袋を持ち直し、近場の店先に滑り込んだ。おかげで肩を濡らす感覚はなくなった。代わりに頭上の屋根を叩く、不規則なリズムが聞こえ始める。コン、ポツ、ポトリ。どこか心地よいそれに耳に傾けていたせいか、背後の気配に気づかなかった。
「……和多?」
控えめな声のかけ方には覚えがあった。というより、つい先日も彼女とは会ったばかりだ。振り返るよりも先に、こちらの顔を覗き込んできた彼女が安堵の息を小さく吐く。
「良かった。違う人だったらどうしようかと思った」
「神楽」
名前を呼ぶと、その大きな瞳が僅かに垂れる。嬉しいのだろうか。生憎、自分は人の気持ちをくみ取ることが苦手なため、当然確信など持てるはずもない。
ただ、そうだといいな、くらいには期待してしまう。
神楽は哲郎の水滴がついた髪の毛と、商店街の通りを見たのち「あ……雨」と呟いた。けれどすぐにこちらを振り向き、珍しくニヤリと笑った。
「じゃじゃーん」
わざわざ効果音まで言葉にし、カバンから取り出されたのは可愛らしい桃色の折り畳み傘だった。雨の降る向こう側へ開けば、パッと花が咲いたかのように錯覚してしまう。瞬間、哲郎の頭の中には、大きな花を傘の代わりに持って歩く少女のイメージが浮かぶ。小人みたいだ、と思いつつ、神楽の声で我に返った。
「和多、傘ないんじゃない? 一緒に入って帰ろうよ」
すでに桃色の大きな花びらで雨を凌ぎながら立っている神楽は、けれどすぐに「良かったらでいいの。まだ用事があるなら、無理しないで」と付け加える。その言動に少しの間、呆気に取られた哲郎だが、
「いや、もう予定はない。……ありがたく入らせてもらう」
せめてものお礼に、と自ら傘の柄を持つ。そうして隣を横目に歩き始めた。
「神楽、なんか機嫌がいいな」
何となく感じていた思いを口にすると、彼女は分かりやすいほどに体を強張らせた。すばやくこちらを一瞥した表情は、少し恥ずかしげである。
「……顔に出てた?」
「あぁ、顔というより声とか、体の動きもいつもと違っていたな」
神楽が俯きがちになる。やがてボソボソと声にし始めた。
「今日、ホームステイしてた家から荷物が届くの。向こうで撮った写真とか、お菓子とか」
だから楽しみで、とはにかむ彼女の周りには幸せに満ち溢れている。雨が降っているはずなのに、陰鬱な雰囲気など微塵も感じさせないそれに、哲郎は微笑んで「そうか、良かったな」と返した。
自分も神楽も短期留学先であるカナダから、つい一週間ほど前に帰ってきたばかりだ。帰国当日には、今でも交流の絶えないかつての部活仲間たちが出迎えてくれたのだが、安心感と疲れとが一気に襲ってきたせいか、神楽も哲郎も空港に到着した途端、倒れ込むように寝入ってしまった。結局、ちょっとした同窓会の空気はいたずらな風の如く去り、また後日にでも集まろうという結果に落ち着いた。だからこうして、彼女と話をすることも実に久しぶりなのだ。
意外にも、話し方を忘れてしまったのでは、という哲郎の不安は杞憂だった。
「和多は今日何してたの?」
「足りない画材を買いに行っていた。まさか雨に降られるとは思わなかったけど」
「朝、天気予報で言ってたよ」
「そうだったのか……昼に起きたから、知らなかった」
時差ボケがひどくて、と言うと、神楽が頷いた。
「なかなか直らないよね。あ、家こっちの道で合ってる?」
「あぁ……いやでも、あっちの方が近道になーー」
次の瞬間、大粒と思われる雨が傘に弾かれた。違和感を覚えるのもつかの間、雨量がそれまでとは比にならないほど増えた。まさにバケツをひっくり返したとはこのことだろう。ザアアという音はもはや心地よさを通り過ぎて、ただ不安を煽るばかりだ。
自然と重くなる傘。哲郎は神楽を一瞥し、少し考えたのち傘の柄を彼女に近づけた。ジワジワと肩越しに水が染みていく。
「俺は向こうの道から帰る。傘、ありがとうな」
そう言って、恐らく神楽の家があるであろう方向とは真逆の道を指さす。彼女がギョッとした目をこちらに寄越した。
「え、でもこんなに降って」
「わざわざ家の近くまで送ってもらったら、神楽も帰るのが遅くなる。俺は濡れても平気だから」
紙袋の中の画材道具はビニールで包装されているから問題ない。それなら、自分ひとりくらい濡れ鼠になったって構わない。
傘を手渡し去ろうとするが、しかし彼女は受け取らずに、目線を泳がせてから、
「えっと……じゃあ、私の家で雨宿りしていくのは……?」
想像だにしなかった選択肢に、思わず目を瞬かせてしまう。その手があったか、と無意識のうちに呟くと、神楽はおかしそうに笑った。
◇◆◇
大きな鉄の門を開け、真っ直ぐ歩いた先にはこれまた大きな扉があった。神楽に続いて哲郎も足を踏み入れた。
明るく清潔な玄関はやはり広い。靴もたくさん置けそうだと思ったが、そこには神楽が先ほどまで履いていたサンダルしかなく、何となく寂しさを漂わせた。自分の靴を彼女のものの近くに揃え、立ち上がった。
振り向くと、神楽は廊下の奥からパタパタと駆け寄ってきた。その手にはタオルがあった。手渡されたそれで濡れた場所を拭き終え、廊下を歩き始める。
二人分の足音だけが高い天井に反響する。広い場所だからこそ哲郎は余計に感じてしまう。
「……静かだな」
思わず呟いてしまった言葉に、神楽は「今、誰もいないから」と返してくれた。
「いつもは九条さんーーお手伝いさんなんだけど、その人がいて、みんながそれぞれ帰ってくるパターンなの。今日は九条さん、用事があるから二時には帰るって言ってた」
そのうち誰か帰ってくるよ、と言って、どこかの部屋へ通じる扉を開ける。そんな彼女の背中が急に小さく見えた気がした。空白の多い家の中にたったひとり。口振りからして、こんなことはしょっちゅうなのだろう。
哲郎にも神楽同様、両親がいる。けれど二人とも自宅を職場と兼用しているため、大概、家は大人たちの話し声や笑い声で賑やかだ。
一足しか履き物の並んでいない玄関が思い出される。
ーー寂しくないのか?
喉まで出かかった言葉は、神楽の「あ、荷物届いてる!」という嬉しそうな声によって、飲み込むことができた。扉を開けた先は居間だった。大きなソファが並ぶ間にあるローテーブルに神楽が駆け寄る。早速、段ボールの封を開けた彼女に倣って、哲郎も荷物を置いて覗き込む。写真の束、お菓子のカラフルな箱、奇抜なデザインの置き物、メッセージカード。短い間ながらも濃密な思い出が、これでもかとばかりに詰め込まれていた。
横目に見ると、神楽は瞳を輝かせたり、微笑んだりと忙しそうにしながら、ひとつひとつ丁寧に取り出していた。さっきの言葉を言わなくて良かったと思う。この家で生きるだけが、彼女の人生ではない。きっとこれからもっともっと、外の世界へ飛び出していくだろう未来を想像したら、自然と頬が緩んでしまった。
ふと神楽が立ち上がる。
「ちょっとごめん。私、お茶用意してくるね」
「あ……お構いなく」
哲郎のほとんど反射的な文面に、神楽がフフッと笑みをこぼす。
「友達に言われると変な感じ」
友達。彼女の言葉を脳内で反芻しているうちに、これまた広いであろうキッチンへと、その姿は消えてしまった。誰にでも使えるわけではない、特別な色を含む表現が哲郎の心をくすぐらせる。自分はもちろん、彼女からもそう思われていることが嬉しかった。
けれど、どうしてか。今日はそこに違う色が混ざっているように感じた。思い返せば恐らく今日に限ったことではない。
それはずっと前からあって、でもずっと目を逸らしていたような気がする。
何だろう、と途方もない答えを探すべく、ぼんやりとソファに腰掛けていた。そのときだった。
重厚な扉が閉じる、独特の音が微かに耳を刺した。誰かが帰ってきたらしかった。
神楽以外の人間であることは間違いないのだが、残念ながら自分は彼女の家族構成を把握していない。そもそも家族ですらない可能性だって十分にありえる。
ジッと耳を澄ませる。足音の主は玄関で一旦立ち止まったらしく、そのときだけは無音だった。しかし、やがてドタドタと廊下を激しく踏み鳴らし始めた。音がだんだん大きくなる。こちらに近づいているようだった。
足音がこのリビングに通じるドアの前で止んだ。哲郎もそちらに目を向け、思わず唾を飲み込む。
キッチンから神楽が出てくるのと、ドアが開いたタイミングはほぼ同じだった。
「和多、紅茶とオレンジジュースとどっちがいい?」
「ただいま神楽! お客さんがいるようだが一体誰なんだい!?」
二方向から飛んできた声に困惑した末、とりあえずドアの方を確認する。立っているのはスーツ姿の男だ。見た感じでは二十代前半といったところだろうか。少しウェーブのかかった黒髪と、男にしては些か可愛らしい印象の丸くて大きめな瞳にはどこか見覚えがあった。茜か? いや違う。
続いて神楽に視線を向けて、瞬時に合点がいった。
この二人、似ている。
神楽が男を見て、パァッと表情を明るくさせる。
「お兄ちゃん、おかえりなさい」
お兄ちゃんか。なるほど、通りで似ているわけだ、とひとり納得しながら、再度目を向ける。先ほどのオーバーなまでの第一声はどこへやら、彼は哲郎に微笑みかけてくれた。けれど、その瞬間、とてつもなく冷たい視線に自分が捕らわれる感覚を覚えた。同時に、細い氷で眼球を突き刺される、そんな気さえした。痛くて、怖くて、すぐに目線を俯かせる。
「神楽のお友達かな? いらっしゃい」
「……お邪魔、してます」
元来、無口の哲郎だが声の大きさは人並みだ。それが今は力無く、か細い。違和感でも感じ取ったのか、神楽が口を開きかけるが、
「神楽、悪いけどお兄ちゃんにもお茶とお菓子をくれないかい? お腹が空いていてね」
「あ……うん、分かった。ちょっと待ってて」
彼女がまたキッチンへと消える。なぜだか、それだけで空気が何倍も重くのしかかってくるようだ。息苦しい、と膝の上で拳を握りしめる。向かいのソファに彼が腰を下ろした。
「僕と会うのは初めて、だよね?」
一見明るく聞こえる声色の中には、やはりどこか威圧感が入り混じっている。「そう、です」と答えると、彼はまた薄く微笑んで、
「神楽の兄の雅人だ。君は?」
「俺は、和多哲郎です。えっと……神楽とは」
「どういう関係なのかな」
「……同じ部活の、友達で」
「本当に?」
質問の追い打ちと、雅人のこちらを見据えて離れない目に、体が竦みそうになる。すんでのところで「それは、どういう意味ですか」と返した。けれど、
「どういう意味って、それはこっちが聞きたいよ。仕事から帰ってきて、玄関に見たこともない男物の靴があったのには本当にびっくりしたし、まさかとも思ったさ」
雅人は煩わしそうに上着を脱ぎ、グシャグシャに丸めたまま自身の隣に放った。
「和多くん、ひとつ屋根の下に年頃の男女が二人きりっていう、僕が帰ってくるまでのシチュエーションを分かってる? 僕からして見れば、君が何かを期待してやって来たように見えるのだが」
「ッそんなつもりは」
「ないのならこれは僕の早とちりだ。謝るよ。本当にそうならね」
もはや雅人の視線は睨みに近かった。
握りしめた拳の中で、爪が手の平に食い込む。ただ単純に、こんなにも歓迎されていない雰囲気は初めてだったため怖かった。その上、どうしていいかも哲郎には分からなかった。
「あの子の友達でいてくれるのは嬉しいよ」
けど、と淡々とした口調は続く。
「友達なら、それ相応の距離感を守ってくれないか」
ガラガラと何かが崩れていく音が聞こえた。それは自分と神楽の間にあったものだ。壊れてしまった今では、どんな形で、どれくらいの大きさだったのか、もう思い出せない。
ーーこれが、友達の距離なのか?
こちらを射抜く二つの瞳から逃れるように、哲郎は勢いよく立ち上がった。小さな声で「……お邪魔しました」と呟き、リビングを出た。
玄関に辿り着いて、仲良く並んだ彼女と自分の靴が目に入る。近かったのだろうか。今日まで、ずっと。同じ時間を、空間を共有することが当たり前になりすぎて、自分の感覚は狂ってしまったのか。それならば、離れることが適切なのか。
仮に、そうなったとして、
ーー俺と神楽は、どうなるのだろう
きっともう言葉を交わすことすら、躊躇ってしまう。
重い扉を押す。外はいつの間にか晴れていた。芝生に散らばるキラキラとした雨粒も、降り注ぐ午後の陽気も、今の哲郎には眩しすぎるものだった。
◇◆◇
「……あれ」
三人分のお茶とお菓子を盆に載せた神楽がリビングに戻ると、そこには雅人しかいなかった。雅人はソファに身を深く沈め、俯いて目を閉じていた。眠っている、というよりは意識をどこかへ飛ばしているかのようだ。とりあえず盆をテーブルに置き、哲郎の買った画材の袋があることを確認する。まだいるはずだ、ならばどこへ行ったのだろう。何となしにリビングを出て、いろいろな部屋に向かって呼びかけてみるが、返事はない。
そのうちに、確認していない場所は外の庭だけになってしまった。
玄関まで来ると、哲郎の靴がなかった。散歩しに行ったのかな、と彼のマイペースぶりを思い出し、ひとり笑みを浮かべる。
しかしその後、神楽がどれだけ庭を歩き回っても、哲郎は姿を現さなかった。ふと頭をよぎった可能性が、神楽を力強く家の中へ引き戻させる。まさか、と考えれば考えるほど、可能性は色濃くなり、心に怒りの炎が灯る。
「お兄ちゃん!!」
リビングの扉を開けて開口一番、叫ばれたそれに雅人がビクッと肩を上げ、どこか虚ろな目で神楽を見た。
「あ、あぁ……どうしたんだい?」
「哲郎に何かしたでしょう、それか何か言ったでしょ! どこにもいないの!! きっと帰っちゃったんだよ!!」
こんなに雅人へ叫んだのは、もしかして初めてだったかもしれない。様々なことに驚きを隠せない雅人は、向かいにある無人のソファと、怒りを露わにする神楽を交互に眺めたのち、表情を青ざめさせた。
フラフラと立ち上がりながら、
「ち、違うんだ。お兄ちゃんはただーー」
「私の友達なのにどうしてお兄ちゃんが口出しするの、おかしいでしょ!?」
「落ち着くんだ。確かに……僕が悪かったかもしれないけど、和多くんだって急用を思い出して、それでいなくなったんじゃないか? また戻ってくる可能性も」
そうなら良い、と神楽は思った。でも同時に、三年間ともにした間柄としての勘が、絶対にそんなことはないと告げているような気もした。
哲郎は自由だけれど、決して黙ったままどこかへは行かない。
雅人がそれを知らないのは、初めて会ったのだから当たり前だ。でも、許せなかった。
雅人は眉を下げて、神楽の前で口を開く。
「……なぁ、和多くんとは元々、家で会う約束でもしていたのか?」
「違う。本屋さんに行った帰りに偶然会って、でも雨が土砂降りになっちゃったから、うちで雨宿りしていって、って私が言ったの」
雅人が口を大きく開けてーー盛大に息を吐いた。呆れや納得が入り混じったようなそれに、神楽は「それがなに」と強気な口調で言う。
対して兄は「問題はこっちか……いや両方だな」などブツブツ呟いたのち、厳しい声で、
「神楽、いくら雨宿りとはいえ、誰もいない家に男を招き入れるのはーー」
しかし言い終えるより前に、思わず頭に血が上った神楽が「そんな言い方しないで!!」と叫ぶ。雅人は再び体を竦ませ、妹から半歩ほど退いた。
「過保護もいい加減にして。私だって、いつまでも小さな子どもじゃない!」
もうダメだ。今日という今日は、本当に、許せる気がしない。
グッと息を飲んでから、一気に吐き出す。
「私の友達をそんな風に言うお兄ちゃんなんて大ッ嫌い!!」
「だッ……!! ーー!?」
声無き悲鳴を背に、神楽は激しい音を立てながら扉を閉めた。
その後、リビングに取り残された男が膝をつきながら「また、やってしまった……」とこぼしていたのを、神楽は知らない。
◇◆◇
見上げるとそこには、鮮やかな水色に満ちた空が広がっていた。授業終わりの学生たちの開放的な声を吸い込んでいくせいか、普段より透き通っている気がした。けれど、大好きな色合いの頭上をどれだけ眺めても、哲郎の心は晴れなかった。先日の曇天がまだ目の奥に残っていて、見るものすべてがそのフィルター越しになってしまうのだ。
黙ったまま彼女の家を飛び出したことを、あの日からずっと考えている。神楽はどう思っただろうか。気になって仕方ないのに、会おうとする勇気はなかった。
『友達なら、それ相応の距離感を守ってくれないか』
脳内で繰り返される雅人の言葉が、胸の奥底で鉛のように固まってしまった。神楽を思うとそれがますます重さを増す。友達として、どんな顔をして、何を話し、どうすれば正しいのか分からない。
「……『どれだけ賢くなったところで、やはりこの世界は、分からないものばかりだ』」
悠介の小説にあった一節を呟くと同時に、ふと学校の入り口から歓声のようなものが上がった。「すげえ」「何あれ」などという、あちこちから湧き出るそれに導かれ、哲郎もそちらを向く。
入り口には一台の車が停まっていた。普通車よりも少しだけ長いサイズ。黒塗りの車体は、午後の陽気をブラックホールのごとく吸収しているようだ。傷ひとつも許さない迫力の輝きに、周囲を歩く学生は皆、慎重である。
一種の恐怖を感じつつ、哲郎も他の学生同様、通り過ぎようとしたのだがーー後部座席の窓が下げられるとともに声を投げかけられた。
「やあ、和多くん」
中にいたのは、雅人だった。
先日見たものと似た微笑みが、初夏だというのに冷や汗をかかせる。哲郎は、ほとんど反射的に一歩後退するが、
「あぁ九条さん、ドアを開けてくれないか」
その一言でパッと自動で開かれたドアに、さすがの哲郎も危機感めいたものを察知する。このままどこかへ連れ去られ、東京湾にでも沈められる自分を想像したが、こちらを見る雅人の表情はよく確認すると、先日とは何かが違っていた。すると彼は眉を下げて「もう授業は終わりかい?」と訊ねてきた。
「……そう、です」
「少し時間をくれないか?」
恐る恐るではあるが、逆らったら命がないと思った哲郎は頷く。微笑んだ雅人にされるがまま、気がつけば座席で体を強張らせていた。程よい空調の車内は、外の変わりやすい環境より良いかもしれないが、哲郎にとっては息苦しいことこの上ない。
「発車してくれ」
「了解しました」
突然響いた女性の声にビクリとする。目を向けると、後部座席と多少距離はあるものの、運転席からミラー越しにこちらを見る女性が哲郎に柔らかく笑いかけてくれていた。
「彼女は家政婦の九条さんだ」という右隣りに座る雅人のフォローで納得する。そういえば神楽も先日言っていたような覚えがある。
しかし、それにしても分からない。なぜ今自分はここに呼ばれたのか。確実に大元は先日の一件なのだろうが、わざわざ雅人が来る意味がーー。
ふいに、緊張した面持ちの哲郎の眼前へ、紙袋が差し出された。一瞬ハテナマークが頭に浮かんだが、見慣れた画材店のロゴマークで「あ」と声を上げる。
「この前、忘れていっただろう。仕事の関係でなかなか、君のところまで行けなくてね……結局、今日になってしまったのだが、大事なものなんじゃないかと思って」
「ありがとうございます」
受け取りながら、雅人の顔を窺う。そっとやったつもりだったけれど、哲郎と目が合った雅人がおかしそうに笑った。どうやらこちらの本音はバレバレのようだ。
「困惑、しているのかな?」
正直に頷くと、彼は僅かに眉を下げた。けれどすぐに「それも無理ないか……」と独りごち、しばらく考える素振りを見せたのち、哲郎に向き直った。その瞳は真剣そのものでーーやっぱり、神楽によく似ていた。
「和多くん、この前はすまなかった」
突如、頭を下げた雅人に驚くひまもなく、彼は続けた。
「実は……こんなことを言って、信じてもらえるかどうか分からないが、僕はどうにもーー神楽のことになると、人格的なものが変わるみたいなんだ」
唖然とする哲郎に、顔を上げた雅人は悲しげに歪んだ表情を露わにした。
「無責任なのだが、あのときのことはあまり記憶にない。しかしきっと、僕は君にひどい言葉を浴びせたのだろう。虫が良すぎるのは分かっている、けれど……どうか許してほしい」
再び頭を下げられ、ようやく我に返った哲郎は慌てながら「あの、大丈夫なんで、気に病まないでください」と言った。雅人が驚きに目を見開いて、ゆっくりと口を動かす。
「本当にいいのかい? 何なら、罵声を浴びせられても僕は構わないよ」
「いえ、友達の家族にそんなことをするわけには……」
にわかには信じがたい話だが、ともかく理由を聞いて安心したのは事実だ。それに、今こうして謝りに来てくれただけで、先日の雅人のイメージは十分すぎるほど払拭できた。その旨を伝えると、雅人も安心しきった表情で笑った。きっと今ここにいる彼が、本来の御崎雅人なのだろう。
「神楽のこと、大切にしているんですね」
ふと零れた正直な感想に、雅人は苦笑する。そうして、窓の外を流れる景色を眺めながら、少しの間を置いたのち「……君は、あの子の昔話を知っているかい?」と訊ねてきた。昔話、と脳内で反芻した哲郎が真っ先に思い出したのは、何年か前に起きた通り魔事件だ。いつだったか、神楽から聞いたのだ。
そして、それに彼女が巻き込まれかけたことも、微量ながら知っていた。
僅かに頷くと、雅人の静かな声が車内に溶けていった。
「あれが起きてから、僕も両親も、神楽には過保護過ぎるほどになった。心配なんてものじゃない。今でも、怖くて仕方ないんだ。だから君にも警戒心を抱いた」
けれど、と何を思い出したのか彼は自嘲気味な笑みを浮かべる。
「もう、小さな妹のままじゃあ、ないんだよなぁ……」
兄弟がいない哲郎には、雅人の気持ちが明確には分からない。しかし、大切な人を思う心ならば理解できた。同時に、それを知りながら自由になりたい神楽の決意も。
どう言葉を返すべきか迷っていると、雅人が急に声のトーンを落として、
「実はね……この前、和多くんが帰ってしまったあと、神楽にめちゃくちゃ怒られてーーまだ口を聞いてもらえないんだ」
「えッ……す、すみまーー」
「いや、悪いのは僕だから謝らないでくれ。しかし……このまま僕が土下座したところで、あの子は許してくれないだろうな。何だか、高校を卒業した途端、やけに頑固なところが性格に現れ始めてね。まぁ可愛いから良いけど」
間違いなく理久の影響である。しかし、そこはグッと飲み込んで「そうですね」と適当な相槌を打つ。すると雅人が勢いよくこちらを見て、
「だろう!? 神楽は世界一可愛いからね! いやはや、和多くんとは話が合いそうだ」
真に話の合う相手は真城に違いない。どこでそれを言うべきか考えているうちに、雅人がハッと我に返る。
「あぁ肝心なことを忘れていた。今日は先日のお詫びも兼ねて来たんだった。和多くん、何か欲しいものとかはないか?」
欲しいもの、と小さな声で復唱する。頷いた彼は「お詫びの印を物で解決するのもどうかと思ったのだが……それ以外に案が浮かばなくてね」と言い、哲郎を見る。
けれど困ったことに、これといって思いつくものが哲郎にはなかった。画材はこうして手元に戻ってきたわけで、正直足りない道具はないーーが、ひとつだけ気掛かりな事柄を思い出す。
何でも言ってみせろ、と言わんばかりの雅人に、恐る恐る投げかける。
「あの……物はいらないので、神楽と二人で、話をさせてほしいです」
一瞬にしてキョトンとした表情になった彼を前に、無意識のうちに緊張が走る。先日の二の舞は踏むまいと、事前に説明する手段をとったのだが、やはりダメだっただろうか。
しかし、意外なことに返事は「それで構わないのかい?」というものだった。
「僕としては、そうしてくれたなら神楽の機嫌も直るだろうから、好都合に違いないが……」
「俺もこの前、黙って帰ったことを、神楽に謝りたいんです。だから、お願いします」
頭を下げた哲郎に雅人は驚くが、すぐに微笑んで「君は本当に……」と何事かを言いかける。
そのとき、タイミング良く車が停車した。「雅人さん、着きました」という運転席からの声に、彼はお礼の言葉を述べた。そういえばどこに向かっていたんだろう。哲郎が疑問に感じると同時に、ドアが開いた。
そこは、哲郎の自宅前だった。
呆気に取られていると、背後から「和多くんの家は我が家と反対方向だが、地域は同じなんだな」なんて少々、物騒な内容が聞こえた。色々な意味を込めて彼を見ると、ニヤリとした口元で、
「神楽の友達の家を特定することくらい朝飯前さ」
普段、周りから鈍感だと評価される哲郎ですら、このときばかりは瞬時に悟る。
この人の前で、迂闊な言動はできない。
恐怖めいたもので冷や汗を流しつつ、車から降りる。お礼を言おうと振り返ったとき、下げられた窓越しに小さな紙を二枚ほど渡された。不思議に感じながら、名刺のようなそれを受け取る。
「どうせ二人で話をするなら、あの子を外へ連れて行ってあげてくれないか? しばらく出ていないようだから心配なんだ……あとついでに、この紙に書いてある場所にも行ってくれ。もう一枚の方は僕の連絡先だ。あとでメールしてもいいからね。じゃあ頼んだよ」
有無を言わせない勢いでそう締めると、黒塗りの車は発進し、やがて見えなくなった。
静けさを取り戻した住宅地の中、呆然と立ち尽くす。怠慢な動作で二枚の紙を見比べる。なぜだか、こうなるように仕組まれたような気がしたが、あの緊張感から解放されたばかりの頭では考えるのも億劫だった。
何はともあれ、神楽とまた会って話ができる。それが嬉しい反面、少しばかり不安でもあった。
雅人は謝ってくれたが、彼があのとき言ってくれたことは間違いではない。これからは友達としての正しい距離で、神楽に接しなければ。
だって自分とあの子は、理久と茜のような恋人関係ではない。
ーー上手くやらなきゃ
どこか乾いた言葉が脳内に浮かんだ。
◇◆◇
ふかふかのシートに身を沈め、長く息を吐く。微かな空調の音が通り過ぎていく耳に「いいんですか」という声も入り込んでくる。運転席へは視線も向けず、彼は端的に返した。
「何が」
「警戒しているわりには随分と可愛がっていらっしゃるようでしたので」
九条の人をからかうような口調に、雅人は短く笑い、流れ行く外の景色を見た。
「神楽がああ言うんだ。なら、僕だっていつまでも『ワガママなお兄ちゃん』ではいられないだろう」
それに、と外界を映しているはずの瞳には、さっきまで隣にいた青年の姿が浮かんでいた。自然と口元が緩んでしまう。
「和多くんなら、きっとーー」
◇◆◇
後日、やや緊張した面持ちで哲郎は、大きな家の前に立っていた。
端末からメッセージを送れば、返信よりも早く彼女が家から出てきた。そのまま門の側まで駆け寄ってくる。自分を見るなり表情を華やかせた神楽に、良くも悪くも胸が締め付けられる思いを抱く。
「神楽、この前はごめん。黙って帰ったりして」
彼女は首を横に振り「いいの。悪いのはお兄ちゃんだから」と少し不機嫌そうに吐き捨てた。これは相当、頭にきているようだ。フォローのつもりで以前、雅人が謝りに来てくれた話をしたところ、目を丸くされた。
「お兄ちゃんが、和多に?」
「あぁ。だから俺はもう気にしてないから、神楽も……その、雅人さんを大目に見るというか……」
しばらく俯いて考えていた彼女だが、顔を上げて「分かった。許す」と言った笑顔は、いつもと何ら変わりないものになっていた。それに安心する哲郎へ、しかし神楽はふと不思議そうな表情を露わにした。
「もしかして、わざわざそれを言いに来てくれたの?」
「それもあるけど……今日、何か用事とかある?」
「ないよ」
「じゃあ、良かったらどこかで話さないか?」
これに乗って、と哲郎が背後にあった白い軽自動車を指差す。それを何度か瞬きを繰り返しながらも認識した神楽は、バッとこちらを向いて、
「和多が運転するの!?」
「うん。あ、でも俺、理久より運転下手だから、もし不安だったら電車で」
「行きたい! お出掛け!」
閉じられた門の向こうには、キラキラと輝く瞳があった。予想外のそれに圧倒されつつ「待ってて、すぐ準備するから!」とスカートをひるがえした彼女を見送る。やがて玄関の扉が閉じたのち、哲郎は背後の車を振り返る。和多家で使われているその軽自動車は、父親が若いときから所有しているせいか所々に傷があり、お世辞にも綺麗とは言い難い。神楽の家の高級車に比べれば尚更だ。加えてさっきも言いかけた通り、運転なら理久の方が上手い。けれど時々、ゲームと感覚が類似するのか、ドライビングテクニックが荒っぽくなる点が理久にはあり、そういった意味では安全運転第一の自分の方が安心なのかもしれない。しかし、恐らく神楽はそれでも仲の良い理久の方が自分よりは好きだろう。なのに、やけに喜んでいた。なぜだろう。
実は良い車だったりするのか、これ。そんなことを考えながら車の周りを歩き回っているうちに、鉄の軋む音が聞こえた。丁寧に門を閉め、やって来た神楽は小さなカバンを持っていた。助手席に彼女を乗せ、哲郎は運転席へ乗り込む。
シートベルトを締めながら、隣を一瞥する。同じくベルトに手をかける神楽の表情はやはり普段より明るく、どことなく嬉しそうだ。
「楽しそうだな」
訊ねると、神楽は口元の緩みを隠すことなく、
「だって、和多とお出掛けするの初めてだもん」
言われて、確かにそうだと思った。
車がどうとか、運転手が誰とか関係なく、ただ自分とどこかへ行くのが楽しみだと、何の迷いもなくそう言葉にしてくれる彼女に対して、胸が僅かに締め付けられーー初めて高鳴った。
唐突なそれに困惑するも、顔に出ない性格が幸いしたのか、神楽は気づいていないようだったので、哲郎は黙って車を発進させた。
そこからは、談笑と程よい沈黙を挟みつつ走り続けた。十分ほど経ったころ、景色を眺めていた神楽がふと思い出したように呟く。
「和多はゆっくり走るんだね」
「そうか?」
「うん、ことりちゃんはもっと飛ばすよ。一回だけ乗せてもらったことある」
「……神楽、間違ってもアイツみたいにはなるな。理久は特殊な訓練を受けた兵士だから」
「そうなの? 速くてすごいなぁって思ったんだけど。あ、でも一緒に乗った松野が『ふざけんな絶叫マシンじゃねぇんだから!』って言ってたから……やっぱり、ことりちゃんの運転は高度なんだね」
「悪い意味の高度だからな」
もの凄い剣幕で怒る悠介と、それに噛み付く理久の様子がすぐに想像できた。あの二人は良くも悪くも、お互い対照的な立場にいるのが常なのだが『喧嘩するほど仲が良い』という言葉を哲郎は知っていた。だから二人のいがみ合いを気にしたことは多分、一度もない。それは神楽も同じだろう。友達の話をするときの彼女の表情はいつだって穏やかだ。
「ところで……どこに向かってるの?」
つい数秒前までの和やかな雰囲気はどこへやら。隣から湧いて出た問いに、哲郎はギクリと体を強張らせる。口元までそうなってしまう前に「着けば分かる」とだけ返しておく。
現在、到着地に設定しているのは雅人に「神楽を連れて行ってあげてくれ」と頼まれた場所だ。しかし、哲郎としては何も知らない彼女をあそこへ連れて行くことには、些か罪悪感があった。だからと言って、雅人の頼みを無下にしてしまえば、自分の命が危険に晒されるだろう。
神楽の不思議なものを見つめる視線に耐え抜き、ようやく駐車場へ車を入れ終える。
外に出た神楽は、近くにそびえ立つ建物を見るなりーー固まった。しばらくそうしたのち、油の切れたロボットのような動き方でこちらを見る。あえて無視を決め込むが、目を合わせずとも分かる。いっそ恨みすら感じるオーラが隣には漂っていた。
「……私のこと騙した」
「……ごめん。雅人さんに、頼まれて」
到着した場所は、歯医者だった。
雅人にメールでここを指定した理由を聞いたところ「最近、食事をするときに神楽の様子がおかしい」という脅威の観察眼で答えられ、なおかつ「あの子は歯医者が大嫌いで半年に一度の定期検査では九条さんでも手を焼くほど逃げる。でも友達に連れて行かれては逃げ場がないだろう」とまで言われた。心配なのは分かるが、雅人の物や人を計算する能力には、いっそ薄ら寒さを覚える。こうしている間にも、彼の手の上で都合よく踊らされている気がしてならない。
建物の入り口である自動ドアの前まで来た瞬間、背後から恨めしそうな声色で、
「お兄ちゃんのバカ……和多の嘘つき……どこかで話そうって言ったのに」
「待合室で話すか?」
「やだ!」
ドアが開き、医療施設独特の匂いが鼻をつつく。受付を済ませると空いているおかげか、すぐに「御崎さん、どうぞ」と声をかけられる。
こちらを睨みつけながら、神楽は白い扉の向こうへ消えた。
誰もいない待合室のソファで一息ついて思わず「参ったな……」と独りごちる。せっかく機嫌を良くしたのに、これでは振り出しに戻ったも同然である。検査が終わったら、今度こそどこかへ行かなければならない。それも、神楽が喜びそうな場所に。しかし、どこがいいのか皆目見当もつかない。ふと音楽が好きであることを思い出し、近場でやっているコンサートを端末で検索するが、ヒット件数はゼロ。ならば本屋か、とあまりに元文芸部として安直な結論に頼るも、長い時間はいられない欠点を見つけてしまう。喫茶店などに入ってもいいが、所持金の問題がある。画材を揃えたおかげで空洞が目立つ自分の財布を眼下に、無意識のうちに溜め息を吐いた。何か手頃な場所はないのか。出来れば無料がいい。藁にもすがる思いで、備え付けの棚から適当な雑誌を手に取り、パラパラと捲っていく。
二冊目に取り掛かろうとしたとき、白い扉が開いた。中から顔を出す歯科助手は「あの」と哲郎に向かって声を投げかけた。
「えっと、御崎さんの付き添いの方……ですよね?」
「はい」
「御崎さんなんですけど、軽めの虫歯があったので今から先生に治療してもらおうと思うのですが、大丈夫ですか?」
恐らく隠していたに違いないが、雅人に見破られ、膨れっ面になる神楽が目に浮かぶ。治療が終わったのち、なだめるのに苦労するのは分かっていたが「はい、お願いします」と返事をした。
了承し、微笑んだ歯科助手が扉を閉めるやいなや、金属製の小さなドリルが立てる独特の音が聞こえ始めた。罪悪感を煽るそれに掻き立てられるかのように、哲郎は慌ててページを捲った。
けれど、これと言って目ぼしい場所は見つけられず、時間だけが過ぎていく。そうこうしているうちに若干、千鳥足の神楽が帰ってきた。予想通り、かなりの膨れっ面で、雅人から預かった金銭で会計を済ませる間もずっと無言だった。気まずく感じると同時に、それがほんの少しだけ面白かったのは口にしないでおく。
結局行き先は決まらないまま、建物を出る。いよいよ焦りながら駐車場へ足を運ぶ途中、神楽がボソリと「……痛い」そう呟く。自分への当てつけかと思ったが、本当に痛くて堪らないらしく、その瞳には涙の膜が薄く張られていた。会計のときに貰った痛み止めの薬を思い出した哲郎だが、帰り際に歯科助手から言われた「治療したばかりなので、あと三十分は飲んだり食べたりしないでくださいね」が頭をよぎり、申し訳ない気持ちで首を横に振る。
「もう少し我慢してくれ」
車に乗り込むと、神楽は後部座席で横になった。不貞寝のつもりか、それとも痛みを和らげるためか定かではなかったが、哲郎が自販機に飲み物を買いに行き、戻ってきたころにはすっかり本物の寝息を立てていた。
大嫌いな場所に連れて行かれ、心身ともにすり減ったようだ。静かに体が上下する様を眺めながら、思わず微笑みを浮かべる。あとで飲もうと思った二本分のカフェオレを助手席に転がし、哲郎はハンドルを握った。このままここにいるのは賢明ではないけれど、肝心の人物は眠ってしまったし、プランを練るのも性に合わない。ならば、適当に走るほかない。
帰り道さえ確保していれば大丈夫だと、自分に言い聞かせつつ、車を発進させた。
◇◆◇
潮の香りが鉛筆を持つ手を加速させる。少しだけ冷たく感じる風も、規則正しい波の音も、ただそこにあるだけで安心するのは一体なぜなのだろう。自然界の神秘に浸っていると、ふと背後から気配がした。振り向くと、全開に開けた車の窓から、眠たそうな瞳の神楽がこちらを見ていた。彼女はぼんやりしながらも辺りを見渡すが、結局分からなかったようで「ここは……?」と、か細い声で問う。
「海、の前。なんか走ってたら着いた」
堤防に座って紙を広げる哲郎にそう言われ、さっきとは一変して神楽は目を見開き慌て始めた。
「あ、危ないよ」
「大丈夫。下、砂浜だから、落ちても多分痛くない」
「落ちたらどこでも痛いよ……」
そうか? と返しながら、自分の隣を叩いた。コンクリート製の冷たさが手のひらから伝わってくる。
「こっち来てみたら?」
訊ねると神楽は返事に迷ったようだった。車は堤防に沿って駐車したので、座席の窓を開ければ十分に海は見える。だからわざわざ神楽がこちらに来る必要はないのだが、哲郎としては何となく同じ場所に座りたいと思った。
けれど、無理をされるのはもちろん嫌なので「怖いならいい」と付け足す。すると彼女は少しムッとした表情で、
「怖くないもん。ただ、落ちたら危ないって思っただけだよ」
言いながら車の扉を堤防にぶつけないよう慎重に開け、コンクリートの上へ身を乗り上げてくる。そのとき、体を支える手が自分と比べてとても小さいことに、哲郎は初めて気がついた。そうか、神楽は華奢な女の子なんだ。当たり前の現実を、今更ながらに思い出し、ついさっきまでとは違い、何か気まずい。トラウマのごとく、雅人の顔が頭に浮かぶと余計にそう感じてしまった。
しかし、無事に姿勢を正した神楽が左隣で小さな歓声を上げたことで、そんな気持ちは吹き飛ぶ。
「わぁ……すごい、キラキラしてる」
波が穏やかなおかげか、青い揺らめきがひとつの巨大な宝石のようだった。もうすぐ沈むだろう太陽の、今日最後の光を反射し、広大な海は輝き続ける。
それに負けず劣らずの輝いた瞳で、眼前に広がる景色を見つめる彼女を、哲郎は目に焼き付けたくなる。不思議だった。いつも綺麗なものを見つけると、忘れないよう絵に描いて残したくなるはずなのに、今日は違う。もしかしたら絵には表せられないと本能的に判断したのかもしれない。けれど、確かに感じたのだ。紙の中ではなく、この目に映したいと。
いつか忘れてしまう日まで、覚えておきたいと。
「もう少ししたら、夕陽が見えるね」
唐突にこちらを向いた神楽と、バッチリ目が合う。驚きに心臓が跳ね上がるが、どうにか平静を装い「そう、だな」と返す。嬉しそうな顔で再度、海に向き直った彼女は、すっかり機嫌を取り戻したようだった。
「……神楽、楽しいか?」
「え? うん、楽しいけど、何で?」
「騙して、歯医者に連れて行ったから……嫌な思いさせたと思って」
雅人の頼みとはいえ、やり過ぎたかもしれない。自分の命が惜しいがために、彼女に不快な思いを味わわせてしまった。
反省の意を込めた言葉に、しかし神楽は首を横に振った。
「いいの。和多は悪くないもん。元はと言えば全部うちのお兄ちゃんのせいだし……変な人でごめんね」
続けて「私の方こそ」と、その顔が俯きがちになる。
「和多にこうやって気遣ってもらったのに、歯医者が嫌だとか子どもみたいに、みっともないところ見せちゃって……」
再度、神楽が謝罪の言葉を口にするより先に、哲郎は彼女の方を向いた。「そんなことない」
「みっともなくない。むしろーー俺の知らない神楽のことを知れて、嬉しかった。部活ずっと一緒だったけど、何が好きとか嫌いとか、大雑把にしか分からなかったから」
感情が湧き上がってくると、人はそれを言葉にしようとする。だから元来、無口で、感情の起伏があまりない自分は、咄嗟に湧いたそれを話すことが下手なんだと思う。周囲から首を傾げられる体験は一度や二度ではない。でも、今は違う。もう周りに、自分の絵だけを見る人はいない。
どんなに歪な言葉でも拾い集め、受け止めてくれる人たちがすぐそばにいる。
目の前の彼女が、ふわりと表情を和らげた。
「そっか……ありがとう」
優しい声音が耳に馴染んだとき、心が満ちたような気がした。あたたかく、どこにも手放したくないこれは何だろう。
トクリ、と胸が微かな振動を生み出した、そのときだった。
「あのう、すみません」
背後からの声に、二人は同じタイミングで振り返る。車の陰から覗くようにして、そこにはカメラを首から提げた女性がいた。女性はズボンのポケットから、メモ帳らしきものを取り出しながら、
「突然ごめんなさい。私、とある雑誌のライターでして今、カップルを対象にしたアンケートを取っているのですが……少しお聞きしてもよろしいでしょうか?」
人の良さそうな微笑みを向けられるが、見事に二人揃って言葉を失ってしまう。しばらくの間、茫然としていたけれど「えっと、大丈夫ですか……?」という女性の声に、ようやく我に返った哲郎が口を開く。
「あーーすみません。あの、俺たち、カップル……じゃなくて、友達同士で」
「はぇ!? そ、それは失礼しましたッ!」
何やら奇妙な声を上げたのち、女性は慌てた様子で走り去る。それを見送ったあと残ったのは、変わらない波の音と数分前よりもむず痒く感じる空気だった。
体が落ち着かず、心臓の鼓動を普段よりも強く感じる。明らかにさっきまでとは違う自分に困惑しながら、隣へ目を向ける。すると、まったく同じ動きをしたらしい神楽と視線が絡み合った。
瞬く間に熱が全身を駆け巡り、お互いにすばやく目線を逸らす。
眼下のコンクリートを凝視しながら、哲郎は訳も分からずただパニックに陥っていた。頭の中がこれまでなかったほど、膨大な量のハテナマークで埋め尽くされていく。力強すぎる心音は全身を揺らしているようだ。
どれくらいの時間をそうしていたのか定かではないが、恐る恐る哲郎が沈黙を破ったのは、夕陽が沈み始めたころだった。
「…………そろそろ、帰る、か」
声には出さず、僅かに頷くことで神楽は了承してくれた。
◇◆◇
帰り道、車内は無言だった。話したいのに、何をどう話せばいいのか分からない。そんな一種の気まずさは神楽にとって初めての経験だった。家の前に着いて、別れの挨拶をするときもお互いに、かなりぎこちなかった。何せ自分が発する言葉ですら理解が追いつかないのだ。
車が走り去ると、すぐさま駆け込むようにして玄関の扉を開ける。体を滑り込ませると後手に閉めーーそこでようやっと息を吐いた。
「神楽さんおかえりなさ……あら、顔が真っ赤ですね。体調を崩されたのですか?」
廊下を歩きながら出迎えてくれた九条を目の前にした途端、心の奥底から何かが一気に湧いて出る。
「ち、違うの。九条さん、さっき、私、その、和多と海にーーあ、でも最初は歯医者に連れて行かれて、お兄ちゃんに騙されて、それで、えっと」
ワタワタと身振り手振りをする神楽を見て、九条は一瞬だけ目を丸くしたのち、すぐに微笑みを浮かべた。
「これはまた随分と混乱していますね……とりあえず、靴を脱いで、お茶でも淹れましょうか。一人で脱げますか?」
「出来るよ! 私もう子どもじゃないもん!」
「それは失礼いたしました」
クスクス笑う九条の背中を、少しだけ膨れっ面の神楽が慌てて追いかける。
「歯医者さんに行ったんですね。偉いじゃないですか。いつもはあんなに嫌がるのに」
「それはお兄ちゃんが和多に無理やり頼んだから……」
「で、そのあと海に行ったと」
「そうなの! そしたらもう、息苦しくなっちゃって」
歩いているうちにキッチンへ辿り着く。慣れた手つきで茶葉やティーカップを用意しつつ、意外そうな顔つきになる九条の隣に神楽は立った。
「喧嘩でもしたんですか?」
「ううん、してない。あのね、二人で堤防に座っていたら」
「あら神楽さん、堤防に座ったんですか。青春っぽいですけど、危ないですよ。万が一、落ちて怪我でもしたら旦那様や奥様はもちろん、特に雅人さんが発狂してしまいます」
「下は砂浜だから大丈夫!」
「どこだって落ちたら痛いですよ」
「だってそうやって和多が言っててーーもう! 堤防の話はどうでもいいの! 大事なのはそのあと!」
笑いを堪えるような顔で九条は、水を張ったヤカンを火にかける。
「そんなにテンションが高くなるくらい、海で一体何があったんですか?」
「二人で座っていたらね、雑誌のライターさんに声をかけられたの」
「まぁ! すごいじゃないですか! その話、雅人さんに言ってあげたらきっと喜びますよ」
「それで『カップルを対象にしたアンケートに答えてください』って言われた」
「あらまぁ……その部分だけは雅人さんに言わない方がいいですね」
お茶と一緒に食べるお菓子を皿に盛り付ける。その中には、神楽がホームステイした家庭から送られてきたメープルクッキーがあった。そういえば、帰国した日、哲郎がこのクッキーを食べながら到着ゲートから現れたときは、思わず笑ってしまった。
向こうではかなり有名な菓子メーカーのものだから、彼も気に入ったらしかった。思い出して、口元を緩ませていると、九条に問われる。
「で、どうだったんですか?」
「どうだった……?」
「和多くんとカップルに見られて、神楽さんはどう感じたのかなーと」
そのときのことを脳内で振り返る。胸に手を当てて、考えを巡らせても、やはり答えは変わらない。
「……嫌では、なかった」
むしろーー胸が締め付けられるような、甘酸っぱい感覚をどこか嬉しく思った自分がいる。
ふと、その答えに近いであろう名称が頭に浮かぶ。次の瞬間には、もの凄い勢いで顔に熱が集まった。
無意識のうちに九条を見遣ると、火を止めてニッコリとこちらに微笑みを向けてくれていた。そして、何か言いたげな神楽に片手を軽く上げて、
「私、九条 皐月は、今の話を決して他言せず、己の内心に留めておくことをここに誓います」
言うや否や、不安げに揺らめく瞳を真っ直ぐに見据えた。
「そのお気持ち、大事になさってくださいね。もし何かあったら、この九条に何でも相談してください。ーー恋バナなら、神楽さんの気が済むまで、何時間でもお相手いたします」
言葉にしたおかげか、あるいは実感したゆえなのか、とにかく訳も分からず涙が溢れそうになる。けれどそこは、唇を噛み締めてグッと堪え、力強く頷き返す。
「ありがとう、九条さん」
彼女は目尻を下げ、嬉しそうに笑った。
◇◆◇
車庫に駐車したあとも、なぜか家に入る気にはなれず、哲郎は運転席で頭上を仰いでいた。考えたところで何も分からないことは承知の上で、一体何分こうしていたのか、記憶は曖昧である。
ついに堪らなくなって、スマートフォンの電話帳を開いた。番号をタップし、耳に当てると、四度目のコールで相手は出た。
『はい、もしもし』
「悠介、訳が分からないんだ。助けてくれ」
『はあ? いや、訳が分からないって言われても、それはこっちが言いたいセリフだな……つーか、いきなりにも程があるだろ。何なんだ、その脈絡もなく、支離滅裂な言い出しは。それでも元文芸部か。あぁでもお前はイラスト担当だったし……しょうがない、のか? いや、甘やかすのはダメだな。ーーえっと、それで、訳が分からないんだっけっか?』
「あぁ」
電話の向こうの悠介は困り果てながらも、しかしきちんと話を聞こうとしてくれる。何だかんだ言いつつ、誰よりも真面目な対応をとるのが松野悠介という男だ。要はツンデレなのだと、彼を知る人物なら口を揃えて言うはずである。
『あー、そうだな……。その訳の分からない気持ちを、俺に一から説明できそうか?』
「……多分、すごく長くなると思うけど、できないこともない」
『分かった。じゃあ、どこかで時間とってゆっくり話そう。話す相手は俺だけでいいのか?』
「あ……どうだろう、茜にも一応聞いてほしい、かも」
『ならアイツには俺が連絡しておく。よし、それじゃあ空いてる日にちとか、今確認しておこう』
「分かった」
ようやく車から出て、玄関へと歩き出す。爽やかに吹き抜けた風の中に、夏の香りが混じっていた。




