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拝啓、未来より  作者: 真野/休止中
番外編
62/68

小話 今はまだ、その名を知らない

「御崎さんって可愛いよなー」


 友人である藤井からそんな言葉を聞かされたのは、掃除の時間だった。哲郎はゴミ箱の中のものを、あらかじめ指定されている場所に捨てたのち、言われたことを噛み締めるかのようにゆっくりとした動きで首を傾げた。


「可愛い……御崎が」

「いやめっちゃ可愛いだろ」


 空っぽのゴミ箱を弄びながら、藤井が「俺ああいう子タイプー」と教室へ戻り始める。その後ろを神妙な顔つきの哲郎がついていく。


「あのちょっとフワッとした髪とかさぁ。あんまり笑わない分、たまに見せる笑顔が良いんだよな」


 廊下に反響する声を、どうにも聞き入れることができない。むしろ心にチクチクと突き刺さる気さえして、哲郎は返す言葉を失う。


「まぁでも、深窓の令嬢っつーか高嶺の花? みたいな雰囲気あるし」


 俺じゃあ無理だねー、と藤井は一方的に話を終え、教室に入っていった。哲郎が無口である分、こういった会話はしょっちゅうなので気にしてはいないが、今日の話題はやけに胸の奥底にこびりついた。

 離れなくなってしまったがあまり彼は放課後、図書室へと向かった。同じ辞書を二つ、棚から出し、それぞれ違う項目を引く。


「哲郎?」


 若干、自信なさげな声色。振り向くと、目を丸くした悠介がいた。


「珍しいな、図書室にいるなんて。調べ物か?」


 人違いでなかったことに安心し、隣に座った悠介の目は二冊の分厚い本に注がれる。開かれたページにびっしりと並べられる言葉のうち、哲郎が指さしたものを読む。


「深窓の令嬢……と、高嶺の花。国語の意味調べか?」

「今日、藤井が神楽のことをこう言っていた」


 同じクラスである悠介も知っているので「あぁ、藤井……」と呟く。


「意味を読んだら、ちょっと違う気がした」


 哲郎の言葉に対し、悠介はフッと薄く笑いを浮かべる。


「俺たちはいつも御崎といるからな。手が届かない相手っていうのは、藤井とかそういうやつら独特の感覚なんだろ」


 項目を指先でなぞり、なるほど、と一旦は腑に落ちる。しかしまたすぐにモヤのようなものが現れた。


「なら、俺にとっての神楽は何て表現すればいい?」


 悠介が一瞬驚いた顔をするが、それもやがて優しい笑みに変わり、


「そうだな……哲郎は御崎といるとき、どんな気持ちになるんだ?」


 どんな気持ち。考えてもみなった問いかけにしばらく頭を悩ませたのち、神楽を思い浮かべてみる。脳内だけれど、彼女はいつものように笑いかけてくれる。


「……あったかい、気持ち」


 小さく何度か頷き、なるほどな、となぜか悠介は苦笑した。意味が分からず、ハテナマークを頭上に載せる。

 ほっそりとしながらも、男のものだと分かる悠介の指先で、薄いページが次々にめくられていく。


「なら、これなんかどうだ」


 少し傷のついた爪の先に待っていた言葉は『和む』。


「気持ちが落ち着く、和やかになる」


 音読される意味が心の奥底をつつく。さっきまでの複雑なこびりつきが僅かに溶けた気がした。こちらを覗き込む悠介に頷き返す。


「こっちの方が良い」


 完璧な表現ではないけれど、ないよりはマシだ。辞書を閉じた悠介が満足そうに言う。


「それなら良かった。あと、藤井は女子はみんな可愛いって言うやつだから、あんまり気に病むなよ」

「なんで藤井がそこに出てくるんだ?」


 キョトンとした表情の哲郎に、


「あぁいや、こっちの話だ」


 やはり悠介はどこか楽しそうな声で答えるのだった。


 ◇◆◇


 図書室を出て、校庭の近くを歩きながらも、脳内は藤井の発言でいっぱいだった。正直なところ、可愛いのは神楽だけではないと哲郎は思っていた。それこそ理久や真城にも当てはまるからだ。

 ならば、自分が神楽だけに感じている、この違和感は何なのだろう。

 悠介に教えてもらったこと思い出しつつ、フラフラしているうちに聞き慣れた声が前方から飛んできた。


「おーい哲郎ー!」


 校庭の隅にある花壇。茜がジョウロを持ちながら、こちらに手を振っている。近づくと同じ格好の凪沙もいた。


「何してんの? 散歩?」

「あぁ、少し考え事をしていた。二人は何してるんだ」

「美化委員の仕事ですよ。花の水やり」


 深い緑色のジョウロを片手に、心底面倒でたまらないといった様子を隠そうともしない凪沙がそう返す。


「凪沙ってば、植物を可愛がる清らかな心が足りてないよー?」


 一方、常日頃から何をするのにも楽しさを見出している茜は、今日も今日とてウキウキした表情で水やりをしていた。ジョウロの先から細かな粒になった水が、淡い紫色の花へと降り注ぐ。小さな露が太陽の光を浴びて、ガラス玉のように輝く。


「こういうことしてると和むんだよね」

「そうかもしれないですけど……花壇と水道を行ったり来たりするのがダルいんですよ」


 和む、とさっきも聞いた言葉を心の中で呟く。哲郎は花壇に目を向けた。土に根を張り、芽吹き、美しい花を咲かせながら決して誇張はせず、静かにあり続ける。確かに人を和やかにさせる力が花にはあった。けれど、哲郎が神楽に感じる『和む』とはまた別だった。

 同じ言葉なのに、違う。

 難しいな、と思いながら指先で花弁を撫でる。音もなく露が滑り落ちた。


 ◇◆◇


 いまいちしっくりくる表現が浮かばず、再び校舎内へ戻る。すると通りすがりに教室から話し声が響き、覗いたと同時に「あ、哲郎先輩!」と叫ばれる。無意識のうちにビクッとしてしまうが、中央でイスに座る理久と真城に胸を撫で下ろした。

 教室には二人以外の姿が見当たらなかった。恐らく下校したか、部活へ行ったのだろう。今日は文芸部の活動は休みだが、やはりこの二人だけしかいないとなると、自然と疑問に感じてしまう。


「……神楽は?」

「ちょっと用事済ませてくるって。そのうちここに来ると思うけど、何かあった?」


 理久に対して「いや、大丈夫」と首を横に振る。すると突然、横からニュッとスマートフォンを差し出された。真城がとびきりにキラキラした表情で、


「今ちょうど神楽先輩の話してたんですよ。ほら!」


 彼女が画面をタップするやいなや、音楽が流れ出した。絵以外のことに疎い自分でも分かる。これはピアノの音だ。そして恐らく、弾いている人物はーー。


「この前の合唱コンクールで、神楽先輩が伴奏やってたじゃないですか。録画したんです」

「まるで母親だな……」


 呆れを通り越してもはや感心すら覚えているであろう理久とともにそれを見る。つい先日の行事だから、神楽が弾いていることも知っていた。実際の記憶よりも少し狭い画面に映る彼女だけれど、奏でる音はそのままだった。

 放課後のいつもより空白が多い教室に、小さなスピーカーから溢れ出る音符がゆらりと姿を現し、壁に天井に溶けていった。

 耳に馴染む感覚に酔いしれながら、真城を見る。愛おしそうに画面を眺め、音楽に身を委ねている彼女なら分かるかもしれないと、ふと思った。なかなか見つからないこの言葉探しの答えが。


「真城は、本当に神楽に懐いているんだな」


 哲郎の言葉に、瞬時に目を輝かせる。


「もちろんですよ! まさに神楽先輩はあたしのお姫様、いや天使、というかむしろ嫁ですから! もはやあの可愛さは大罪……ギルティ……」

「大罪ってそんな大げさな……確かに可愛いけれども」

「もう理久先輩ったら、小峰は理久先輩も大好きですよー!」

「はいはい、ありがとう」

「えへへ、ギューッ」


 言いながら抱きつく真城、満更でもなさそうな理久。

 いつもと何ら変わりのない、仲の良さをうかがう光景を前にしながら、哲郎は頭の引き出しに『お姫様』『天使』『嫁』を追加する。

 ーー近いような、でもどこか違うような曖昧な気持ちに包まれた。


 ◇◆◇


 思考回路も限界に達し、やはりここは悠介に再度助けてもらおうと図書室に舞い戻る。しかし、扉を開けて、さっきも座っていた奥の方の席に行くと、悠介ではない見知った後ろ姿があった。僅かに癖のある薄茶色の髪、赤いリボンの付いたカチューシャは彼女のお気に入りだった。


「神楽」


 名前を呼ぶと、振り向いた顔は驚きの色を浮かべたのちーーやがて安堵に変わる。


「びっくりした……和多がここにいるの珍しいね」


 文芸部ではお互いを下の名前で呼び合う、一応ルール的なものがある。しかし、これまで男子と接する機会が少なかった神楽は、最初こそ頑張っていたものの結局、名字呼びに落ち着いてしまった。


「そのセリフ、さっき悠介にも言われた」

「そうなの? 悠介ならちょっと前に帰っちゃったけど」


 不安げに出入り口を見つめる神楽に「平気、別にたいした用でもないから」と、安心させるように告げ、隣の席に腰掛けた。

 机に広げられているのは進路情報雑誌だった。開かれた音楽大学のページに視線を向けていたら、神楽がポツリとこぼした。


「この学校に行きたいんだけど、留学があるんだって」


 彼女のしなやかな指が示した場所には『カナダに留学』とあった。


「だから、ちょっと不安。言葉、通じるかな」

「神楽は英語、得意じゃないか」

「でも、学校で習う英語と現地の人が話す英語は全然違うってよく聞くし……そもそも受かるかどうかも分からないから」


 難しいね、と困ったように微笑する神楽を見たら、胸が締めつけられる思いに駆られた。どうにかしてあげたいという使命感にも似た感情を抱く。

 今日は稼働しっぱなしの頭で考えた末、哲郎は雑誌を借りて何枚かめくった。不思議そうな目線を向けられながらも、目当ての項目に辿り着き、二人の間に広げた。


「ここ、俺の行きたい美術の学校」


 それで、と指さした場所に神楽があっと小さく声を上げる。『カナダ留学』の文字がそこにはあった。


「もし俺も神楽も受かったら、向こうで会えるかもしれない」


 ふふっと顔をほころばせた神楽に、思わず俺も口元が緩む。


「そうしたら時間見つけて観光に行こう。メープルシロップを食べて、あと……悠介とかみんなにお土産も買って、帰ってきたらいっぱい話を聞かせてあげよう」


 クスクスと飴玉が転がるような笑い声を上げつつ「それなら楽しそう」と言ってくれた。途端、心があたたかくなる。いつもの心地よさに嬉しくなりながら、やっぱりその正体も名前も分からなかった。

 けれど、もしかしたら今、急いで知る必要なんてないのかもしれない。


「ーー大丈夫だ」


 このあたたかく、優しい時間を過ごせるのなら、今はまだこのままで良いのかもしれない。


「言語じゃなくて、音楽とか芸術とかでも人は繋がれる。大事なのは頭の良さじゃない。心だ」


 それに、と神楽に笑いかける。こんな自然に笑顔になれたのは結構、久しぶりな気がする。


「神楽はひとりじゃない。何かあったらいつでも駆けつける」


 だから大丈夫。最後にそう念を押してから見ると、彼女は惚けた顔を隠せないまま、


「ーー不思議だね。私、哲郎とかね、ことりちゃんとかみんなに大丈夫って言われると、根拠も確信もないのに何でも出来る気がするの」


 一瞬考えたあと、哲郎は微笑んで「それは不思議だ。魔法みたいだな」と返した。頷く神楽の表情が、花が咲いたかのようにパッと明るくなる。


「ありがとうーー哲郎」


 瞬間、あたたかいだけのはずだった心がキュウッと締めつけられるような感覚に陥った。連動して喉のあたりも苦しくなる。声が出ない。初めてのそれに驚きながら、柔らかな声色で呼ばれた名前を反芻し、大事に受け止めた。やがて苦しさから開放された心は、神楽の楽しそうな横顔を眺めるたびに、温もりとくすぐったいほどの鼓動を生み出した。

 いつか、この気持ちに名前をつける日が来たら。自分は何と名付けるのだろう。

 いつか、この気持ちに色をつける日が来たのならば。

 一体、何色に染め、どう描くのだろう。

 いつか、答えが分かるその日まで。

 今はまだ、このままでいたいと、静かな陽だまりの中でそう願う。

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