後話 スプリングホリデー、サイドA
好きな人ができた。初恋だった。
いわゆる一目惚れというやつで、あぁこれは運命なんだってバカのような解釈をしたのを今でも覚えている。けれど、叶わない恋であることくらい知っていた。
自分は未来から来た人間、彼女はこの時代の人間。
未来なんて滅びてしまえばいいのに。希望を抱くほど大したものではないのだから。そんなことを毎日のように思った。
しかし、いずれ別れは訪れる。それが明日なのか、一週間先なのか分からないだけで。ならばせめて、ともに生きる一分一秒を忘れないよう心に刻もう。
密かな恋でいい。振り向いてほしいなんて欲張らない。
この想いは最期の別れ際まで箱に仕舞っておくのだ。
◇◆◇
理久に自分の恋愛感情が伝わってしまうのを恐れて、いつの間にか遠慮や冷静な判断を覚えた。身につけてしまえば案外しっくりくるものがあり、同時に一年生の頃の自分は随分と子供っぽいやつだったのだろうと思い知った。そういえば、悠介と一度だけケンカをしたときもあったっけ。たしか一年生の頃の話である。ケンカの理由ももう忘れてしまったが、今なら素直に言える。あのときはごめん、悠介。向こうだって、覚えているかどうか定かではないけれど一応心の中で謝る。
しかし、こうして振り返ってみると男という生き物は本当に単純だ。茜が言うのも違うが、すごくシンプルな動機でいつも動いているような気がする。
たとえば、面白がって筆箱を投げ合っていたら壊す、とか。
「……寿命だったんだよ、多分」
バカな遊びをするからそうなるんだ、と言いたげな目をこちらへ向けた悠介にそう告げる。仕方ない、新しいものを買いに行かなければ。
理久が「和紙を買いたい」と提案したのは、筆箱事件のすぐあとの出来事だった。茜が、ついでに買いに行くことを決意するのに十分過ぎるほど良いタイミングだ。
そうして前日に控えた、春休みのとある夜。茜のスマートフォンは鳴った。
【明日、私と茜以外みんな行けなくなったみたいなんだけど、どうする? 日程改めて行った方がいいかな】
メールを見て、一瞬ポカンとする。何だそれ。ドタキャンって連鎖式のものだったっけ。けれど、すぐに思い直す。ここで筆箱買いに行けないのは困る。もう春休みもあまり時間が残っていない。茜はメール作成画面を開いた。
【え、ドタキャンって連鎖するんだ……!? でも哲郎が楽しみにしてたし、理久も次回の部誌に間に合わせたいんじゃない? 無理して予定延ばすことないよ、二人で行こう!】
【ありがとう(*^_^*) 了解です、じゃあ予定通りの時間と場所に待ち合わせで! また明日】
しばらくしてから来たメールに返信をする。この前、昼休みに学校の裏庭で見つけた野良猫の写真を添付しておいた。理久が猫派であることは記憶に新しい。
安心して布団に潜り込んでから茜は「ん?」と内心頭をひねった。
【二人で行こう】という自分の文章を思い出す。
これは、デートに誘っているも同然ではないだろうか。
加えて理久は快く了承してくれた。カァッと顔が熱くなる。
「うわぁもう……そういうつもりじゃないって」
枕に話しかけたって仕方ない。
自分は理久に「好きだ」と言わないつもりだ。遊園地のときもわざわざ幼馴染みくんに宣言したじゃないか。……恋愛感情がないなんて嘘の証言をしてしまったが。
いずれにせよ、未来に帰ったら理久は茜のことを忘れてしまう。ならば、伝えないほうがいいのだ。
それなのに何だ、この体たらくは。浮かれ過ぎにもほどがある。
楽しみだと思ってしまう自分が、心のどこかにいて。恋とはなんと恐ろしいものか。
その夜、茜はほとんど眠れなかった。
◇◆◇
春休み終盤ということもあってか、駅前は混雑していた。たくさんの人の中から、理久を見つけることに戸惑う。加えて、いつもは制服なのにただでさえ今日は私服である。電話しようかな、と思ったところで、視界の端に映る花びらのようなスカート。理久だった。
心臓がドキリと音を立てる。何度か文芸部のメンバーで遊びに行ったことはあるが、理久は必ずカジュアルな服装をしていた。それはそれで活発な理久によく似合っていたのだが、今日のような格好は初めて見た。制服のスカートとも違う。
可愛いな、と思った反面、自分以外のやつには見せたくない欲が湧き起こる。よく「自分が好きになった人を、他人も好きになると思うな」とは聞くが、勘違いしてもきっと仕方ないのだ。だって、好きな人はどう見ても可愛いし、愛おしい。
……なんか今日の俺ちょっと気持ち悪い。茜は理久の前へ歩きながら自分に少し引いた。
「おはよう、っていうにはもう遅い時間かな。理久待った?」
直後、なぜか理久は茜に対して「……ち、ちょっとこっち来ないで」と言うので、不純な思考をしていた頭は一気に冷えた。
「え! なんで!?」
「やっぱり日程改めようよ、そうだそうしよう!」
「急にどうしたの! もう合流できたよ!? 大丈夫だよ!」
「む、無理! 絶対に無理!!」
「買い物するだけで無理ってなに……?」
理久は何事か唸り始める。茜は焦った。何かマズイことでもあるのか。筆箱を買うためとはいえ、出掛けること自体も楽しみにしていた茜からして見れば、ここで帰るわけには行かなかった。
「大丈夫だって! 何が無理かよく分かんないけど、買い物するだけだから怖くないよ」
フォローしてからハッとする。
……もしかして、俺と出掛けるの本当は嫌だった? 疑問は口に出ていたらしく、理久がすぐに、
「ごめん! そういうつもりじゃなくて……! さっきのは何でもないから、うん。ていうか、嫌なわけないよ。楽しみにして、た、し……」
最後の方はなぜか少し口ごもっていた。が、その言葉で、嬉しい気持ちが胸の中にブワッと広がる。やばい、今すぐ抱きしめたい。ギューッてしたい。思わず片腕を上げかけたが、しかしそこは堪えて「俺も楽しみだった」と笑いかけた。よし、よく耐えた俺!
待ち合わせの時点で、茜の心は掻き乱されっぱなしだ。正直この先が不安で仕方ない。
ふと、百貨店に歩きながら視線を感じた。隣を歩く理久は真っ直ぐに前だけを見ている。気のせいか。念のため、チラリと背後を見る。
見慣れた三人ーー悠介、真城、凪沙が、遥か遠くの電柱の陰にいた。
そこで茜は、昨晩の急なドタキャンが相次いだメールの真意を悟った。なるほどそういうことか、自分と理久を二人きりにするつもりのようだ。大方、主犯は真城、茜の理久に対する感情に気づいたのは凪沙、といったところだろうか。この様子だとどこかに神楽と哲郎もいるはずだ。隠れ切れていない友人たちに複雑な感情を抱きつつ、茜は開き直る。
ーーせっかくだから、見せつけてやろうかな
「好きだ」なんて言うつもりはない。けど、理久を誰かに渡す気も一切ない。自分勝手な思いが首をもたげた。
混雑気味な百貨店を利用して、理久の手を引いた。背後から慌てた声がするけど気にしない。楽しくなって、少しだけ口角を上げた。
文具店に着いても、理久はどこか落ち着かないようだった。どうしてかは謎だが、少し考えた末、茜は目に付いた紙を取り出して呟く。
「あ、これ真城みたい」
横目で見ると、いつもの理久に戻っていた。クスクス笑ったのち「じゃあこれは神楽」と別の紙を見せてくれた。安心して、茜もそれに便乗する。部員の名前が出たから落ち着くなんて理久らしい。
愛されてるなぁ、と思っているうちに和紙を見つけて、理久は会計へ向かう。
「俺、筆箱のところにいるね」
そう声をかけて一旦別れた。文具店は思いの外、広く、筆箱の売り場はレジから離れた場所にあった。しかも、目当てのものがない。まさかと思いつつ、店員に在庫を確認してもらったら「申し訳ありません。在庫切れでして……ご予約されますか?」と言われてしまった。またここへ取りに来るのも面倒だ。遠慮しておいて、その場を去る。この文具店は質が良いので期待していたが、この際仕方ない。学校の近所にある百均で買おう。
しかし、レジの近くに戻って、茜は目を瞬かせた。
「あれ……理久?」
連れの姿がどこにもない。別の売り場にいるのかと店内を一周するが、やはり見当たらない。ヒヤリ、と冷たい汗が首を伝った。誘拐されるほど体は小さくない。彼女は黙って人に何かされるほど大人しくもない。
とりあえず電話を、とズボンのポケットに手を入れてーー固まる。……いやカバンに入れたかな、と中身を漁るが目当てのものはない。一年生の頃、理久からよく忘れ物を注意されていたことを思い出す。
どうやら今日に限って、端末を忘れた。
昨日ロクに眠れなかったのが災いしたのか。自分に呆れると同時に、ここで待つしか出来ない情けなさに苛立ちを隠し切れない。壁に寄りかかって俯き、思わず舌打ちをした。
いっそ迷子センターにでも行くか、と恥を忍んだ選択をする直前、どこからともなく理久が帰ってきた。無事のようで心底安心した。
「理久、どこに行ってたの?」
「男の子を迷子センターに送ってきたんだけど……メール届いてない?」
不思議そうにそう聞かれて、一瞬硬直する。口から出たのは苦し紛れの嘘。
「あー……えっと、充電切れちゃって」
……ダメだ、カッコ悪い部分をまったく隠し切れていない。俺のバカ。嘘までついてこのザマか。罪悪感と呆れが押し寄せる。
「そうなの? ごめんね、ずっと待たせて」
「いや大丈夫。何かあったかもって考えたてたから、安心した」
これは本心だ。とにかく何もなくて良かった。
そこで彼女の手に持つものに気づいた。確認したところ、クレープ屋の割引券らしい。甘いもの好きな悠介が喜びそうだ。
「茜、甘いもの好き?」
「好きだよ。悠介ほどではないけど」
理久がパァっと顔を綻ばせる。
「じゃあ今から行こうよ。買い物終わったし、ちょうどおやつの時間だし」
一瞬思考が停止して、すぐに再稼働する。表紙の和紙を買うという本来の目的は達成した。だからここから先は部活動備品の購入ではなく、単なるお出掛け。
つまり、デート。……付き合ってはいないから正しい表現ではないが。
サラリと言ってのけた理久を恐ろしく思いながら、茜は自分の心臓が忙しなく鳴っていることを知る。
「いいの? 今度、神楽と来たときとかに使った方がいいんじゃ……」
口ではそう言ったものの、本心では今すぐ行きたかった。しかし、デートと自惚れてしまう自分が恥ずかしい。
「神楽と遊びに行くならいつも真城も連れて行くから。このチケット、二人までしか使えないって書いてる」
「じゃあ悠介とか」
「悠介と私が出掛けたら絶対途中でケンカになるよ」
うッ、確かに……。想像に容易い。それこそ、待ち合わせの時点で言い争っていそうだ。
「えっと……それじゃあ哲郎とか凪沙は?」
というかよく考えたら、たとえ文芸部のメンバーであろうとも理久と二人きりになるのは許せない。なぜ男子の名前を挙げているのだろう。俺って本当にバカだ。
茜が自分に呆れていると、理久の大声が耳を貫いた。
「あぁもう! 私が貰ったんだから、私が好きなように使うの! だから行くよ!」
「え? あ、ちょっと待ってよ理久」
そのまま歩いて行ってしまう。機嫌を損ねてしまったようだ。ごめんってばー、と追いかける。立ち止まってくれるところも優しい彼女らしい。二人並んで歩き出す。
嫌なわけじゃないんだ。ただ、自惚れてしまう自分が恥ずかしくて。きっと理久は、自分じゃなくてもそうやって待ってくれたり、一緒に分けようって言うはずだから。
それが少しだけ、気に入らないのだ。
◇◆◇
クレープを食べているときも思ったが、悠介たちはまだ尾行を続けているらしい。理久を見る限り、気づいてはいない。このまま黙っておくか、とぼんやり考える。
食べ終えたのち、理久のリクエストで本屋へ行くことになった。好きな作家の新刊が発売されているのだと言う。確かにそれは売れ行きが上々なのか、店頭のワゴンで山積みになっていた。夢中で本を眺める理久の背後、茜は微笑んだ。楽しそうで何よりだ。
そこでふいに、また視線を感じて遠くを見た。
バチリ、と音が聞こえるくらい。悠介と目が合う。彼の表情が凍りつく。あ、気づいてるってバレた。悠介以外のメンバーは分かっていないようだった。
しかし、そろそろ潮時だ。いい加減、理久と本当の意味で二人きりにさせてほしい。
茜は少し微笑んで、人差し指を唇にそっと当てた。それだけで悠介へ伝える。尾行は許すから、もう終わりにしてくれないかな。遠くの彼が顔を引きつらせる。そして何か言いたげな表情を浮かべた。きっと今日見ていた茜の不甲斐なさを嘆いているに違いない。ごめん、と謝るつもりで笑い返した。
「茜?」
尾行集団が帰ったのを確認すると、本を持った理久が上目遣いにこちらを見ていた。「何見てるの?」と聞いたので、少し笑って「何でもない」とだけ返した。
理久は知らなくていいよ。あの尾行を分かってて許可した、俺の独占欲なんて。
渡すつもりはないという、その意思が向こうに伝わっていれば十分だ。
「それ買うの?」
茜の問いかけに理久はギクリとした。
「うッ……それが、今日買うつもりなかったから、お金足りなくて。だからまた今度にする」
眉を下げてそう呟く。あんなにはしゃいでいたのに。茜は驚いたが、一番残念に感じているのは理久だ。少し考え末、彼女の持っていた文庫本を渡してもらう。文庫サイズの妥当な値段が裏に貼られている。
「理久、この前誕生日だったよね」
茜の問いに一瞬戸惑ったあと「そうだけど……?」と答えてくれる。三月二十一日は理久の誕生日だった。文芸部の面々でケーキバイキングに行ったのは、つい最近の出来事である。
「俺、まだプレゼントあげてないからさ。これが欲しいんだよね? 買ってあげる」
「え!? そんな、悪いよ!」
ワタワタとし始める理久に構わず、茜はレジへ歩き出す。
「なんで? 神楽とかからはプレゼント貰ってたじゃん」
「だってもう誕生日、過ぎたし……」
「俺もあげたいの」
目を合わせて言うと、やっと理久は黙った。いつもの感謝とか、全部込めてあげたい。ありがとうとか、これからもよろしくとか、好きでいることを許してほしい、とか。独りよがりかもしれないけど、何か形にして贈りたかった。
会計を済ませて、すぐに渡す。
「誕生日おめでとう」
遅刻だけど、と付け足す。理久は首を振って「ありがとう」と微笑んだ。……だから、そういうことされると男は勘違いするんだって。まさかとは思うけど、俺以外のやつの前ではしてないよね? そう聞きそうになるのをグッと我慢する。
持て余した感情をグルグルさせながら、時計を見た。午後三時半。少し早いけどもう帰るか。やっと二人きりになれたのに、と思った茜の目に入ったポスター。どうやらゲームセンターでイベントがあるらしい。しかし最も彼の目を奪ったのは、
「筆箱!」
「え?」
景品の欄にあった、筆箱だった。欲しかった会社のものではないが、文具の中ではちょっとしたブランド品にあたるものだ。さぞ質も良いのだろう。
ポスターを見ていたら、隣の理久が言った。
「そういえば茜、さっき筆箱買うって言ってたよね。買えてないの?」
「在庫がないって言われた」
「……ドンマイ」
イベント参加費は二百円。ゲームで高得点を出せば景品が貰えるようだ。こんなチャンス滅多にない。是非とも参加したい。しかし、ひとつ大きな問題があるとすれば「茜がまったくゲームをしたことがない」という点であった。ゲームに負けては意味がない。無駄金になってしまう。
諦めて帰ろう、と理久の方を見る。けれど、なぜか彼女はポスターに真剣な眼差しを向けていた。何だろう。
「……あの、理久さん?」
「これが欲しいんだよね」
そう言って筆箱を指差す。茜は頷いた。
「そうだけど、俺はゲーム出来ないから」
小さく苦笑した。すると、理久が茜を見ながらニヤリと笑う。
「茜は、でしょ。私は違うし」
まさかと思ったが、よく考えてみたら理久は読書の次にゲームを好んでいる。その腕前たるや、悠介と哲郎はまったく歯が立たず、凪沙がやっと互角に渡り合えるほど。それもほとんど理久が勝っている。
最強の味方は、すぐ隣にいた。
しかしすぐに思い直す。理久にやらせて景品だけ貰うのもどうなんだ。迷っている茜の背を理久がグイグイ押してくる。
「ほらほら、早く行かないと筆箱取られる」
「……分かった。行くけど、勝ったら理久の好きな景品を貰いなよ」
「なんで?」
「だって、理久が勝ったのに、俺が欲しいものを貰うのはおかしい」
うん、正論だ。茜が言うと、理久は明らかに不満そうな表情をした。あ、あれ……なんか機嫌悪くさせた……? 渋々といった様子で呟く。
「……分かった」
しかし、理解はしてくれーー
「じゃあ茜の誕生日プレゼントにする」
ーーなかった。茜の笑顔が引きつる。
「……ごめん、今なんて」
「誕生日プレゼントにするの、それなら文句ないでしょ。茜だって、私に買ってくれたんだから、私にも買ってあげる権利がある」
得意げに言う彼女へ、もう何を言っても無駄だと悟る。やれやれと思いつつ、茜は「じゃあ、誕生日プレゼントで」と白旗を上げた。理久が笑顔になる。それを前にしたら、どんなワガママでも聞いてあげられる気がした。
エスカレーターを上がって、ゲームセンターやオモチャ屋のあるフロアに辿り着いた。騒がしいゲームセンターはイベントのせいか、いつも以上に音で溢れかえっている。それでも平然としている理久をどこか尊敬した目で茜は眺めた。
一人分のイベント参加費を払う。もちろん茜が。景品を取ってもらうならお金を出すという意見は絶対に譲らなかったのだ。理久は「誕生日プレゼントなのに……」と言いつつ渋々、了承した。
いろいろなゲームがあったが彼女は迷わず、とある画面の前に立った。機械についてあるオモチャの銃を手に取る。その慣れた手つきに、茜はもしやと思った。
「理久、そのゲームやったことあるの?」
「ある。というか、一番得意なやつ」
よく分かった。なぜなら後ろから見る佇まいが、すでにプロのものであったから。やけにやる気に満ち溢れているのは、そういう理由もあったのか。
「紗也と慎吾も一緒にやるんだけど、二人とも弱いから相手にならないんだよね。あ、今度、凪沙にやらせよう。強くなりそう」
茜は心の中で後輩に同情しながら、なんの迷いもなく【Very Hard Mode】が選択されたことに驚く。
「え! それ一番難しいやつじゃない!?」
「だって、こっちの方が得点いっぱい貰えるよ」
それに、と理久が銃を構える同時に【Game Start】の文字が画面に映る。
「やるからには満点狙うから、問題ない」
理久のその言葉に嘘はなかった。次々と敵をなぎ倒しては、ゴールへの最短距離を突っ走る。増え続ける得点に店員が目を見開き、やって来た客も思わず足を止める。ゲームとはいえ、その凛々しい後ろ姿に茜は見惚れた。
やがてゲームクリアの音楽が流れる。ほぼ満点に近い得点は申し分ない。理久は銃を置くと、点数が発行された券を持って茜のもとへ戻ってきた。しかし、その顔はどこか浮かない。
「一回だけミスった……」
そこで残念がる理久は確かにプロであると、茜は確信した。
ポイントと景品を交換して、ようやくビルを出た。一日の終わりを夕暮れが告げている。
優しいオレンジ色に染まる路地。二人分の影が長く伸びていた。
「なんか、ありがとうね。わざわざ筆箱のためなんかに」
「だから誕生日プレゼントだってば」
気にしないの、と理久が笑いかけてくれた。心臓が高鳴る。うん、と返事をしながら、少しだけ俯いた。反動で赤くなってしまいそうな顔は夕焼けにうまく隠れただろうか。
◇◆◇
茜の無言の微笑みに対して、悠介はただ一言、バツが悪そうな声で言った。
「……ごめん」
春休み明け。部室には彼ら二人しかいない。茜の向かい席に悠介も腰を下ろした。同時に口を開く。
「松野くんは何を謝っているのかな?」
「そんな呼び方するなよ、気持ち悪いだろ……尾行したのは悪かったって」
「理久はみんなで行きたがってたのになぁ」
「言っておくけど、主犯は真城だから」
「それくらい分かるよ」
「なら俺ばっかりに八つ当たりするなよ!」
そう抗議した悠介を無視してやる。この野郎……という呟きののち、彼の目は机の上の見慣れない文具へ向いた。
「茜、筆箱新しくしたのか」
「春休み前に壊れたの、悠介も見てたじゃん」
「それはそうだけど。良いメーカーのやつだろ、これ。どこで買ったんだ?」
その質問が出た瞬間、待ってましたとばかりに茜はニンマリとした笑みを浮かべる。それを前に悠介は話の大部分を悟ったらしく「やっぱり話さなくていい」と文庫本を取り出す。
「ちょっと、そこは聞いてよ」
「もう分かったから。どうせ琴平と出掛けたときに買ったんだろ」
「ただ買ったんじゃなくて、勝ち取ったんだよ」
「勝ち取った?」
意味深な表現に悠介は訳が分からんと首をひねる。
その向かいに座る茜は真新しい筆箱を眺めながら、口元の笑みを無くすことが出来ない。
誰よりも可愛くて、優しくて、カッコいいあの子が。自分のために贈ってくれた品。
「……へへへ」
「気持ち悪い笑い方するなよ」
約束する、絶対大事に使うよ。
ありがとう、理久。
◇◆◇
「ーーねーー茜、おーい、起きろー」
おーいってばー、という声に加えて揺さぶられる肩。重たい瞼を開けた茜は、起き上がってから見た彼女の姿にしばし戸惑う。
そこにいたのは理久だ。しかし、今まで隣で見てきた人物とどこか違う。
「……理久?」
「そうだけど、おはよう」
「あれ……なんか、大きくなった……?」
「え、寝ぼけてるの?」
私もう大学生ですけど、と彼女が言う。だいがくせい。頭に浮かんだ言葉を漢字変換させる。大学生。カチリと何かが噛み合う音がした。
そうだ、理久はもう大学生だった。悠介と同じ大学に通う。そしてここは街にある小さな図書館で、茜の周りには参考書や書きかけの論文が散らばっていた。
あれ? と妙な感覚を覚えた茜を、理久が不安そうに見つめてくる。
「大丈夫? 勉強のやり過ぎで疲れが溜まったんじゃーーまさか、あのタイムスリップとかいうやつの後遺症が……!?」
ワナワナと震え始める彼女を見て、小さく吹き出す。肩を細かく上下させて笑う茜に非難の声が聞こえた。
「なッ何で笑うの!」
「い、いや……理久は可愛いなぁって」
「かわ……ッ!?」
今度は顔を真っ赤にさせる。相変わらず表情が忙しいな、と思いながら机の上のものを片付けた。未だ微笑みを浮かべたままの茜へ彼女が悔しそうに言う。
「そ、そんなこと言われても嬉しくないし! そんな簡単に騙されないし!」
「はいはい」
「返事は一回!」
立ち上がって、怒る理久の手に指を絡めた。「りょーかい」と笑ってみせたら、さらに赤みが増した顔を勢いよく逸らして、
「あ、茜なんか嫌いだ!」
「俺は理久が好きだよ」
残念だなぁと言うように眉を下げてみせる。すると理久は自分で言ったことを後悔するようにオロオロし始めた。ダメだ可愛い、面白すぎる。必死で笑いを堪えていたら、控えに服の裾を引かれた。
「……い、今の嘘、だから」
好きな子ほどいじめたい、というのは本当らしい。茜は間髪入れずに、
「つまり?」
「ーーえ」
「嘘だから、なに?」
追い詰めるように問いかけた。しばらく目線を泳がせて理久も観念したのか小さな声で。「ーーッだから」
「好き、だから、ごめん」
赤い頰で、か細い声で、恥ずかしそうにそんなことを言われて黙っていられるほど、俺は大人じゃない。
理性の切れる音を耳にする。茜は俯く彼女の手を掴んで「理久、俺とデートしよう」と告げた。呆気にとられた表情をされるが気にしない。足早に図書館を出た。
「え? あ、ちょっと、まだ午後の授業が」
「サボろう」
「そんなことしたら悠介に怒られる……!」
「大丈夫だって。もう俺のことは諦めてるし」
「良くない、絶対良くない!」
焦った声に少し笑いながら、構うことなく歩き続ける。
まだ子どもだったあの頃。俺にとって、君はすべてだった。それは今も変わっていないようで。
だからこうして、大好きな君のいるところへ戻ってきてしまったのだ。
遥か先、まだ見ぬ未来に続く道を今日も行こう。
迷ったときは手元を見て欲しい。きっとそこには一通の手紙がある。『拝啓、未来より』ーー不思議な挨拶から始まるそれは、君がここまで歩いてきた証であり、俺が君へ込めたありったけの愛。
忘れないで、ひとりじゃないことを。頼もしい人たちがいつだってそばにいることを。
どんな暗闇だって、何にも怖くなんてない。
僕らはきっと、煌めく未来を切り拓けるから。




