54話 未来からの、旅人
「それでは、先輩たちの部活引退とさらなる飛躍を願ってーー乾杯!」
真城の乾杯の音頭とともに、紙コップのぶつかり合う音がする。文芸部の部室である第二図書室は、大量のお菓子と飲み物で溢れかえっていた。壁に飾られた折り紙の鶴などの動物が、さらに盛り上がりを煽る。
紅茶を飲みながら真城が言った。
「いやあ、先輩方全員、無事に進路が決まって良かったです」
「留年してくださいって泣きついた奴がどの口で言うか」
悠介の返答に真城は、え、何のことですか、と舌を出して笑う。そんな様子を苦笑いで眺めながら理久はチョコレートを食べた。
隣で凪沙がクッキーを齧りつつ、訊ねる。
「そういえば、琴平先輩と松野先輩は同じ大学なんですよね」
「コイツが俺の真似したんだよ」
「な!? してないから! 悠介こそ真似しないでよ!」
「なんだと……?」
「ちょ、俺を間に揉めないでくださいよ」
「というか、大学行かないで本格的に作家活動するんじゃなかったの?」
「それもやるし、文学の勉強もしたいんだよ。何か文句あるか」
どんどん雲行きが怪しくなる会話に溜め息を吐き、凪沙は話題を神楽と哲郎に振った。
「御崎先輩は少し遠いんですよね、音楽科のある大学でしたっけ」
「うん、作曲の勉強とかやってみたくて」
「神楽先輩いないとあたし寂しいですよー!」
「たまに帰ってくるから、心配ない」
「そう言う和多先輩は美大ですか?」
「あぁ、油画専攻」
「いよいよ本格的になりましたね……」
「まぁ何にせよ、良かったじゃねぇか」
どうやらいつもごとく決着がつかずに理久との痴話喧嘩は終わったらしい。悠介はそう言うと紅茶をグッと煽った。
「……卒業したら、あんまり会えなくなるな」
ボソリと呟いた一言が部室に浮かぶ。悠介は誰からも反応がないことを不思議に思い、顔を上げつ驚く。なぜか全員がこちらをじっと見つめていた。
「な、なんだよ」
「……いや、悠介が珍しく寂しがってるなぁって」
理久の言葉に頷く一同。悠介は何事か口を開きかけたが、すぐに頬を赤らめて俯いた。「……いかよ」
「寂しがって、悪いかよ。三年間過ごしたんだ。思い入れだってある」
またもや部室に流れる静寂。しかし、今度は恥ずかしさのあまり顔を上げることができない。自分でも顔が赤くなっているのが分かった。
黙り込んでいたら、ヒソヒソ声が聞こえてくる。
「今絶対デレましたよね、悠介先輩」
「てっきり『寂しがってるわけねーだろ』みたいなこと言われると思った」
「御崎、声真似うまいな」
「なんだかんだ、琴平先輩より文芸部大好きですよね、松野先輩」
「何を言うか、一番好きなのは私だ」
「おい、丸聞こえだぞ」
聞き耳を立てるまでもなく、筒抜けの会話に悠介は、というか、と理久を見た。
「引退式なんだから、部長から何か一言とかないのかよ」
「え!? わ、私?」
突然振られたことで、しどろもどろになる。正しくは元部長ですよ、と訂正する現部長の凪沙はさておき、一同の期待の眼差しを受けたこの状況で断るわけにもいかず、
「……えー、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
「どこの挨拶だよ」
かわいそうな人を見るような視線を向けてくる悠介を睨みつける。うるさい、こういうの初めてなんだよ。
改めて軽く咳払いをする。
「えっと、今のは冗談で……今日まで本当にありがとうございました。皆には感謝してもしきれないほどです。こうして文芸部として活動できたのも、大会やコンクールに出場できたのも、この六人がいたからこそでーー」
ーーあれ? 六人?
ふと違和感を覚えて、喋る口を止めた。
「どうしました理久先輩?」
「いや……なんか」
不思議そうな表情の部員に理久は訊ねる。
「文芸部って、六人だっけ?」
思わずポカンとしてしまう一同だったが、あまりに理久が真面目に聞いてくるものだから、少し笑いながら答えた。「何言ってんだよ」
「琴平に御崎、哲郎と小峰と凪沙、それに俺。ちゃんと六人いるだろ」
「先輩、もしかして幽霊とか見えるタイプですか」
「違うよ。そうじゃなくて……」
うまく言葉に表すことができない思いが、グルグルと全身を巡る。そうじゃなくて、とだけしか言えなくなった理久を前に、一同は顔を見合わせた。
必死に脳を働かせようとするが、まるで大昔のことを思い出すようで、伝えたい事柄は浮かぶどころか霞んで、ますます見えなくなってしまう。
結局何も分からないまま、他の三年生メンバーが簡単な挨拶を済ませていくのを聞いていた。奇妙な感情から抜け出せずにいたら、ふいに肩を叩かれた。「先輩ーー先輩ってば」
「琴平先輩、聞いてますか」
「え、あ、ごめん。なに?」
「このあと夕飯食べに行こうって話ですよ、時間大丈夫ですか」
「あぁうん……多分、平気」
「じゃ、行きましょう」
凪沙とともに席を立つ。いつの間にか他の面々は部室を出て、昇降口へと向かっていた。
忘れ物がないか確認したのち、部室に鍵をかける。
刹那、理久はハッと廊下を振り返った。誰もおらずシンと静まり返る廊下のずっと先ーー名前を呼ばれたような気がした。微動だにしない理久を凪沙が不審そうに見る。
「……先輩、なんか今日変ですよ。いつもですけど」
最後の余計な一言はさておき、理久は凪沙の言葉で我に返る。
そうだ、変なのだ。この奇妙な感覚の答えは、きっとこの廊下の先にーー
「ちょっと、先輩!? どこ行くんですか!」
「ごめんすぐ戻るから!!」
後輩の制止の声も聞かずに走る。上履きの音を響かせながら、必死に腕を振り、足を運ぶ。廊下の突き当たりは屋上へ通じる階段だった。息急き切って駆け上がり、普段は施錠されているはずの扉を、なんの躊躇いもなく押した。
扉の向こうから舞い込み、体を包み込むその風は冬にしては優しく、まるで春風のようだ。そんなことを考えたからか、目の前では桜の花弁が舞い散ったかのように思えーーふいにその向こうから何者かが現れた。
ふわふわの赤髪を風に揺らす男の子。
ゆっくりと彼はこちらを振り向き、しばらくの間、二人の視線が絡み合う。
しかし、耐え切れず理久は口を開いた。
「……誰?」
理久の問いに見知らぬ少年は眉を下げて微笑む。
悲しげな微笑ーーそれを見た瞬間、脳が痺れるような感覚を味わう。見知らぬ少年? 違う。
私は、この子を知っている。
その悲しげな笑みも、見たことがある。
しかし、
「ごめん、私ーー君の名前が分からない」
知っているはずなのに思い出せない。彼に関する情報だけが抜け落ちている。
大切だった、はずなのに。
少年は静かに答えた。「……いいんだ」
「思い出さなくていいよ、少し会いに来ただけだから」
夕暮れに染まる屋上。西日に照らさた彼の表情は悲しげではあったが、どこか晴れ晴れとしているようにも見えた。
「卒業おめでとう。それだけは伝えたくて」
流れる雲も空もオレンジ色でーーそこで再び脳がピリッと痺れる。
違う、オレンジ色、じゃない。夕暮れを迎えた空、その色はもっと深くて、綺麗で、暖かくて、脳裏に焼きつくような、
茜色をしている。
途端、今日までの記憶がコマ撮り映画のようにものすごいスピードで流れていく。春、桜が舞う、最初にできた不思議な友達、新しく創った部活、初めてのコンクール、可愛い後輩、夏の合宿、大切な幼馴染み、初めての恋、不思議な転入生、青空、屋上、銃に見立てた右手、自分を庇う少年、
『ーーさようなら、ごめんね』
鼓膜を震わせる涙混じりの声。
映像の嵐が去ったあと、ガクッと体の力が抜ける。膝をついて固まっていたら、少年が駆け寄ってきた。差し出しかけてくれた手を理久は掴んだ。
「……思い出したよ」
忘れるはずなんてなかった。
だって君はあの春の日からずっと、隣にいてくれたから。
「出雲茜、それが君の名前」
ひときわ強い風が二人の間を吹き抜けた。
茜を見つめる理久の瞳には迷いが微塵もない。あぁそうだ、その真っ直ぐな目に俺は憧れた、恋をした。
ただ一筋の光だった。
安心のあまり溢れそうになる涙を堪えて笑う。
「うんーー当たり」
◇◆◇
二人並んでフェンスに寄りかかりながら座る。どれほどそうしていたか、ふいに茜が呟いた。
「すごいね理久。屋上で別れたとき、この世界から俺の記憶を全部消去したから、まさか思い出してもらえるとは予想もしてなかった」
やっぱり理久は未来を変えるね、と茜は空を仰ぐ。茜色に染まる夕空が二人を見下ろしていた。
理久は恐る恐るといった調子で訊ねる。
「茜、今日までのことって一体……というか、あの津山くんは誰なの?」
コトリ、と足元に置かれたのはいつも飲んでいる紙パックのオレンジジュース。わけも分からず茜を見ると、ニッコリと微笑みかけられた。
「ちょっと長くなるから、これ飲みながら聞いて」
俺の奢り、と言うので、ありがとう、と素直に受け取った。
「そうだな、まずはどこから話そうか……理久は何が知りたい?」
ストローを差しながら、理久は少し迷った末に言った。
「……茜の、本当の正体」
自称未来人を名乗ってきた彼は、何を目的にここへ来たのか。まずそれが知りたかった。
分かった、と意外にも茜はアッサリと了承したので、思わず面食らう。
「いいの? そんな軽く話して」
「まぁ理久にはいつか全部話さなきゃいけないことだからね」
それじゃあ、と彼は理久に目を向ける。
「まずは俺の話をしようか」




