52話 謎の、転入生
頭が痛い。
最近やたらと多くなった頭痛の酷さに、茜は短く息を吐いた。誰もいない部室は静かなので余計痛みを感じるような気がした。どさり、とソファに寝転ぶ。目を閉じても、脳の奥を突かれるような痛みは消えない。
ーー最近、あんまり未来が視えないな
ふと思い返すが考え込めるほどの余裕が今はない。この頭痛と何か関係があるのだろうか。そんなことを浮かべた直後、茜は眠ってしまった。近頃まともな睡眠を取ることをしなかったせいか、昼間の部室で熟睡する。
目を覚ましたのは放課後だった。誰かの話し声が聞こえたからで、起き上がったときに初めて自分の体に掛けられた薄い毛布に気づく。
「だから私はやっぱり大学にーーあ、起きた」
「おい茜。今日学校サボっただろ」
声の主は理久と悠介だった。茜は寝ぼけ眼をこすり、かすれ気味の返事をする。「おはよう……」
「ちょっと、体調悪くて……サボってごめん」
「体調悪い? それなら早く言えよ。今日なんか食ったか」
「食べてない」
「マジかよ。ゼリー飲料なら食えるか? 朝、母さんが持たせてくれたんだけど俺は別にいらねぇし……あれ、どこいった」
しばらくカバンを漁っていた悠介はやがて「教室に忘れた、取ってくる」と部室をあとにした。
見送ってからふと気づいた。単なる寝不足だったのか、頭痛はだいぶ治っていた。
少し離れた場所で棚を整理している理久の背に投げかける。
「……この毛布、理久が掛けてくれたの」
「あぁうん、家庭科で作ったやつだけど。暑かったらそこらへんに置いておいていいよ」
「分かった、ありがとう」
どういたしまして、と理久は相変わらず背を向けたまま言う。茜はその様子を眺めながら、寂しさで胸が締めつけられるような感覚を覚えた。
先日の遠足でも似たような思いをした。きっと気のせいだと言い聞かせていたが、それももう限界だ。
「ーー最近、目合わせてくれないね。理久」
重い鉛を吐き出すように言うと、やっと彼女は振り向いた。久しぶりに合わせた瞳はぐらぐら揺らいでいた。
不安そうに何か伝えたそうで、だけど打ち明けられないような。
自分も同じような顔をしているのだろうか。
「俺、何かした?」
違う、きっと今の自分は情けない表情をしている。泣きそうな色で理久に訴えている。
前みたいに話しかけてほしい、笑いかけてほしい、名前を呼んでほしい。そう願うのは欲張りなことなのか。
しかし願わずにはいられない。
だって俺は、あと少しで君のそばを離れるから。
「ーー何もしてない」
理久はそう言って、少しだけ眉を下げる。
「茜は何もしてない、私がちょっと考え込んでただけ。嫌な思いさせたなら謝る。ごめん」
ごめんね、と繰り返すので茜は首を横に振った。完璧に安心したわけではなかったが、これ以上問い詰めたら理久が泣いてしまいそうで怖かった。
彼女を悲しませたいなんて微塵も思っていない。だから、ときどき自分は臆病になる。
ゆっくりもしていられないが、理久から話してくれるまで待とう。茜は改めて思ったのだが、その決心を揺るがす出来事はある日突然やってくる。
◇◆◇
「転入生の津山草司くんだ」
担任の紹介とともに軽く会釈をした少年は、ぎこちない笑みを浮かべる。少し緊張気味のそれに加え、艶やかな黒髪をなびかせる姿に、一部女子から小さな歓声が沸き起こる。
「短い間ですが、よろしくお願いします」
簡潔な挨拶と歓迎の意を込めた拍手ののち、担任が「いい機会だからこのまま席替えするぞー」とくじ引きの箱を取り出した。早速、草司の隣を狙う女子がいたり、高校生活最後になるであろう席替えに盛り上がりを見せる。
全員が引き終えたところで、一斉にくじが開かれる。神楽が言った。
「松野、私の隣」
「あ、本当だ」
「俺は悠介の後ろだねー」
「茜の隣」
「え!? 私だけ離れてる!?」
ドンマイ、という四人の言葉を受けてから、席に移動する。神楽の隣が良かったなぁ、などと考えていたら、
「あ」
隣の席にやって来たのは、話題の的の転入生ーー草司だった。見つめ合うこと数十秒、理久は周りの女子からの凍てついた視線に肩を震わせた。
「えっと、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく……」
この席でやっていけるかどうか、途端に不安になる。しかしそんな理久の思いなどお構いなしで、いつも通り授業は始まった。当然、草司はまだ教科書類を揃えていないので、理久が見せることになる。
授業が始まってから半分ころ、眼下のノートに小さなメモが現れた。草司が置いたものだ。
『名前を教えてください』
綺麗な文字で綴られた言葉の下に、理久は付け加えた。思わず口元が緩む。小学生のころ、隣の席だった紗也とも授業中に手紙のやり取りをしたのを思い出したのだ。
メモを草司の机に送る。
『琴平理久、だよ。よろしくね』
『良い名前ですね。かっこいいです』
『ありがとう。何かあったら何でも聞いて。教えるよ』
『じゃあ、図書室の場所が知りたいです』
『本好きなの?』
『大好きです!』
こちらを見てきた草司に理久は「私も本好きなんだ」と囁く。草司は嬉しそうに笑った。
授業が終わったあと、理久は茜たちに言った。
「ごめん、ちょっと部活遅れる。津山くんに図書室、案内してくるね」
「あぁ分かった」
悠介の了承を得て、理久は草司とともに教室を出た。
二人を見送ったのち、悠介と神楽と哲郎は顔を合わせる。
「もう仲良くなってるとは……さすが理久」
「すごいね」
「あぁいうの得意なやつだしな。津山くんとやらもラッキーだろうよ……って、どうした茜」
二人が出て行ったあとをジッと見つめる茜に悠介は首を傾げるが、何でもない、とだけ返された。
◇◆◇
共通の趣味があるというのは良いことだ。理久は草司と話しながらそんなことを頭の隅で考えた。事実、こんなにも本について語り合えるのは悠介以外に初めてで、嬉しさのあまり時間を忘れて図書室に入り浸ることが何度もあった。
草司も楽しそうに話してくれるので、仲良くなれた気がした。それに、何となくではあるが彼が他人とは思えないような感覚を理久は感じていた。
「そういえば、津山くんって前はどこの学校にいたの?」
ある日の放課後、相も変わらず図書室で本を物色していた理久はふと思い浮かんだ疑問を投げかけてみた。すると、草司は今までに見せたことのない微笑みを露わにした。
心臓が跳ね上がる。
「ここから遠いところですよ」
「遠いところ……あ、外国とか?」
なぜかガラリと変わった雰囲気にしどろもどろになりつつ、理久は話題を膨らませようとするが、
「知りたいですか?」
顔を近づけて囁く草司に、脳が危険信号を出す。あれ、津山くんってこんな子だったっけ……!?
違う、もっと明るい笑顔の男の子でーーそこまで考えてから気づいた。草司に対しての何となく他人とは思えないような感覚、あれは茜だったのだ。草司の明るい笑顔が茜に似ていたから、理久には重なって思えた。
そういえば最近、茜の笑顔を見ていないかもしれない。先日の部室での会話以来、どこかギクシャクしているような気がーーって、今はそんな場合じゃない。
少し離れてもなお、妖しげな笑みで距離を縮めてくる草司。
「ちょ、津山くん、なんで近づいてくるの……?」
「琴平さんが逃げるから、です」
それ答えになってないよ!? 癒されるはずのニッコリ笑顔も今はただの恐怖でしかない。そうしているうちに本棚へと追い詰められてしまい、理久は冷や汗を流した。
草司に対して本気で怖いという感情が胸をよぎる。途端、脳に蘇るのは好きな人の懐かしい笑顔で。
草司が不敵に笑うーー次の瞬間、何者かに体を引き寄せられた。
肩に置かれる手、服越しの暖かい体温。
「何してるの」
頭上から降ってきた声に、心音はさっきよりも激しく鳴り響く。間違いない、茜だ。
体が火照るのを必死で堪える。しかし、
「何してるのって聞いてるんだけど」
ほとんど抱き寄せられたも同然の現状で、茜が草司に向けた声色は少し厳しかった。どうしてかは分からないが怒っているのだろうか。
緊張気味に見守っていると、草司がフッと笑った。
「怖い顔をしないでください。少し遊んでいただけですよ。ね? 琴平さん」
同意を求められ、返事に困っていると、
「理久に変なことしたら許さないから」
茜はそれだけ言うと理久の手を引いて歩き出した。そのまま図書室を出る。
ひと気の少ない廊下を理久の声に振り向きもせず、ただただ進んでいく。静かなそれに最初は不安だったが、次第に繋いだ手の温かさに胸が締めつけられた。
助けてくれたことも、最後の言葉も、守ってもらえたようで嬉しかった。それでも心のどこかで誰かが呟く。
きっと茜は、私じゃなくても助けたのだーーと。
例えば神楽や真城、同じ部活の大切な仲間がさっきのような場面になっていたら茜は助けた。優しくて、仲間思いの彼は決して見逃したりはしない。
それが誇らしくもあり、複雑でもある。
手を離されたのは屋上に通じる階段の踊り場だ。誰もいない空間に俯いた理久の声がこぼれ落ちる。
「……あ、ありがとう、助けてくれて」
茜は何も言わない。窓から差し込む西日が、理久の心に突き刺さるようだった。
「きっと、からかわれたんだろうけど、私もびっくりしたよ。津山くんも冗談とか言うんだーー」
「理久のバカ!!」
突如響き渡った罵声に一瞬固まる。
……ん? 今なんてーー顔を上げてからさらに驚く。
茜は目に涙をいっぱい溜めた状態で、恐らく怒りから体を震わせていた。
「お人好し! もっと疑えよ! 何かあったらどうするんだよ! 男相手じゃ敵わないだろ! だからさっきみたいなことになるんだ!」
一通り叫んだあと、茜は階段に座り込んで顔を隠してしまう。言葉の内容もそうだが、いつもより乱暴な口調に対しても呆気に取られていたら、見えない口から言われた。
「俺がいなかったら、どうするつもりだったんだよ」
想像して思わず顔を歪ませる。確かに、どうなっていたかなんて分かったものじゃない。
理久は茜の隣に腰掛け、呟いた。「……ごめん」
「自分でも迂闊だったと思う。けど、あぁいう風になるなんて考えもしなかったから……その、不可抗力っていうか。いつ起きるかも分からないんだから」
「だから俺がいればいい」
え? と隣に目を向ける。茜が睨みつけるようにこちらを見た。
「俺が理久の近くにいつもいれば問題ない」
今にも泣き出しそうな彼が言わんとしていることに、理久はやっと気づく。
そばにいるから、もう避けたりしないで。
ちゃんと目を合わせて、話して。
遠回しにだが、茜は理久に訴えていたのだ。好きだから避ける、なんて考えで茜を振り回していた自分がバカに見える。そもそも、いつまでも同じことで悩むのは理久の性分ではない。
「ーーそうだね」
前に進まなければ、何も始まらない。
立ち止まるのはもう終わりだ。
「いつも一緒なら、問題ないね」
理久が笑うと、茜も涙を拭って笑った。
いつの間に忘れていたんだろう。入学したばかりのころはいつも二人一緒に、走り回ったり、笑い合ったりしていたのに。ここの屋上だって、茜と文芸部を創るきっかけになった場所で。
出会ったあの日から隣にはいつだって、茜がいたのだ。
差し込む西日はもう痛くない。初めて二人で創部を決意した時と同じように、どちらからともなく拳を合わせた。
◇◆◇
『話したいことがあります。放課後、屋上に来てください』
昼休みを終えて戻ると、机に置いてあったメモは確かに草司の字だった。さすがに昨日の今日で正直ひとりで行くのは怖い。茜に頼んで一緒に来てもらおうかと考えたのだが、午後の授業が始まってから姿が消えてしまった。サボっているのだろうか、それともまた体調が悪くなってしまったのか。
どちらにせよ放課後になっても茜は戻らず、結局理久はひとりで屋上まで向かうことにした。悠介たちにも頼もうかどうか悩んだのだが、皆忙しそうだったのでやめた。
屋上に通じる階段まで来たところで、理久は気づく。
ーーあれ? 屋上って普段は入れないんだよな
しっかりと鍵がかかっている扉を思い出す。もしや草司は間違えて屋上などと書いてしまったのだろうか。
ハテナマークを頭の上に浮かべながら、重厚な扉の前に立つ。取っ手を下にして、恐る恐る力を入れて押す。
普段の施錠が嘘のように、扉は開いた。
驚きつつ屋上に足を踏み入れる。途端、強風に煽られて反射的に腕で顔を覆い隠す。再び視界が開けたとき、理久はフェンスの近くに人影を見つけ、近づいた。
「津山くん?」
しかし、振り向いたのは理久の知る草司ではなかった。
確かに面影は本人なのだが、成長して青年になった草司、と現すのが最も的確だった。その証拠に、青年はスーツを着、前髪の一部が銀色に輝いている。
驚きのあまり何も言えなくなる理久に、青年は笑いかけた。
「琴平理久、君はなかなか面白い。だがーー警戒心がなさすぎる」
青年は右手を銃の真似事のように形作った。
その視線が一瞬、理久の背後へ向けられる。
必死にこちらへ走ってくる人影に、青年は表情を歪ませた。
「だから言ったでしょう、茜坊ちゃん」
どんなに足掻いても、最後に苦しい思いをするのはあなただと。
あるはずのない銃声が屋上に響き渡った。




