51話 遠足、水族館と少年
三年生といえば進路だが、そんな堅苦しいことを一日だけ忘れられる日があった。
一大イベント、遠足である。
近場の水族館へ行くだけの簡素なものだが、意外にも生徒からは毎年好評で「受験の息抜きになる」と喜びの声を聞くほどだ。
今年も例外ではなく、理久たち文芸部三年生も遠足に参加したのだが、
「はい、あーん」
スプーンの上のアイスクリームに、理久は笑顔を引きつらせる。その向かいには、至極真面目な表情で恋人の真似事をしてみせる少年。
ーー……どうしてこうなったんだ。
そんな理久の疑問の答えは、遠足の始まりまで遡る。
◇◆◇
学校生活におけるだいたいの場合がそうなのだが、遠足の日も理久は文芸部の面々とともに水族館の中を行動していた。神楽と手を繋ぎながら歩いたり、悠介の豆知識に感心したり、哲郎のスケッチを覗き見したり、いつもと何ら変わりのない時間を過ごしていたーーというのはほんの一部で、理久の頭の大部分を占めるのは茜のことだった。
当たり前なのだが文芸部の面々といえば茜もいるわけで、理久にとってはそれだけで緊張の種になってしまったのだ。茜を『好きな人』と認識して以来、今まで普通にできていたことが、とても難易度の高いものに見えてしまい、最近は自覚するほど茜を避けていた。
悪いと思いつつ、いざ目の前にすれば何もできなくなってしまう。遠足の日もそのままで、気づけば『今日会ってからまだ一言も話していない』状態になっていた。
神楽と水槽の中の魚を眺めながら、横目で悠介と話す茜を見る。向こうから何も反応がないということは、茜はさして気にかけていないのかもしれない。よく考えたらお互いに会話なんていつでもできるのだ。……理久の心の準備が整っていればの話だが。
ーーそれに、茜は私のこと好きでもないんだし
改めて思うと心にくるものがあったが仕方ない。
好きなのはこちらだけで、いちいち気にかけるのも自分ばかり。
今まで小説の中だけだと思っていたが、片想いがこんなに頭と心を消耗するものだなんて知らなかった。無意識のうちに溜め息がこぼれる。
「ことりちゃん、疲れた?」
「え……あぁ、大丈夫。ちょっとお手洗い行ってくる」
分かった、向こうにいるね、という神楽の声を背に一番近い場所へ駆け込む。明るい照明の下、鏡に映る自分の顔はどこか暗かった。
ここで悩んでいても仕方ない。今日は遠足だ、楽しまないでどうする。
気持ちを入れ替えるつもりで鏡の自分を睨みつけた。よし、大丈夫。気合い充分でお手洗いを出た理久だったが、
「あの、すみません」
どこからか声がした。辺りを見渡すが、それらしき人物はいない。すると「こっちです、下です」と言うので、下? と思いながら目線を下げる。
見知らぬ男の子がそこにはいた。
思わず目を瞬かせる。しかしどう見ても、小学生らしき男の子に変わりはない。
「えっと……私に話しかけてる?」
「おいそがしいところ、申し訳ありません」
おまけにこの小学生らしからぬ丁寧な口調にますます訳が分からなくなる。そんな理久を追い詰めるように、少年は言った。
「お姉さん、よろしければぼくといっしょに水族館を回りませんか?」
琴平理久、十七歳。生まれて初めてのナンパは、小学生からでした。
「…………ん?」
突然の出来事にふざけた文章が頭をよぎり、情報処理は追いつかない。今のセリフってナンパ、だよね。よくドラマとかでヒロインがタチの悪い連中に絡まれるときの常套句だよね。
それをなぜ小学生が口にしているのだろう。
「……もしかして迷子かな? 館内の人に聞いてアナウンスを」
「迷子ではありません。ぼくは自分の意思でここにいます」
言葉はかっこいいが内容はまったく分からない。
困り果てた理久は神楽たちに助けを求めようとしたのだが、
「あれ、いない……?」
なぜか近くには誰もいない。一般客もいるとはいえ、今日は人も少なく、ほぼ貸し切り状態だと聞いているので、他の生徒も見当たらないということは先に行ってしまったのだろうか。
急に冷や汗が出てくる。おかしいな、この状況はもしかしてーー
「お姉さん、迷子ですか」
「……ちょっとはぐれただけだよ」
「それを迷子というのでは?」
小学生の正論が胸を突き刺す。ダメだ、この状態では認めざるを得ない。まさかこの年になって迷子とは……。
落ち込んでいると、ふいに手を引かれた。男の子が振り向きざまに言う。
「そう遠くへは行っていないでしょう。ぼくもいっしょにさがします」
「え、でも……」
「人生、立ち止まっていても、なにもはじまりません」
いきましょう、と進む少年の背中が妙に頼もしく見えた。
かくして、理久と謎の小学生の二人旅は始まったのだった。
◇◆◇
男の子の名前は海晴といった。この水族館の近所に住んでいて、よく訪れるようだ。男子小学生にしては落ち着いた雰囲気を醸し出しており、理久はどことなく悠介に似ているなと思った。ちなみに好きな食べ物はイチゴらしい。
差し出されたアイスクリームを恥も承知で食べる。実は先ほどから周囲の視線が痛く、微笑ましい笑顔を向けられていた。複雑な心境にありながら、甘酸っぱいイチゴの味が口に広がる。海晴が朝から何も食べていないと言ったのでフードコーナーで理久が買い与えたものだが、そのとき海晴は無表情の上に確かに喜びの色を浮かべた。
小学生なのに、感情を剥き出しにしないとは珍しい。自分の兄弟が小さかったころを思い出しつつ、理久は訊ねる。
「海晴くん、今日は誰と来たの?」
「ひとり」
「へぇひとりかー……って、えぇ!?」
驚きのあまり目を丸くすると、海晴は「ここ、おとうさんの職場だから」とアイスクリームを一口食べた。
「今日はついていったんですけど、事務所で待っているのもたいくつだったので、中でひまつぶししようと思って」
「じゃあ私に話しかけたのは……?」
「おとうさんに教えてもらったんです。ひまなときに声をかけるやり方」
息子にナンパを教えるとはどんな父親なんだろう。想像もつかないことを考えていたら、
「でも、りくさんは見た目がおかあさんに似ていたので、話しかけやすかったです」
そう言ってコーンの部分に齧り付く。なぜか海晴は理久を「りくさん」とやはり小学生らしからぬ口調で呼んだ。そ、そうなんだ……と返事をした次の瞬間、理久は小さく吹き出してしまった。
「どうしました?」
「や、ごめん、海晴くん、鼻にアイス付いてる」
「え」
「あ、服で擦ったらダメだよ」
汚れるからね、と理久はティッシュで拭いてあげる。それを少し恥ずかしそうに受ける海晴が可愛く、思わず微笑んでしまう。
食べ終えたあと、海晴のイチオシだというクラゲのコーナーに行った。さすが父親の職場と賞賛するべきか、展示の仕方やクラゲの生態についてかなり詳しく教えてくれた。その知識の豊富さももちろんだが、何より海晴の生き生きとした表情にこっちまで嬉しくなり、理久も真面目に聞きながら、頷いたり、質問したりしていたのだが、
「……理久、何してるの」
今日初めて聞く声がして振り向くと、そこには微妙な表情の茜がいた。
恋愛面はもちろん、海晴がいるこの状況についても、理久はドキリとしながら答えた。「あ、茜」
「いや、何してるのって聞かれても……その、何と説明すればいいのやら」
「その子は?」
「海晴くん。この水族館がお父さんの職場らしくて」
「りくさんとぼくはデート中です」
突如、クラゲコーナーに響いた海晴の声により空気が固まる。
茜は、見知らぬ少年が理久とのデートを宣言しているのが面白くなくて、自然と嫉妬の念を抱いたが、そんなことも露知らず理久は「これってデートなんだ!?」と心中で叫んだ。
なおも海晴は続ける。
「なので、じゃましないでください」
「へぇ……デート中なんだ」
「いっしょにアイス食べました」
「いいなぁ、俺も食べたかったなぁ」
しかし、茜も笑顔ではあるが簡単に引き下がる性格ではなく結果、薄暗いクラゲコーナーに激しい火花が散る。
そんな戦いのかけらすら見えていない理久は、オロオロと悩んだ末、
「わ、分かった! じゃあ遠足が終わるまで、三人で水族館回ろう。ね!」
「遠足? りくさん、遠足で来てるんですか」
「そうだよ。だから時間が来たら帰るけど、そしたら海晴くんもお父さんの事務所に戻るんだよ。いい?」
「……時間が来るまで、いっしょにいますか?」
「いるよ。こっちのお兄さんも一緒だし」
あかねくんっていうんだよ、と理久が紹介する。なぜか海晴がそのお兄さんに向けた視線は「別にあなたは一緒じゃなくてもいいんですけど」と語っているようで、茜は笑顔を引きつらせた。
「よろしくね、海晴くん」
「はぁ……」
明らかに気の無い返事だ。子どもじゃなかったら今すぐ理久から引き剥がしてやるのに、と茜は思った。
睨み合いのような挨拶を終えてから、三人は巨大水槽やペンギンのショーを観たりとそれなりに充実した時間を過ごした。途中から海晴が理久と手を繋いだことが、茜には気に食わなかったが。
深海魚のコーナーにやって来たころ、またもや海晴が解説を始めたので理久は聞きながら「海晴くんすごいね」と言った。
「全部お父さんに教えてもらったの?」
「おかあさんにも教えてもらいました。ふたりは、魚が好きなので」
でも、と海晴は表情を少し沈ませた。
「魚のことはたくさん話せても、お兄ちゃんになることはよくわかりません」
「お兄ちゃん?」
「……もうすぐ妹が生まれるんです」
理久は、海晴くんお兄ちゃんになるのか、と返す。
「そっか、良かったね。兄弟できると楽しいよ、一緒に遊べるし」
「りくさんは、お姉ちゃんなんですか?」
「そうだよ、下に三人の兄弟がいる」
「じゃあ、どうしたら良いお兄ちゃんになれますか」
海晴の瞳は不安そうに揺らいでいた。理久は少し考えてから、あんまり難しいことはないと思うよ、と言う。
「一緒に遊んであげたり、魚のこと教えてあげたりーー生まれてきてくれてありがとうっていう気持ちを伝えることができたら、海晴くんは立派なお兄ちゃんになれるよ」
笑いかけると、少しだけ不安の色が薄れたような気がした。分かりました、と海晴が返事をしたのとほぼ同時に、遠くからひとりの男性が「海晴!」と呼ぶ声がする。恐らく父親だろう。
海晴は、おとうさんだ、もう行かなきゃ、と言いつつ理久と茜を見た。
「今日はありがとうございました。こんごとも、この水族館をよろしくおねがいします」
最後まで折り目正しい少年に思わず、こちらこそどうも、と言いたくなる。
ふいに海晴が理久の名前を呼んだ。「りくさん」
「ちょっとしゃがんでください」
「え? いいけど……」
こう? としゃがみ込んだ瞬間、頰に触れる柔らかい何か。
それが海晴の唇だと分かったのは、彼が少し得意げな笑みを浮かべてからで。
「こんどは、ふたりきりでデートしましょうね」
ちゃっかり次の約束をしたのち、海晴は父親のもとへと走り去っていった。
一方、残された二人はお互い別々の理由でしばらくその場から動けなかった。やがて理久が呟く。
「……海晴くん、かっこよかったな」
その一言に電撃にも似た衝撃を受けた茜は、やり切れない思いを糧にズンズン歩き出す。
迷いのないそれに理久は驚きつつ、
「え、ちょっと、茜どこ行くの」
「アイス食べにいく!」
茜の大きな声に首を傾げる。彼の複雑な心境を理解できる日はまだまだ遠いのかもしれない。




