50話 先輩と、昔話
戸塚が会場に着いたのは、すでに大会が終わったあとだった。制服姿の学生が「残念だったねー」「来年は頑張ろうよ!」などと言い合いながら、駅に向かっていく。
私立学園の広い敷地を歩いていると、ベンチに座る見慣れた制服集団を見つけた。おーい、と声を投げかけるが返事はない。
戸塚は眉を下げた。彼らに近づきながら悟る。
ーーダメだった、か
理久の姿がなかったが、他は全員揃っていた。
最初に戸塚に気づいてくれたのは悠介だった。
「先生、仕事は」
「終わらせてきた。悪いな、最初からいてやれなくて……結果は?」
まどろっこしいことは昔から苦手だ。遠回しにやって傷口を抉りたくもないので単刀直入に聞くと、悠介は手をピースサインにした。
「……なんだそれ」
「二票」
「は?」
「あと二票で、全国でした」
ヒュッと息を飲んだ。驚いていいのか残念に思えばいいのか。困り果てた末に他のメンバーを見るが、なぜか戸塚と似たような表情をしていた。
喜びと悔しさの狭間にいるような、奇妙な空気が流れる。
口を開いたのは悠介だった。
「ーー悔しくないって言えば、嘘になる。けど、俺は今嬉しい」
全員の視線が彼に集まる。
「そりゃ全国に行けたらもっと嬉しかった。特に俺たち三年はもう最後なんだし、本音言うと部室に賞状とか飾りたかった」
けど、と強い口調が響き渡った。
「創部二年でここまで来れたのは本当にすごいと思う! 考えてみろよ、俺たち、最初はお互い顔も知らなくて、入学したころなんかまったくバラバラのこと考えながら過ごしてた。でも、文芸部に来て何もかもが変わった」
耳を傾けていたメンバーの顔つきが次第に明るくなる。
戸塚も微笑んでいた。
「もちろん実績も大事だ。けどそれよりも、ずっとずっと価値のあるものをーー俺たちは、得られたんじゃないか?」
長い長い人生の中で、高校生活の三年間なんてちっぽけなものだ。年を重ねるごとに色褪せ、ときには欠けてしまうことだってあるだろう。
それでも、輝きだけは何にも負けない。
「……悠介の言う通りだね」
ふいに茜はそう言うと、ベンチから立ち上がった。
「やっぱり俺たちは出会うべくして出会ったのかもしれない。それこそ、運命みたいな」
神楽と哲郎も立ち上がる。そうして、瞳を揺らめかせる真城と凪沙の前で四人は笑った。
「今までありがとう。これからは、頼もしい後輩に託していくよ」
晴れやかな表情が陽射しの下に輝く。
真城は涙をブワッと溢れさせ「や、やめてくださいよそんなぁ!」と神楽に抱きついた。
「嫌です引退しないでください! 寂しいです!」
「真城ちゃん」
「そうだ! 先輩たちみんな留年すればいいじゃないですか!?」
「無茶言わないで……」
「俺は部室が広くなるので清々しますね」
「可愛くねぇ奴だな」
「けど今年は一年生入部しなかった」
哲郎の言葉に悠介はそれなんだよな……と頭を抱え込んだ。が、
「心配しなくても問題はありませんよ」
凪沙と真城が強気な笑みを浮かべる。少し前の二人からは想像もつかない姿に一瞬、ポカンとしてしまう。
「そう簡単に廃部にはさせませんから、安心してください!」
「策はいくつか考えてあります。というか、先輩たちは部活より進路の心配してください」
いつの間にこんな大きくなったのだろうか。頼もしい限りの後輩に四人は文芸部を託した。
戸塚が「はーい、引退式終わり終わりー」となぜか菓子を配り始める。チョコレート菓子から駄菓子まで、実に様々だが差し入れのつもりらしい。茜と真城が喜んで食いつく。
「ところで松野、琴平がさっきからいないけど」
「それが、結果発表終わってからどこかに行ったきりなんです」
「マジかよ。どっかで泣いてんじゃないのか?」
一応部長なのだからいろいろ思うところだってあるだろう。探しに行こうとする戸塚を悠介が引き止める。
「大丈夫ですよ、そのうち帰ってきます」
「おいおい、どこから来るんだよその自信は……」
「これでも三年間同じ時間を過ごしましたから」
それに、とチョコレートをひとつ摘む。
「アイツは、目先の結果だけで一喜一憂するような奴じゃないです」
もっと先へ、先へと歩みを止めることはない。
琴平理久はそういう人物だ。
◇◆◇
あと二票だった。
悔しいのような、嬉しいような、でもやっぱり悔しい。
無心で歩き続けていた理久はいつの間にか、学園の裏庭らしきところまで来ていた。もう少しひとりでいたくてベンチに座る。
頭上の空は青く、雲の流れは穏やかで。
トンビの鳴き声が聞こえてくる。同時に、草を踏みしめる足音。
「志木の文芸部さん?」
振り向いた先にいたのは見知らぬ女性だった。年齢は二十代半ばだろうか。長い黒髪は風に揺れ、優しい面影が印象的だ。
ここには自分しかいないことと、学校の名前が出たことで理久は恐る恐る答えた。
「そうですけど……えっと、すみません、どちら様でしょう」
「突然ごめんなさい、怪しい人じゃないの。強いて言うなら志木の卒業生かな」
私も昔、文芸部だったの。
女性の言葉を理久が理解するには少し時間がかかった。その間に女性は理久の隣に腰を下ろすと、ニッコリ笑った。
目を丸くしてしまう。昔、文芸部だった。ということは廃部する前にいた人で。
つまり、理久の先輩にあたる人で。
「……えぇぇぇ!?」
「びっくりした?」
悪戯っぽく笑うその姿はまるで少女のようだった。
しかし見惚れるのも束の間、新しく部活を創った理久には未だ先輩という存在がいたことがなく、突然の登場に体が強張る。要は緊張というやつだ。失礼のないようにしないと、それより何を話せばいいんだ、などと様々な文章が一気に脳内を駆け巡る。
ふいに女性が言った。
「地方大会おめでとう。新聞で見て、今日は来たの」
合点がいった。そうだったのか。けれど、
「ありがとうございます。……でも、全国は行けませんでした」
力無く笑った理久を横目に、女性は空を見上げた。遠い記憶に思いを馳せるようなーーそんな瞳で。
「私はあなたたちが部活をやってくれるだけで嬉しい」
女性が不思議そうな顔の理久を見る。
「廃部になった文芸部を、もう一度創ってくれたのはあなたね」
その口振りから、女性が廃部になった文芸部のことを知っているのではないかと憶測した理久は思い切って訊ねた。「あ、あの」
「あなたは一体……?」
「あ、ごめんなさい、私ったらいつもひとりで突っ走るくせがあって。混乱したよね」
改めまして、と女性は理久に向き直る。
「元文芸部員、八十島ひかる。ちょうど志木高が全国に出場したあたりにいたの。だから、何か聞きたいことがあったら何でも言って」
そう告げられるが、いざとなるとやはり気負いする。迷っていると、ひかるの方から投げかけてくれた。
「一番気になるのは廃部のことかな」
「あ……はい」
「だよね。たいした理由でもないんだけど、やっぱり部員がいないっていうのが問題だったな。全国行ったって宣伝しても、本当に文芸やりたい子じゃないと入部しに来なかったし。あとは部誌かな」
「部誌がどうかしたんですか?」
「うん、まぁ……実は図書室とか、学校のいろんなところに置いてた部誌に、落書きされたりするようになって」
何も言えなくなる理久にひかるは、そんな顔しないでと言う。
「私がいたときは運動部も強かったの。だからそういう面でも恨みを買ったっていうか」
「だからといってそれは許せません!」
思わず叫んでしまったがこの際気にしない。息荒く立ち上がる理久にひかるは笑った。
「今は大丈夫? 何か困ったこととかない?」
「ありません。そして、これから先もないように私が後輩に伝えます」
言い切ってみせた理久を、ひかるは眩しそうに目を細めて見る。
「……あなたみたいな子がいたら、何か変わってたかもしれない」
え? と聞き返す理久に何でもないよ、と答える。
帰り支度を整えて、ひかるは改めて理久に向き合う。
「本当にありがとう、文芸部を守ってくれて。これからもよろしくお願いね」
そう残してひかるは去っていった。
初夏の風が香る。理久はひとり青空を見上げた。
不思議なことに、さっきまでの悔しさは消えていた。代わりにあるのは胸に優しく灯る、人の想い。
どんな実績よりも、トロフィーよりも、かけがえのないものを手に入れた。そんな気がした。




