48話 365日、カウントダウン
目の前にはらりと落ちた何かに顔を上げる。満開の桜の樹がそびえ立っていた。
今年も立派に咲かせてくれた花弁は、雪のように舞い散る。
目を細めながらそれを眺めていると、背後から声をかけられる。
「ことりちゃん」
神楽だった。早く行こ、と手を引いてくれる彼女に笑みがこぼれる。
あと何回、こんな幸せを噛みしめることができるだろう。
マイナス思考は良くないと思いながらも、最近そんなことばかりを考えてしまう。理久だけではない。もしかしたら神楽も、他の人たちも同じ気持ちなのかもしれない。
茜と初めて出会ったあの春から月日は流れた。
今日から、三年生になる。
◇◆◇
昇降口に去年のクラス名簿が貼り出されている。自分の名前の横には今年のクラスが書かれているはずなのだが、確認するより早く神楽が抱きついてきた。
「ことりちゃん、また一緒のクラスだよ!」
「え! ホント!? やった!」
輝かんばかりの笑顔で、手を取り合って喜ぶ。茜と神楽は去年も同じクラスだったが、やはり仲の良い友達とは何回でも同じクラスになりたい。
嬉しがる理久の後ろから声がした。「朝から元気だな」
「クラス一緒だったのか?」
「悠介、おはよう」
「あぁ。御崎もおはよう」
「おはよう。私とことりちゃん、一組だったよ」
「そうか」
なぜか少しだけ暗い顔つきの悠介。理久は首を傾げる。
「どうした?」
「いや、このシチュエーションだと、俺だけ別クラスのパターンだろうなって……」
「誰もそんなこと言ってないだろ。なに弱気になってんだ」
「松野、去年は和多と同じクラスだったよね」
「そうだけど今年はどうなるか分からなーーあ!!」
突然の大声に二人は驚いて肩をビクリと震わせた。
「な、なに……?」
「俺も同じクラス!」
パッとこちらを向いた悠介の表情の嬉しそうなこと。部活動を共にしてきた中でもベストワンに輝くそれは、理久と神楽をしばらくの間、ポカンとさせるには十分すぎるほどのものだった。
やがて悠介は我に返って二人から顔を逸らした。
「……悪い、今の忘れろ」
耳まで真っ赤にさせてそんなことを言うものだから、理久と神楽は顔を見合わせたのち、ニヤリと笑った。
「はてさて何のことかなぁ、よく分かんないね。ところで悠介は誰と同じクラスだったんだ? ん?」
「ずばり、今のお気持ちをどうぞ」
「忘れろッつってんだろ! 面白がってんじゃねーよ!」
「悠くん顔赤いよー?」
「その呼び方やめろ!」
「照れてるの? 悠くん」
「な!? 御崎まで……ッ!」
「朝から元気だねぇ」
ふいに入り込んできた声は茜のもので、隣には哲郎もいた。
理久の心臓が強く脈打つ。
「みんなおはよー」
「新学期おめでとう」
哲郎の謎に満ちた挨拶はさておき、悠介が逃げるように「何でもない、お前ら何組だった?」と話題を変える横で、理久は茜の姿に心音を弾ませていた。好きな人を前にして冷静でいられる女子はいない。まさに理久もそのひとりで、少しだけ茜と距離を取りながら、名簿を見る声を聞く。
「んー、俺はねー……あ、一組だ」
続いて哲郎も、
「俺も一組」
「ということは、全員同じクラス……」
悠介の言葉を一同は少しの間、理解するのに時間を要した。が、次の瞬間、湧き上がった喜びの声を上げてしまい、先生に注意されたのは言うまでもない。
◇◆◇
新しい教室に向かう途中、理久は背後から名前を呼ばれて振り向いた。
制服を身に纏った見慣れない姿に驚きつつ、微笑を浮かべる。
「おはようーー紗也」
挨拶された紗也は気恥ずかしいのか、首に手を置きながら「おう」と短く返答する。今日が初めての登校になるため落ち着かないのだろう。
神楽たちには先にクラスへ行ってもらい、しばらく二人きりで話した。
「似合ってるよ、制服」
「あんまり見るな。なんか……やだ」
「そのうち慣れるって」
ところで、と理久は訊ねた。
「紗也、やっぱりクラスは違う?」
「あぁ。休学扱いだったからな。特別学級ってことで」
「そっか」
少し肩を落とす理久に紗也は言う。「そんな顔するな」
「良かったじゃないか、出雲と同じクラスで。本当は嬉しくてたまらないくせに」
「そ……ッ!? そんなことーー」
思ってない、と完全に否定することはできなかった。それは少なからず嬉しいと感じる自分がいるからで。
頬を赤らめて俯く。優しい声が耳を通る。
「まぁ俺も理久もそれぞれ大変だけど、お互い頑張ろうな」
なんかあったらすぐ言えよ。別れ際の言葉は自分が紗也に言うつもりだったもので、考えていることは同じなんだなと少し苦笑してしまった。
チャイムが鳴る。理久は慌てて階段を上り始めた。
◇◆◇
登校初日はだいたい連絡事項が主なので、あっという間に放課後がやって来る。
春休みが明けたばかりで部活動をしているところは少ないが、この日は珍しく文芸部も活動中だった。それもそのはず。部員にとって今日ほど緊張感のある日はなかった。
新三年生はもちろん、今年は同じクラスになれた真城と凪沙も、爆弾か何かを眺めるように黙り込んでいる。
強張った表情で理久は茶封筒に手をかける。
「じゃあ……開けるから」
一同の視線を受けながら、震える手で書類を取り出す。閉じた目を恐る恐る開けて文章を読む。どれほど沈黙が続いただろうか。ふいに理久の瞳が見開かれた。
次第にニンマリとした笑みを露わにする。
「ーー予選通過しました!!」
「ッしゃあ!!」
ガッツポーズで喜びを表現したのは悠介だ。他の面々も手を取り合ったり、ハイタッチしたりと様々な手法で喜びを分かち合っている。
今日は始業式と同時に『高校生文芸大会』の予選結果の発表日だったのだ。
ちょうど二年前、理久が出たいと言いつつ悠介に却下されたものであり、今回こそはと去年の冬に予選大会へと参加してきた。
結果、めでたく予選通過。
「やったー!! すごい嬉しい!」
「やりましたね先輩! 今日は宴会ですよ!」
「じゃあどっか食べに行きますか?」
「いいね!」
「おい、油断するなよ」
賑やかな雰囲気に響いた悠介の声。理久はギクリとして振り向いたのだが、
「予選の次は地方大会ーーそこを通過して、初めて全国だ。忘れんなよ」
「悠介、顔が笑ってる」
「ある意味この中で一番嬉しさを隠しきれてないですね」
凪沙の冷静な言葉に悠介はハッとして、わざとらしく咳払いをした。誤魔化しきれていないが、ここは触れないでおいてあげよう。
理久は全員に言うつもりで声を張る。
「悠介の言う通り、まだ地方大会がある。ここからが本番だ。気を引き締めて頑張ろう!」
おぉー! という威勢の良い声が部室に鳴り響く。改めて気合いを入れ直した瞬間でもあった。
しかし、やはり大きなことを成し遂げると褒美が欲しくなるもので、当初の話し合い通り何か食べに行こうという流れになる。真城と凪沙、茜と悠介が話しながら部室を出て行く。身仕度を整えていると、ふいに話しかけられた。「理久」声の主は神楽と哲郎だった。
「ん? どうしたの? 早くたい焼き食べに行こうよ」
「あのね、その……えっと」
言い淀む神楽を不思議そうに見つめる。すると哲郎が、
「ありがとう」
突然のことに理久は目を丸くしてしまう。
しかし哲郎が先陣を切ったことで、神楽も意を決したように口を開いた。
「わ、私たちを文芸部に誘ってくれてありがとう!」
普段の神楽からは考えられないほどの大きな声だった。ますます訳が分からなくなる理久に、二人は少しずつ言葉を紡いでいく。
「その、もうすぐ卒業だし、いつかちゃんとお礼言わなきゃいけないって思ってたから。私、ことりちゃんーー理久のおかげで学校すごく楽しい。きっと文芸部に入ってなかったらこんなこと思わなかった。本当に感謝してるよ」
「俺も、文芸部に入って変わった。毎日放課後が楽しみになったし、自分に正直な気持ちで絵が描けるようになった」
だから、と二人が微笑む。
「ありがとう、理久」
目の奥が熱くなったがグッと堪えて、理久は神楽と哲郎を抱き締めた。二人分なので腕を回すことはできないが、それでも精一杯力を込める。
声が震えないよう、なるべく強い調子で言う。
「今があるのは二人が頑張ったから。私はちょっと手伝っただけだよ。でも、そう言ってもらえて嬉しい」
こっちこそありがとう。
感謝の思いが胸を温かくさせる。神楽と哲郎は理久を優しく抱きしめ返した。
◇◆◇
廊下の壁に寄りかかりながら、茜と悠介は部室の会話を聞いていた。真城と凪沙には昇降口で待つよう告げてある。
茜の嬉しそうな囁きが静かな廊下に響く。
「神楽と哲郎は、最初のころより自分自身のことが好きになったよね。良かった」
「……そうだな」
隣に立つ副部長も微笑を浮かべながら答える。
「悠介も変わったね。体の周りの怖いオーラがすっかり消えた」
「そうか?」
「今もだけど、よく笑うようになった」
口元を指さされたので触れてみる。確かに自然と、無意識に笑うことが多くなった気がする。
「笑うようになったのは、御崎と哲郎も同じだろ」
「まぁ、そうなんだけどさ」
「……不思議なもんだな」
「何が?」
「人の縁ってやつが」
悠介の顔つきは柔らかいものだったが、至って真面目で冗談を言っている様子はなかった。
「なんだかんだ全員いろんな面で変わったけど、このメンバーが出会わなかったらそれは起きなかったんだ。人間、最後は自分が頼りだなんて言うけど、俺たちは俺たちじゃなきゃきっとダメだったんだろうな」
この五人が出会わなければ、きっと誰も変われなかった。
暗く冷たい淵から、救われなかった。
大切なものに、気付けなかった。
「そう考えると、俺たちは何かで繋がってる仲なのかもしれないな」
「珍しくロマンチックだね」
「そりゃ現実を離れて、夢のひとつやふたつ見たくなるだろ」
そこで声も、表情も翳りを帯びる。
「……もう、今年で卒業なんだから」
今以上に顔を合わせなくなるだろう。
連絡だって、することの方が珍しくなる。
だからさ、と悠介は無理やり明るい口調を使った。
「大会頑張ろうな、絶対全国に行こう」
茜は頷きながら笑った。
しかし、その笑みは悲しげで、どこか遠くを見つめているようだった。




