4話 言葉、重なる
屋上へ通じる階段の踊り場は人で溢れかえっていた。普段は鍵がかけてあり、昼休み以外公開はされていないはずなのだが、今日は鉄製の扉が大きく開かれている。階段の下から見上げる青空は途切れた絵画のような虚しさが感じられ、この大勢の野次馬を悲しんでいるようにも見えた。
壁に寄りかかりながら事の顛末を見届けようと考えた理久だが、長く人混みの中にいたせいか吐き気を催しており、来るんじゃなかったと早くも後悔の念に襲われる。
規制をかける教師の声も、階段に響くざわめきも決して心地よいものではない。
ーーそろそろ戻るか
足を教室に向けようとした、刹那。
開け放たれた扉の向こうから、一際大きな声が流れ込んできた。
「お前らに何が分かるんだよ!」
恐らく声の主は屋上にいる二年の先輩だろう。
だが、典型的なその台詞に理久の心がドクリと脈打つ。臓腑を冷たい手で鷲掴みにされたような気分になり、映像が脳裏を掠めた。
ーー理久に何が分かるんだよ!
突き放すような声音と、振り払われた掌は嫌なくらい体に染み付いていた。
周りの喧騒が一気に遠ざかる。
それと同時に理久は教室へ向けていた足を戻すと、野次馬の中を掻き分け止める教師の声にも振り返らずに階段を駆け上がる。
本能が何かを、叫んでいた。
◇◆◇
まず、理久の目に飛び込んできたのは屋上を囲むフェンスを隔てた場所に立っている先輩と、刺激を与えないように散らばる数名の教師だった。
突然の登場に静寂が訪れる。
最初に口を開いたのは、虚ろな目をしている先輩だ。
「……誰」
風になびく黒髪はあまり手入れがされておらず、表情もかなりやつれている様子だ。男子のわりに少し高めの声が屋上に響く。
「何か用」
「今すぐそこから離れてください」
まだ息が整っていないのか、若干早口になりながら理久はそう言った。
だが、少年は自嘲的な笑みを浮かべ吐き捨てるように言葉を紡ぎ出す。
「冗談でしょ? 何も知らないくせに、綺麗事言わないでくれる?」
いらないんだよ、そういうの。
少年がそう言うと何かがブツリと音を立てて切れた。不気味なほど、屋上に響いたその音に教師も少年も疑問を感じる。やがて、理久はゆっくりと歩を進め口を開いた。
「……誰も知らないってことは、あんたが何も伝えようとしなかったからだろ」
自分の方へ何の躊躇いもなく歩いてくる理久を見て、少年は違和感を覚えると同時に奇妙な感覚に襲われた。
先程とは、まるで別人のように聞こえる低い声が耳を震わせる。
「一人で閉じこもって、挙句の果てに命まで投げ出そうとしてる」
フェンスを隔てたすぐ先に理久は立つと、真っ直ぐに少年の目を見据える。
手を伸ばせば余裕で届く距離。
「逃げてんじゃねぇよ」
不意を突かれたその言葉に、少年は驚く。そして何かを言おうと顔を上げたのだがーー。
あとずさった足の踏み場はなく、体のバランスを崩す。
なす術もなく宙に投げ出された感覚を背中に受けながら、映画のワンシーンのように少年は落ちる。
覚悟を決めたはずなのに、恐怖で埋め尽くされた心が叫ぶ。
死にたくない。
◇◆◇
ーー落ちる!
そう思い、理久はフェンス越しに手を伸ばす。だがその行動は無駄というのに等しく、少年の姿はすぐに目の前から消えてしまった。
急に静けさを取り戻した屋上で、力なく座り込む。
死んだ。
たった今、見せられた現実に体が恐怖で震え出し目の前が霞む。
真っ白になった頭の中、下から聞こえてくるであろう悲鳴などに傾いていく耳を塞ぎ込んだ。どうしたらいいのか分からずに目を瞑る。だが、塞いだ耳の隙間から届いた音はーー。
歓声と拍手喝采だった。
「…………?」
恐る恐る、フェンスに近づき手をかけて思わず目を疑った。
下に見えた景色は血塗れの死体ではなく、体育用の大きなマットに横たわる先輩の姿とそれを囲む事務員の教師たち。そして、
「琴平ぁぁぁ!!」
一際目立つ赤毛。三週間ぶりに聞いたその声に安堵と笑みが広がる。
「大丈夫、だから!!」
二カッと嬉しそうに笑う茜は、そのまま右手でV字を作る。しばらく眺めた後、理久もゆっくりと腕を上げた。
震える手で送り返したピースサインは、見えただろうか。