44話 オレンジ、ライクとラブ
待ち合わせの喫茶店に入ると、彼女はすでに席に着いていた。以前会ったときと変わらないツインテール。明菜は茜を見るとニッコリ笑った。
「ちょっと遅いんじゃない? 男子は女子よりも先に着いてるものよ」
「よく言うよ、急に連絡寄越したくせに」
向かい席に座る。すると、店員が注文もしていない紅茶とケーキのメニュー表を運んできた。
「あたしの奢り。ケーキセットだけど、甘いもの好き?」
そう言って明菜はコーヒーを飲む。よく見たら、彼女のところにも食べかけのベリータルトがあった。
突然呼び出したことに対する返礼らしい。素直にそれを受け取った茜は「ありがとう」と言い、オレンジのパウンドケーキを頼んだ。
店員が下がる。二人以外に客は見当たらず、ゆったりとしたピアノの音が店内に流れる。
「ここ穴場なの。だからなるべく秘密にしておきたくて、イツキと虎松とよく来るんだけど、茜くんたちなら来てもいいわ」
「……何か用があるんじゃないの?」
「せっかちね」
明菜はクスリと笑った。
「茜くんって文芸部の人たちといないとき、雰囲気変わるのね。ちょっとびっくり」
「それは水澤も、でしょ」
「あら言うわね」
「ていうか、本当に何の用で呼び出したの。俺、部活休んで来たんだけど」
「別にたいした用はないわ」
「は?」
茜の声が若干厳しい色を帯びる。同時に注文したケーキが運ばれてきた。真っ白いクリームが添えられたオレンジのパウンドケーキ。
「そんなに強い顔しないでよ、茜くんとはちょっと話したかったの。それだけじゃダメ?」
黙ってフォークを手に取る茜に、明菜は目を細めた。面白いものを見つけた猫のようだった。
「ーー大好きな部長さんに会えなくなったからって、そんなに機嫌悪くしないでよ」
カツン、とケーキを通過したフォークが皿に着地する。明菜が自分に対して本当に用がないことと、からかい混じりの言葉の両方に茜は溜め息を吐いた。
「……俺、水澤のこと苦手かもしれない」
「ツレないこと言わないで」
図星なのね、とベリータルトを口に運ぶ。すっかり食欲を削がれた茜は一時フォークを置き、紅茶に手を伸ばす。
「実際どうなの?」
明菜が聞いた。何が、と返す。
「部長さんーー理久ちゃんのこと、恋愛的に好きなの?」
曲が変わった。メロディーはピアノだがその旋律はどこか悲しげだ。
届かないと知る相手に、それでも恋をするような。
ジッと見つめてくる明菜に簡潔な言葉を告げた。
「……理久には、俺より良い人がいるよ」
「あら、誤魔化すの? あたしは別に誰かに言いふらしたりしないわ。ただ聞きたいだけなのに」
沈黙を貫き通す茜に、明菜は諦めたのか席を立った。
「まぁいいわ、言いたくないのなら。付き合わせて悪かったわね。会計は持つからそれで許して」
店を出る直前、明菜は思い出したように、
「あぁそうだ。文化祭、イツキと虎松を連れて行くからよろしくね」
ベルの音とともに明菜は去って行った。
悲しいピアノの楽譜だけが、茜の周りを泳ぎ回る。ノロノロとした動作でケーキを一口食べた。
甘酸っぱいオレンジにしっとりとしたパウンドケーキ。
迷わず選んだのは自分ではなく、理久が好きなケーキ。
虎松と仲良さげに話していた景色を思い出す。こんな感情を抱くようになるとは予想外だ。理久を誰にも渡したくないなんて。
けれど、その思いは内に秘められたまま、やがて廃れてしまうのだろう。
今度は文芸部みんなで来よう。クリームを付けながら茜はそう思った。
◇◆◇
「神楽、それ持つよ」
「ありがとう」
不思議なものだ。
あの胸の痛みは、茜と神楽のときは起こらないのに、
「茜くん来たよー!」
明菜がいるときは、なぜか起こる。
困った顔の茜にニコニコ笑顔で近寄る明菜。普段は誰とでも打ち解ける茜が珍しく口元を引きつらせる相手でもあるのだが、それ以上に理久は二人を見ずにはいられなかった。
ズキズキという音が聞こえそうなほど、文化祭当日はひどいものだった。
教室を借りて文芸部のコーナーを作った。部誌を置くぐらいしか出来ることはないのだが、ないよりはマシだ。他の部活やらクラスやらも屋台などを出しているため客足はほとんど皆無だった文芸部にも、やっと山城学院組が到着し賑やかになる。
複雑な心境を抱える理久を除いて。
「理久ちゃん、部誌見てもいい?」
虎松の言葉に返事をして、一緒に眺めながらときどきアドバイスを貰ったり、雑談を交えたりする。
「志木の面白いよ、俺好きだな」
「ありがとう! あ、この挿絵なんかも全部哲郎っていう……ほら、あの子なんだけどさ」
しかし、どれだけ話しても痛みは消えない。この前はすぐになくなったはずなのに。一抹の不安を覚えながらも、笑顔は崩さないよう心掛ける。
そんなときだった。背中に感じた温かい重み。
「ん? 茜?」
返事はないが恐らく正解だろう。ふわふわの猫っ毛が肩に当たっている。
「おーい虎松ー! そろそろお店回ろうよ!」
「あぁ分かった! じゃ、理久ちゃん、俺たちもう行くね」
「うん、来てくれてありがとう」
「また来るよ」
教室から三人が出て行くのを筆頭に、哲郎と神楽もクラスの出し物へと向かった。悠介も朝からクラスの方へ行っているので、事実上茜と二人きりになる。
背中に張り付いたまま動かない友人を、なんとかして席に座らせた。
「どうしたの茜……疲れた?」
「んー、まぁそんなとこ」
唸りながら顔を突っ伏す。明菜の相手はそれほど大変なのだろうか。
近くに置いてあった金平糖をひとつ食べる。懐かしい甘さが口の中で溶けていく。
「……理久さ、三好と仲良さそうだね」
ボソリと言われた言葉に金平糖を飲み込んだ。同時に、反射のようなことを口走ってしまう。
「茜だって、明菜ちゃんとよくしゃべってる」
「え?」
パッと顔を上げる茜。しまった、つい勢いに任せて言ってしまった。
なんて弁解しよう、と冷や汗をかく理久に茜は小さく、
「それって、ヤキモチ?」
「ーーは?」
「だってそうじゃん。理久は、俺と水澤が話してるのを見て、なんかモヤモヤしたんじゃないの」
その通りだった。どうして分かったのだろう。ポカンと茜を見つめていると、ふわっと微笑まれた。
「俺もね、理久と三好が話してるの見てヤキモチやいた」
一緒だね、と笑った茜。
瞬間、心音がこれまでないほど高鳴った。一度では収まりきらないそれに比例するように、体が熱くなる。
茜の笑顔はたくさん見てきた。なのに、こんなにも胸が締め付けられるような感覚を覚えたのは初めてだ。
幸せなような、苦しいような、でも嬉しい。
この気持ちは何だろうか。
◇◆◇
「遊園地?」
「そう、小さいころよく三人で行ったところ覚えてる? もうすぐ閉園になるんだって」
これ捨てていいの? と陸上の雑誌を掲げる慎吾。いいよ、捨てる、もう陸上やらねぇし、と冷たいながらも確固たる決意を滲ませた声で紗也は答えた。
部屋の片付けというものは普通ひとりで行うが、紗也の場合は例外だ。母親に注意されても片付けが苦手な彼は生返事ばかりをし、最後はいつも慎吾頼みだった。母親より慎吾の方が要るものも要らないものも把握していたので、いつしかそれが普通になり、今では呆れを通り越して何も言えない状態まできていた。
「で、その遊園地がなんだよ」
「閉園になる前に、三人で行こうよ。りっちゃんと紗也と俺で」
雑誌をまとめて縛り、慎吾は「そういえば、志木って今日文化祭だったような」と呟く。
「は!? マジかよ! なんでもっと早く言わないんだよ!」
「いや知ってると思ったから」
「こうしちゃいられねぇ、行くぞ慎吾」
「えぇ……片付けは?」
「帰ってきてからやる!」
絶対やらないなこれは。幼馴染みとしての長年の勘がそう告げていたが、ちょうどいいので理久に遊園地のことを話すついでだと、慎吾も身支度を始めた。
最寄り駅から五駅ほど電車に揺られる。そこからはわりと近く、歩いているうちに楽しそうな声が聞こえてくる。校門で他校の生徒三人組とすれ違った。あれは、山城学院だろうか。超頭良いじゃん、などと思いつつ、パンフレットを頼りに文芸部を探す。第二図書室は案外簡単に見つかった。
「いらっしゃいまーーあれ、どうしたの二人とも」
扉を開けると、真っ先に理久が出迎えてくれた。嬉しそうな笑顔を見せてくる。
「いや実は紗也がーー」
「たまたま近くまで来たから寄った。見てって良いか?」
……え、なにツンデレ? それともただのヘタレ?
紗也はもっぱら後者か、と慎吾は考え直した。「ゆっくりしてって!」と案内する理久の後ろを、必死にクールキャラを装う紗也がついていく。おーい、隠せてるって思ってるみたいだけど嬉しさのあまり尻尾振ってるの見え見えだからなー。俺には分かるぞー。
席に座ると机の上には部誌があり、なぜか金平糖も添えられていた。向かいに理久が腰を下ろす。
他の部員はそれぞれの作業をしながら、こちらをチラチラ眺めてくる。特に、赤毛の男の子は盗み見ーーというよりガッツリ観察してくる。
何だろう……文芸部怖い。
「たまたまでも、来てくれて嬉しいなぁ。紗也、いつ頃から学校に来るの?」
「来年の春からはもう行く」
「本当!? じゃあ文芸部に来て!」
「部活かぁ……考えておく」
入部する気満々のくせに何言ってんだか。しかし紗也の場合、年齢は三年だが一年として入学するわけだから、理久が卒業しても学校に残ることになる。それを考えると、部活入部はあまり賢明な判断とは言い難い。
「慎吾……おい慎吾」
「ん?」
「あのこと、言わないのか」
「あのこと……あぁ」
紗也に促されて慎吾は理久に向き直った。
「りっちゃん、小さいころよく行った遊園地分かる?」
「遊園地……近くに喫茶店があるところ?」
「そうそう。実は、もうすぐ閉園するみたいだから俺たちで行こうよっていう話にーー」
「え!? そうなの? おーい遊園地だって!」
ーーん?
紗也と慎吾が違和感を感じるまでもなく、理久は文芸部の部員たちにも聞いていた。
「遊園地!? 行きたい行きたい!」
「行きたいです! ね、先輩!」
「うん。観覧車、乗りたい」
「たまには良いですね」
「遊園地、何年ぶりだろう」
「俺は別に……みんなが行きたいならいいけど」
「慎吾、みんな良いって」
「あのりっちゃん、俺たち三人で」
「楽しみだね遊園地!」
輝かんばかりの笑顔に「そうだな」なんて紗也が真顔で返事するから、慎吾もなす術がなくーー。
結局、六人プラス三人で行くことになったのだった。
日にちやら何やらを決める理久たちを前に、慎吾は囁く。
「紗也いいのか? なんか大所帯になったけど」
「理久が楽しいなら俺はなんでもいい」
「お前なぁ……」
「どうせ慎吾も『俺と理久をどこかで二人きりにさせてーー』とか考えてたんだろ」
「あ、バレた?」
「心配しなくても、けじめはつける」
そう言った紗也の目は決意に満ちていた。
中学生のころとは打って変わった様子に慎吾も驚く。
「そのためには今回のこれはむしろ好都合だ」
「好都合?」
紗也の視線が赤毛の男の子に向けられる。理久を眺めていた少年は紗也に気づくと、真剣な眼差しを返してきた。
「まずはアイツとーー決着をつける」
閉園間近の遊園地で、戦いの火蓋が切って落とされる。




