42話 遠き日の、夢物語
薄い桃色のワンピース。
昔、お父さんにプレゼントしてもらったのよって、着るたびにお母さんは嬉しそうに言ってたっけ。
大事な大事なワンピース、父と母の思い出の品。とっても大切にしていたから、あの日俺はすぐさま異変に気づいたんだ。
桃色を彩るように、真っ赤な血の模様があったことを。
「……ごめんね茜、全部お母さんのせい。お母さんが悪いの」
まだ幼かった自分には母が何を謝っているのか、サッパリ分からなかった。それでもひとつだけ、予感のようなものはあった。
母が、いなくなってしまう。
離れてしまわないように、自分を抱きしめてくる母の服を握る。
「あなたは悪くない、だから自分を責めないで。お父さんを責めないで」
母の存在が薄くなっていく。体が徐々に消えていくのだ。
消えないで、お母さん。行かないで、嫌だよ。
悲しくて寂しくて、涙が一筋流れる。母は静かに微笑むと俺の頬に手を添えた。
「最低ね、お母さんちっとも後悔なんてしてないの。茜とお父さんに会えて良かったって思ってる」
茜、と耳元で囁く声がか細い。母の存在が光に溶けていく。
「大好きよ。見えなくても、いつだってあなたのそばにいる。約束よ」
生まれてきてくれて、ありがとう。
消える寸前、そう言った母の笑顔を、きっと自分は一生忘れない。
ハッと目を覚ます。全身が熱くて、思わずベッドから飛び起きた。荒い息を整えながら周囲を見渡す。木の造りの部屋。そうだ、ログハウスだ。さっきまで夕飯を食べていて、それから寝て、夕飯の前には探検に行ったりしてーー脳内に次々と浮かぶ今日の出来事。
おおまかな流れを思い出して、ようやく落ち着いた。雨が窓を打ちつける音がする。いつの間にか、どしゃ降りになっていたようだ。まだ早鐘を打つ心臓をなだめていると、ふいに声が頭の奥から響く。
『忘れないでください、坊ちゃん。どう足掻いたとしても最後に苦しい思いをするのは、あなただ』
ギリィと奥歯を噛んだ。そんなことない、霞は自分を未来へ帰らせたいからあんなことを言ったんだ。ハッタリだ、気にするな、自分は理久を守ることだけ考えていればいい。
ーー本当にそれでいいのか?
もうひとりの自分がそんなことを問う。もしも、自分の身勝手な行動のせいで理久がーー誰かが傷ついたら?
母のように、跡形もなく消えてしまったら?
もしかして、自分は母と同じ過ちを犯しているのではないか?
考え出すと止まらない、背筋が凍る。全身を不安の海に沈めたような気分だ。
「……あかね?」
寝ぼけたような悠介の声がする。
「どした……寝れないのか?」
起き上がっている茜を心配しているらしい。いつもは普通に返せる言葉も、今は喉の奥でつっかえたまま出てこない。
「茜……?」
悠介の手が肩に触れる。
瞬間、得体の知れない恐怖に体が、心が飲み込まれた。
「触るな!!」
窓の外から響いた雷鳴。
それに遅れて、パシッと手を振り払う音が部屋にこだました。
◇◆◇
まるで太鼓の音を耳元で聞かされたようなーーそう錯覚するほどの雷で理久は目を覚ました。驚いて起き上がり、窓へ視線を向ける。雨が窓ガラスを叩きつけていた。いつの間に天気が悪くなっていたらしい。
幸い神楽や真城は熟睡しているようで、雷に反応することはなかった。理久は短く息を吐いて、カーテンを閉めようとしたのだが、
「……?」
隣の男子部屋から何か音がした。しかし一瞬だけで、それっきり再び静寂が訪れる。
一抹の不安を感じた理久はそっと女子部屋を出て、少しだけ隣の扉を開けた。
暗闇の中、二人分の人影がぼんやり浮かぶ。ひとりは俯いていて、もうひとりは手を伸ばしたまま固まっている。
「どうしたの」
驚かせないように小声で投げかける。固まっていたはずの人影が理久に気づいて、小さく返してきた。
「…………琴平」
悠介の声だ。しかしいつもより力がない。何かおかしいという確信を持ったのち、悠介らしき人影の近くへ足を進めた。
窓の外からの微かな光で、俯いたままの人影が明るみに出る。茜だった。
「……何かあった?」
理久の問いに悠介はフルフルと首を横に振る。茜だけじゃなく、何となく悠介の様子も変だった。動揺しているというか、何というか。
このままでは埒が明かない。そう感じた理久は茜の肩に手をかけたが、
「茜? 大丈夫」
ビクリと震え、顔を上げた茜の表情が雷の光で浮かび上がる。
怯えた瞳が、理久の前で揺らいだ。
今まで見たこともなかったその顔つきに理久も言葉を失う。それでも、茜がうずくまって少し後ずさったことで我に返った。
「……ダメ、こっち来ないで」
あまりにもか細く、小さな声で茜は理久が近寄ることを拒んだ。
茜、と理久が呼んでも嫌々と言わんばかりに、かぶりを振るばかり。
「ごめん、ごめんなさい、俺……」
「茜」
力づくで茜の体を抱き寄せた。その体は驚くほど冷たくて、震えていた。
怯えるように縮こまる背中を優しくさする。
「……怖い夢でも見たの?」
理久の問いに茜は微かだが頷く。そっか、と言って安心させるように理久は茜の背中をさすり続けた。
次第に涙を堪えるような嗚咽が漏れ、ふいに茜が呟く。
「……り、く」
「ん?」
「そこにいる? いなくならない?」
服をギュッと握られる。
離れないで、どこにも行かないで。そんな風に必死で言われているような気がした。「……大丈夫だよ」
「ここにいるよ、どこにも行かないから」
「……悠介は?」
「ちゃんといるよ」
理久が茜から離れて、チラリと悠介を見る。悠介は茜の隣に腰を下ろすとその頭を撫でた。
「いるぞ、ここに」
皆いるからな、という言葉に茜は目を細めて小さく息を吐くと、ゆっくり目を閉じた。
タガが外れたように寝息を立て始める。ベッドに寝かせ、落ち着いた寝顔を見たのち、理久は悠介と目を合わせた。
「……何が何だか分かんないけど、びっくりしたな……って、なんで悠介泣きそうなの!?」
ブワッと目に涙を溜める悠介に理久は驚く。聞かれた本人は「な、泣いてねーよ」と明らかに涙ぐんだ声色で返す。
「ちょっとびっくりしただけだ、その……琴平が来る前に茜が、俺の手を振り払って『触るな』って叫んだから」
それで動揺していたのか。合点がいく理久のそばで、思い出したら余計にショックなのか、悠介が涙をこぼさないように目をこする。
「あーもう、泣くなって。茜も怖い夢見たあとだったから、いろいろ不安定だったんだよ」
「分かってる……ッ」
悠介が不安に駆られるのは当然だ。いきなり友人に叫ばれたりしたら、理久だって信じられない。おまけに悠介には中学時代のいざこざがトラウマで、友情関係に人一倍敏感な部分がある。そういった意味でも怖い思いをしたのだろう。
悠介をなだめつつ、さっきの茜を思い出す。
底まで真っ暗な怯えた目。何が茜をそうさせているのか、理久には分からない。
『実はさ、俺未来から来たんだ!』
茜について知っているのは、自称未来人であることと、母親がすでに亡くなっていること、この二つだけだ。他は何も知らないし、聞いてもはぐらかされてしまうの現状だ。
話したくないなら無理にとは言わない、けれど悩みがあるなら何でも打ち明けてほしい。
複雑な理久の気持ちに気づくことなく、茜は静かに寝息を立て続けた。
◇◆◇
翌日、朝。朝食のあと理久は自然さを意識しつつ茜に話しかけ、それとなく昨日の夜のことを聞いてみたのだが、
「んー……自分の家以外だとよく眠れないみたい」
と、まったく覚えていないようだった。困ったような微笑を浮かべる茜に「そ……そっか」と理久も面食らう。近くで会話を聞いていた悠介も驚いてはいたが、やがて言った。「まぁ、覚えてない方がいい気もするな」その言葉に理久も頷く。あれだけ取り乱していたのだ。よほど怖いーーもしくは、精神的に辛い夢を見たのだろう。それなら早く忘れてほしい。
「理久せんぱーい! 荷物積み込みますよー」
「あぁ……うん」
真城の声に反応して自分の荷物を持ち、ログハウスを出る。茜は、すでに車内の助手席に座る凪沙と話していた。普段通りの様子にホッとしつつ、理久も真城に続いて車へと乗り込んだ。
「皆いるかー? じゃ、出発するぞ」
沙助の声を合図に発車する。
揺られる感覚にウトウトしてしまい、いつの間にか眠っていたらしい。ボーッと目を開けたとき、視界いっぱいに広がる赤い何かへ思わず手を伸ばしてしまった。ふわふわしていて触り心地がいい。
「あはは、くすぐったいよ。理久」
「んー……?」
ふわふわしたものーー赤毛の下から二つの瞳が覗く。座席に深く体を預けながら、その目が悪戯っ子のようにキラリと光るのを見た気がした。
「絶対寝ぼけてるな……よし」
グッと距離を詰めてきたかと思えば、耳に響く茜のいつもより低い声。「りっちゃん、おはよ」
脳に直接刷り込まれたようなそれで一気に目が覚める。
と、同時に、
「わ、わあぁぁぁッ!?」
「うぐッ」
驚きのあまり茜を押しのけ、車を降りる。「なんだよー、起こしてあげたのにー」と文句を垂れ流す茜には目もくれず、理久は「おッ、起こし方ってものがあるだろ!」と叫んで、さっさと荷物片手に神楽たちのもとへ向かった。
さっきまで心配していたのがバカらしくなっていた。
「あ、理久先輩起きた」
「おはよう、ことりちゃん」
「あぁ……うん、おはよ」
ん? と真城が理久の顔を覗き込む。
「な、なに?」
「……理久先輩、顔赤いですよ」
「は!?」
真城の言葉に心配したのか神楽がおでこに手を当ててくる。「ホントだ、ちょっと熱い」理久はブンブンと首を横に振った。
「いや! 気のせいだろ! てか、さっきまで寝てたから体温高くなってるだけかもしれないし」
「そうですかー? あ、もしかして」
ニヤリと真城の口元が歪んだ。
「さっき茜先輩が起こしに行ったんですけど、何かありました?」
勝手に脳内再生されるのは、さっきの茜の声。
「なーーなんにもないッ!!」
顔が熱くなるのが自分でも分かった。思いの限り叫んで理久は駅の中へと足を運んだ。
その背中を見送りながら、真城と神楽は顔を見合わせて呆れたように笑った。
「あんな言い方じゃ、何かあったって証明してるようなものですよ」
「ことりちゃんらしいね」
そう会話してクスクス笑う二人の背後では、運転席に乗る兄を車の外から眺める凪沙がいた。睨みつけるような、それでいて不満を訴えるような視線に気がついたのか、沙助は笑顔を引きつらせる。
「おいおい……そんな怖い顔すんなよ。せっかくのイケメンが台無しだぞ」
「……母さんと父さんが」
凪沙の言葉に沙助は笑顔を消した。家を出た身であることを前提に誘ったが、何か言われたのだろうか。
「……家に戻れって、言ってたのか」
「違う」
真っ直ぐに見据えてくるその瞳は随分と澄んでいた。目に射抜かれたまま、沙助は何も言えなくなる。
「元気にやってるか見てきてほしいって、俺に頼んできた。ちゃんと生活してるならそれでいいって。もう怒ってないって」
あと、と凪沙は俯く。
「その……別にこれは伝言じゃないけど、多分家族皆が同じように思ってるはずだから」
たまには、家に帰ってこいよ。
小さな声が弟から発せられる。目を見開く沙助をキッと睨むと「それだけ。じゃあな、送り迎えご苦労」と何様のつもりなのか分からない言葉を残して、凪沙は駅へ向かった。
知らないうちに随分と背が伸びた。ついこの前まで凪沙を幼く見ていた自分に気づいて、ひとり苦笑する。
次の長期休みは実家に帰ろうかな、そんなことを沙助は思った。
◇◆◇
「あー……やっぱり住み慣れたところが一番だな」
「そうだね」
「哲と神楽は学校の近くに住んでるんだっけ」
高校の最寄り駅で電車を降りた一同。理久の問いに二人は安心したように微笑んだ。「うん」
「お出かけも楽しいけど、ここが一番落ち着く」
へらりと無防備に笑った神楽に理久は頷き、真城は「神楽先輩! 今のスマイルもう一回! 待ち受けにします!」と迫る。
「おい、駅構内で騒ぐなよ……ッと」
そんな部員へ振り向きざまに注意したせいか、通行人と悠介の肩がぶつかる。
「あ、すみません」
「…………くッ」
「え!?」
しかしその通行人は突然しゃがみ込むや否や、苦しそうな呻き声を上げ始めた。さすがの悠介も驚きを隠せず「ちょ、大丈夫ですか!?」と通行人に駆け寄る。
その様子に理久たちも集まった。「どうした?」
「体調でも悪いのか?」
「全然分かんねぇ……あの、大丈夫ですか!」
「は……ッ離れるんだ」
通行人であるまだ高校生らしき女性は、顔を覗き込む悠介の肩を掴むとそう言った。
思わず悠介は面食らう。
「え!? で、でも」
「いいから早く離れるんだ! 俺の……第三の眼が覚醒してしまう前に……!」
「ーーは?」
最後の言葉は全員の声が揃っていた。一同が呆気にとられるなか、その空気を破ったのは短いツインテールの女子だった。
彼女はうずくまる女子の肩を掴むと、必死の形相で揺さぶった。
「ダメよマスター! 世界はまだ、あなたの禁断魔法で浄化されるときではないわ!」
「よせ、明奈……運命には抗えない。たとえ、俺の持てる力のすべてを使ったところでな」
「マスター……!」
「ふッ、そんな悲しい顔をするな。可憐な花のようなお前には似合わな」
「おいぃぃぃ!! 何やってんだそこ二人!!」
唐突に猛スピードでこちらにダッシュしてきた眼鏡の男子が、うずくまる二人の襟首を掴んで立ち上がらせる。そのまま頭を掴むと、勢いよく下を向かせた。
「すみませんすみませんすみません!! お見苦しいものをお見せしてしまって!! ほら、お前らも謝れ!」
「えぇー? ちょっとふざけてただけじゃーん。ねぇイツキ?」
「明奈の言うとおりだ、謝ることなど俺たちはしていないぞ」
「そういう態度がダメなんだっていつも言ってるだろ!!」
ギャーギャーと騒ぎ立てる三人組を前に言葉をも失う。
何も言えずにただ見ていると「ほら、もう帰るぞ!」という眼鏡の男子の声を合図に離れていく。
彼はもう一度「本ッ当に申し訳ありませんでした!!」という謝罪を叫んで、女子二人をほぼ引きずるようにして去った。
「……なんだったんだ、今の」
「私に聞くなよ」
悠介にそう返した理久の足元には、深い藍色の手帳らしきものが落ちていた。




