41話 夏、合宿
駅を出て、まず最初に文芸部一同を出迎えたのは、アスファルトを照りつける太陽。耳に響くセミの鳴き声。
そして何よりも眼前に広がる、
「……山ばっかりだな」
緑の巨体、と称しても良いくらいの山々を眺めつつ、理久はそうぼやいた。賛同するように何人かのメンバーは、陽射しに目を細めながら頷くが、
「茜隊長! 向こうに海が見えます!」
「なに!? でかしたぞ真城隊員!」
夏の暑さをもお構いなしのハイテンションで騒ぎ立てる茜と真城は、山と山の合間に揺らぐ青い海を前に嬉しそうな声を上げていた。ついには荷物を振り回しながら走り出したので「おい戻れ問題児二人組!!」という悠介の叫びが響く。
その光景が、はしゃぐ小学生と苦労する先生のように見えてきた理久は呆れ気味に微笑む。
「まったく……茜と真城のコンビには要注意だな」
「だね」
クスリと笑った神楽は隣の哲郎を見る。空を見上げながら「……良い絵が描けそうな場所だ」と呟くその瞳はキラキラ輝いていた。
「琴平先輩、車来ました」
理久の肩を叩いた凪沙は駐車場を指さした。白い大型タイプの車が止まっていて、そばには男性がひとりいた。今回の合宿を提案した凪沙の兄、沙助だ。凪沙同様、黒く艶めいた髪を風になびかせている。ただ少し違うのは前髪をゴムでしばっているスタイルの部分だろうか。
理久たちが近づくと笑顔で迎えてくれた。
「おぉー、なんだナギ。可愛い先輩二人もいるじゃないか! なになに? 彼氏いるの? いなかったら俺なんかどう? タイプ? 年上の男ってのもなかなか良いとおもいててッ!!」
「すみません、女性に飢えてる野郎なので、うかつに近寄らない方が良いかと思います。あ、気持ち悪かったら正直に罵ってやってください」
「ちょ、痛い痛い痛い!! ごめんなさい冗談だから許してナギ! いやナギ様!!」
爽やかな見た目とは裏腹に、弟に足を力いっぱい踏まれるその姿は凪沙と似ても似つかない。「俺運転できなくなるー!」という沙助の言葉に凪沙は冷たく返した。「セクハラ発言してんじゃねーよバカ兄貴」痛がる兄をよそに車に乗り込む。呆気にとられている一同へ、沙助は微妙に歪んだ笑顔を向けた。
「ごめんね、アイツかなり生意気だろ?」
「あ……いえ、全然そんなことは……」
「ん?」
理久の明らかに困惑した表情に、沙助は腑に落ちないような返事をしたが、やがてニヤリと笑い、車の中へ呼びかけた。
「おいナギ! お前学校で猫被ってたな!?」
「うるせぇバカ兄貴!! さっさと運転しろ!!」
図星らしく若干頬を赤らめた凪沙を笑いながら「これがアイツの本性だから」と片付け、沙助は荷物を車に積み始めた。
未だに固まったままの理久や神楽の背後から現れた悠介が車へ乗り込み、凪沙の隣に腰掛ける。
「もう猫被りはやめたのか?」
「……何のことですか」
今までの優等生態度を崩されたことにより、不貞腐れた様子の後輩に小さく笑いをこぼす。
「まるで女王様みたいだな」
「はぁ? 俺男なんですけど。心外ッスよ、松野先輩」
「次々と本性表しやがってコイツ……」
顔をヒクつかせる悠介と、してやったり顔の凪沙の会話は、乗り込んできた残りの部員によりそこで中断された。
◇◆◇
昼前には駅に着いたはずなのに、車での移動時間が長かったせいか、予想以上に大きなログハウスへ到着したのはほとんど夕方だった。
家一軒分ほどのログハウスの中は広く、木の香りがフワリと漂っている。誰よりも早く部屋の中などを探検し始めた茜と真城を筆頭に、女子部屋と男子部屋と分けたり、荷物を運んだりなどしたのち、一同はリビングでくつろいでいた。沙助がキッチンから苦い顔で出てきたのはそのときだ。
「あー、すまん。夕飯の材料、事務所の冷蔵庫に置いてきたみたいだ」
その言葉に凪沙は呆れたように兄を見た。
「ちゃんと仕事しろよ……」
「ごめんごめん。取ってくるから、少し待ってて」
「五分以内に帰宅」
「無理に決まってんだろ!? ……あ、さてはナギ、俺がいなくなるのが寂し」
「さっさと行って来い!!」
「おー、怖い怖い」
車の鍵を持って沙助はドアに手をかける。振り向きざまに、
「あ、暇だろうからハウスの周り、探検してきてもいいよ。変な動物とかは出ないし。行くなら気をつけてな」
そう言い残してログハウスをあとにした。
やがて車が発車した音が遠のいたのち、凪沙は一同へ意味ありげな笑顔を見せた。
「すみません、あとでよく注意しておきますので」
「いやもういいよ凪沙! そろそろお兄さんに優しくしてあげなって! ね!?」
「やだなぁ琴平先輩、俺はいつも通りですよ?」
「説得力なさすぎだろ、その発言……」
理久が困ったように「うー」と唸っている背後から、悠介が凪沙の頭に手を置いた。「凪沙」
「お前、俺らのときと兄貴さんに対しての態度変わりすぎ」
ダメだろ、という先輩からの注意に、凪沙は逆らうようにフイッとそっぽを向く。すぐさま悠介のこめかみがヒクついた。
二人の間に無言の火花が散り始め、さっきとは違う意味で困り果てる理久。しかし、溜め息をついたそのそばから懐中電灯を片手に期待した表情の茜と真城が現れたので、恐る恐る理久は問いた。
「……どうした?」
「探検行きたい!!」
「行きたいです!!」
沙助が言い残していったことを真に受けているらしい。理久は「えぇ……山の中は危ないだろ」と渋るが、そんなことお構いなしで真城は神楽の手を引いた。
「神楽先輩ッ、行きましょ!」
「ちょ、おい真城」
「ことりちゃん、私も探検行きたい」
「神楽まで……」
仕方ないとばかりに苦笑した理久は哲郎に声をかける。
「哲、悪いけど二人と一緒に行ってくれないか。女子だけだと危ないから」
「分かった」
気のせいか、いつも通り無表情の哲郎の顔は少しワクワクしているようにも見えた。皆行きたがってるのか……と理久が感じるのも知らず「いってきまーす!」という真城の元気な声を合図に三人はドアを開けた。
刹那、夏独特の熱気が体を包み込む。外はまだ明るく、夕焼け色に辺りは染まっていた。瞳をキラキラさせながら真城は神楽の手を引き、近くの山道らしき階段を登り始めた。その後ろを哲郎が着いてくる。
「楽しいですね! 先輩」
「うん」
常に笑顔の真城につられて、神楽も微笑みながら頷く。背後で同じように哲郎が笑ったような気がした。
簡単な登山コースらしく、そこまで道は険しくなかった。階段を登り続けているとふいに真城が言葉をこぼした。
「……あたしの家、親が共働きなんであんまり家にいないんです」
さっきまでの笑顔に翳りが入る。その声は神楽と哲郎にだけ聞こえるような、小さくて、寂しげなものだった。
同時に神楽は去年までの自分を思い出していた。友達もおらず、ただ家でひとり窓の外を眺めるだけの生活。
哲郎は少しだけ二人に距離を縮めたあと、黙って耳を傾けている。
「凪沙と同じように兄貴はいるんですけど、仕事で自立しちゃったから家にはいないし。昔から『家族皆でお出かけ』なんて滅多になくて」
だから、と真城は神楽を見上げた。
夕焼けが木々の合間をぬって、三人のところへ降り注ぐ。
「だから、今日こうやって大人数で知らない場所に来るの楽しくて仕方ないんです」
常に絶やすことのない笑顔の裏側ーーきっと今まで寂しい思いをたくさんしてきたのだと神楽は感じた。自分も似たようなことを味わった身だから。
でもーー文芸部がそんな自分の手を引っ張ってくれた。
窓の外の世界に、連れ出してくれた。
いつかその恩返しがしたくて、でも何をしていいのか分からなくて。それでも今なら分かる。
文芸部を真城の心の拠り所にしたい。
神楽が口を開きかけたとき、背後から「俺、本当は嫌いだった」という声がして二人は振り返る。哲郎が真っ直ぐに真城を見据えていた。
「絵描くの、嫌いだった。上手だねって褒められるのは、いつも先生が言うとおりに上手に描いたやつだったから。そこに俺の気持ちだとか、俺らしさだとかはない。ただ絵の具を塗りたくった白い紙だ」
珍しく感情を露わにする哲郎を前に神楽と真城は静かに話を聞き続ける。
「高校も美術部に入る気なんかなくて、自分の絵って何なのかよく分からなくて。だからあの日、描きかけの絵を捨てようとしたんだ、そしたら」
『その絵、完成したら見せてね!』
理久と始めて顔を合わせた日。咲き誇る花々とそこに立つ女性の絵。処分される寸前の絵を前に、彼女は瞳を輝かせた。
そのとき、自分の中の錆び付いていた歯車が動き出した。
「なんでも頭ごなしに否定したらダメなんだって思った。難しく考える必要なんかないんだって、俺改めて思い出した」
大勢が褒め称えてくれる絵じゃない。
たったひとりでもいい、誰かが笑顔になってくれる絵を、自分は描きたい。
ずっとずっと、描き続けたい。
「だから俺は文芸部で、皆が書いた文章が動き出すような絵を描きたいと思った」
哲郎が真城の前に立つ。「俺、今すごく楽しい」
「だから真城もきっとこれから先、今感じてるよりも、ずっとずっと楽しくなるはずだ」
フワリと吹いた、夏風に揺れる哲郎の笑顔。
「俺は文芸部を、家族だと思ってる」
家族は家にあるものだけじゃないから。
たとえその家族が嘘の、ごっこ遊びのようなものでも大丈夫。
いつだって、そこは暖かいから。君を待っているから。
真城は哲郎を見たあと神楽を見上げた。神楽が頷きながら笑うと、ちょっと目を潤ませて二人の手をとった。
真城を真ん中にして三人が並ぶ。
「哲郎先輩は、お父さんみたいですね」
その言葉に言われた本人は困ったように微笑んだ。
「俺よりも、悠介の方が親父っぽい」
「悠介先輩は同じ親父でも頑固親父タイプですね」
「お母さんは、ことりちゃんが良いな」
「あぁー! 似合いますね! なら茜先輩は……ワンちゃん?」
「じゃあ凪沙くんは猫だね」
「似てるけど……それもう人間じゃないぞ」
笑い声を上げながら歩く夕暮れ道。
繋いだ手は本物の家族のように暖かった。
◇◆◇
山道の階段、草や枝を踏みしめながら悠介は「えッくし」と、くしゃみを漏らした。
「悠介、風邪?」
懐中電灯を持つ茜の問いかけに、横を歩く悠介は首をひねる。
「あー……なんだろ、分からん」
「誰かが噂したのかも」
「だったらどういう噂なんだか」
悠介の噂かぁ、と勝手に妄想する茜。その背後を歩く凪沙が隣の部長へ恨めしげに視線を向けた。
「……なんで俺たちまで探検ごっこしなきゃいけないんですか」
「仕方ないよ、茜が行きたいって言うんだし。それにあのまま部屋にいても、凪沙と悠介が喧嘩するだけだろ」
「しませんよ。松野先輩が人様のことに首を突っ込んでこなければ」
「おい、聞き捨てならねぇ言葉が聞こえたんだが」
「気のせいッスよ」
「凪沙てめぇ……」
「あぁもう! 言ってるそばから喧嘩すんな!」
今にも胸ぐらを掴み合いそうな二人を引き離し、理久はお互いの片手を近づけた。まさか、という表情の悠介を睨みつけ、部長は告げる。「はい、握手して」
「……は? な、なんでッスか」
「あまりにも仲が悪いので」
「それと握手は関係な」
「いいから早く!」
理久はほぼ無理矢理二人の手を叩かせた。バチンッという乾いた音が響き渡る。訳が分からない表情の凪沙を置いて、満足そうな理久はまた階段を登り始めた。
呆れたような面持ちの悠介に握手の意味を聞ける訳もなく、途方にくれているとふわふわの赤毛が視界に入り込んだ。
「理久はね、二人に仲良くしてほしいんだよ」
茜の言葉に凪沙は眉をひそめる。
「だからどういう関係で握手が……」
「んー、別に意味なんてないんじゃない?」
「ますます訳が分かりません」
困ったなぁとでも言いたげな茜の表情。困ってるのはこっちなんだけど、と言いたいのを堪えていると、ふいに呟かれる。「まぁ強いて言うなら」
「握手をすんなり出来るくらい、心を許してほしいんだと思う」
「心を許す?」
「凪沙くんが、俺たちを部活の仲間として信頼してくれるようになってほしいってこと」
それを聞いてもやはり握手と関係があるのかイマイチ分からない。不満を隠せないまま、さっき叩かれた手のひらを見る。
信頼してほしい、か。
考えながら階段を登る。しかし、足元をよく見ていなかったせいか、段を踏み外し、
「ッわ」
グラリと後ろに傾いた体を繋ぎとめてくれたのは、さっき無理矢理叩き合わされた手だった。凪沙の手を掴む、悠介の手。
「あ……ッぶねー、大丈夫か?」
そのまま引き寄せられ、無事に両足が地に着いた。たかが階段なのに、落ちそうになった不安から急に安心したからか、心臓がバクバク鳴り始める。俯いたまま黙っていると、悠介が心配そうに顔を覗き込んできた。
「どうした、怪我したのか? 痛いのか?」
首を横に振る。腑に落ちない表情をしていた悠介だが「そうか、無理すんなよ」と言って、凪沙を前を歩き始めた。
ついさっきの出来事が脳内を巡る。多分悠介は倒れそうになったら誰でも助けるだろうが、今自分が後輩だから助けられたような気が凪沙はしていた。急に、自分はこの人たちの後輩なのだと、改めて気づいた。
仲間として信頼してほしいーー茜の言葉が蘇る。
後輩だからこそ、悠介たちは周りへの態度について細かく言うのだ。それはいつか凪沙が変わってくれると信じているから。
だったら、自分も、
「……松野先輩」
ん? と振り向くその姿に、俯きがちだが小さな声で凪沙は言う。
「……助けてくれて、ありがとうございました」
悠介は一瞬びっくりしたように固まったが、凪沙がそばを通り過ぎたあとに我に返ったらしく、慌ててその後ろを追う。
微笑みながら「どーいたしまして」と頭を撫でようとしたら「子どもじゃないんでやめてください」と一蹴される。十分子どもだろーが、という悠介のもっともな意見に、前を歩いていた理久と茜も小さく笑った。




