40話 春の終わり、夏の始まり
「こッの大バカ野郎!!」
「いってぇッ!!」
病室に響くガツンッという音。
慎吾は紗也の頭にくりだした拳を震わせながら、腹の底から叫んだ。
「俺らがどんッだけ心配したか!! 分かってんのか!? 一年半も病院にいて……!!」
「ちょ、仮にも病人にその態度はねぇだろ!」
紗也は不満げにそう言ったが、今にも泣きそうな慎吾の顔を目の当たりにすると何も言えなくなってしまった。開きかけた口を閉ざし、二人が黙っていると「シンちゃん、ここ病院だから静かに」という、理久のもっともな意見が聞こえた。
「紗也も十分反省したみたいだし、もう許してやれよ」
「……甘い」
「えぇー……」
「りっちゃんは! いッつも紗也に甘い!」
怒りの矛先が理久になり、バツの悪そうな顔をしている被害者へ、慎吾は紗也を指さしながら言った。
「りっちゃんが紗也を甘やかすから、コイツがいつまでたっても自分の気持ちを」
「ああぁぁァァッ!? ななな何訳の分からないことを言っているのかな慎吾くんはァァ!?」
「え、急にどうしたの……」
こっちこそ訳が分からないという表情をしつつも、理久はイスから立ち上がった。そのまま紗也がもたれ掛かっているベッドの布団のズレを直し始める。
「仮にも病人なんだから、大声出さないでください」と、さっき紗也が自分で言っていたことを皮肉る理久。それに大人しく頷いてから横目で慎吾を見ると、さっきの泣きそうな顔はどこへいったのか、ニヤニヤ笑っていた。畜生、あとで覚えてろよ……!
紗也の睨みに気づいたのか、慎吾はわざとらしく「あッ、忘れてたー」などと言い出し始めた。
「俺ちょっと用事あるんだわー。りっちゃん、悪いけどここ任せていい?」
紗也は自分に背を向ける理久に目で訴える。慎吾のやつ、俺と理久を二人きりにする気だ。彼女のひとりもいないくせに、こういうお節介は慎吾の得意分野だった。
しかし、いくらなんでも、こんな嘘バレバレの演技に理久が騙されるわけがなーー
「そういうことは早く言えよ……私はまだいるから、全然構わないけど」
……理久は疑うという言葉の意味を知るべきだ。
そんなことを思っているうちに、慎吾はそそくさと帰り支度を終え、理久が見ていない隙に紗也の耳元で囁いた。
「あとはお前次第だからな」
頑張れよ、と紗也の肩を叩いてから慎吾は病室をあとにした。
うるさいやつがいなくなったらなったで、妙にシンとする病室。心臓の音まで理久に聞こえていそうで、ますます緊張が高まる。
急に訪れた静寂のせいか、二人きりなのを意識しすぎなのか、耳の辺りが熱くなる。
「紗也、大丈夫?」
いつの間にかイスに座っていた理久が、心配そうにこっちを見ていた。慌ててかぶりを振る。
「へ、平気」
「そう? 眠かったら寝ていいからね」
「……やだ」
だって寝たら、理久帰っちゃうかもしれないし。
「……さっきからどうした」
苦笑する理久を前にハッとする。「いッ、いや別に……何でもないし」と反論するが、クスクス笑われるだけだ。今度こそ顔が赤くなった。
しかし、ふと理久の手を見て冷静になった。
あの日、振り払ってしまった手。
紗也が急に静かになったので、理久も笑うのをやめた。何となく無言でいる中、静寂を破ったのは紗也だった。
「理久、ごめん。手振り払ったり、キツイこと言ったりして」
ごめんなさい、と小さく頭を下げる。すると今度は理久が慌てた様子を露わにした。「ち、違うよ」
「私がちゃんと言わなかったから、二人は勘違いして……悪いのは私。こっちこそ、ごめん」
同じように小さく頭を下げてきた。紗也は「りっちゃんは悪くない、俺が勝手に」と言いかけたが、顔を上げた理久と目が合って、少しの間のあと二人で吹き出した。このままだとキリのない謝り合戦になってしまうだろう。
「仲直りだね」と笑った理久に紗也も頷いた。
「ところで紗也、学校とかどうするの? いつかは退院するんでしょ?」
「あれ、言ってなかったっけか」
ごく真面目な表情で紗也は返した。
「俺、一応志木高の推薦に受かってるんだけど」
瞬間、理久の笑顔が凍りついた。
そのままピタリとも動かなくなったので心配になる。マズイことを言ったかな。
名前を呼ぶと石像化が解けたらしい理久は目を見開いて、心底驚いた様子で叫んだ。「し、知らなかった!」
「ずっと日比谷中学出身は自分だけだと思ってた」
「まぁ長期欠席扱いだったし、仕方ないだろ。学年の人数も多いし」
「そっか……でも、嬉しいな」
フワッと理久は微笑んだ。
「また紗也と一緒だ、来年は同じクラスだといいね」
心臓が高鳴った。鐘のようなその鼓動が全身に響き渡る。体温が一気に上昇するのがハッキリと感じられた。
今だ、タイミングは今しかない。行け。
「……り、理久」
ん? と首を傾げた。
慎吾の「頑張れよ」が脳裏に蘇る。顔も耳も熱くて仕方ないから、少し俯きがちになる。
緊張と心臓のバクバクが最高潮に達した。
「あ、あのさ、俺」
ずっと、理久のことがーー
「あれぇー? 慎吾くんだー」
しかし、扉の向こうから聞こえてきた声が、すべてをぶち壊した。
秒単位で死んだ魚のような目つきになる紗也とは対照的に、理久は「ん? この声は……」と扉を見つめた。
「え? あ、本当だ。よぉ川幡」
「慎吾くん、どうしたの」
「ちょ、シィー! 松野と出雲静かに!」
「えぇー? なんでー?」
「病室の前でコソコソしてるやつが何言ってんだか……入りたきゃ入ればいいだろ」
「え、あ、ちょっと! ダメだってば!」
ガラッといつもの調子で扉を開けた悠介と、病室にいた紗也と理久の目線が絡み合う。直後、開けたときよりも数倍勢いをつけて扉を閉められた。
向こうからヒソヒソ声が聞こえる。
「……おい、なんだあの状況」
「だから入らないでって言おうとしたのに! 今大事なところなんだって!」
「ねぇねぇ悠介、何が大事なの?」
「茜は見ない方が、その……傷つかないから」
「え、なに、俺にとってそんなにショッキングな光景が広がってるの」
「つーか二人とも何しに来たんだよ」
「俺たちは部長に聞きたいことがあってだな、文芸部の凪沙っていう機械にめっぽう強い一年が、理久のスマホのGPSを検索したら、この病院に引っかかった」
「ねぇ、文芸部って普段から何してるの。怖いんだけど」
「悪用はしないから問題ない」
「慎吾くんこそ何してたの?」
「俺か? 俺はもちろん、用事で帰ると見せかけてからの盗み聞きだ」
「こうも自信満々に言われるといっそ清々しいね……」
部屋の中から理久が扉を開くと、廊下でヒソヒソ集まっていた一同は勢いよく振り向いた。慎吾は青い顔をして「や、違うんだよりっちゃん! 盗み聞きっていうか何か楽しそうに話してたからそれで」悠介は「あ、琴平、新一年生のクラスの前にあった部誌完売したんだけど……まだ残りあるよな?」そして茜は「わぁーい理久だー!」と勝手に理久の手を取って笑った。
さらに病室の中からは紗也の「慎吾てめぇ! 盗み聞きしてんじゃねぇよ! あとそこの赤い髪のやつ! おま、なッ、なななに理久の手握って……ッ!!」唇をワナワナさせながら叫ぶ声がし、それらは騒音化されていく。
「……だから、ここは病院だって言ってるのに」
そう呟いて、理久は諦めたように肩を下ろした。
◇◆◇
「ちーとせちゃん、あーそびーましょー」
言うやいなや、ジャキリと首元に当てられた刀。光り輝く刃を真近にしながらも、霞はヘラヘラした態度のまま言った。「もう、こんな危ないもの人に向けたらダメじゃん」
「死んじゃったらどうするのさ」
「安心しろ、骨くらいは拾ってやる」
「わぁ、それは安心だ」
冗談なのか本気なのか、千歳の目を覗き込んでもその真意は分からない。夜の海の色に似たその目は、どこまでも透き通っている。マジマジと見つめていたからか、千歳は眉をひそめた。
「……こっちを見るな」
「いや、千歳の瞳は綺麗だなぁって」
「殺す」
「照れないでよ」
やがて、相手にするのも面倒だと言わんばかりに千歳は舌を鳴らし、深い緑の羽織りをひるがえして、歩いていく。
その後ろを勝手に霞は着いて行きながら、やはり勝手に喋り出した。
「坊ちゃんを連れ戻すのに失敗しちゃった。意外としぶといんだね。前は千歳のこと無能呼ばわりしてごめんね」
「別に」
素っ気ない返事をしても、霞はお構いなしだ。
「どうしてあんなに執着するんだろうね、僕にはサッパリ分からないなぁ」
そこで霞は急に立ち止まった千歳にぶつかった。わッ、ごめんね、という言葉を無視して千歳は振り向いた。
「……分からないのか?」
「え、うん。なに? 千歳は分かるの? 何々? 教えてよ」
羽織り姿の女は呆れたような視線と溜め息を残して、また歩き出した。やはりその後ろを着いていく男が一名。
千歳は淡々と、振り向かずに言葉を紡ぐ。
「好きなんだろう、あの子のことが」
霞はしばらくの間ポカンとしていたが、やがて「へぇー、そっかぁ」と意地の悪い笑みを浮かべた。
「坊ちゃんに好きな子かぁ…………まぁ、あの子じゃなかったら、もっと嬉しかったけど」
最後の言葉は冷たいものだった。千歳は何も言わずに足だけを進め続けた。
ふと霞が聞く。「てかさぁ」
「なんで分かったの千歳。なに? 女の勘ってやつ?」
「……好きに想像しろ」
「分かった、じゃあ好きに想像するね。ところで千歳」
「さっきから質問攻めだな」
「俺も好きな子いるんだけど」
ゆっくり振り向いた千歳の表情は「またその話か」と嫌悪感全開で語っていた。それを気にもとめない霞はニコニコする。
「その子ね、今俺の目の前で嫌そーうな顔してる。でもそこが可愛い」
「次に似たようなことを言ってみろ、その口を縫う」
千歳は近くにあった部屋へ入ると、扉を思いっきり閉めた。ばいばーい、と手を振ったのち霞はニヤリとした笑みを口元にたたえる。
姿が見えなくなる直前、微かに千歳の耳は赤かった。
「照れちゃって、かーわいー」
◇◆◇
いってきます、と家を出てからふと凪沙は気づいた。普段はあまり目を向けない、家の郵便ポストから手紙がはみ出ていたのだ。
もしかしたら風で飛ばされてしまうかもしれない。そんな不安もあって、凪沙は手紙を手に取ったのだが、差出人の名前を見て目を丸くした。
家を出ていって以来、音信不通だったのに。なんで、どうしてーー?
ナギへ
由井沙助より
他ならぬ、凪沙の兄からの手紙だった。
手紙の内容を要約するとこうだ。志木高の教員に世話になった先輩がいて、その人から凪沙が文芸部に入部したのを聞いたらしい。なので、その部活の仲間を連れて夏休みに職場に遊びに来いーー。
そしてその職場というのが、
「ログハウス?」
凪沙の話を聞いた文芸部一同が声を揃えて言った。凪沙は「はぁ……まぁ」と曖昧に頷きながら呟く。
「あくまで管理人らしいんですけど、学生の団体が来るときはいろいろやってるみたいで……その、キャンプファイヤーとか」
「キャンプファイヤー!」
茜と真城の嬉しそうな声にびっくりする。そのまま二人でキャーキャー騒ぎ出すのをよそに、凪沙は理久と悠介を見た。「どうですか」
「兄貴が一方的に送ってきて申し訳ないですが、判断は先輩方に任せます」
「ログハウスかー……楽しそうだなぁ」
「行くなら戸塚先生も来るんだろ」
「え? ……あ、そっか。顧問だもんね、忘れてた」
「お前なぁ……」
理久と悠介があれやこれやと話し合っているなか、神楽がポツリと言葉をこぼす。
「……皆で、合宿」
その単語に一瞬場が静まり返り、理久と悠介は顔を見合わせたあと少し笑った。凪沙の持っていた、手紙と同封のログハウスについてのチラシを手に取る。
一通り眺めたのち、理久が口を開く。
「ーー行くか、合宿」
部員たちの威勢の良い返事が部室に響き渡る。
夏は、もうすぐそこまで来ていた。




