39話 叫んだ声、伸ばした手
理久が学校から飛び出していったあと、茜はひとり帰路を歩いていた。
自分のことを誰かに話したくなったのは、理久が初めてだ。さっきまでの会話を思い出しながらそう感じた。ましてや、母親のことなんてーーなるべく思い出さないようにしているのに。
それすらも言いたくなってしまう、ということは、それだけ自分が理久に寄りかかりたい証拠ともいえる。
茜はかぶりを振って、その考えを打ち消した。ダメだ、そんなんじゃ。
自分が理久に寄りかかるのではなく、彼女のすべてを守ることこそが、俺の役目なのだから。
「……しっかりしろ」
絶対に理久をーー死なせてはいけない。
「随分と満喫しているようですね、坊ちゃん」
背後で囁いた冷えた声。それは一瞬で全身に回り、心臓を冷たい手で掴まれたような感覚がした。
聞き覚えのある声にゆっくりと振り向く。漆黒の髪と銀髪を風で揺らすスーツ姿の男がいた。
霞はニッコリ笑うと、ごく自然に言った。「お久しぶりです、坊ちゃん」
「楽しい学校生活を送っているようで、何よりです」
「帰れ、俺の意見は変わらない」
間髪入れずに返した茜を、霞は目を細めて睨みつけた。その眼つきに茜は若干たじろぐが、グッと堪える。
「どうせ俺を連れ戻しに来たんだろ。……父さんの命令なら何でも聞くんだな、霞も千歳も」
「命を助けられた身ですから、当たり前です」
さぁ坊ちゃん、と霞は手を差し伸べた。
「僕と一緒に帰りましょう。今なら旦那様も許してくださるーー坊ちゃんの犯した罪を」
「俺は何もしていない!!」
茜が叫んだ瞬間、とてつもない強風がその体を吹き飛ばした。背中から塀に打ちつけられ、鈍い痛みが全身を駆け抜ける。
咽せながら呼吸を整えていると、いつの間にか霞が眼前に立っていた。その双眸は妖しげな光を放っている。
「……認めてください、坊ちゃんは大きな罪を犯しました」
霞が右手を茜に向けると、茜は見えない何かに圧迫されている感覚を覚えた。思わず呻いた。うまく息ができない、苦しい。
手が下ろされる。フッとさっきまでの圧迫感は消え、ゲホゲホと咽せたのち、荒い呼吸を何度も繰り返した。
霞がそばにしゃがみ込んで、囁く。
「本来ならば死罪にも値するんですよ? ーー死ぬはずの過去の人間を助ける、なんて愚かな行為は」
荒い息遣いをしつつ、茜は霞を睨みつけた。それに対して、まったく怯んだ様子のないその男は、まるで歌うように語る。
「坊ちゃんがどうしても帰らない、と言うなら……そうですね。僕があの子を殺してしまっても構いませんよね?」
殺す、という言葉に茜の目が見開かれる。やめろ、とか細い声で反論するも、霞はわざと聞く耳を持たないふりをする。
「だってそうでしょう? あの子はーー琴平理久は春に、車に轢かれて死ぬはずだったんです。分かりますよね? 入学式に向かったあの日のことです」
あぁ覚えている。まるで昨日のことのように。
新しい制服を着てルンルンと歩く少女、そのそばを偶然通りかかった自分、僅かの時間二人がすれ違うーー茜が振り返ったとき、少女の真横に、手を伸ばせば届く距離に迫るトラック、見逃せなかった、黙って見ることなどできなかった、気がついたら自分は少女の手をーー。
その瞬間、世界の時計はいとも簡単に狂った。
茜の目に薄っすらと涙が浮かんだ。折れそうになる心を必死で守る。負けるな、理久を助けるって決めたじゃないか。たとえ何が起きようとも、この身が朽ち果てようとも。
「…………た……の、む」
たとえーー父親の前で首を切られることになったとしても。
俺は、俺が正しいと思うことを貫き通す。
「頼む……から、殺すな」
茜の言葉に霞はニッコリした。
「では一緒に帰っていただけますか?」
しかし、茜は首を横に振った。霞の目が今度こそ、氷のごとく凍てついたものへと変わった。
茜は震える声で言う。
「……俺は、理久の人生を狂わせた。だから、その責任をとりたい……せめて、理久が卒業するまで、待ってくれ」
そうしたら絶対に帰るから、と最後に付け足す。顔を俯かせて判決を待っていると「……分かりました」という呆れた声が聞こえた。
茜は礼も言わずに塀へ寄りかかったまま、霞の言葉に耳を傾ける。
「その代わりーーどうなっても知りませんよ」
それを最後に霞の姿は消えた。
◇◆◇
紗也の名前を受付で言うと、すぐに案内してくれた。病室が移されたようで、廊下から病室の中が見える窓のそばに慎吾がいた。若干であるけれど目が赤い。
窓の向こうには、たくさんの機器に囲まれて、真っ白なベッドに横たわる紗也。久しぶりのその姿はしばらく見ないうちに、やつれてしまったように感じた。
食い入るように病室の中を眺める理久の隣で慎吾は言った。
「……とりあえず今は大丈夫だけど、どうなるか分からないって」
そう言うと慎吾は病室の扉を開けた。ギョッとした理久に苦笑して「入っても平気だよ」と教える。
恐る恐る足を踏み入れた矢先、慎吾は見計らったように言った。
「俺、何か飲み物買ってくるよ。りっちゃん、中で待ってて」
理久が何か言うより前に、さっさと病室から離れていってしまった。その背中が人の雑踏に紛れて見えなくなったあと、理久は意を決して病室へ入り込んだ。
薬品と病院独特の匂いが鼻を突く。紗也のそばに行き、顔を覗き込む。静かに寝息を立てていて、ホッとした。
「……紗也」
あぁいつぶりだろう。この名前を呼ぶのは。
ジワリと目の奥が熱くなる。懐かしさと嬉しさに浸っていると、眠っているはずの紗也の瞼が少し動いたような気がした。まさか、と思う。
「……紗也? 聞こえてるの?」
半信半疑で問いかけてみる。
返ってきたものはーー微かにピクリと動いた紗也の指先だった。
意識がーー戻りそう?
僅かばかりの希望を胸に、紗也の手を握ると理久は言葉を紡いだ。口元に微笑をたたえる。
「紗也、いつまで寝てんの。早く起きなよ」
ほんの少し苦笑混じりの口調。
まるで一番仲が良かったころに戻れたような気がした。
三人の中では飛び抜けて、寝坊が多い紗也を叱っていたのはいつも理久だった。
「慎吾も待ってるよ。起きて、三人で出かけよう。紗也が行きたいところに連れていくから」
昔は三人でどこまでも探検に出かけた。山に、川に、近所にあった幽霊屋敷にも行ったっけ。なんてことない公園も、三人で遊べばそこには楽しい冒険が待っていた。
目の奥に溜まっていた熱いものが溢れ出てくる。ポタリとシーツに落ちた涙。「……ッ大丈夫だよ」
「紗也、ひとりじゃないよ。ごめんね、寂しかったね、でももう大丈夫だから」
ずっと一緒だから、と呟く。シンと静かな病室にゆっくり響いた。
頬を伝う涙を拭うため、握っている手を一旦離そうとしたーーーー刹那。
紗也の手が、小さな力で理久の手を握り返してきた。
驚いて目を見張る。さっきまで眠っていたはずの彼へ視線を向けると、閉じていた瞳がゆっくりと開き、少しボーッとしたのち理久を見て言ったのだ。
「…………理久……?」
◇◆◇
真っ暗闇の中、ひとりで涙をボロボロこぼしていたら、ふいに声が聞こえた。慎吾のものではない、女の子の声。
ーー……紗也
あぁ久しぶりだ。あの子から、理久から名前を呼んでもらうのは。
嬉しさとは裏腹に思い出すのは最後に会ったあの光景。
君を手を、振り払ってしまった日。
ごめんね、ごめんねりっちゃん。傷ついたよね。
きっともう、許してくれないよね。
それでも、暗闇に響く声は昔とちっとも変わっていなかった。
ーー紗也、いつまで寝てんの。早く起きなよ
ーー起きて、三人で出かけよう
三人で、という言葉に気持ちが高揚した。また昔みたいにどこまででも行きたい。三人でなら、どこへだって行ける気がするよ。
でも、でもでも、俺は君を傷つけて、
ーー紗也
ーーひとりじゃないよ
その言葉が手を差し伸べてくる。
暗闇の中で光り輝く、俺の道しるべ。
一度は振り払ってしまったその手を、また伸ばしてくれる。優しくて、本当は誰よりも泣き虫だった君。
闇に溶けていたはずの自分の体が光で浮き上がる。腕を伸ばすとその手には難なく届いた。
あぁこんなにも、君は近くにいたんだね。
光に吸い込まれる。開けるんだ、その目を。大丈夫、広がる景色が暗くなってもきっと次は乗り越えられる。
大好きな仲間と一緒なら、何だってできるから。




