37話 想い、それぞれの
中学に入ってから、紗也と慎吾は陸上部に入部した。理久はどこの部にも属さず、図書室に入り浸る生活を送っていたが、ある日の休み時間ふと紗也が言った。
「理久、本書いてみたら?」
「……は?」
あまりにも突然すぎて最初こそ戸惑ったものの、しばらく経つと興味が湧いてきた。今まで読んできたものを、眺めてきた世界を自分が創り上げるーー想像しただけでもワクワクした。
そうして小説を書くことを始め、次第にその行為は高校受験の鍵にまでなった。
「私、志木高校に行こうと思うんだけど」
珍しく全部活動が休みの帰り道、隣にいた二人にそう投げかけたところ、慎吾は驚きに目を見張り、紗也は高校の名前すら知らないのか「おぉー、りっちゃんもう志望校決めたの?」と、目をキラキラさせていた。
当たり前かもしれない。そのときは、まだ中学二年生になったばかりだったのだから。いくら進路が関わる時期とはいえ、少々速い。
「志木って……なんでそんな遠いとこ選んだんだよ」
慎吾の疑問に待ってましたとばかりに理久は言った。
「このあたりで一番強い文芸部がある学校なんだ! 確かに場所は遠いけど部活入るならやっぱり強いところがいいだろ? それに文芸部がある学校ってあんまりないんだ。事実、東台はないからどうしても遠くなって……まぁでも電車で通学するのもきっと楽しいよ!」
他にもね、面白そうな授業がいろいろあってね、と勝手に志木高校のことをベラベラ喋る理久を横に、慎吾はほぼ諦めたような目をして呟いた。
「ダメだこりゃ……完璧に志木しか見えてないッつーか。りっちゃんのああいうところ、紗也にそっくり…………紗也?」
さっきから無言の紗也に目を向ける。紗也は慎吾の声でハッとしたようだったが、
「……志木って、遠いのか?」
「え? あぁ、まぁ……電車でかなり行くだろうな」
「そうか」
それだけの会話を交わすと、またボーッと前を見ていた。
その少し寂しげな瞳と理久の楽しそうな表情を交互に眺めて、慎吾は改めて気がついた。
そうだ、いつまでも三人一緒でいられるわけがない。
どんな形であろうと、分かれ道は必ずやってくる。
◇◆◇
なんとなくではあるが志望校が決まり、あとは勉強を頑張るだけだな、と自分に言い聞かせていたら、いつの間にか二年の遠足が近づいてきていた。
同じクラスに紗也と慎吾がいるので、去年と似たようなメンバーで行きたいな、と思いながら、仲の良い女子とそのことを話していたら、ふと周りの視線が気になった。
教室を見渡す。あ、と思った。何人かの女子生徒がこちらを見ながら何やら小声で話していた。話し声はやがてクスクスとした笑い声になり、理久はハッとする。どうして今まで気づかなかったのだろう、女子は女子同士でグループを組むのだ。多感な年頃である中学生なら、そういうことは当たり前で、つまりそれは男子とは深い関わりを持たないことを意味する。
今まで何にしろ、紗也と慎吾の後ろをついて行った自分が、少し恥ずかしかった。
「理久」
呼ばれて横を向くと、紗也がいた。慎吾も一緒だ。
初めて心臓が嫌な感じに鳴ったのを感じた。
「遠足のグループさ、一緒に」
「ごめん」
そして、考えるより先に口が勝手に喋っていた。
さっきまで喋っていた女子の友達も、慎吾も、紗也も驚いた表情をしていて、理久は咄嗟に「しまった」と思った。
でも今さら、前言撤回なんてできない。いや、したくない。
「あ……えっと、今回は女子の友達と組もうと思って」
しばらくなのか、少しの間なのか、時間の感覚が狂うほどの静寂が流れた。気まずくなって、理久が俯くと紗也が普段と変わらない口調で返してきた。「そっか」
「うん、分かった。慎吾、行こーぜ」
「あ……あぁ」
またね、理久、と笑顔でそう言ってくれた紗也にホッとする。良かった、これで良かったんだ。
慎吾だけはチラリと振り向いたが、やがて男子のグループの方へと行ってしまった。
小さな声で女の子の友達が理久に呟いた。
「理久ちゃん、急にどうしたの?」
「あ……ごめんね」
「ううん、別に大丈夫だけど……ちょっとびっくりしちゃった。いつも三人一緒だったのに」
三人一緒という言葉が胸を締め付けた。やっぱり、そういう風に見られていたんだな。
取り繕うように理久は言葉を紡ぐ。
「たまにはいいかなって思ったの。それだけ」
「そっか。まぁ、女子同士の方が気楽だもんね」
じゃあ他の友達誘ってくるね、と去る背中を見送ってから、考えた。
女子同士より、三人でいた方がずっと気楽なのに……そこまで思い始めて、慌てて消した。ダメだ、しっかりしろ。これを機に、紗也と慎吾からちょっと離れるんだ。えっと、自立みたいな感じで、うん。大丈夫。
何度も自分に言い聞かせる。
いつまでも三人一緒でいられるわけないんだから。
◇◆◇
『えっと、今回は女子の友達と組もうと思って』
理久がそう言った瞬間、紗也の表情が強張ったことに気づいたのは恐らく自分だけだろう。男子グループの中心で、くだらない話に笑う紗也を眺めながら慎吾は思った。
理久があんなことを提案したのは初めてで、慎吾だってもちろん驚いたが、きっとそれ以上に紗也はショックを受けたはずだ。だって、去年も同じだったし、今年も一緒のグループになれるものと思い込んでいたから。
そして何よりも、紗也は、
「好きなんだろ、りっちゃんのこと」
「ぶほッ!!」
「バッ、バカ野郎! 汚い!!」
部活が終わり、蛇口から湧き出る水をガブガブ飲んでいた紗也は、慎吾の言葉に顔を上げると「き、急になッ、ななな何言ってんだ慎吾!!」と、明らかに動揺しまくりの心情を露わにした。分かりやすい。ここまで分かりやすいと逆につまらない。思わず溜め息を吐いてしまう。
「な、何だよ。言いたいことあるなら言えよ」
「…………」
若干顔が赤くなりつつも、挑戦的な口調の紗也。
溜め息だけでは飽き足らず、慎吾はまだ明るい空を仰ぎながら「はぁー? ふざけんなよー」と呆れた。
「もうさぁ、逆に聞くけどあれで隠してるつもりだったのお前? んなことないよな、あんだけりっちゃんのこと目で追って、大会のときなんか観客席めっちゃガン見して探すし、今日だってあの一緒にいた女子に思いっきり嫉妬してましたよねぇ?」
「あぁァァぁぁぁぁッ!? 分かった分かった分かったからぁぁぁ!! もうやめろ!!」
耳を塞ぎながらうずくまる。なんだ、面白い反応するじゃねぇか。慎吾はニヤニヤしながら隣に腰掛けた。
グラウンドの端にある木の下、紗也のお気に入りの場所。
「もう一度聞きます。りっちゃんのこと好きだよな?」
「………………別に」
「ヘタレかこの大バカ野郎!!」
一喝するが反応はない。俯いたまま足元の砂をいじっている、小学生か。
小さく溜め息をまた吐いて、少し黙った。もうほとんどの部活は解散したようで、学校もグラウンドも静かだ。
きっとりっちゃんも、もう家に帰って小説を書いているだろう。
「紗也、りっちゃんかなりの読書バカだよ」
「……知ってる」
だって、小説を書くように勧めたのは紗也だもんな。
「真っ直ぐな性格だから、きっと、あのまま志木高校目指すよ」
「……そうだな」
だって、その真っ直ぐさに俺たちも救われてきたもんな。
「でもそれだと、りっちゃん、紗也の気持ちに気づかないよ」
だから、余計に悔しい。
報われない親友の顔が真っ直ぐにグラウンドの向こう側を見据えていた。
小さな声で慎吾は投げかける。
「……手伝ってやろうか」
「いや、いらん」
「ーーは?」
あまりにも即答すぎて、慎吾はポカンとしてしまった。「……いや、いやいやいや」
「俺の話聞いてた?」
「聞いてた」
「じゃあなんで? りっちゃんに恋愛のいろは教えるとか、ホットコーヒーの中で角砂糖のタワー作るより難しいぜ?」
「変な例えだけど妙に納得できるな、それ」
苦笑する紗也はやっぱり前を向きながら言った。その瞳は、大会で一番になったときよりもキラキラ輝いていて、慎吾はこう思わずにはいられなかった。
あぁ、コイツ本当に、りっちゃんが好きなんだな。
「……頑張って、いつか振り向かせるつもりだから」
耳まで真っ赤にして紗也は「それに」と続けた。
「慎吾が手伝ってきたら、その……」
「……理久が俺に惚れるかもしれない?」
「人の心読んでんじゃねぇよッ!」
あ、図星なんだ。悔しいのか、そっぽを向いて勝手に帰り支度を始める。
紗也の面白い発想について考えてみる。りっちゃんが俺に惚れるのかーーいや、ないな。想像は呆気なく崩れた。なんとなく想像しにくい。
それに、負けず嫌いの紗也を怒らせたら怖そうだ。
ニヤニヤ笑っていると「気色悪いな……」という若干引き気味の声が聞こえて、さらに笑ってしまう。
いつの間にか、こんなに大きくなっていたんだなぁと改めて実感する。
「さっきはヘタレなんて言って悪かったな」
「何なんだよさっきから……」
頑張れよ、紗也。
◇◆◇
家に帰ってから直行で風呂場へ。部活で汗をかいた後は長風呂で疲れを癒すのが自分には一番効果的らしい。
湯船に浸かり、ホゥっと息を吐くと、今日の慎吾の言葉が自動的に脳内再生された。
『好きなんだろ、りっちゃんのこと』
ブワッと全身が熱くなった。
ヤバイ、ヤバイヤバイヤバイーー!!
いつから気づかれてたんだ!? つーか慎吾エスパーかよ! なんでも人のことお見通しで……慎吾の彼女は浮気できないな、可哀想に。いやそうじゃなくて!!
パニック中の脳内を整理する。俺、慎吾と何話してたんだっけ……。そうだ、確か手伝ってやるって言われたから、俺は断って、
『……頑張って、いつか振り向かせるつもりだから』
勢いで言ってしまったもののどうすれば……と紗也はそこまで考えて止まる。ん? 待てよ、振り向かせるってことはつまり、
「…………告白」
たった四文字の言葉が風呂場に響いて、紗也の脳を秒単位で侵食し、そして。
「…………でッ、できるわけねぇだろうが俺の大バカ野郎ぉぉぉー!!」
真っ赤な顔を誤魔化すかのように、湯船の湯をわざと壁にかけた。バッシャーン! という激しい音で、扉の向こうから「ちょっと何やってるのー、やめなさい!」という母親の声が聞こえ、頭の中の慎吾が「やっぱヘタレだな」と困ったように言う。うるせー、ヘタレで悪かったな。
お湯の温度と上がり続ける体温がめちゃくちゃに混ざり合って、もう熱いどころの話ではなく、結局これっぽっちも部活の疲れをとることなどできなかった。




