35話 猫、卒業する
人間なんて単純な生き物だ。
それは自分がこの世に生を受けて以来、十五年間生きてきたなかで学んだひとつの持論だ。
勉強と運動を満遍なくできるようになれば、大人が喜ぶ。
優しいフリをしていれば、女子が喜ぶ。
面白い話をすれば、男子が喜ぶ。
たったそれだけのことをすれば、世界は驚くほど自分に傾いてくれた。ただそれを、いかに器用にやりこなせるかどうかで、成功する人間と失敗する人間が現れるのも事実だが。
そんなこんなで、今日までの人生を、そしてこれからもその人生を謳歌するつもりの自分ーー少年、由井凪沙は今年。
晴れて、志木高校一年生になった。
◇◆◇
「ねぇねぇ君! ちょっと待ってー!」
凪沙が背後を振り向くと、帰路か仮入部の部活に向かう人混みの中から、ポニーテールの女子が現れた。どうやら自分のことを呼んでいるようで、人混みを逆流しようと必死になりつつ「そこの黒髪サラッサラの少年! 怪しげな顔であたしを見ている君!」と、しきりに叫んでいた。ちょっと変わった子みたいだ。
だいたいの生徒がどこかしらへ消え、廊下が広くなったころ、女子生徒は凪沙の目の前に来るやいなや、息を切らせながら言った。
「ごめんね、叫んだりして。名前が分かんなくて、つい……でもそっちの第二図書室に行きそうだったから、もしかして文芸……って、あぁッ!」
突然、女子生徒は凪沙を見て口をパクパクさせる。訝しむ凪沙だがふいに、この女子生徒の顔をどこかで見たことがあるような気がした。そう、確か今日のーー。
「……入学式の前に」
「え!? 覚えてるの! すごいね……!」
そうだ、新入生用のパンフレットを拾ってくれたあの子だ。
キラキラした眼差しを向けられ、凪沙は内心ニヤリと笑ったが、表情には柔らかい微笑みを貼り付けた。
「さっきはありがとう」
「どういたしまして!」
「それよりどうして俺のこと呼んでたの?」
「あ、そうそう。君が文芸部の部室に行きそうな感じだったから一緒にと思って……」
なぜ行き先が分かったのだろう。エスパーか何かか。
それでも凪沙は優しく返した。
「君も文芸部に?」
「うん! あたし、小峰真城。三組!」
「五組の由井凪沙です、よろしく」
よろしくね! と笑った真城を連れて、二人は第二図書室へと歩き出した。
このときまで、凪沙はこの真城と名乗る女子生徒とうまくやっていけると思っていた。少なくとも、今まで相手にしてきた女子と同じように。
しかしそれが間違いであることに気がついたのは、階段を上がり、角を曲がればすぐそこに部室がーーというところで、ふいに真城が口を開いたあとだった。
「ところで由井くん、つかぬことをお伺いするけど」
「ん?」
「由井くん、あんまり人生楽しくなさそうだね」
人生っていうか、青春? と付け足した声は凪沙の耳にほとんど届いていない。それほどまでに衝撃を受けていた。
ーーこの俺が、楽しくなさそう?
何気なく、そして何の悪そびれた様子もなく言った真城に詳しく問いただそうとしたそのとき、
「入部希望か?」
紫色のピンをつけた男子生徒と、リボンをモチーフにしたカチューシャの女子生徒が、目の前に立ちはだかった。
◇◆◇
ボーッと窓の外を眺める。青い空がどこまでも澄み渡っていて、このまま見続けていたら、瞳の奥の奥まで水色に染まるような気がした。
いっそ、そうなってしまった方が良いのかもしれない、と理久は思った。瞳の奥から脳へ、脳から体全体へ、あわよくばそのまま青空に溶けることができたのなら。
こんな風に、昔の光景に囚われることなんてなかったかもしれない。
「理久?」
茜の声で現実に戻される。ゆっくりと横を向くと、困った顔の茜と目が合った。自分の目の浸る色が、水色から揺らめくような赤に変わったのが何となく分かった。
不思議なもので、意識していないのに口が動いた。
「……昨日は、先に帰ってごめん」
最初は何のことか分かっていない様子の茜も、ちょっと考えたあとに気づいたらしい。「あぁ、昨日ね」
「別に良いよ、気にしないで。俺の方こそ、待たせちゃってごめんね。いやぁ昨日は大変だったんだよ。なにせ、校門に途中で校長先生にぶつかって、そのままズラがねーー」
話の途中なのに脳裏は勝手に昨日の光景を映し出す。
川幡、背が伸びてたな。体つきもしっかりしてた。あれは女子にモテるだろうな。陸上部、高校でも続けてるんだろうか。どこの高校に受かったんだっけ。なんで自分が志木に通ってるって知ってたんだ。
ーー紗也のお見舞い、ずっと行ってるみたいだった。
「たいしたことじゃないのに、なんか先生たちがいっぱい…………理久?」
いつから行ってるんだろう。入院してからずっと? だとしたら中三あたりからかな。まだ容態、良くなってないって聞いたけど本当かな。大丈夫かな。紗也、いつになったら目覚ますのかな。あんなことがあったあとじゃ、会いづらいな。どうしよう。でも紗也が、
もしも、このまま帰ってこなかったら?
「理久!!」
肩がビクリと跳ねたのが自分でも分かった。茜とまた目が合う。あぁ、今の自分はどんな顔してるんだろうって考え始めたら、ますます怖くなってきた。
思わず顔を俯かせると、耳元で優しい声が囁いた。
「……今日はもう、帰った方が良いよ」
震える唇を噛み締めて、小さく頷いた。茜が落ち着かせるように頭を撫でてくれて「疲れが溜まってるんだよ、また夜更かしして小説書いてるんでしょ」と、笑いながらたしなめてくる。
それが自分を元気づけるための言葉だと気づいて、理久は曖昧に微笑みながら部室を出た。
◇◆◇
「おぉーい、入部希望が二人も来て……琴平は?」
「帰らせたよ。具合悪そうだったから」
背後に哲郎と神楽、それに新入生と思わしき男女を引き連れた悠介に茜がそう告げると、副部長は困ったように溜め息を吐いた。
「まーた部長さんは俺たちに隠し事して……文化祭のときみたくなったらどうすんだ。だいたいアイツはいッつもそうだ。大事なことほど周りに隠そうとしやがって、まるでそれが悪いことみたいに自分で解釈する。それが自分を追い詰めると同時に周りにもいろいろ思わせてるって、いつになったら理解するようになるんだ。そもそも去年の文化祭だってなぁ!」
「要は悠介、理久のことが心配で仕方ないんだよね。うんうん、分かるよ。俺もすッごく心配」
「誰もそんなこと言ってねぇッ!」
「はいはい、ツンデレツンデレ」
「ちょ!! 人の話を」
「で、新入生は入部希望かな? いらっしゃい!」
「人の話を聞け!!」
悠介の肩を哲郎がポンと叩く。その目は「茜にそんなこと言っても無駄だ」と語っているような気がして、悠介は項垂れた。
「悠介、ツンデレなの?」という神楽の言葉に悠介はキッと睨み返すが、当の本人は悪戯っ子のようにクスリと笑い、茜と話し始めた。理久の影響だろうか、神楽は去年と比べて、男子との免疫がだいぶついたように見えた。
何気なく哲郎を見上げる。その瞳は真っ直ぐに神楽を見つめていた。どことなく微笑んでいるような、初めて見る哲郎の表情。
瞳の輝きといい、色や雰囲気といい、すべてにおいて茜が理久を眺めるときのものと一致している気がして、悠介はまさかと感づく。
しかし口を開くより先に、茜のはしゃいだ声が部室に響き渡った。
「え!? もう入部届けくれるの! うわぁ、嬉しいなぁ……部長も大喜びだね! あ、俺は出雲茜だよ。よろしくね!」
茜の視線がこちらを向く。……何だよ、と言いたかったが、恐らく自己紹介をしろと訴えているのだろう。気を取り直して、悠介は口を開いた。
「副部長の松野だ、よろしく」
「ちなみに面倒くさいツンデレだから」
「余計なこと言ってんじゃねぇぞおいコラ」
「やだー、悠くん怖ーい!」
「だからそのあだ名やめろって言ってんだろ!」
茜と悠介が言い合っている中、哲郎が「ごめんな、ちょっと賑やかなんだ」と一年生に告げた。
「二年の和多哲郎、よろしく。絵描いてる」
簡潔な自己紹介に一年生二人がクエスチョンマークを頭上に浮かべているので、神楽が慌てて付け足した。
「和多は文章じゃなくてイラストを描くんだ。あ、私は御崎神楽、よろしくね。ようこそ文芸部へーー」
「あの! あたしと結婚してください!」
その大声と内容に、騒がしかった部室は水を打ったように静まり返った。
どれくらいの時間をそうしていたか、誰も数えていた者はいないが、最初に口を開いたのは茜だった。
「……神楽が、プロポーズされた」
「いやなに冷静に言ってんだよ茜!」
「お願いします! 御崎先輩!!」
「お前も何言ってんだ!」
「お前じゃありません! 一年三組の小峰真城です! それで御崎先輩、お返事は!?」
「何も答えるな御崎! 小峰もいきなり何言って」
「ちょ、小峰さん。先輩たち困ってるよ!」
突如加勢してくれたもうひとりの新入部員ーー確か名前は由井凪沙と言っていたーーに悠介は目を向ける。
だが、その凪沙がふと無表情になった。哲郎のような無表情とは違う、何かもっと冷たいもの。
彼の目にはすべてのものが、つまらなく見えているような気がした。
「お願いします! あたし、部活動紹介のときに御崎先輩に一目惚れしたんです!」
真城の声で悠介はハッとした。まずはこっちの暴走を止めなければ。
「あの、健気にラジカセ持ちながら楽しそうに笑ってた御崎先輩! めっちゃ可愛かったです!」
頬を赤らめて困ったように視線を泳がせる神楽。その近くで茜が感心した唸り声を上げた。
「うーん……よく見てたな」
「感心してる場合か!!」
「いや、悠介。冷静に考えてみてごらん。いまどき、こんなに一途に己の愛を貫く子……なかなかいないよ?」
「だから何なんだよ!?」
畜生、こんなときに琴平がいてくれたらーーもういっそアイツを彼氏にでも仕立て上げた方が良いような……悠介が困り果てたそのとき、今まで何も言わなかった哲郎が動き出した。
神楽の肩を引き寄せるとそのまま自分に寄りかからせる。
一瞬の沈黙ののち、哲郎は静かに、だがハッキリと言った。
「……うちの娘は、やらん」
そのまた一瞬の沈黙ののち、真城はほぼ懇願するように叫んだ。
「……ならせめて、あたしのお姉ちゃんになってください! 御崎先輩!!」
神楽はちょっとポカンとしたあと、哲郎を少しだけ見上げて、やがてにこやかに返した。
「良いよ。あと私のことは神楽って呼んでほしい、な?」
「もちろんです! 神楽先輩!」
「わぁ、なんか丸く収まったね、哲郎パパのおかげで」
「とんだ茶番に付き合わされた……」
チラリとまるで嵐のような一年生を見る。真城は楽しそうに笑っていたが、もうひとりの凪沙は相変わらず無表情のままだった。
◇◆◇
「ごめんな、騒がしくて。うちはいつもこんな感じで部活やってるんだけど」
苦笑混じりに悠介が声をかけると、凪沙は人の良さそうな笑みを浮かべた。「いえ、大丈夫ですよ」と言う新入部員を見て、悠介は確信する。
「なんだ、猫被ってんのか。お前」
瞬間、凪沙の表情が凍りついた。
二人がいるソファから少し遠い机では、他のメンバーが楽しそうにお喋りに興じている。その喧騒を聞き流しながら、悠介は凪沙を真っ直ぐに見据えた。
やがて、新入部員が口を開いた。
「……そんなこと」
「ないなんて嘘つくなよ」
俺には分かる、と言われ思わず唇を噛みしめる。
どうして分かるのだろうか。今まで誰にも気づかれなかったのに。悠介にも、真城にも全部見透かされているようだ。
ふと思い出す。そういえば、兄貴にも自分の嘘はいつもバレていた。親は気づかないものを、兄貴だけは必ず見破った。
元々、勉強よりも自分の好きなことに熱中するタイプの兄は、厳しい両親からの小言や叱責に耐え切れず、ついに家を出た。その日からだ、凪沙が猫を被るようになったのは。
当然、兄が出て行ったなら両親の期待は凪沙にかかる訳で、それを上手に受け止めるために始めたのだ。
しかし次第に、自分らしさを前に出すのが怖くなり、嘘をつかなくてもいいところでも猫を被るようになり、最近では完全に自分という存在を忘れかけていた。
もしも、他人が望む良い子ではなく自分らしくなれたら、どんなに良いことだろうと夢みたりもする。でも考えてしまうのだ、兄のようにその自分らしさを貫き通せる自信がない。否定されたりしたら嫌だ。
自分を晒すのが、怖くて仕方ない。
「……俺も、周りが怖かった。今だって怖い」
ふと悠介が呟く。脳裏に浮かぶのは、去年の春に文芸部の皆に出会えたこと、コンクールでかつての友人と再会したこと、夕暮れの道を部員皆で歩いたこと、全部今の悠介を創り上げた大切な思い出。
「だけど、いろんな人が教えてくれた。自分にだけは嘘ついたらダメだって。だから俺は俺でいようって思えた」
いつか、君が目を開けたとき、
「少しずつでいい、焦るな」
その目に映る景色が、今よりも色鮮やかで輝いて見えるようになれたなら、
「自分を、好きになってほしい」
それはきっと、君が自分を取り戻した証になる。
しばらく無言の状態が続き、初対面なのに言い過ぎたか、と悠介が後悔し始めたころ、凪沙が小さな声で問いた。
「……どうして、分かったんですか」
俺が猫被ってるって、という凪沙の目にはさっきまでの冷たさが宿っておらず、悠介は少しびっくりしたあと言った。
「先輩を欺こうなんざ、百年早いぜ。凪沙」
ニヤリと笑った悠介に、凪沙も少しだけ笑顔を見せた。それがもう、貼り付けた笑みではないことに悠介は気づいた。




