34話 約束、守れなかった
「それではこれから、文芸部クイズ大会を行いたいと思います!」
体育館に入ってくるやいなや、理久からマイクを引っ掴み、いきなりそんなことを宣言されたら、誰だって口を開けるだろう。事実、ステージに立つ部員全員がそうなのだから、理久は一年生や在校生、はたまた教師たちの表情を直視するのが怖かった。
少し前に「俺に任せてよ!」という、今まで散々問題を部内に持ち込んできた少年の一言だけを信用してしまった自分は馬鹿なのだろうか。
「解答者は我が部の部長、琴平さんとーーあ、こっちの黒い髪の女の子ねーー副部長の松野くんです」
慌てた様子で近づいてきた悠介をもろともせず、それどころか丁寧に手で紹介してみせた。茜は続ける。
「二人には本に関するクイズに答えてもらいます。さぁ一年生諸君! どっちが勝つと予想するかな!?」
「ちょ、茜待っ」
「こっちの部長さんだと思う人! 手上げて!!」
唐突に始まったことに戸惑いを隠せないざわめきが起こる。やがてそれも収まり、次第にパラパラと手が上がり始める。
「じゃあ副部長くんだと思う人ー!」
再度、おずおずと挙手が出た。しかしその数は理久のときより圧倒的に少なかった。
悠介の方が頭良さそうに見えるのに、と理久は思ったがすぐに理解する。そうか、自分が部長だからだ。
チラリと悠介を見る。予想はしていたがかなりしかめっ面をしていた。この挙手の差を頭では分かっているつもりらしいが、腑に落ちないのが顔に出ている。
ふと、視線に気づいた本人と目が合う。少しだけニヤリ笑うと、悠介の口元がヒクリと歪んだ。怒りのオーラが全開になる、怖い。
「さぁ一体どちらが勝つのでしょうか! 問題は三問ありますので、一年生諸君も一緒に考えてみよう! それじゃあ第一問目!!」
ジャジャンッ! というクイズ番組さながらの音楽が聞こえたので振り向くと、ワクワクした表情の神楽がラジカセを持っていた。
楽しそうだなおい、そうツッコミたかったが意を決して、哲郎から渡された新しいマイクを握りしめる。
「今や女子中高生に大人気の恋愛小説家、逢沢あいく! 知っている方も多いかと思いますが、そんな彼女のデビュー作『夢川センパイの恋愛ロジック』でお馴染み、夢川先輩の名台詞といえば!?」
名前を聞いて何人かの女生徒が嬉しそうな顔をする。あれ、なんか良い感じに始まってる? ホッと安心したのも束の間、右隣から「ピンポーン」と棒読みな声が響いた。悠介だ。
「お、副部長早かったですね。それではどうぞ!」
少し間をとったのち、悠介は小さく息を吸うと、
「ーーなぁ、俺だけに振り向けよ」
マイクからスピーカーを通じて放たれた低音ボイス。一瞬だけ静寂を保った空間は、次に瞬きしたあとには黄色い歓声やら拍手やらでいっぱいになっていた。
一年生だけでなく在校生からは指笛までいただいた。
本人はといえば、得意気な顔で理久を見たかと思ったら「ちょっと遅かったんじゃないの? 部長さん」なんて小声で言うものだから、理久は笑顔を引きつらせた。悠介はさっきの挙手の件を根に持っているのだろう。大人げないやつめ。
なんにせよ、問題は三問しかないので次に解答しなければ負け確定になってしまう。
ーー大丈夫、次はいける。落ち着け、落ち着け
「第二問!」
しかし、そんな理久の集中力は茜の言葉でブツリと途切れる。
「『諦めるな、まだ目の前には真っ直ぐなゴールテープと仲間たちの声がある』そんな主人公の台詞が印象的な、佐山恵二さん原作の青春陸上部ストーリーのタイトルはーー」
その台詞には、聞き覚えがあった。
あぁそうだ、これはあの子が大好きだった本にあった台詞。
茜の声が、体育館のざわめきが遠くなる。嫌な鼓動を繰り返す心臓が気持ち悪くてたまらない。ドクリ、ドクリと鳴り響く音でゆっくり顔を前に向ける。記憶が脳内を、目の前をチラつく。
眼前にあるのは真っ直ぐなゴールテープなんじゃない。もう何年も見てきた少年の後ろ姿。いつも自分の隣にいたはずあの子は、いつの間にあんなに遠くに行ってしまったのだろう。
違う、あの子がーー彼が遠くに行ったのではない。
私が、遠ざけた。
『どうして?』
振り向かずに声だけが投げかけられる。明るい茶髪が少しうなだれる。
『ずっと一緒って、約束したのに』
「『輝きのレーン』」
悠介の声と耳を突き抜けた拍手でハッとした。
未だに小刻みな動きをする心臓を無理矢理落ち着かせようとして、少し下を向く。すぐに隣から「琴平? どうした」と不審そうな悠介の言葉。
首を横に振る。大丈夫だから。声に出したいのに、なぜか喉に詰まる。
相変わらずの拍手と茜がその場を切り上げるところからは、よく覚えていない。
◇◆◇
「理久、顔色悪い」
ふいに哲郎が顔を覗き込んできて驚いた。顔を上げると横には神楽もいて、不安そうな表情を露わにしていた。少しだけ口ごもったあと呟く。「あ、えっと……そうかな」
「ちょっと疲れたせいかも」
「大勢の前に立ったからか?」
「うん」
哲郎はまだ何か言いたげだったが、それ以上は追及してこなかった。そうか、とだけ返してから神楽とともに校門のそばを離れた。二人で画材やら備品を買いに行ってくるらしい。仲良く並んで歩く後ろ姿に微笑むが、すぐにその光景がさっき見たあの子と重なる。
唇を噛み締めてから、力づくで頭上の青空を仰ぐ。ちぎれたような綿雲がフワリフワリと空を泳いでいる。しばらく無理矢理、雲の動きに集中していたからか、背後に立つ人の気配に理久はまったく気づかなかった。
「あの、すみません」
ちょっと肩を叩かれてようやく我に返った。悠介かと思ったが今日は出版社に行くからと、とっくに帰っている。そもそも、話しかけ方が丁寧すぎる。
じゃあ茜がふざけているのかと考えたが、それも違った。
背後にいたのは、すらっとした男子高校生。ここらあたりでは見たことがない制服。少し長めの黒髪をチョコンとゴムで縛っている。なんかチャラいな、という理久の感想を知らずに、少年はまじまじと理久を眺めた。
……チャラいうえに不躾ときたか。悠介が苦手そうなタイプだな。
「……何か、用ですか」
「え!? あ、いや用というかその……」
なぜか少年は目線を泳がせながら「えー」とか「うー」とか何とか呟いていた。何なんだコイツ。
しかし意を決したのか、ふいに理久の目を見据える。
その表情は真剣であり、どこか恥ずかしそうだった。
「……俺です、シンくんです。覚えてないか? えっとーーりっちゃん」
シンくん? 首を傾げそうになったが「りっちゃん」と呼ばれてピンときた。
そのあだ名を知っているのは、あの子ともうひとりの、
「川幡!!」
理久が叫ぶと少年ーー川幡 慎吾は下を向いたかと思うと、膝に手をつき「よ……良かったあぁッ!!」と、理久に負けず劣らずの大声で叫んだ。
地面から上げた表情は安心感と嬉しそうな笑顔でいっぱいだった。
「もう琴平、めっちゃ怖い顔でこっち見んだもん!! 冷やっとしたわー!」
「そりゃお前……誰だって疑うだろ。そんなチャラい髪型してたら」
「あ、これ? かっこいいだろ、惚れた?」
「……いや、あの別に」
「目線外しながら言うなよ! 余計傷つく!」
お互いに目を合わせてから吹き出した。しばらく笑いあっていると中学のころに戻れたような気がした。それでも、そんな気がしただけで本当は心から戻れてはいない。
もうひとりの幼馴染みが、ここにはいない。
理久が笑うのをやめて口を閉ざすと、慎吾も何か悟ったのかふいに左側を見た。その先には少しだけだが、このあたりで一番大きい総合病院が見える。病院からは目を逸らさずに、慎吾はポツリと呟いた。
「……俺がここに来た理由、分かる?」
……なんとなく、理久は小さな声でそう返した。
「りっちゃん、紗也のお見舞い行った?」
慎吾が昔のあだ名で呼んでくれるのは純粋に嬉しかった。しかしそれ以上に、胸が苦しくなった。慎吾は昔みたいに戻れる。けれど、自分は戻れない。
微かに首を横に振った。
「俺、今から行く予定なんだ。もし良かったら、りっちゃんも一緒に」
「行かない」
即答した理久に、今度こそ慎吾は病院から目を逸らし、少しだけ眉をひそめた。
「……まだ、行かないのかよ」
語気が荒くなったような気がして、理久は後退りする。
「私は、いいよ。川幡、行ってあげて」
「なぁどうしたんだよ。急に二人とも変にギクシャクし始めて」
「ごめん、私急いでるから」
「理久!!」
背を向けた理久の手首を慎吾が掴む。急に名前で呼ばれたことにも驚いたのか、振りほどこうとしてもがくが、ビクともしない。
「ッ離せよ」
「嫌だ。何があったのか話してほしい」
「川幡には関係ないだろ!」
「関係ある!!」
その大声に体が震えた。嫌だ、今までこんな言い争いなんてしたことなかったのに。
俯いていると寂しさで満ちた声が降ってきた。
「……だって俺、理久と紗也の幼馴染みなのに」
その言葉を境に、慎吾は理久の手首を離した。
「また、会いにきたらダメか」と別れ際に慎吾は言った。その瞳が不安そうに揺らいでいたせいもあって、理久は曖昧に頷いた。
◇◆◇
大きなスライドドアを動かした先には、夕暮れ色にとっぷり浸かった病室があった。その中で、夕焼けが射すベッドに横たわる少年は目を閉ざしたまま、静かに呼吸を続けていた。
「元木紗也」と書かれた壁のネームプレートを一瞥したあと、慎吾は手近なイスを引き寄せて座る。
中学時代、一緒に陸上部をしていたときより、やつれた様子の紗也は決して健康的とは言えなかったが、それでもまだあのころの面影は残っているような気がして、慎吾は力無さげに微笑んだ。
「また来たぜ、紗也。ごめんな、次はりっちゃん連れてくるって約束したのに、ダメだった」
振られちったよ、と冗談めかしても返事はない。代わりに紗也の体から繋がれた管の先にある機械の、規則的な電子音だけが耳に響く。
「俺ばっかり来たってどうしようもねぇのにな。紗也だって男なんだし、好きな女に見舞いに来てほしいだろ?」
小さなころから一緒にいれば分かる。紗也はきっと、こうして眠り続けてしまうようになる前から、そして今でもーー理久のことが好きだ。
直接、紗也からうち開けられた訳ではないが、瞳を見た途端に確信した。紗也が理久を眺める目はキラキラしていて、常に恋い焦がれていた。
しかし、当の理久といえば恋愛ごとに興味なんてこれっぽっちもなくて、いつも小説のことばかり考えて、紗也はかなり苦労していたのを思い出す。
「俺、紗也のこと応援してやる。何だったらお前ら二人のこと、くっつけてやろうか? 慎吾様にかかればそれくらい朝飯前だからな」
そう言って笑かけたのち「だから」と続ける。
「だから、早く目覚ませよ。つまんねーんだよ、紗也がいないと。それに、りっちゃんとも仲直りしてほしいし」
骨張った紗也の手を握る。微かに暖かいが、窓から舞い込んでくるそよ風でその温もりさえも消えてしまいそうで、一層強く握った。
「……紗也、俺さ、また三人で、バカみてぇに笑いたいだけなんだ。それって、ワガママなのか?」
会いたくないと拒んだ理久の苦しそうな表情が。
最後の大会を最悪の結果で終わらせた紗也の背中が。
仲良く手を繋いで歩いた、幼い三人の笑顔が。
慎吾の頭に浮かんでは消えて、やがてそれは目の前を滲ませていく。
「なぁ、おい……返事、してくれよ」
ポタポタと音を立てて真っ白なシーツへ落ちる涙。
泣いたって何も変わりはしないのに、どうしても止めることができなかった。
◇◆◇
真っ暗な空間を漂っていると、ふいに誰かが名前を呼ぶ声がした。
あぁ、この声は慎吾だ。部活でよく聞いた、紛れもない親友の声。
でもどうしてだろう。いつもは元気いっぱいなのに、今のそれは悲しみでいっぱいだった。どうしたんだよ、お前らしくないじゃないか。
もしかして俺のせい? きっとそうだ、俺が頼りないから、弱いから。
いつの間にか俺は理久だけじゃなくて、慎吾も傷つけていたんだ。
最低だ、俺は最低だ。
ごめんな、慎吾。ごめん、ごめんなさい。
闇の中に涙がボロボロこぼれる。
それでも自分は、まだ目を開けられずにいる。




