32話 漂う、不穏な影
皆と別れて帰路を急いでいた茜は突然、背中に何か寒いものを感じる。不審に思い足を止まらせたーーその瞬間、とてつもない頭痛に襲われた。
「ッッッ!?」
驚きつつも歯を食いしばって痛みに耐えようとするが、あまりの衝撃に膝からガクンと崩れ落ちる。突然の出来事でうまく頭が回らない。心臓の動悸が激しい。息をすることさえ苦しい。どうすればいいか分からないまま考えるより先に身体が悲鳴を上げ、しばらくうずくまる。
徐々に痛みが引いた頃、呼吸を整えてからおぼつかない足取りで何とか立ち上がった。しかし前を向いた途端、今度は目の前に広がる景色を疑うことになる。
そこにあったのは、あまりにも静かすぎる世界。
風景が、止まっていた。
さながら絵のように、ピタリと動かなくなった周囲。そこではさっきまで走っていた車も、歩いていた人々も、聞こえていた音も、すべてがなかったことのようになっていた。
唖然とした表情を隠し切れない茜は立ち尽くすが、ふいに背後から風のようなものが背中を押した気がしてハッと振り向く。そこには誰もいないが、誰かが呼んでいることを悟り、猛スピードで駆け出した。
息を切らせて走っていると学校の近くにまで来たことを確認する。そこでまた背筋がゾクリとし、頬を撫でた風の吹いてきた方向へ視線を送った。
視線の先にあったのは、志木商店街だ。不審に思いながらも商店街に足を踏み入れる。
だが入ってすぐに茜は目を疑った。文芸部がよく寄り道する店、笑和屋の前で倒れた女子生徒を発見したからだ。遠くから見ても分かる、倒れているのは理久だ。そばにいるの犬は大吉だろうか。慌てて駆け寄るが、その近くでは静かに佇む女性がおり、茜が近づいた途端女性は顔を上げた。
誰一人として動いていない世界で、女性は無表情を浮かべる。
女性の姿は少し奇妙だった。普通にタートルネックとジーンズを着用しているにも関わらず、上に羽織りをまとっている。裾に白い花を散らばせた深い緑色の羽織り。それを前にした瞬間、茜の焦った表情が凍りついた。
それを知ってか知らずか、女性は倒れた理久を挟んで茜と向き合いそしてーー恭しく片膝をつく。
腰まで伸びている美しい黒髪が揺れた。
「ーーお久しぶりでございます、茜坊ちゃん」
女性にしては少し低めの声。同時にカシャン、と音がする。女性の手にあった日本刀が地面に置かれた音だった。
片膝をついたまま顔を伏せる女性を眼下に、茜はやっとの思いで開いた口から小さくこぼす。
「……どうして、ここにいるんだーー千歳」
茜に千歳と呼ばれた女性ーー日高千歳は依然として顔は伏せたまま、淡々と茜の質問に答えた。
「旦那様の命令で来ました。内容としては、坊ちゃんを連れ戻すこととそれからこの子を」
「理久に何をした!!」
茜の叫び声で千歳の言葉が遮られる。その語気の強さだけで分かった、茜は今酷く虫の居所が悪いようだ。
目の前で倒れたままの理久を一瞥したのち、千歳はやはり感情のない声で返答した。
「……少々手荒な真似はいたしましたが命に別状はありません、どうかご安心を」
「今時間を止めているのも、お前の仕業か」
「さようでございます」
これも旦那様の命令です、と続ける千歳。完全に頭に血が昇っている茜は勢いに任せて何か言おうとするが、倒れた理久を見てハッとし、自分を落ち着かせるように小さく息を吸った。
「……とりあえず顔を上げて、今すぐ理久から離れろ。話はそれからだ」
「しかし坊ちゃん」
「俺の命令が聞けないのか」
千歳はピクリと体を動かしたあと、ゆっくり顔を上げて理久から数歩離れた。刀を拾い腰に差して茜の目を見据える。
「坊ちゃん、ご自分のことは『僕』と仰るように、と昔から何度も注意しているはずなのですが」
「……ッ分かってるよ」
少しムッとしたように茜は言う。それに対して千歳は何も口は挟まず、ただ黙って茜を見つめていた。表情は読めないのに千歳はこちらの心の中を見透かしているような気がするから、茜は千歳が苦手だった。
幼い頃からずっと、ずっと苦手だった。
ときおり静寂が訪れながらも、二人は会話を続ける。
「改めて申し上げますが坊ちゃん、今すぐ私とともに帰りましょう」
「断る」
「……なぜですか?」
「俺には……僕には、ここでやらなければならないことが出来た。だから帰らないし、帰るつもりもない」
父さんにはそう伝えておけ、吐き捨てるように茜は言い終えるが、すぐに千歳は食ってかかる。
「その『やらなければならないこと』とは、この子に関係していることでしょうか」
「ッ!!」
千歳が腰の刀に手をかけた瞬間、茜は「やめろ!!」と叫ぶ。理久が、殺される。そう察知したのだ。
刹那、茜の片目が光を宿したように輝いたのを見逃さなかった千歳は刀から手を離し、初めて表情を変えた。驚いた顔で茜を見つめ返す。
「……坊ちゃん、目が……?」
そう言われ、茜は慌てて自分の右目を手で隠した。キッと千歳を睨むが時すでに遅し。さらに千歳は問い詰めてくる。
「まさか……坊ちゃん、能力が使えるようになったのですか?」
「ッ! か、関係ないだろ!!」
近づいてこようとした千歳を叫び声で牽制する。伸ばしかけた手を千歳は下ろすが、ますます神妙な面持ちで「……だったら尚更です」と呟いた。
「今ならまだ間に合います、さぁ坊ちゃん」
「嫌だッ!! 僕は絶対に帰らない!!」
片目を押さえたまま、茜は泣き叫ぶように言った。
「何がまだ間に合うんだ! もう全部手遅れじゃないか!? 僕は父さんのやり方が正しいなんて到底思えない! だから、ここでそれを証明してやる!!」
静寂に満ちた世界で茜の叫び声だけが響き渡る。誰にも聞こえないその悲痛な思いは、どうしようもないくらい寂しげな色を放っていた。
大声を出しすぎた茜は息を荒くし、肩を上下させながらそれを整える。一方涼しげな表情のままの千歳は、少し眉をひそめてから問いた。
「……それは、反逆行為と受け取ってもよろしいでしょうか」
「何とでも言え。けど僕は絶対に譲らない」
自分の意志を、曲げるつもりはない。最後に茜がそう付け足したのを聞いて千歳は何も言わず、ただ少し俯いた。
やがて「分かりました」という声が耳に届く。
「旦那様にはそっくりそのままーーお伝えいたします」
別れの言葉も告げずに千歳はその場から姿を消した。
次の瞬間、世界は再び動き出し一気に喧騒が脳を突き抜ける。そばから聞こえてきた大吉の怯えた鳴き声をなだめつつ、茜は理久を抱きかかえて笑和屋の奥に入った。
◇◆◇
窓辺に立つ男性はただ黙って窓の外を見つめていた。
まだ昼間だというのに外は静かで物音一つ立てない。まるで人が住んでいない街を連想させた。
上には空というものがなく、ただただ真っ白い何かがどこまでも続いていた。
そんな風景を眺めていると控えめに扉をノックされる。机とイス、あとは壁一面に敷き詰められた本棚以外には何もない部屋ではノック音もやけに大きく響いた。振り向かずに男性は「入れ」とだけ告げる。同時に開かれた扉から入ってきた女性、千歳は「失礼します」そう挨拶したのち、男性の背中に語りかけた。
「任務は失敗いたしました、申し訳ありません」
「……そうか」
男性は怒りもせずそれだけ返答して、再度口を開きかけたが、
「まぁでも、これだけで坊ちゃんを連れ戻せたら僕らも苦労なんてしませんよね」
言おうとしていた内容を読まれ、男性は部屋の片隅に目を向ける。そこには本棚に寄りかかる一人の若い男性がおり、一部が白く染まっている前髪から覗かせた目を光らせた。
スーツを着ている男性や、和装の千歳とは打って変わり、若い男性の格好は明らかに軽装と見られるものだった。ジト目でそれを眺めながら、千歳は静かに呟く。
「……旦那様の前でその有り様はどうかと思います、光泉」
「相変わらず千歳は頭固いなぁ、別にこれといった規定なんてないんだからいいじゃない。あといい加減、僕のことは霞って呼んでよ。僕その名字あんまり好きじゃないんだよね」
軽い調子でペラペラと喋る若い男性ーー光泉霞は言い終えるや否や「それに」ニヤリとした笑みを浮かべた。
「任務に失敗した誰かさんよりは、全然まともだと思うけどなぁ?」
「……」
ジャキリ、と千歳が刀に手をかけたのが分かったらしく、男性は「よせ、二人とも」と制裁に入る。
「私は任務について何も感想を持っていない。……報告を続けろ、日高」
その一言で頭が冷えたのか、途端に千歳は大人しくなり話を続けた。男性の命令通りに、ただ淡々と。
「旦那様の言っていた通り、やはり坊ちゃんは例の子と接触していました。様子から察するに、相当深くまで関わっているようです」
あとは……と、千歳はいきなり声を小さくした。だが報告をしなければならないという命令には逆らえず、意を決して言葉を言い継ぐ。
「……坊ちゃんが、奥様の能力を使えるようになっていました」
刹那、霞は眉をひそめ男性も「……ほお」という声を漏らす。しばらく静寂だけが部屋を支配していたが、大袈裟に溜め息を吐いた霞がその空気を断ち切った。
「いよいよ、ですか。まさか遺伝していたとは」
これは予想外ですね、そう問いてきた霞には振り向かず男性は短く「……あぁ」とだけ答える。
その目には相変わらず静かな街並みだけが映り込んでいた。
◇◆◇
目を開くとそこには見慣れない天井が広がっていた。
数回瞬きをしながら頭を叩き起こす。どこだ、ここ……。しかし不安に襲われそうになった直前、鼻をかすめた優しいお茶の香りでピンときた。そうか、ここ拓人さんの店の奥にある居間だーー起き上がって辺りを見渡してみる。やはり予想した通りだった。特徴のあるお茶の香りは以前にも何度か飲んだ覚えがある。
ひとまず安心してから、自分が今の今まで布団の上で寝かされていたことに気づき、首を傾げる。思い出せば何か分かりそうだが、なぜかここまで来た経緯の記憶がない。コンクールが終わってから、どうしたんだっけ。
ボーッとそんなことを考えていたらそばから「あ! 理久!」と声をかけられた。
「急に起きちゃダメだよ! はい! まだ寝てて!」
「え? いや、ちょ、茜?」
無理矢理毛布を体にかけられ、やむを得ず再度布団に寝転ぶ。満足そうに笑う茜の顔を見上げながら「何でコイツがここに……」と考えるが、思い当たる節はやはり頭のどこにも見当たらない。
「あ、茜? あのさ」
「ん?」
なあに? と首を傾げる茜に理久は途切れながらも問いただす。
「えっと、どうしてここに……というか、私は何で寝てるんだ?」
理久の質問に茜の表情が一瞬消えたように見えたのは気のせいか。真っ直ぐに見つめてくる理久へ、茜はすぐに安心させる笑顔を見せ「覚えてないの?」と呟いた。
「理久、貧血で倒れたんだよ。大吉が店の前でワンワン吠えてなかったら俺気づけなかった」
「ひ、貧血?」
「うん、貧血。文化祭とかコンクールの疲れが溜まってたんじゃないの?」
あんまり無理しないでよー、と笑って茜は立ち上がろうとする。だが、なぜか無意識に理久はその手を引っ張ってしまった。
驚いた顔の茜と目が合い、慌てて手を離す。ご、ごめん……何か、つい。自分で言いながら「つい」って何だよと突っ込む。
しかし下ろしかけた手を茜は優しく握った。今度は理久が驚き、それに対して微笑む。
「理久、寒くない?」
「え、あ……う、うん」
「そう」
手を握ってくれる茜の体温はとても暖かくて、でもどこか遠いような気がした。重くなる瞼を必死に開けようと頑張っていると「寝ていいよ、起こすから」という声が聞こえて、それをきっかけに意識を手放しかける。
うつらうつらし始めた頃、耳に茜の声がぼやけて届いた。
「……理久」
「んー……」
「ごめんね」
何が? そう聞きたいのに口は開かない。
「俺が理久のこともーー皆のことも、守るからね」
最後に言われたことはもうほとんど聞こえていなかった。
それでも眠る寸前、見えた茜の表情は酷く優しくて、悲しそうだったことだけは理久の脳裏に焼きついて、しばらく離れなかった。




