31話 危機、文芸部の解散
「佐伯総合に、来ない?」
ドクリと心臓が嫌な風に音を立てた。思わず少し遠くにいる悠介たちを凝視したまま理久は固まり、その前では悔しそうに歯を噛む茜がいる。そうだ、忘れちゃいけなかったんだ。自分が視た未来を。理久に伝えたことを。
悠介が、いなくなる未来を。
油断したと今更後悔しても既に遅い。茜は理久を連れて一刻も早くこの場から離れようとするが、
「理久!?」
自分が声をかけるより先に理久は走り出した。悠介たちがいる方向とはまるっきり真逆の方向へ。名前を呼びながら、逃げるように走り去る背中を追いかける。背後で悠介が不安そうにこちらを見つめていたような気がしたが、今は構っている暇などなかった。
しばらく追いかけているとふいに理久の姿が消えた。息を切らせつつ辺りを見回す。すると会場より少し離れた場所、そこに設置されたベンチに座る理久を発見し、慌てて駆け寄った。
「理久……もう、勝手にどっか行かないでよ」
いつもと何ら変わりのない口調でたしなめてみるが反応はない。ただ俯いたまま理久は座っていて、茜も何と声をかけてやればいいか分からなかった。
困り果てたように立ち尽くしてしまう茜に、顔を上げた理久は小さな声で語りかける。
「……ごめん、茜」
「何が?」
「私、未来変えられなかったよ」
変えられなかったよ、自嘲気味に笑い、そう繰り返す理久の目は微かに潤んでいた。
◇◆◇
急に姿を消してしまった茜や理久に戸惑いながらも、悠介は千紘の話に驚きを隠せない。それ、どういう……。呆気に取られる悠介に千紘は告げた。
「僕たちも悠介たちの部誌見たよ、やっぱり悠介の書いたやつはすごかった! 中学のときからすごかったけど、今は確実にレベル上がってるよ」
そうか? と悠介は眉をひそめる。書いているのは自分だが、その分何が良くて悪いのか判断出来ないのだ。
「噂で聞いたんだけど、志木の文芸部って今年出来たばっかりなんでしょ?」
「あぁ」
「だったらこっちに来る気ない? うちは常連校だし、悠介の力だって十分に発揮できると思うんだ」
どうかな、と千紘は首を傾げる。自分のことを案じて言ってくれているんだ。悠介はそう解釈して、千紘の隣に立つ彰を見る。目が合った瞬間、彰は口を開いた。
「ーー来いよ」
「ッ!」
「また一緒に、部活やろう」
真っ直ぐな瞳。偽りのない言葉に思わず惹かれる。誘われる。
仲の良かったメンバーと、また一緒に部活ができる。これほどまでに嬉しいことはない。自分だって本当は引っ越しさえなければ、皆と一緒に佐伯総合高校へ行っていただろう。ずっと心に引っかかっていたわだかまりの仲直りもした、今ならまだ間に合うかもしれない。
あの頃に、戻れるかもしれない。
「……ありがとう」
お礼の言葉を聞いて千紘と彰の表情が輝く。だが、少し間を置いてから悠介は「でも」と続けた。
「やっぱり、そっちには行けない」
ごめん、謝る悠介を前に千紘と彰は黙り込み、さらに悠介は言い継いだ。
「また一緒に部活やれたら、俺もすごく嬉しい。だって、二人とも初めて出来た友達だから。でも……」
友達という単語に千紘と彰はお互い顔を見合わせ、微笑んだ。気まずそうにする悠介に「そうだよね」と千紘は言う。
「悠介の様子見てて分かるよ」
「え?」
「悠介、今の部員さんたち……いや、友達かな。大好きだっていう感じするもん」
先日ほぼ無理矢理言わされた光景が目に浮かぶ。無理矢理とはいえ本音なので別に構わなかったが、よく考えてからあまりの恥ずかしさに「あぁ、まぁ……」と若干頬を赤らめた。
そんな悠介を前に千紘は彰を見上げる。「あと」
「あの部長さん、あーちゃんに似てるよね」
「はぁ!? な、何で俺に」
「だって悠介にライバル心剥き出しなんだもん。あーちゃんと一緒」
千紘の言葉に悠介は驚いたように目を丸くし、初めて会ったはずの理久のことがどうして分かったのか問いただす。
「どうして、琴平が俺のことそう思ってるなんて知って……」
「目を見れば分かるよ」
強い眼差し、だからね。笑う千紘につられて、悠介も思わず口角が上がる。
「アイツ、俺のこと本気で超えようとしてるんだ。もう文芸のことになると周りなんてお構いなしで」
言いながら笑みがこぼれる。本当に自分の周りは、優しい人たちで溢れかえっていた。
いつか全員に俺は恩を返すことが出来るだろうか。いや、やってみせよう。大好きな文芸というやり方で。
それで胸を張って、言える日がくるように頑張ろう。
ありがとう、って。
千紘と彰から離れる直前、悠介は思い出したように振り返って告げた。「あ、そうだ」
「言っておくけど、来年もうちが負けるなんて思うなよ。まだ隠してるだけで『眠れる獅子』がうちにはいるからな」
覚悟しとけよ、ニヤリとした笑みとともに宣言され、千紘と彰は顔を見合わせたのち、おかしそうに笑った。そして真面目な顔つきになると返答する。
「あぁーー望むところだよ」
その返事に満足して悠介はその場を去る。
来年はきっと、眠れる獅子がーー琴平が目を覚ましていることだろう。そのときこそが本当の始まりだ。
抑えらないワクワクした高ぶりで足を進めた。
◇◆◇
「……私は、悠介が離れてもいいと思ってる」
依然としてベンチからは動かず、理久は話を始めた。普段の様子とはまったく違ったその低い声や調子に茜は驚くが、それよりも呟かれた一言の方が衝撃的だった。
震える声で茜は「どう、して」と呟く。
「そんなこと言わないでよ……まだ、まだ間に合うかもしれないって」
「もともと悠介は、文芸部がないから志木に来たんだ。私とは正反対」
それは悠介が理久にだけ教えてくれたことでもあった。いつだったか、自分にそう言っていたのを思い出す。確かあれは先日の保健室での会話だっただろうか。中学で部活から離れて、高校で本格的に作家活動しようと思ってたんだけど、これじゃあ何にも変わんねぇな。苦笑混じりの表情が頭に浮かんだ。
だったら尚更ーー理久は続けた。
「だから、本気で文芸をやりたいならこんな素人だらけの部活より……ッずっと、あっちの方が」
目の前が霞む。ジワリと溢れそうになった涙に気づいたとき、背後から聞き慣れた声が聞こえ、同時に頭に手を置かれた。
暖かく、優しい手のひら。
「誰がいなくなるって? 部長さん」
「ッ! ゆ、悠介!?」
頭だけ振り向かせた先にいたのは紛れもなく悠介だった。呑気に「よぉ、こんなところにいたのか。探したんだからな」と溜め息まで吐いている。驚きのあまり溢れていた涙も引っ込んだ理久は、ポカンとした顔つきで見つめ返しながら、やっとのことで声を振り絞る。
「どうして……ここに」
「あぁ? 何だよ、入部した部活に戻ってきちゃあ悪いのかよ」
ズイッと顔を近づけられながら吐き捨てる。いや……そういうことじゃなくて。やはり彰のときと似た威圧感を滲ませられ、思わず気圧される。
「だって悠介、本当は志木なんかじゃなくて、佐伯の方が……ッ」
声が震える。小刻みに肩を震わせる理久を眼下に少し息を吐いた悠介は、その頭を落ち着かせるように優しく撫でながら「まぁな」と言った。
「確かに正直、佐伯総合に行きたい気持ちもある」
「だったら何で」
「でも行ったら俺、多分天狗になるな」
「……は?」
言葉の意味が分からず理久も茜も呆ける。て、天狗? 何それ……。だが混乱する理久をよそに茜は何となく理解したようで、苦笑しながら「悠介ってたまに訳分かんないこと言うよね」「ほっとけ」という会話のやり取りをする。
「ちょ、話が見えないんですけど……」
「簡単に言えば、俺は常に自分を自画自賛する奴になり下がるってことだ」
それでも眉をひそめる理久に微笑を返し、悠介は続けた。
「そりゃあ佐伯総合に行ったら俺は力もつくだろうし、いろんな人から刺激受けて良い作品書けるだろうな。加えて昔馴染みの友達がいるんだから、安心した環境もある。でもそれだとまた思っちゃうんだ『やっぱり俺は、天才なんじゃないか』って」
聞いて理久はハッとする。それは悠介から中学の話を告げられたときにも聞いた言葉だった。
びっくりする理久をよそに悠介は喋る口を止めない。
「そんな風に自分のこと思いながら過ごすより、こっちで苦しんだり焦ったりしながら部活やる方が自分のためにもなると思った。ただそれだけのことだ」
「苦しんだり焦ったり?」
違和感を覚えた茜が思わず聞き返す。そんなことないんじゃない? だがそんな言葉にも悠介は苦笑いで答えた。
「お前らにはなくても俺にはあるんだよ。隙あらば俺の作家人生狙ってる奴が、すぐ近くにいるんだからな」
いッつも焦ってるよ俺は、と悠介は理久を見る。キョトンとした表情から察するに本人は無自覚のようだ。俺が入部したときはあんな啖呵切ってたくせに……春の頃を思い出しながら悠介は理久の頭から手を離した。
「そんな訳だ。だから俺はここに残る」
まだ何か言いたそうにする理久へ悠介はすぐさま牽制をかけた。
「それとも何だ? 琴平は俺が戻ってくるのが嫌なのか?」
「ッ!? そ、そんな訳ないだろ!!」
挑発にも似たことを言われ、勢いのあまりベンチから立ち上がって理久は叫ぶ。
「嫌な訳ない! むしろ嬉しい!!」
「なッ!?」
意地の悪いことを言ったはずなのに予想を遥かに上回る返答をされ、カァッと頬が熱くなる。何かやけに最近こういうパターンが多いな、と悠介が胸の中で呟く近くでは茜がそんな様子にクスクス笑っていた。
和んだ空気に感化され、すっかりいつもの調子に戻ったらしい理久は「じゃあ!」と悠介の顔を覗き込んだ。
「悠介はどこにも行かないんだな?」
「そうだよ。……つーか、お前の方がどっか行きそうで俺は不安だけどな」
「え?」
な、何で? そう言いかけるが瞬時に頭を悠介の手で掴まれる。さならがらボールを持つように軽々とやってのけている悠介のオーラは、いつの間にかドス黒いものに変わっていた。
「今日はマジで好き勝手にあちこち行きやがって……犬じゃねぇんだからよ、少しは団体行動ってものを学べ。今日という一日だけでも周りがどんだけお前のこと捜索したと思ってんだ……?」
空気までもが凍りつきそうなくらい凍てついた声色が頭上から降ってくる。早々に理久は心中で叫び声を上げ「あ、いや、その……すみません」と呟いた。
初めてのコンクールでテンションが上がりすぎた結果がこれだ。
「ら……来年からは気をつけますッ!!」
「あッ!? おいコラ待て!! 話はまだ終わってねーだろ!」
即座に逃げ出した理久を追う悠介を眺めながら、茜の顔から笑みがこぼれる。そして慌ててそのあとを追いながら、独り言を呟いた。
「来年にはもっとテンション上がってそうだなぁ……」
理久だけじゃなくて全員が、そんなことを考える茜だった。
◇◆◇
コンクールからの帰り道。夕暮れに染まる空の下を理久は歩いていた。陽気な鼻歌を口ずさみながら機嫌良さげに足を進め、コンクリートには長い影が出来ている。
そのまま学校近くの志木商店街へと入り、真っ直ぐにとある店に向かった。だいぶ久しぶりになる来店に少し緊張しつつ、店内へ大声で呼びかける。
「拓人さーん! こんにちはー」
挨拶をするが返事はない。代わりにシンとした静寂だけが理久を迎え入れ、首を傾げる。買い出しにでも行っているのだろうか。それにしたって、いつもなら叔母であり、この「笑和屋」のアルバイターでもある祥子が店番でいるはずなのだが、今日に限って誰もいない。
家族にもたい焼きを買って帰ろうかと考えていた理久は、残念そうに肩を落として後退したのだが、
「あ、大吉」
ヒョッコリと足元から現れた犬ーー大吉に目を奪われた。フワフワした茶色や白色の毛並みと尻尾を揺らしながら、こちらに擦り寄ってくる。理久はしゃがみ込んで大吉の体を撫でた。
春に茜が拾った子犬であり、今は笑和屋のマスコット兼用心棒である大吉は随分大きくなった。体つきも立派になり、見た目は柴犬に似ている。最初は雑種かと思われたがこの様子からして、柴犬と何か別の犬とのミックスだろう。ともかく無事に育って良かった。そんな思いも込めながら、理久は精一杯可愛がる。
「よしよし、大きくなったね。大吉は茜に拾われたこと、ちゃんと感謝しろよ?」
言っても通じないと分かってはいるが話しかけずにいられない。だがそんな理久の心境を察したのか大吉は「それくらい分かってるよ」とでも言いたげにクゥーンと返事のような鳴き声を発した。
それが嬉しいやらおかしいやらで理久は笑う。
「ごめん、ちゃんと分かってるんだね。さすが大吉だ」
賢いなぁと言いつつ理久は大吉の頭を撫でようとしたのだが、突然その小さな体からは想像出来ないような低い唸り声が響いてきた。
さっきまでとはまるで違う様子に驚いて、大吉の体からパッと手を離すが唸り声は止まない。むしろ酷くなってくる。
「ど……どうしたの大吉?」
何か気に障るようなことをした覚えはないが、理久はペットを飼った経験がないため不安が襲ってくる。オロオロするうちに大吉は歯を剥き出しにして唸り始め、前屈みの姿勢になった。
それが、目の前にいる敵へ襲いかかる準備のように思えてきて、理久は慌てる。
「大吉? 大丈夫? 本当にどうしちゃったの」
そう言いかけた直後、大吉の口から「わ''んッ!!」という、一際大きな吠えた鳴き声が発せられる。
腹の底から出たような鳴き声で驚いた理久だが、それ以上にあることに気づいた。
背後から近づいてきた人の影が自分に覆いかぶさっている。
振り返ろうとした刹那、まるでテレビの電源が切れたときのようにいきなり意識がブラックアウトした。




