30話 決着、放たれる
「ーー十位、志木高校」
名前が、出てしまった。
女子生徒のアナウンスがやけに脳内で大きく響いたような気がして、理久は目を見開いたのち歯を食いしばる。十位より下のランクに佐伯総合高校の名前はなかった。つまり、それは勝負の負けを意味する。
負けた、たった三文字の言葉が脳を、体を、神経を支配して何とも言い表せない感情が胸に広がった。悲しみなのか、悔しさなのか、本人である理久ですらもその正体は分からない。ただただ呆然とその後の順位を聞き流していると、急に横から「やったぞ琴平!!」珍しくテンションが高いことをうかがえる悠介の声がした。
「どうしたんだよ!? 喜ばないのか?」
「……は?」
今の自分の心境とあまりにも差がありすぎて、思わず困惑する。何で? 何で、そんなに喜んで……?
そういえばさっきも不思議なことを悠介は言っていた。「……どうなってんだ、これ」と。それと何か関係があるのかと考え、か細い声を振り絞って、理久はやっとの思いで呟いた。
「……だ、だって、勝負……負け、て」
「あぁ、まぁ……それで元気ないのか」
そういうことか、と妙に納得したように言ってから「でもさ!」悠介は続ける。
「十位だ! 俺たちコンクールで半分の順位とったんだぞ!?」
「え……」
「昔は強かったかもしれねーけど、今は無名だった高校がいきなりコンクールでベストテン入りだ! これだけ凄いことは、他にねーだろ!!」
肩を揺さぶられながら「ほら見ろ!」と周囲の方へ目を向けられる。そこには、自分たちを呆気にとられた様子で見る他校の面々がおり、何やらヒソヒソと話し込んでいる学校もあった。「十位の学校どこ?」「あそこにいる人たちじゃない?」「志木って、まさかあの文芸部の強豪!?」「それは昔の話だろ。けど……今年復活したっぽいな」「嘘だろ!? めっちゃ人数少ないのに」「これで初出場とか……冗談じゃねーぞ」心なしかそんな会話があちらこちらから聞こえてくる。
あっという間に声の渦へ飲み込まれそうになった理久を引き戻したのは悠介だった。
「……なぁ琴平、俺が言うのは筋違いかもしれねーけど、この周りの声嬉しくないか?」
下手したら勝負の結果よりさ、小さな声でそう付け足して悠介は理久を見た。不安げに揺らいでいたはずの理久の目がキラリと光る。力強く頷かれ、悠介も思わず笑みを浮かべた。
そこへ慌てた様子の茜が二人の間に割って入る。
「ちょっと二人とも! なに呑気に喋ってるの! 順位の横の投票結果見た!?」
「投票結果?」
二人で復唱してから前のモニターを眺める。
地域開催の小さなコンクールとはいえ、もともとこの辺りの高校は文化部が盛んだった。だから今日の参加者もおよそ百五十人ほどおり、全員がそれぞれ気に入った高校に三票まで入れることが可能である。結果、軽く四百を超える票が集まるのだが、それにしても理久と悠介は驚きを隠せなかった。
九位 佐伯総合高校 74票
十位 志木高校 70票
「よ……四票差!?」
てっきり大差をつけられているかと思いきや、その予想はあまりにもアッサリ消える。驚きのあまり叫ぶ理久の横で、悠介は背筋に何か得体の知れないものがゾクリと流れる感覚を覚えた。
心底嬉しそうに、楽しそうに微笑む。
「……ちょっとばかし派手すぎる登場だったかな」
だがその直後、頭には「多いに越したことはないか」という言葉が浮かんでいた。
◇◆◇
表彰式も終わり、会場内の片付けが進んでいる。どこかホッとした様子を見せる学校もあれば、来年への気合いを入れる学校もあったが、理久たちはただ緊張した顔つきで会場の外にいた。
理久の真正面に立つのは、要千紘だ。さっきから開きかけた口を閉じたり、目を泳がせたりと一人で忙しない動きの理久をクスリと笑い、千紘は理久の言葉を遮る。
「あ、あの勝負」
「負けたよ」
思いもよらない返事に理久は「は?」と返す。同じくその隣の悠介も呆然としていたが、慌てて口を挟んだ。
「か、要? 何言って……順位はお前らの方が上だろ? だから勝負はそっちの」
「勝負の結果は順位とかがすべてじゃないよ」
そう言うと千紘は優しく微笑む。
「正直言って悠介たちの部誌はまだまだ改良すべきところはたくさんある。そういう点じゃ、うちが勝ってるよ。……でもね、自分たちの部誌を読んでる人の顔見た?」
千紘の問いに一同は顔を見合わせるが、全員首を傾げるか頭にクエスチョンマークを浮かべるか、とにかく知らないことだけは千紘に伝わったらしい。苦笑しながら「笑ってたよ」とだけ答えた。
「読んでた人たち、皆笑ってた。これ面白いね、楽しいね、って。確かに佐伯総合の部誌はレベルが高かったかもしれない。でも、志木高校さんの部誌を見たときの笑顔は、こっちじゃ見れなかったよ」
だから負けたよ、千紘はそう言い終えると笑顔で悠介の方を見た。
「あとね、一番の敗因はあーちゃんかな」
「……中里が?」
「うん、だって順位発表で悠介たちが佐伯総合のすぐ下だって気づいたとき」
刹那、理久はハッとする。それはコンクールが始まる前、彰に会って別れたときの違和感が確信に変わったからだ。
千紘が言うより早く、理久は会場内に戻ろうと体を振り向かせる。
「あーちゃん、ちょっと笑ってたんだ」
何か嬉しそうにさ、その言葉が最後の一押しになった。
◇◆◇
ガヤガヤと片付ける音や会話が飛び交う中で、彰は眼下にある部誌を見下ろしていた。その表紙には開かれた本の中からミニキャラとなった五人の男女が飛び出てくる絵があり、上記のタイトルは「リテラチュア〜志木高文芸部〜」だ。見た目から感じる楽しそうな雰囲気を放つ部誌を下に、彰は小さく笑う。悠介と一緒にいる部長らしき女子の顔を頭に思い浮かべ、まるであの子の性格やら何やらが全部そっくりそのまま具現化したような部誌だと思った。
いや、あの子だけじゃない。あの子の周りにいる人々、全員の思いがこの部誌には込められている。もちろん悠介の思いも。
同時にチクリと痛んだ胸を押さえつけ、その場を去ろうとしたのだが、
「中里ッ!!」
いきなり名前を呼ばれ、驚いた表情で振り向く。そこには激しく肩を上下させるあの子ーーもとい、理久の姿があった。走り回りながら自分を見つけてくれたのか、なかなか息は整いそうにない。
唖然としながらも彰は声をかけようとしたが、それより先に理久が口を開く。
「な、中里……しょ、勝負」
「ッ!」
勝負の結果は千紘に伝言を頼んだはずなのだが、もしかしてまだ会っていないのか。そう思い、彰は少し唇を噛み締めたのち「負けました」と呟く。すぐ手元には悠介たちの作った部誌があった。こんなに優しくて、明るい部誌に勝てる訳がない。
「勝負はそちらの勝ちです。どうしますか? 負けたからには俺はペナルティでも何でも受けるつもりです。何を」
「中里」
再度名前を呼ばれ、理久の真っ直ぐとした瞳に囚われる。
「中里は、嘘つきだな」
「……?」
「勝負なんて、本当はどうだって良かったんじゃないか?」
眉をひそめた彰の表情がピクリと動いた。それを知ってか知らずか、理久は一方的なまでに話を続ける。
「それだけじゃない。最初悠介にあんな態度とったのも、キツイこと言ったのも、全部あれは本音じゃないんだろ」
「……何言って」
「だってそうでもなきゃ」
思い出されるのは、騒がしい悠介たちを見たときの彰の反応。以前嫌悪感を丸出しにしていたにも関わらず、今日見た横顔はとても穏やかで、どこか安心したようにも見えて、それで、
「……あんなに、優しい顔出来ない」
優しく温かい微笑みを浮かべていた。
不意を突かれたように黙った彰は俯きがちになる。しかし、やがて顔を上げると理久の近くへ一歩、また一歩と足を進めた。予想外のその行動に理久は肩を跳ね上がらせ「怒らせたか!?」と、彰から滲み出る威圧感に怯える。だがよく考えたらその威圧感はどこかで感じたものにとても似ていた。そんなことを思い浮かべていると、頭に温かい感触。続いてクシャクシャという音が聞こえ、そこでようやく彰に頭を撫でられているのだと気づいた。
驚きからか固まる理久に構わず、彰は手を休めることなくポツリと呟く。
「……今の言葉で、なんとなく、分かる気がした」
「な、何が……? というか、その手は一体」
「松野が、アンタのことを認めた理由」
い、意味が分からない……。困り果てていた理久だが、彰の言葉を聞いてさっきの威圧感の正体が分かった。そうか、これーー悠介もよく出す空気の感覚だ。
文芸というものに本気で、全身全霊を込めて立ち向かう者が出すオーラ。
結局のところこの二人はーーそこまで考えた理久の耳に「ねぇ」という彰の声が届く。
「その……えっと、この前はキツイ言い方して、悪かった」
「え? いや、そんな。あんまり気にしてないし」
というかそれは悠介に言えよ、そう言いかけるが先を越された。
「あと、松野…………悠介は、今どこにいるか分かる?」
「ッ!!」
不覚にも嬉しいと理久は思ってしまった。願わくはこれがきっかけで悠介が過去から解き放たれますようにーーそんな願いを心の中で祈りながら「こっちにいる!」と彰の手を引いて会場内をあとにする。
文章はスラスラ書けるのに、口ではうまく言えなくて。
大人みたいな対応をするのに、その背中はまだ子供で。
それで、とてもとても素直じゃなくて。
結局のところこの二人はーー悠介と彰は、お互いがそっくりなコンビなのだと理久は少し笑ってしまった。
◇◆◇
一方その頃、会場の外にいた一同は急に姿を消したまま戻ってこない理久を待っていた。
「もー、理久ってばどこに行ったんだろ?」
キョロキョロと辺りを見回しながら茜はそう言って「理久ー? どこー?」と、近くの垣根を掻き分ける。常識的に考えてそこに人間は隠れないはずなのだが、茜の中の理久の人物像はどうなっているんだと悠介は不安になった。一緒になって茜と垣根をガサガサやる神楽や哲郎を眺めつつ「アイツら……馬鹿か」と肩を落とす。そんな悠介の顔を千紘は覗き込んだ。
「変わった部員さんたちだねー、特にあの部長さんは」
「もうマジで……アイツは見るのが大変だからな。こういうところ来るとテンション高くなるし、今みたいに勝手に単独行動するし、向こう見ずに突っ走るし、後先考えないで物事決めるし、一度口論になると徹底的に話し込むし、諦め悪いし、それからあとは」
「な、長いね……」
思わず引き気味になりながら苦笑する千紘に、悠介は少し考えたあと「でも」と言った。
「ーーすごく、真っ直ぐな奴なんだ」
そう言う悠介の自身満ち溢れた横顔を見て千紘は驚いた。中学にいたときはこんな表情の出来る人間ではなかったことくらい覚えていたし、身に染みていたはずなのだ。なのに、今はこんなにも生き生きとしている。
喉にまで押し上がってきた言葉を、今なら言えそうな気がして千紘は口を開いた。
「悠介、あのさ」
「悠介ッ!!」
だが唐突に会話が遮られた。声のした方に顔を向けると、そこには消えたはずの理久と、
「あ、あーちゃん!?」
彰がいた。「どうして……帰ったはずじゃ」と驚く千紘の横では悠介が目を見開いている。まったく話についていけていない二人には構わず、理久は彰の背を思いっきり押した。予想外だったのか、体のバランスを崩した彰は悠介の前に追いやられる。
ハッとしてすぐにお互い目を逸らしてしまうが、やがて意を決したように彰は「あ、あのさ!」大声を出した。
「この前は、ごめん!!」
そして勢いよく頭を下げた。周りにいた全員が唖然とする中、理久だけは満足そうに笑っている。
もはや驚きを通り越して絶句する悠介に彰はさらに続けた。
「この前だけじゃなくて中学のときも、俺松野にキツイこと言って……ずっと謝りたかった。だからこの前会ったときはチャンスだと思ったんだけど、松野今の部員と仲良さそうにしてて、だから俺急に悔しくなって、俺もあんな風に接してやれば良かったって思って、自分に腹立って松野に八つ当たりして……ッ」
最後の方はほとんど声が震えていた。それでも彰は喋ることをやめなかった。
「ごめん……ごめんなさい……ッ!!」
謝り続ける彰を前に悠介はしばらく黙ったままだったが、やがて口を開くとか細い声で問う。
「……じゃあ、俺のこと大嫌いって言ったのは」
「ッ!! そ、それは!」
しかしそこで彰は言葉をつまらせる。本当はあんなこと言うつもりなかったのに、自分のせいで過去の悠介も今の悠介も傷つけてしまっていた。取り返しようのないそれに、今更ながら後悔する。
頭を下げたまま歯を食いしばる彰の背後でそれを見ていた理久はイラつかせた表情でいきなり「あぁもう焦れったい!!」と叫んだ。
「嘘つきは泥棒の始まりって言うだろ!! なぁ哲!?」
「お、おぉ……」
「ほら! だからちゃんと自分の思いをぶつけろ!!」
あの冷静沈着な哲郎が理久に若干引いている……横にいた神楽はそう思いながら事を行方を見守る。
理久はズカズカと歩きながら、彰の背後に近づき、
「過去は変えられないんだ、そう決まってんならやることは一つ!」
そして手を伸ばせば届く距離まで来た瞬間、
「大事なのは」
「は? いやちょ待ッ」
「今をどうするかだろ!!」
彰の背を、押した。
それは物理的なものなのか、あるいは彰の心を押したものなのか、どちらにせよ彰はほぼ無理矢理ではあるが一歩を踏み出した。
またバランスを崩したせいで今度は思わず、悠介の肩に両手を置く形になる。ハッとし慌てて手を離そうとするが、背後から送られる鬼のような視線に戦慄し、仕方なくそのままの姿勢で話し始めた。
「……あのときは、その、頭に血が上ってて、本気じゃなかったッつーか……俺本当は、松野が作家になるの羨ましかったし、嫉妬? みたいな感情もあって、それで思わず口が……」
チラリと悠介の表情をうかがう。特に何かを思いつめているような表情ではないことを確認して、彰もそれっきり黙ってしまう。
ふいに悠介が小さな声で「じゃあ」と聞いてきた。
「今は、俺のことどう思って」
「ッ!! そ、そんなの決まってんだろ!!」
許されるなんて思っていない。
「俺は、今も昔も」
許されようとも思っていない。
それくらいのことを自分は言ってしまったのだ。
「松野のこと、大嫌いな訳ない」
それでもこれだけは、
「だってーーだって、俺は」
これだけは、信じてください。
「悠介の、友達だから」
どうして今更そんなこと、そう思うかもしれない。
卑怯な言葉を使うと、君は思うかもしれない。
でも俺は、それでも俺は、君がいなくなったあともこの言葉を頼りに生きてきたんだ。
ずっとずっと、苦しめてごめんなさい。
「ごめんな、ごめんな悠す……って、大丈夫かお前!?」
「え?」
「え、じゃなくて何で……」
何でお前泣いて……彰にそう指摘されて悠介は初めて気づいた。頬を止めどなく伝う涙に、昨日までの呪縛から解き放たれて安心する自分に。
少し前の保健室での理久との会話を思い出しながら「あぁ最近涙腺がやたら緩いなぁ」と笑ってしまった。それほど自分には背中を預けられる場所が広がったということだろうか。最初は彰の大きな背中だけが、唯一心安らぐ場所だったのに。
必死にセーターの袖で涙を拭う悠介に彰は告げる。
「何で、何で泣いて……俺のこと怒らねぇの?」
「ッお、怒る訳ない、だろ。だって俺……ずっと中里に大嫌いって言われて、不安で不安で……ッ」
ズキリと彰の胸が痛んだ。やっぱり、許されるようなことじゃないんだ。そう感じて口を開きかけたのだが、悠介の言葉で遮られた。
「でも、今の言葉で安心した……。あれが本気じゃないって分かったから、もういい」
「ッ! けど、俺は!」
「中里の言いたいことも分かるけどさ」
言いかけて悠介は彰の背後を見ながら呟いた。
「大事なのは過去じゃなくて今だからーーそうやってうちの部長が言ってるからさ」
だからもうこの話は終わり、と悠介は会話を途切れさせる。それでもなお、歯を食いしばる彰を前に右手を差し出した。
不思議そうな顔をする彰に悠介は笑いかける。
「仲直りしようーー彰」
「ッ!!」
一瞬だけ驚いたような表情を露わにした彰は、そっと悠介の右手を握りしめる。
三年前とはまったく違う、その手の強さに彰はびっくりしながらも笑った。
「なんか悠介、前と全然ちげぇ」
「当たり前だろ、そのうちお前の身長も追い越してやる」
「いやそれは無理」
「やってみないと分かんないだろ」
「ほぉ……? 無駄に威勢がいいところは全ッ然変わってねーの」
「これが俺の取り柄ですー」
楽しそうに会話する二人を眺めつつ、理久は優しく微笑んだ。良かったね、悠介。
これでもう、あんな悲しい顔をする悠介を見なくて済むと安心する。まるで昔に戻ったように、理久たちにも見せたことのないような笑顔を見せる悠介。またいつ会えるか分からないからしばらく話しててもいいかな、理久はそう考えて茜や神楽、哲郎を連れて一旦その場から離れようとしたのだが、
「あーちゃん『あれ』悠介に言ってみようよ」
「え!? いやもう……いいんじゃねーの……?」
「ダメ元でもいいからさ! もしかしたら、予想してた答えとは違う返事がくるかもしれないし」
「かもしれないって……まぁ、俺もそうなったら嬉しいけど」
「? 何の話してんだ?」
『あれ』って何だろうと思わず足を止める。隣にいた茜も眉をひそめていたが、やがてハッとして理久に向き合った。
「理久!! あんまり聞かない方が」
「あのね、悠介」
だがそんな静止も虚しく、少し距離の離れた向こうでは千紘と彰が悠介に誘いを持ちかけていた。
「良かったらさ、佐伯総合に来ない?」
目の前が真っ暗になったような気がした。




