26話 迫る、文化祭
少しずつ弱くなる日差しと、それをカバーするように鳴き続ける蝉の声。
長かった夏休みが明け、休み前と変わらない喧騒が学校に戻った。久しぶりに会うクラスメイトとともに、弾む会話を楽しむ声が溢れかえる教室の中、一人出て行こうとする理久を茜は引き止める。
「理久? どこ行くの、もうホームルーム始まるよ」
「あぁ、ちょっと……これを悠介に届けてくるだけ」
そう言って理久は、持っていたUSBメモリーを放り投げると片手でキャッチする。ニヤリとした笑みを浮かべ「コンクール用にさ」と話した。
「小説書いてみたんだ。せっかくだから、悠介に推敲がてら読んでもらって感想聞きたいなぁって」
推敲とは、書いたものを確認する作業のことだ。普通は自分で行う作業なのだが、理久のように感想を聞きたいなどと思う人は他人に任せる場合も多い。
だが大抵、理久の作品を悠介が読む、または逆のパターンになると最終的には訳の分からない口喧嘩に発展しているので、若干の不安を感じた茜は苦笑いを理久に返す。そんな茜の気も知らずに「じゃ、すぐ戻るから」と、理久は教室を出て行くが、
「……ねぇ、理久」
「ん?」
再度、茜に呼び止められて、頭だけを振り向かせた。
「なに?」
「あのさ……その大会のことなんだけど」
刹那、まるでタイミングを見計らったようにチャイムが鳴り響いた。途切れた言葉を思わず喉に押し込む茜の前で、焦った表情の理久は口早に告げる。
「しまった、予鈴だ。五分で帰ってくるから、またあとで話そう!」
廊下へ走り出す後ろ姿を、無様なまでに口を開きかけた状態で見送る。
伸ばしかけた腕をゆっくりとした動作で下ろしながら、茜の頭にはチャイムの音だけが木霊していた。
◇◆◇
キラキラと輝く表情の理久を目の前に、悠介は固まっていた。ときおり、近くを通り過ぎる生徒が不審な目線をこちらに向けている。
いきなり廊下から自分の名前を叫ぶ声が聞こえ、慌てて出ればそこには理久がおり、笑顔でUSBメモリーを押しつけてきたのだ。驚くのも無理はない、と半ば無理矢理、自分に言い聞かせる。
「久しぶりに自信作が書けたから!」
「お、おう」
いつもよりテンションが高めの理久に、困ったような返事をする。実際に困っていたのだが。
相変わらず訳の分からない奴だ、と胸の中で静かに呟く悠介へ対し、理久はなおも笑顔で続けた。
「コンクール用のやつもうちょっと書きたいから、また推敲頼むかも。大丈夫?」
「え? ……あぁ、俺は別に構わないけど」
「良かった! すッごい面白い話書いて、あの背のデカイ奴をひれ伏させようと思って!」
満面の笑みで恐ろしいことを口にする理久。なるほど、なんとなく機嫌が良い理由が分かったような気がする。というか、デカイ奴って中里のことなのか? 引きつった微笑を返しながら悠介はそう思った。
それと同時に、少し前のことを思い出す。
ーーそういえば、琴平って俺に対してもかなり攻撃的だったような
自分が入部したての頃「悔しかったら越えてみろ」と、本当は冗談混じりで言った挑発に、理久は本気で挑んできたのだ。多分それは今も変わらず、理久は悠介を越えようとしている。
あのときに見た、強い攻撃心の宿った瞳が脳裏に蘇る。ほんの少し思い浮かべるだけで、背筋が寒くなった。今にも本気で殺しにかかって来そうな力を秘めた色。
一応作家志望なんだから、本気になるのは当たり前なのかもしれないが、理久の場合はそれに対する執着心が凄まじいのだ。強い人物を相手にほど燃えるタイプもこの世にはいるが、それとはまた違ったタイプのように悠介は思えた。
まるで、何がなんでも自分は物書きを続けなければならないと心に決めているような。
「それじゃ、クラスに戻るから。手間とらせてごめんな」
突然、聞こえた理久の言葉で現実に引き戻された。ハッと我に返った勢いで悠介は思わず、最近ずっと考えていたことを口にする。「琴平」
「……コンクールの勝負、本当にやるのか」
「そのつもりだけど」
さきほどとは打って変わり、真剣な表情と眼差しになった理久はキッパリとそう告げた。
力強く宣言されたにも関わらず、不安と心配が入り混じった瞳を揺らがせる悠介に、理久は顔つきを変えて優しい口調で呟く。「……大丈夫だよ」
「絶対に勝ってみせるから。私、諦めが悪い性格だし」
そう言って微笑んだ理久の顔が、どこか寂しそうに見えたのは自分の錯覚だったのか。理久がクラスへと戻ってしまったあとも、悠介は答えが分からなかった。
◇◆◇
「さっきの話だけど、さ」
午前のみの授業が終わり、静けさで満ちる第二図書室で他のメンバーを待っていると茜が声を投げかけた。理久と茜しかいないため、必然的に話しかけられたであろう理久は読んでいる小説から顔は上げないまま返答する。
「んー?」
「……勝負、やめた方がいいと思うんだ、俺」
少し躊躇いながらも、茜の口からこぼれた言葉に理久は驚いた。思わず顔を上げて、表情を俯かせた茜に「……ど、どうした?」と微笑を浮かべつつ問いかける。
「珍しいな、茜がそんなこと言うなんて。てか、悠介にも朝同じこと言われたし」
そんなに心配することか? と笑う理久には目も向けず、俯いたままで茜は小さな声を漏らす。
「視えたんだ」
「え?」
「その、悠介が……いなくなる未来を」
それだけ言うとまた黙ってしまう。今度は理久までもが口をつぐんでしまい、重たい沈黙が空気を埋め尽くす。
大会の見学に行く前、茜は自分がそのときに視た映像を思い浮かべた。笑顔で手を振る人影と、少し悲しそうな微笑みで手を振り返す人物。見覚えのあるような印象が強く残ってはいたが、冷静になって今考えてみると、紛れもなく人影の正体は悠介だった。そして、見送る方は理久。あまりにも鮮明すぎた映像に、思わず茜は大きな不安と恐怖を感じていた。
何秒そうしていただろうか。理久にはそれが何時間という単位にも思えるほど長い間黙っていたが、やっとの思いで声を振り絞った。
「……な、なんで? なんで、悠介が……どこに? どこにいなくなるの?」
「俺もよく分からない。けど、あれは絶対悠介だった」
珍しく頭を抱え込んで表情を歪める茜。普段の明るい様子からは考えられないような、その姿に理久は胸を痛めるが、ふと記憶が逆再生された。
脳に流れたのは、夕陽に照らされる茜の笑顔と、舞い散る桜とともに言われた言葉。
ーー『要は、未来が変わったんだ』
微かな希望が見えた気がした。
「なんとなく、やめた方がいいと思うんだ。だって、暗い未来は視えるし、なんかすごい嫌な予感するし……うまく言えなくて申し訳ないんだけど」
「ーー春に」
突如茜の言葉を遮ってうわ言のように呟く。やっと顔を上げた茜の肩を掴んで、理久は叫んだ。
「春に、知らない先輩の事件があったときに、茜言ったじゃんか!」
祈るような声色は茜の体の奥にまで響く。
「未来が変わったって、私が変えてみせたって!」
「あ……あれは、たまたま偶然が重なって」
「だったら今回も重ねればいい!」
理久の一際大きな声に、茜は瞳を揺るがせた。不安と期待とが入り混じった、複雑な色を放つ目に理久は微笑みかける。
「悠介はどこにも行かないよ、うちの部員なんだから。だからーー大丈夫、大丈夫だから」
何度もそう言い聞かせてくれる理久に何かを言いたくて口を開きかけるが、鳴り響いた扉のスライド音に掻き消された。姿を現したのは、いつも通りの気だるそうな雰囲気を醸し出す哲郎。午後の陽射しに紫色のピンがキラリと光る。
「……ごめん、話中だったか?」
「あ、いや平気、全然問題ないよ。それよりさ、その紙なに? もしかして絵とか?」
普段は無表情が多い哲郎だが、今日ばかりは何かを察したらしく申し訳なさそうに眉を微妙に下げている。すばやく切り替えて近寄った理久は、なるべく悟られないよう会話を続けた。
「へぇ! 哲の描いたイラストって始めてかも! いつもはもっと美術っぽいというか、真面目な感じというか」
「大会に出てた部誌、基本的にイラストの挿し絵とかだったから少し練習してみた」
「すご……なんでも描けるんだなぁ、哲は。あ、この女の子とか可愛い!」
「それは理久をイメージして描いた」
「え!? わ、私!? 嘘でしょ!? だって……全然似てないよー! イラストの方が可愛いし」
「似てる」
「じゃあ、どこが似てるか言ってよ」
「……この、胸の小さい辺りとかが特に」
「アハハハ、よぉし哲くん、ちょーっと歯食いしばっててね? 大丈夫、すぐ楽になれるよー」
決して笑ってはいない目で哲郎を睨みながら、理久は両手をバキバキと鳴らす。やがて、遅れて来た悠介や神楽が輪の中へと入り、怒りのオーラ全開の理久を必死に止めたりと、いつもと変わらぬ賑やかな空気で包まれた。
たった一人、唇を噛みしめる茜を除いて。
◇◆◇
「出雲、理久と喧嘩でもしたの?」
あれから数日たったある日。クラスメイトであり、よく理久と行動をともにしている女子、谷村純希に茜は呼び出された直後そう問われた。休み時間であるためか、茜と純希の他には誰もいない階段の踊り場にときおり、誰かの笑い声などが響く。
真剣な表情と声音で質問され茜は若干狼狽えるが「ど、どうして?」と、言葉をこぼした。
「別に喧嘩なんてしてないけど……」
「ホント? だって、最近話してないでしょ理久と」
事実を突かれて何も言い返せなくなる。図星だった。なんとなく、あの日から理久と目を合わせて話せないような気がして、前より少しだけ距離を置いたのだ。それが純希には、喧嘩をして気まずい雰囲気に見えたらしい。
会話が少ないのは本当のことだが、だからと言って喧嘩をしているなんてまったくの誤解である。
「確かにそうかもしれないけど、喧嘩は本当にしてないよ? というか、もしも喧嘩してたら、理久が谷村に言ってるだろうし」
「……じゃあなんで、避けてるみたいにするの」
本題はそこか、純希の少しムスッとした声に苦笑しながら茜は思った。
「避けてるっていうか……理久忙しいみたいだから、邪魔にならないようにしてるだけ。ほら、もうすぐ文化祭でしょ? 文芸部大変なんだよ、部誌作ったりしてさ」
「もちろん、俺もお手伝いしてるよ?」と、決して嘘を言っているように見えない茜の言葉に、多少安心したらしく純希は頬を緩めて「そう、なんだ」と呟いた。さらに思い当たる節があったのか話し始める。
「そういえば、理久ちょっと疲れてるみたいだった。話しかけてもボーッとしてて……あたしにもできることあったら、なんでも言ってね」
「ありがと。でも谷村って演劇部なんじゃなかったっけ? そっちも忙しいんじゃ……」
「困ったときはお互い様だよ! 理久にも無理しないように言っておいて。あたしが言っても聞かないんだもん、あの子」
まるで母親のような口ぶりに茜は笑う。
「夢中になると周りが見えなくなるんだよね、理久は」
「そうそう! もう本当に、たまに危なっかしいっていうか、なんというか」
楽しそうに理久の話をする純希を眺めつつ、茜は胸が暖かくなった。
ーー理久には優しい友達がたくさんだなぁ
純希だけでなく、神楽や悠介、哲郎の顔も思い浮かべる。
たがーーその安心感が茜の中にあった緊張をほどいたと同時に、油断を誘った。最後まで見守っていたつもりだった茜までもが、理久の変化を見逃してしまった。
昨日まで咲き誇っていた小さな花は、ほんの少し目を離した隙に衰弱への道を辿っていたのだ。




