25話 小さき、文学少年
「冬の部誌コンクール、志木高と勝負してください」
表情は微笑すら浮かべているのに、なぜかそう告げた声は黒く滲んでいた。幸い周囲の生徒たちには聞こえていないようで、変わらない喧騒が流れている。だが、今自分たちがいる場所だけが引き離されたような感覚を覚え、茜は息を飲んだ。それほどまでに衝撃的な一言が、自分の部長の口から発せられたのだ。
我に返り、慌てて仲裁に入ろうとした茜より先に、哲郎の隣にいた悠介が間に入った。すばやく彰と理久を引き裂くと同時に、理久の手首を掴む。そのまま、その場から離れさせようと誘導する悠介に理久は口を開くーーが、
「ッ! 悠介! おまッ、手はな」
手離せ、まだ感情をうまく消化しきれていない理久はそう言いかけて、思わず口をつぐんだ。自分の手首を掴み、背を向ける悠介の表情は見えないが、その肩は微かに震えていた。連動するようにして、少しずつ掴む手も震え始める。
てっきり、いつものような「公共の場でデカイ声出すな」などという小言を言われることを覚悟していた理久なので、まったく違う反応をされ不安が襲ってきた。
「悠、介……?」
やっとのことで振り絞った名前にも、本人は反応を示さない。
黙ったまま俯いてしまった悠介を見て、理久も、茜たちもかけるべき言葉が見つからなかった。一気に気まずくなった空気の中、その沈黙を破ったのは理久から見て元凶にもあたる存在、彰だった。
「……いいですよ」
突然言われた一言に、理久は一瞬「え?」という顔をするが、すぐにさっき自分が叫んだ言葉を思い出す。そして肯定の返答をされたと同時に、理久の手首を掴む悠介の手が離れた。しかしそれは「離した」というより「何かを諦めた」と表現するのが正しいような、そんな動作だと茜は思った。
それに気づかないまま、自由になった体を再び動かして彰を振り返る理久。その目には背後に立つ悠介の様子のせいか、さっきまでの覇気がなかった。
だがそんなことはお構いなしに、彰は話し始める。
「勝負、してもいいですよ。ルールとかはそっちで勝手に決めてもらって構いませんので」
隣で驚いた表情の千紘が「ちょ、あーちゃん!」と制裁に入るが彰は聞く耳も持たない。
「……それ、本当ですか」
「本当ですよ。まぁ、勝ち負けは目に見えてますけど」
変わらない無表情で、さもこちらが負けるような口ぶりをされた理久は反論しようとしたが、それより先に聞くことを思い出し、呟いた。
「……名前は」
帰ろうと背を向けていた彰はその声に、頭だけを振り向かせた。理久の鋭い目つきが真っ直ぐに見据える。
その背後で突っ立ったままの悠介を守るかのように、睨みつけてくる理久に多少の苛立ちを覚えながら、口を開いた。
「俺は中里彰。こっちの小さい方は要千紘」
「ち……ッ!? 小さくないって! あーちゃんが平均より、ほんの少しだけ大きいんじゃん! 僕は平均なの!」
涙目になりながらそう叫び、彰の体をポカポカと殴る千紘。それをスルーしながら、彰は悠介に向かって言葉を投げかける。
「松野」
呼ばれて悠介の体がビクリと反応を見せた。振り返らずに、悠介は耳だけを傾ける。
「ーー本気でこいよ、あの頃とはもう違うんだ」
俺も、お前も。
そう言い残すと彰は千紘を引き連れ、その場から離れていった。
◇◆◇
「……琴平は、なんで自分が物書き始めたのか、覚えてるか?」
帰り道。「コンビニに寄るからちょっと待ってて」と言って出かけた橋間の車の中、後部座席に座っていた悠介は隣の理久へそう投げかけた。残りのメンバーは戸塚の車に乗っているため、車内には二人しかいなかった。
静かな口調で問いかける悠介の意志が分かったのか、理久は窓の外を眺めながら、小さく答える。「……んー」
「小さいころから本が好きで、友達が『小説書いてみたら』って言ってくれたから」
「へぇ」
「あ、でも近所で高校生がよく読み聞かせ会してくれて」
そのときのことを理久は思い出そうとするが、うまく記憶を探し当てられない。確かに高校生くらいの少年がいた感覚はあるのだが、ボヤけているような、霞がかかっているような。昔のことだからだろう、鮮明な映像が浮かばない。
ついに唸り始めてしまった理久を見て、悠介は少し笑った。眉を下げた、悲しげな笑みだった。
「俺はもともとさ、本なんか好きじゃなかったんだよ。むしろ嫌いな方で……そのくせ友達とかあんまりいなくて」
根暗な奴だったよ、と苦笑する悠介。
その脳裏に優しく自分の頭を撫でてくれた、懐かしい光景が蘇った。「けど」
「小学生のとき、担任の先生に作文褒められたんだ」
「作文?」
聞き返した理久に悠介は頷く。
「なんの作文かは忘れた。けど、そのときは本当に嬉しくて……自分には文章書く才能があるんじゃないかって、思ったりして。そこから本読み始めて、物書くのも好きになった。今考えれば、俺は単純な奴だったんだな」
目を細めて、懐かしむようにしていた悠介の表情は、そこで少し陰りを見せた。
「だから、中学も文芸クラブに入った。自分には少しでも才能があるって、馬鹿みたいに信じて」
「……そこにいたのが、さっきの二人か」
思わず問いただした理久の予想を、悠介は肯定した。「そう」と答えながら、目線はどんどん下がっていく。
「要と中里はお互いに幼馴染みなんだ。家も近所でそりゃもう、生まれたときから一緒ってくらい。いっつも二人で行動して……そこに俺が入っても二人は、嫌な顔一つせずに歓迎してくれた」
遠回りに本当は優しい奴なんだと、伝えられていることに理久は気づいた。自分がさっき喧嘩紛いのことをしてしまったのを、悠介は気遣ってくれている。そんな些細な優しさに、胸が苦しくなった。
今すぐにでもさっきのことを謝りたいが、黙って悠介の話に耳を傾けて続ける。
「特に中里は今の琴平みたいだったな」
「は? わ、私?」
「あぁ、俺のこと、すげぇライバル視してたから」
聞き慣れない単語に頬が熱くなる。改めてそう言われると、なぜか気恥ずかしい気もしてきた。
しかし、俯く理久の隣で悠介は急に声を落とす。
「でもーー逆にそれが引き金になったのかもしれない」
ガラリと変わった空気の色に、理久は体を固くさせた。
「二年生辺りだったかな、俺おかしくなったんだ」
「……え?」
「ほとんど無意識に物語が書けるようになって。頭じゃない、指が勝手に動いて、物語を紡ぐみたいな……」
うまく言葉に表現できないのか、悠介は歯痒いような思いを露わにしていた。
その一方で理久の脳内には、ある単語が浮かぶ。
「才能開花」まさに悠介の言いたいことを表すとしては、これが妥当だと思った。悠介の、物書きとしての、天才作家としての才能が開花したのだ。
「自分で自分のことが怖くなった。だって……いきなりそんな大人の作家みたいになる訳ないって。すげぇ怖かった。クラブが同じ奴らは、急に俺が書けるようになったから賞とか取っても疑うようになったし」
なによりも、と視線を落とす悠介は続けた。
「中里は……俺をライバル視してた分、誰よりも俺を避けるようになった」
理久の心臓がドクリと脈を打った。
想像してみたのだ。昨日まで自分の良きライバルで、友達だった人が、次の日いきなり才能を開花させていることを。ただでさえ、ライバルとしての距離を縮めることは難しいのに、その差がもう縮まらないほどに遠くなってしまった。
ショックかもしれない、と理久は思った。嫌でも差を見せつけられ、自分にはないものだと認めざるを得ない。
誰かに置いていかれる、孤独感。
「中里は俺が……まだそれほど有名でもないけど、作家になったのを知っている。だから今日、俺に怒ってたんだ」
天才作家になったのに、なんで文芸部なんか入ってるんだ。
どうしてまだ、部活やってるんだ。
お前には必要ないだろう。
天才のお前に、お遊びの部活なんて。
中里が思いそうなことを理久は頭に浮かべてみる。その怒りは悠介に向けられているようで、同時に、中里自身に向けられているようにも感じられた。
自分の無能さに怒っているようにも、感じられた。
だが、考えにふけていた理久はふいに呟く。
「……悠介は」
その微かな声に悠介が反応を見せる。
「自分のせいで、中里があんな風になったと思ってるのか?」
理久の問いに悠介は答えない。
ただ口をつぐむが、やがて「……さぁな」とぼやいた。
「分からない」
「もしそう思ってるなら、多分それは間違ってる」
真剣な口調で言葉にする理久を、悠介はただ静かに真っ直ぐ見据えていた。
続けて理久は口を開く。
「なんか、うまく言葉にできないけど……いろんな偶然が重なっただけで誰も悪くないと思うよ。偶然、悠介の才能が開花して、偶然、中里は現実を見ることになった。たったそれだけのこと」
「……そ、うか?」
「そうだって! 第一、ライバルが急に天才になったから諦めるって……それこそライバル失格だッつーの! 本当のライバルってのは、わ……わ、私みたいに無駄に諦めの悪い奴がなるもんだし!」
そう言っていることから思い当たる節がいくつかあるらしい。若干顔を赤くさせた理久を呆然と眺めたあと、悠介は思わず吹き出して肩を震わせる。
「な……なにお前、中里が俺のことライバル視してるから……妬いてんの?」
「ちが……ッ!? ……あぁもうそうだよ! 悪いか畜生!!」
自暴自棄になりながらも、理久の声が車内に響く。
なおもクスクスと笑い続ける悠介の隣で「と、とにかく!」と理久は叫んだ。
「なんかもうよく分からないけど、宣言したからには勝負、勝つ気でいくから! あっちは本気にしてないみたいだけど……」
「当たり前だろ、お前部長なのに知らねぇの? 中里たちがいるあそこ『佐伯総合高校』って結構どの部活も強いぞ。もちろん文芸部もな」
「はぁ!? あそこが佐伯総合だったの!? あの頭が良い!? 校長が元暴走族って噂の!?」
「なんだよ、その噂……」
「え、違うの?」
「いや知らねぇけどさ」
やっといつもの調子に戻りつつある会話をしながら、理久は少し安心した。
思わず笑みがこぼれる。
ーー大丈夫、皆で頑張ればきっと
一年生最初の夏休みは幕を閉じ、早くも冬への準備に取りかかろうとしていた。




