22話 七夕、休日部活動
珍しくフッと目が覚めた。
まだ覚醒しきっていない頭の中、ほぼ無意識にベッド右脇のナイトテーブルへ手を伸ばす。黒い端末の電源を入れると、上部に表示されたのは「8:36」。昨夜、眠りについたのは九時半頃だったような気がするから、だいたい11時間ほどだろうか。いくらなんでも寝過ぎだろ、と少しずつハッキリしていく脳内で思いながら、久しぶりに熟睡したことを身を持って体験した理久はベッドから体を下ろす。部屋の西側に設置された窓は網戸越しで全開のはずなのだが、さすが夏の始まり七月上旬というべきか、そよ風すら入ってこない。
気持ちよく目覚めたというのに、状況は最悪だ。ジメジメとした嫌な空気から早く出たくて、素早くTシャツと半ズボンというラフな格好に着替え、窓とは正反対にある扉を開けた。
北と南に伸びる廊下を右折し、階段を降りて行く。そのまま、また右折しリビングへと足を進ませた。テレビとソファ、理久の自室にもある白いちゃぶ台のようなものや、タンスなどがシンプルな構成で置かれた一室からは、賑やかな声が聞こえている。
「……何してんの?」
朝イチのせいか、若干しゃがれた声色になっていたがそんなことお構いなしで、部屋中心のちゃぶ台にいた海斗は顔を上げ、満面の笑みを見せた。
「りくネェ、おはよう!」
「お邪魔してまーす」
「はざーッス」
「……祥子ちゃん来てたんだ、いらっしゃい。あと、隆司の挨拶適当だな」
「サッカー部じゃいつもこうだよ」
そう指摘されながら理久はソファへ座った。足元ではニコニコする海斗がじゃれついてきて、眼下のちゃぶ台を囲むのは祥子と隆司だ。笑和屋の近くでアパート暮らしを始めた祥子は、頻繁に琴平家へ足を運ぶようになった。恐らく今日も遊びに来たか、勤務先の店主である拓人との楽しい仕事話をしに来たか。多分後者であろうな、と理久は予想する。最近はそのことばかり嬉しそうに語っているのだ。
母の雅恵と末っ子の陽菜は買い物にでも出かけているのか、姿は見えない。
テレビのリモコンを手にとった理久に、海斗は「りくネェ! りくネェ!」と声をかけた。
「りくネェも一緒にやろう!」
無垢な笑顔。唐突なタイミングで言われた誘いに、理久はリモコンを手から下ろして、顔をしかめる。
「……? 何を?」
「明日、小学校で七夕祭りやるんだってさ」
「七夕祭り?」
隆司に会話の補足をしてもらい、後ろのカレンダーへ振り返った。自分の携帯で今日の日付けを確認する。なるほど、確かに明日は七月七日、七夕祭りである。
もうそんな季節か、と呟きながらテーブル上で散らかるものの正体を悟った。輪っかになっていたり上手な切れ目が入っていたりする折り紙は、ただ単に遊んでいた訳でなく、どうやらその七夕祭り用の飾りらしい。
「へぇ、小学校でやるのか」
「うんッ!」
「だから、明日は俺と理久で留守番してね、って母さんが」
夕方から夜にかけてやるんだって。天の川も見るらしいから。
……軽い天体観測みたいだな。
最近の小学校って、カリキュラムがすごいわねー。海斗も楽しみでしょ?
すっごく楽しみ!!
良かったねぇ。あーあ、あたしも天の川見たいなぁ。
拓人さんと?
ちょ!? 理久!?
「そッ、そんな関係じゃないから! 誤解しないでよ!?」などという言葉を耳にしながら、理久は短冊の形をした折り紙へ手を伸ばす。
黄色の短冊には『ちょうぜつむてきせんしジャスティスになりたい! かいと』と、お世辞にも綺麗とは言い難い字だが、幼稚園児らしい夢に溢れた願い事が書かれていた。
微笑ましくて思わず口元がニヤけるのを必死で我慢する中、隣から楽しみで仕方ないような声色が響く。
「りくネェも一緒に行こうよ!」
「えぇー……日曜日だからなぁ……」
「一年に一回なんだから、行ってきなよ。どうせ部屋にこもって、小説書いてるだけなんだし」
祥子から痛い発言を受け、喉に言葉を詰まらせる。拓人さんのことを言われた仕返しのつもりなのか、ニヤニヤとした表情が余計に腹立つ。
畜生、このままじゃマズイ。弟の付き添いで来ました、なんて言いながら行けば、軽くボランティアにされて児童たちの面倒をみることになるのがオチだ。書きかけの小説も仕上げたいから絶対に避けたい、そんな理久の思いも虚しく、さらに続くかの如く手元で飾りを作る隆司も呟いた。
「卒業生の方も大歓迎って紙に書いてたよ」
「……それだったら隆司も同じだろ、行くの?」
「残念、俺は友達とやるから。てかさ」
理久も友達とやりゃあいいじゃん。
そう言われて、しばらく考えた後「あ」と納得する。その手があったか。小学校ボランティアの危機を回避出来て、心中でガッツポーズをする理久の近くでは祥子が「ちぇー」と口を尖らせていた。
こうして、部長から文芸部員への一斉送信メールが送られたのである。
宛先:出雲茜、松野悠介、
御崎神楽、和多哲郎
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件名:なし
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明日、うちで七夕祭りする
けど来る?
「……うぉッ」
送信から一分も経たない内にメールが返ってくる。バイブレーションで受信を伝えてきた最初の人物は神楽だ。
相変わらず返信早いな、と感心しながら内容に目を通す。
受信:御崎神楽
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件名:(((o(*゜▽゜*)o)))
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行きたいです(*^^*)
「……可愛い」
件名まで絵文字なところも癒される。神楽とのメールのやり取りは日頃からやってため、絵文字をよく使っているのは知っていたが件名まで絵文字なのは初めてだった。
文面から十分すぎるほど伝わってきた、ホワホワとした空気に和んでいると二通目の受信。
受信:松野悠介
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件名:Re
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ガキか。
暇だから行く。
「うっわ、可愛くねぇ」
先程とは打って変わり、真逆の感想を口から漏らす。
しかも何だよ「ガキか」って、馬鹿にしてんのか、そう言いたいのを堪えていると再度、端末が震え出した。
受信:出雲茜
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件名:行きたい!
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知り合いの人から、笹の葉
貰ってくるね!
「人脈広すぎる……」
今時、笹の葉をくれる知り合いがいるのか……と改めて日本の平和さを感じながら、最後の一人哲郎の返信を待つ。
だが、結局バイブレーションが再び鳴り出したのは、送信から三時間ほど経った昼で、しかも内容は思わず目を見張るものだった。
受信:和多哲郎
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件名:なし
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数学のワークってどこまで
やるんだっけ
「何の話!?」
七夕祭りについてのメールを送ったはずが、返信は数学のワークについての話。残念ながら、理久のクラスでは哲郎が受ける数学教師とは違う先生が担当しているため『ワークについては同じクラスの佐野に聞け』と、完全なお手上げメールを送信。すると今度はすぐに返信がきて『ありがとう、七夕祭り行きたい』との文面。人の話を聞いているのか、いないのか。
哲は不思議だなぁ、という感想を胸に秘めつつ、時間と待ち合わせ場所を設定し、また一斉送信する。久しぶりに明日が待ち遠しくなった自分がいることに気づき、少しだけ頬を緩めた。
◇◆◇
ありがたいことに翌日は快晴だった。
綺麗な青空に真っ白な雲がフワリフワリと漂っており、互いに交差するような流れのおかげで今日の空がどれだけ高く澄み渡っているのか、よく分かるくらいだ。だがその快晴故か、気温も並大抵ではなくジットリとした暑さが体に纏わりつく。
シンプルなツバ付きの帽子を被った理久は思わず「うわぁ……」と呟く。口から漏れた感嘆の言葉は、果たして美しい青空のことを指しているのか、はたまた気温のことなのか定かではないが、眉間にしわを寄せているので恐らく後者なのだろう。
仕方ない、もう七月だし、と理由になっているようでなっていないようなことを思い、理久は気を取り直して最寄り駅へと向かった。
いくら普段から人気の少ない駅だからと言って、七夕という今日も人がまったくいないことは、まずあり得ない。もしかしたら、自分と同じように七夕祭りをするため、親戚やら何やらを招待している家もあるだろうし、多少駅は混雑しているはず。
そんな理久の予想はズバリ命中しており、着くや否や小さな駅前には人がごった返していた。
「まずいな……」
苦悶の声を漏らしながら、駅内に目を凝らす。視力には自信がある方の理久だが、さすがにこの大勢の中からたった四人の部員を見つけ出すのは、極めて困難だ。しかも、あまり見たことのない私服となるともう誰が誰だか分からない。笑和屋でバイトをする際に何度か私服は見たが、結局それが最初で最後だ。休日にどこかで待ち合わせをするなんて、今日が初めてである。
「どんな服なのか聞いておけば良かった……」
だが、そんな理久の後悔は突如吹いた夏風により掻き消される。
やや強めだったため、ほぼ反射的に目を瞑りそうになった、ほんの一瞬。
駅の端、掲示板の辺りで緑色のものが揺れたのだ。
遠くから見ても分かる、それは恐らく今日の主役と言っても過言ではなく、絶対不可欠のものだった。かぐや姫が生まれた、と昔から言い伝えられている竹が立派な笹をつけて、そこに揺れている。
通り過ぎる人達が奇妙な視線を向けているのは明らかで、思わず他人のフリをしたくなる理久だが、主催者である以上そんな真似は出来ない。ゆっくりとした足取りで近づく。
まごうことなく、それは本物の竹だった。
「……マジかよ」
「あ、理久おはよう!」
「もう三時近いんだから、おはようじゃねぇだろ」
竹を担ぐ赤毛の少年、茜は横に立っている悠介からそう指摘され「いやぁ、いつも会うの朝だからさー」と笑いながら答えた。二人とも、Tシャツの上に半袖の薄い上着を羽織っていて、茜は足首辺りまでのカーゴパンツ、悠介は黒いハーフパンツだ。
自分と大差ないその格好を眺めていると、
「こ、ことりちゃん」
「……よぉ、理久」
控えめな声と眠たげなものをかけられ、すぐに振り向いた。
「あぁ神楽、今日親御さんから了承もら……」
神楽の身を案じたらしい理久の言葉が途切れる。釘付けとなった視線の先にいるのは神楽と哲郎だが、いつもと違うその姿に目を見開く。
レースをふんだんに縫い付けてあるが、それでいて派手ではない、さながら天使のようなチュニックにショートパンツと小さなブーツ。おまけに短めな半袖のカーディガンとくる。そんな神楽と合わせてきたかのような、爽やかで洒落たワイシャツと黒いベスト、長ズボンに身を纏う哲郎。いつもの紫色のピンも忘れずにつけている。
はたから見れば、きちんとしたカップルと勘違いしてしまいそうになるような格好に、息を飲む理久のそばで茜と悠介も尊敬の声を上げた。
「何かこの二人すごいよねー、本当に普段着なの? それ」
「……? 普段着だけど」
「イケメンだ! それをサラッと言える哲郎マジイケメン!」
「ファッション雑誌に載ってても違和感ねぇぞ」
どこで買ってんだ?
……さぁ?
え! 知らないの!?
だって父さんが買ってくるから。俺はその買ってきたやつを適当に選んで着てるだけで……。
ますますイケメン!!
そうこう話しているうちに、終いには竹を持つ高校生が、お洒落な男子を取り囲むというシュールな光景が出来上がる。何とも言えない思いでそれを眺める理久の裾を、何者かがクイクイと引っ張った。無論、誰が引っ張っているのかは必然的に消去法ですぐに分かったのだが。
「どうした、神楽?」
「あ、あのね。その……」
恥ずかしいのか、珍しく身をよじらせながら神楽は極自然な仕草で、理久の顔を覗き込む。それは俗に世で言う「上目遣い」というものであることを、恐らく知らずにやっているのだろう。あまりにもその動きが自然だったため、やられた理久も驚く。
「こッ……この服、どうかな」
「え?」
「その、お兄ちゃんが買ってきたんだけど……」
「神楽ってお兄さんいるんだ?」
「うん」
なるほど。何を納得したのかは自分でもよく分からなかったが、確かに何かの合点がいったような感覚を覚える。
「変じゃない……?」
「うん、可愛い。天使みたい」
「…………へ?」
「…………あ」
しまった、そのまま本音が漏れた……!? 口を滑らせたことに気づき、慌てて「いや、その決して変な意味で言ってる訳じゃなくて! かッ、可愛いよ! すごく可愛い! うん!!」と結局言っている内容は何も変わっていないようなことを、まくし立てた。
顔を俯かせてプルプルと肩を震わせる神楽を見て、気に障ったか? いや、そりゃそうだろ! いきなり天使だなんて言えばドン引きするに決まってる! などと脳内で考える。
「ご、ごめん神楽! あの、いやその……」
「ーーーーッ」
「うぉッ!」
いきなり抱き着かれて一歩後退する。
茜にはよくやられることだが、神楽からやってくるのは初めてのことだ。何だか今日は初めましてが、やたらと多いような気がしてならない。
硬直する理久の腰辺りに腕を回して、ギュッと服を掴む姿を眼下に見ながら、微かな声を聞く。「…………あ」
「あ、りがとう……」
「……おー」
ごめん神楽、今すげぇ恥ずかしい。
素っ気ない返事をしながら、理久は密かに心中でそう呟いた。
何が恥ずかしいって、自分の発言もそうだけど周りの人達の視線とか、ニヤニヤしてる茜とか、頬を赤らめて目逸らす悠介とか……は? 何で目逸らしてんの!? 違うからな! 何を誤解してるんだか知らないけど違うからな!?
「……何か理久が助けを求めるみたいな視線で、こっち見てくるけど」
「いいのいいの、気にしないで。何だかんだで嬉しそうだし」
「……ッ、目の毒だろ、あれ」
「そんなことないよー、仲睦まじい光景だって。もう、悠介ってば何想像してんの?」
「してねぇよッ!! あと、そのニヤけた面やめろ!!」
炎天下の中、いつもなら二十分程度で駅から家に着く道のりを、雑談を交えて歩くこと四十分。
「着いたよ」
そう言いながら玄関の扉を開けて、手招きをする。
昨日告げられた通り、下の兄弟三人と父母はいない。祥子からも今朝メールが届いており「拓人さんがね! 今夜、一緒にプラネタリウムへ行きませんかって!! どうしよう!? あたしどうしたらいいの!!」とのことだった。ベタ惚れじゃねぇか、と思いながら「行ってきなよ、楽しんで」短い返信を送った。そのままメールが途絶えたところから予測すると、恐らく理久の言葉通り行ったらしい。
……てか、拓人さんもプラネタリウムじゃなくて本物の夜空に誘えばいいのに。ある意味今日はそういうことをするのに絶好の日なのだ。たい焼き作りに情熱を注ぐ、ホワホワとしたイケメンオーラを思い出しながら「……まぁ、拓人さんらしいか」と勝手に納得する。
「わーい、理久の家だ!」
「綺麗……」
「お邪魔します」
「意外と普通だな」
「悠介は私の家に何を求めていたんだ……あ、茜。竹は玄関に置いとけ」
「はーい」
眉を潜めながら返すと、悠介は「いや、別に」言葉を濁した。何だよそれ……と呟きながらも、理久は気を取り直してリビングへと向かう。
「そこの白いテーブル辺りに座ってて。飲み物持ってくる」
「私も、手伝う」
理久と共に神楽もキッチンへ消えて行くのを見送った後「あ、そうだ」と呟くや否や、茜はいつものショルダーバッグをゴソゴソと漁り、束のようなものを取り出した。
色とりどりの紙をテーブルに広げる。
「折り紙買ってきたからさ、飾り作ろうよ」
「そうだな」
「短冊の他に何飾るんだ?」
適当な場所に座りながら疑問を投げかけた哲郎へ、茜は楽しそうに答える。
「うーん……何でも大丈夫だと思うけど、鶴とか作る?」
「七夕関係ねぇだろ」
「折り紙なんだから平気でしょ。てかさ、悠介って鶴作れるの?」
「な、何だよいきなり……」
「いや何か、作れなさそうなイメージあるから」
「はぁ?」
茜の言葉に哲郎もコクコクと頷く。
なぜそのようなイメージが植え付けられているのか、よく分からなかったがその発言自体、気に喰わなかったらしい。悠介はピクリと眉を動かすと水色の折り紙を手に取った。
「ふざけんな、鶴くらい作れる」
「おぉマジか」
「マジだ」
「……何してんの?」
キッチンから戻ってきて、盆に麦茶を人数分載せた理久が呟く。その背後でお菓子の袋を抱える神楽は、悠介が折り紙を折る手順で分かったのか「あ、鶴……?」と、なぜか嬉しそうに言った。
二人とも腰を下ろしたところで、茜が補足する。
「悠介が鶴作るんだってさ」
「どういうこと話したら、そうなるんだ……七夕なんだから短冊に願い事書こうよ」
「鶴も、願い事叶えてくれる」
「え? そうなの?」
「お兄ちゃんが昔言ってた」
「……神楽ってお兄ちゃん大好きなんだね」
さっきの服の話を思い出したらしく、苦笑する理久の感想に、神楽はハッとして顔を真っ赤に染めるが、静かに頷いた。恥ずかしいのか、やや躊躇いがちなところが、お兄ちゃんっ子の妹らしくて可愛い。
「や、優しいから……」
「へぇ、会ってみたいなぁ。何歳?」
「十九の大学生」
「三つ上か」
「仲良さそうだねぇ」
「うん」
「……ッ出来た! 見ろ茜! 鶴だ!」
「悠介、本当に作ったんだ」
「しかも、鶴だけでそのドヤ顔って……」
「どうだ、完璧だろ! だから、さっきの言葉を訂正しろ!」
「え! そんなに気にしてたの!? 何かごめん!」
「理久、短冊書けた」
「哲は一人で黙々と作業してるし……って、何この願い事!?」
「ダメか?」
「いや、ダメじゃないけど……」
「ねぇねぇ、短冊五個じゃ寂しいからさ一人二枚ずつ書こうよ」
「鶴、もう一個作ろ」
「私も……作りたい」
「ちょっ! 君達自由すぎる! これ七夕だからな!?」
「一年に一回なんだから大目に見てくれるよー」
「織姫と彦星何だと思ってんの!?」
「大丈夫大丈夫、ほら理久も短冊書こう」
はい、と笑顔で渡される黄色の短冊。
いつもこの笑顔と言葉に流されているような気がするな……。そう思いながら、渋々それを受け取り、何気なく色のついた表を見て思考が一瞬停止する。
『せかいせいふく!! 茜』
「…………茜」
「なぁに?」
「今、いくつだっけ。歳」
「……? 十五」
「嘘つけ!」
「否定された!?」
「十五歳でこの願い事は書かないだろ! せめて漢字! 『世界征服』くらい漢字で書こうか!?」
「だあもうッ! うるせぇよお前ら! イチャつくなら他所行け!」
「してないから!! てか、悠介も鶴折るのいい加減にしろ! 大量生産すんな!」
七月にもなると日が長くなる。
やっと暗くなり始めた八時頃、昼間の快晴のおかげで藍色の空には小さな星々が瞬いていた。見兼ねた茜が庭に竹を刺し、現在は作った飾りをつけているところだ。賑やかな声が響く中、その様子を眺めるように縁側に座る理久は手元の黄色い短冊に目を向ける。
しばらくそのままでいると、正面から声をかけられた。
「りーく」
立ちながらそう呼んだ茜に反応して顔を上げる。
「そろそろ飾り終わるから、それも頂戴?」
それ、と指しているのは理久の手中にある短冊のことだろう。催促するように右手を差し出されるが、理久は一瞬表情を消した後、自嘲の如き苦笑いで首を横に振った。
「いや……これ、失敗したやつだから」
「そうなの?」
「……うん」
理久の言葉に対して、不思議そうに見つめる茜だが、やがて「分かった」と微笑み背を向ける。
だが、
「……あのね、理久」
「?」
顔だけこちらに戻しながら、茜は優しい笑みで呟く。
「今日だけは、どんな願い事も叶うんだよ」
はたから聞けば意味深な言葉に聞こえる。が、今の理久にはその一言だけで十分すぎるほどの、茜の気遣いが読み取れた。
やはり、自分に嘘をつくことは向いていないらしい。この短冊が失敗したものではない、と部員にバレてしまったことに、さっきとは違う意味で苦笑する。
今日だけはーー今日だけはあの人も私のことを許してくれるのだろうか。
短冊を眺めながら、そんなことを思ってしまう。
粉砂糖を振り撒いたような夜空の下、全員が二個ずつ書いた短冊とカラフルな鶴が夏風に揺れた。
◇◆◇
「ただいまぁ」
茜たちも解散し、夜も更けた頃。
玄関の扉を開けてそう言ったのは、腕の中で眠る陽菜を抱えた雅恵だ。その後ろから海斗をおぶった和義も入ってくる。
返事が返ってこないことに不審感を抱き、二階の寝室に二人を寝かせた後、リビングへと下りながらもう一度声をかけた。
「理久? もう寝たの……」
後半の言葉が小さくなったのは、縁側のそばで雅恵に気づいたらしい隆司が口に人差し指を当てていたからだ。しゃがみ込む隆司の足元では、他人が見たら倒れているようにしか見えない格好で寝息を立てている理久がいた。
風呂には入ったようで服装はシャツに半ズボン、首に巻いたタオルは役目を果たしておらず髪の毛は濡れている。
年頃の女子高生とは思えないほど無防備なその姿に溜め息を吐きながら、雅恵も縁側へ近づく。
「また髪の毛乾かさないで……いつから寝てるの?」
「知らね、俺も今帰ってきたから」
それより母さん、と隆司は小声で続けた。
「庭の竹どうしたの?」
「竹?」
復唱しながら窓の外を見てギョッとする。朝までなかったはずの立派な竹が庭に生えていたのだ。驚くのも無理はない。
娘が友人を家に招待したのは知っていたが、竹のことは何も知らない雅恵は目を見開きながら唖然とする。隆司は恨めしそうな声色で呟いた。
「俺、智樹の家で七夕やってきたけどこんなしっかりした竹じゃなくて、もっと小さいやつだったぜ? なんで理久には、でっかいやつ渡したんだよ」
友人の名前を口にしつつ、不機嫌そうに言う隣で、雅恵は首を横に振りながら「……うちには竹なんてないはずなのに」と力無く答える。
疑うような表情だったが、その言葉を聞いて多少の怒りは収まったらしく、隆司は「まぁ別にいいけどさ」腰を上げてボソリとこぼした。
「……短冊」
「え?」
「短冊、見てきなよ。何か面白いことばっかり書いてる、理久も理久の友達さんも」
いつもよりぶっきらぼうな言い方で、そう告げるや否や隆司はリビングから出て行く。しばらく呆けたようにポカンとしていた雅恵だが、やがて静かに窓を開け庭へと足を進ませる。
見知らぬ竹は近くで見ると本当に立派で、ガッチリとした強さを放っていた。
カラフルな鶴から折り紙を切り取ったものまで丁寧に飾りまでつけてあり、隆司に言われた通り手近な短冊を手にとってみる。
『購買のハンバーガー買えますように。 哲郎』
七夕とは何の関係もない願い事に、思わず吹き出す。学校の購買は毎日戦争だ、とは理久からよく聞いていたがこの場で書くほどのことなのだろうか。
「哲郎くん……って、確か絵が上手な子だったような」
名前とスペックだけならよく聞かされるため、何となく思い出しながら他の短冊にも目を向けた。
『皆とたくさん良い思い出が作れますように。 神楽』
『小説を書く者として、上達しますように。 悠介』
『テストで赤点回避! 茜』
「あらあら」
個性溢れる短冊を眺めていくと、全員二枚ずつ書いていることが判明する。
しかも、
『部誌コンクール優勝』
二枚目の内容は全員同じ、部誌コンクールのことだった。打ち合わせでもして同じにしたのか、偶然こうなったのか雅恵には分からなかったが、それでも全員で願うことに意味があるのだ、と微笑む。
隆司はきっとこれが面白くなくて、機嫌が悪かったのかもしれない。
『東台高、行かない。志木高校に行く』
真っ直ぐな目でそう言われたのは確か中二の秋だっただろうか。地元の高校には行かず、わざわざ遠い場所を選んだ理久には、何か理由があったようにも見えたが結局何も言っていない。きっとこれから先も、言うことはないのだろう。
反抗期と重なっていたのも原因の一つかもしれない。進路決めでは志木高校以外目もくれず、雅恵や和義が何を言っても聞かなかった。
たった一人で受験して。
合格して。
入学して。
友人が出来て、部活を創って。
そんな理久を中心として回り、統一感がないようでどこか繋がっていることが、羨ましかったのだろう。
そう思いながら笹を掻き分けていると、海斗と同じ黄色の短冊が姿を見せる。理久のかな、と予想しながら文を読んで一瞬思考が止まった。
『紗也の病気が早く治りますように。 理久』
優しい筆跡で書かれた願い事には様々な思いが込められている。懇願、後悔、悲しみ。
そして、謝罪。
すべてを認めた上で、理久は少しずつ乗り越えようとしていた。ずっと心に引っかかっていることを。
目を背けていることにもう一度向き直そうとしたのには、少なからず友人の後押しがあったのだろう。
振り向いて縁側の方を見る。静かに体を上下させる理久へ、心中から囁いた。
良い友達が、出来たんだね。
頭上を見上げると広がる天の川。
星屑を散りばめた夜空で一年ぶりの再会をする織姫と彦星のように、理久とあの人もいつか分かり合える。
いつも一緒にいた二人の残像が見えたような気がした。




