1話 茜色、揺らめく
春風が柔らかに頬を撫でる。
もうすっかり散ってしまった桜の花弁で溢れる道を歩きながら、琴平理久は掠めた風を愛しく思い顔を上げた。
住宅街の上に広がる快晴。
真新しいランドセルを背負いながら走る子。
慣れないスーツ姿で駅へと急ぐ社会人。
いつもとは少し違う、その景色に思わずニヤけそうになるのを必死で堪える。町はどこも春一色だ。
差し掛かった横断歩道で青信号を待つ。
ーー念願の高校生
信号が変わり、待っていた人々が一斉に動き始める。
期待に胸を躍らせながら一歩踏み出したーーはずだった。
「危ない!」
どこからともなく聞こえたその声に立ち止まる。別に、発せられた言葉に反応して動きを止めることは不自然な訳じゃない。人間の心理だ。だからこそ自然と取ったその行動が、仇となった。
周囲の人間が息を飲む。
それとほぼ同時に理久の耳に鳴り響いたクラクション。
背後から迫るトラックに振り向く。
車体はもう手を伸ばせば届く距離にいた。
頭が真っ白になり、一瞬だけ世界の時間が止まったように感じたーー刹那、
「ッ!」
体が横に傾く。ズレていく重心に身を任せると、さっきまで自分が立っていた歩道に倒れ込んだ。
「い……ってぇ……」
苦痛の呟きをこぼす。
多少擦りむいたところもあるらしく、膝からは赤い液体が流れていた。痛みに顔を歪ませながらも体を起こす。
慌てて道路に目を向けるとそこには、いつもと変わらない日常が進んでいた。
「ーーえ?」
自分の後ろに迫っていたトラックもなければ、息を飲んでいた人々も普通に歩いている。
強烈な違和感に埋め尽くされたような気分。
まるで、さっきのことは夢だったかのように消えていた。
歩道に座り込む姿を心配したらしい、スーツを着こなした男性が理久に声をかける。
「あの……大丈夫、ですか?」
ハッと我に返る。口ごもりながら立ち上がり「だ、大丈夫です」と精一杯の返答を発すると、遠くから微かに聞こえてくるチャイム。
それが高校の入学式を知らせるものと気付くと、理久は全力疾走で駆け出す。
奇妙な違和感を抱きつつ、一年生琴平理久の高校生活はさながら嘲笑うかのように、始まりを告げた。
◇◆◇
県立志木高等学校は田舎でもなければ都会でもない、そんな町に存在する公立高校だ。
特にこれといった特徴はない普通科だが、志木高独特の授業や体験学習を取り揃えており、町内ではまぁまぁ人気の高校である。
お世辞にも決して綺麗とは言えない校舎と、学校名の由来である中庭に生える一本の桜、通称「志の木」が有名なのだが、朝から奇妙な体験をした理久にとってはそんな教師の話など、どうでも良かった。
ーー……気味が悪いな
入学式が終わった後の教室で、思い出しながらそう考える。
確かに自分はあの時、命を危機を体験したはずなのだが、気が付いたらトラックなんて見当たらず普通に人が行き交う横断歩道になっていたのだ。奇妙に感じるのもおかしくない。
「…………全部無かったことみたいだ」
いつの間にか始まったホームルームには耳も傾けず小さく、そう呟いた後自嘲的な笑みを浮かべる。
ーー気のせい、か
やっと担任の話を聞く気になり顔を上げた。
どうやら出欠を取っている最中らしいのだが、早々に担任嶋田先生が眉間にしわを寄せる。まだ三十代前半だろうが、しかめ面をされると老けて見えた。大人も大変だ。
「誰か、イズモ知らないか? 返事がないんだが」
少し大きめの声で問われた質問にクラスがざわめき始める。
「イズモアカネ。見た奴とかいないか?」
ーー顔分からないだろ
ほぼ初対面であるにも関わらず、今日は入学式なのだ。知らない奴の方が多いに決まっている。
謎のクラスメート、イズモアカネを三列目一番後ろの席から目で探す。だがそれらしき人物はいない。
ーーどこ行ったんだ?
ついに嶋田先生が探しに出ようとした、その時。教室前方の引き戸が勢い良く開かれた。
激しい音と不意を突いた行動に静まり返るクラス。だが、そんなものはまるで見えていないとでも言うように、引き戸を開けた少年は顔を上げるとなぜか満面の笑みで口を開いた。
「あれー、もう入学式終わった? やばいな、入学出来るかな」
軽い口調でそう言いながら、ズカズカと教室に足を踏み入れる少年を見て、嶋田先生はハッとしたように声をかける。
「き、君名前は? 入学式出てないのか?」
「あ、先生が担任ですか? よろしくお願いしまーす。ところで、ここらへんの町広いですね。俺迷子になりましたよー、この歳で」
「いいから、名前は!」
「おぉ忘れるとこだった。さっき犬拾ったんですけど小屋みたいなのってありますか? いやぁ、可愛いですよこいつ」
そう言って少年は、ショルダーバッグから茶色のフサフサとした生き物を、まるでノートを提出するように取り出した。突如現れた子犬に対し、教室が再びざわめく。だが子犬よりも嶋田先生と少年の会話が見事なまでに噛み合っていないことの方が、理久は不思議でたまらなかった。
ふと少年がクラスを見たと同時に理久は目が合う。たった一瞬だったのだが理久には少年の表情が読み取れた。
微笑み。
少年は理久を見て、微笑んだのだ。
「……?」
どこかで会った覚えはない。会話をした訳でもない。でも少年は微笑んだ。
ますます不思議に思いながらも事の行方と、目立つ少年の髪を見つめる。
「あれ、もしかして自己紹介とか終わってる? 参ったなぁ……完全に出遅れた。明日から早起きする練習しようっと」
饒舌に喋りながら少年はビシリと右手で敬礼をした。皆の視線を釘付けにする赤い髪の猫っ毛を揺らして、人懐っこい笑顔を浮かべる。
「はじめまして、出雲茜です! 好きな物は漫画で趣味はそこらへんブラブラすることです! ちなみに、この町は地元じゃないです!」
左手に子犬を抱えたまま威勢良く話す。
普通の自己紹介かと教室が胸を撫で下ろしたのも束の間。少年、出雲茜は決して期待を裏切らなかった。
「特技はーー未来を視ることです!」
その日、一年二組から校内中に盛大な怒号が響き渡ったのは言うまでもない。