16話 始動、二代目文芸部
「一年六組、和多哲郎です。よろしく」
「……御崎です、お願いします」
ついに六月を迎えたある日のこと。
長机の上に置かれた二枚の用紙。
入部届け、と印刷されてあるそれが理久の前に差し出され、数回目を瞬かせると思わず腑抜けた声を発した。
「え……っと、和多くんも入部してくれるの? ここ文芸部だよ?」
「だって居心地良いし」
「いや、そうかもしれないけど……」
理久の頭に蘇るのは、先日描いていたあの絵。今日は完成した方を見せてもらったのだが、前よりずっと綺麗になっており美術館で飾ってあっても不思議じゃないくらいだった。
だからこそ、ますます奇妙に思えてくる。
そんな素晴らしい才能を生かせる部活動が、志木高には存在するにも関わらず、なぜ文芸部を選んだのか。
「和多くん、あの。美術部とかにはーー」
「なぁ哲郎! 俺のこと覚えてる!?」
会話を遮った張本人、茜は自分の左隣から滲み出る理久の冷たい視線を受けながら、身を乗り出しそう問いた。どうやら会って間もない人でも呼び捨てをするのが茜の流儀らしい。その質問に哲郎は少し考えるような素振りで、手を顎に添えた後「あ」と呟く。
「うん、覚えてる」
「ほんと!? じゃあ、俺の名前は?」
「……出雲大社?」
「惜しい!」
「全然惜しくねぇよ!」
不安そうに会話を見守っていた悠介は、誰よりも早いスピードで噛みついた。
「それ島根県の建物! お前は人間だろーが!」
「頑張れ哲郎! 何となく合ってるから!」
「……ッ! 思い出した、アキアカネだ」
「かなり惜しい!」
「どこが!? もう人間じゃないからな!? いいのかお前! トンボでいいのか!?」
「じゃあ、前半部分と後半部分合わせてみて! それが答えだから」
「合わせる……」
哲郎はジッと茜を見据え、口を開いた。
「アキ大社?」
「近い!」
「むしろ遠いから! そっち合わせたら駄目だろ! もう何なんだよお前ら!?」
漫才のような会話に耳を傾けていたら何を言おうとしていたのか忘れてしまい、仕方なく一人静かに考えを巡らせた。バンバンと音を立てて机を叩く悠介を、気の毒そうに眺めていた理久の頭を一つの数字がよぎる。
ーー……あれ?
慌てて周りを見回し、間違いがないことを確認すると鞄の中からA4サイズの紙を取り出した。入学式が終わった後にもらった、この紙をいよいよ使う時がきたのだ。
「……揃った」
呟かれた言葉の欠片に皆、意識を戻す。
他の三人が不思議そうな表情をする中、茜は理久の手中にある用紙を見て微笑むと、背後からそれを覗き込んだ。
その光景は丁度二ヶ月前、初めて茜と理久が会話をした時と同じで。
俯きがちになっている頭を茜は優しく撫でる。
「ね? 集まったでしょーー部員」
「……うん」
「理久が頑張ったから、ちゃんと五人揃ったんだよ?」
「……ねも」
「ん?」
「茜も、手伝ってくれた……から」
ありがとう。
小さすぎる声で呟いた感謝の言葉に、茜は一瞬驚いたような表情を露わにした後、再び頬を緩ませる。
「どういたしまして」そう言ってさりげなく、理久の肩にかけようとした手を後ろから掴まれた。漂う不穏な空気にギクリと体が硬直する。
「……なぁにイチャついてんだよ」
「……ゆ、悠くん顔怖ーい」
「変なあだ名つけんな! つーか、部員が集まっただけじゃまだ足りないだろ」
「へ?」
思いがけない悠介の一言に理久は振り返ると、今にも噛みつかんばかりの勢いで叫ぶ。「な、何で!」
「部員もいるし、部室もある! まだ何かあったっけ!?」
「顧問は?」
「…………あ」
一瞬にして理久の血の気が引いた様子が、手に取るように分かった悠介は溜め息をつき「どうすんだよ……」と言葉をこぼした。
「顧問いなきゃ、提出なんて無理ーー」
「え? 顧問なら大丈夫だよ?」
笑顔でそう言った茜に二人はバッと頭を横に動かす。はったりか何かかと思ったらしい悠介は瞬時に疑いの目を、理久は輝きに満ちた目をそれぞれ茜に向け、同時に叫んだ。
「それ本当か!?」
「うん、大丈夫。任せてよ!」
◇◆◇
「……で、俺のところに来たと」
「是非、お願いしまーす」
期待に満ちた眼差しを浴びせる茜の前で、回転式の椅子を軋ませた教師、戸塚康太は苦笑いを浮かべた。採点中だったらしく、机の上には授業の手伝いをしている国語のプリントが散らばっている。
まだ二十代後半で文系担当であるにも関わらず、常に白衣を着用していることから学校から色々噂されている教師の一人でもある戸塚には、茜が絶対の自信を持つ理由があった。
生活指導担当、野上の睨みを背中に感じながら笑顔で言葉を紡ぎ出す。
「駄目ですか? だって戸塚先生、新任だからまだ顧問とか頼まれてないですよね?」
自信を持つ理由、それはこの春一年生と共に志木高へ来たということ。
新任、と言われ痛いところを突かれたのか戸塚は若干焦り始める。しどろもどろになりながら目を泳がせる様子を見て「この人嘘つけないだろうなー」と茜は心中で呟き、さらに攻撃する態勢を整えた。
「運動部に比べて、そんなに仕事とか遠征とかありませんよ。ただ部室にいてくれるだけでいいんです」
「でもねぇ……俺も一年くらいはこの学校の様子見たいし……」
ーー……意外と粘るな
苦しげな感想が自分の頭に浮かぶ。曖昧に話を濁した後「じゃ、そういうことで……」と言って戸塚は会話を終わらせようとするが、
「ーーこの前の教師親睦会で」
目を細めながら話し始めた茜に、再び顔を向けた。
「戸塚先生、酔って村川先生の胸触ったらしいですねーー?」
「ッッッ!?」
職員室だからだろうか。潜めた声がやけに妖しく、戸塚の耳を震わせる。
村川先生、というのは一年社会担当の村川恭子のことだ。自分と同じ新任で同年代、おまけにポニーテールがよく似合う美人で男子生徒からの人気も高い。
思い当たるところがあるのか「いや、あのそれはよろけて……」などと言いつつ冷や汗を流す戸塚を一瞥し、茜は膝の上に置かれた左手を眺めた。
「……リングフィンガー」
「へ!?」
「左手の薬指につける指輪は、そう呼ぶんですよ。愛の絆を深めるって言われてます」
「あ……そ、そそそうなんだ」
「結婚、してるんですね。新婚ですか?」
「うぇ!?」
妙な奇声を発したことから図星と判断したのか、茜は思いっきり意地の悪い表情で笑う。
「親睦会のこと、奥さんに話したら絆深めるどころかーーぶち壊れますよね……?」
「あぁ!! なななな何か急に顧問をやややる気が出てきたなあぁぁ!? 何だっけ! 園芸部!? 俺も一緒にやってみたいなぁぁ!」
「文芸部ですよ、戸塚先生」
「そそそう、それそれ。文芸部ね、文芸部文芸部……」
アハハハ、と力無く笑う戸塚の隣で茜はニコやかな笑顔で「ありがとうございます!」と述べた。どこから持ってきたのか教師用の「顧問申請書」を取り出し、勝手に戸塚の机の上へと置くと挨拶をして帰ろうとするが、
「あ、ちょ! 出雲くん!」
「はい?」
背後から投げかけられた名前に振り返る。
「何ですか?」
「え、いや……その、出雲くんってエスパーなの……?」
今までの会話に不信感を抱いたのか、恐る恐る呟いた戸塚の質問に茜は少し考えると、無邪気で可愛い子供を連想させるような笑顔で告げた。「惜しいですねー」
「ーー俺は未来人ですよ、先生!」
そう言い残して職員室を出て行ったのを呆然と見送り、静かな動作で椅子にもたれかかった。
今日一番の疲労と安堵が見える溜め息と共に、誰にも聞こえないような小声で言葉をこぼす。
「……違うだろ」
あの少年は、出雲茜はエスパーでもなく、未来人でもない。あれは、
「…………悪魔」
茜の異名はこれからも増え続けるだろう、会って間もない教師と生徒同士ながら、そう悟る戸塚であった。
◇◆◇
「はい、創部届けにサインもらってきたよ」
「おぉッ!」
嬉しそうに紙を見る理久の隣には、驚愕の表情で「なん……だと」と呟く悠介がいた。
待っていた間に説明を受けたらしい哲郎と神楽も賞賛の声を上げている。
「すごいな、アキ大社」
「えっへん! 俺だってやれば出来るんだよ! ……ところでその名前、あだ名だよね? 素で間違えてる訳じゃないよね?」
「……あれ、違ったっけ?」
「間違えてたよ! この子素で覚えてないよ!? そりゃ確かに女子みたいな名前してるけどさ! そんなに覚えにくい名前かな!?」
「すごいな茜!!」
涙目で反論する茜の両手を理久はギュッと握った。
「ごめんな、部員だけじゃなくて顧問まで探してもらって……」
「理久……」
申し訳なさそうな表情で顔を覗き込んでくる姿に、茜は少し頬を赤らめると「全然、大丈夫だよ!」と言い放つ。
「俺だって文芸部の一員なんだし! あ、でもご褒美は理久からのハグが欲しいなぁ……なんてね!」
「またお前は調子に乗って……小説にしか興味のない琴平が、簡単にそんなことしてくれる訳なーー」
「そんなものでいいのか? はい」
「ーーえ」
茜と悠介の声が重なる。
同時に哲郎と神楽が「あ」と一緒に呟いたが、もはや茜には聞こえていなかった。
自分の胸元が暖かな人の温もりで包まれたと思いきや、背中に回された腕に体を引き寄せられ、完璧に密着する形。フワリと鼻腔をくすぐる香りは柑橘系のシャンプーだろうか。
普段なら自分から抱きつくはずなのに、あまりの突然さに行き場をなくした両手が宙で震える。ジワジワと、それでいて急速に全身を侵食していく熱が頬を撫でた感触がリアルに伝わってきた。うずめていた顔を上げる理久の上目遣いが、しっかりと茜の双眸を捉えて絡み合う。そして、
「ッーー」
「は?」
ゆっくりと音もなく、後ろへ倒れる。
だが、やはりと言うべきか音がないように聞こえたのは倒れている間だけで、床に全身を打ちつける痛々しい様子は耳に届いた。
まるで死体の如く動かなくなった茜が、第二図書室の床で転がるという実にシュールな光景が出来上がる。
「……な、茜!? どうした!」
「琴平……お前って奴は本当に……」
「何その言い方!?」
一変して慌ただしくなるこの場に、なぜか盛大なノック音ーーではなく勢いが良すぎるくらいに引き戸が開く音が鳴り響いた。
「おぉーい園芸部、顧問が様子見に来てやったぞー……って、はッ!? い、出雲の死体が!?」
「勝手に殺さないでください戸塚先生! そしてここは文芸部です! つーか、出雲もいい加減に起きろ! 誰かに踏まれても文句言えないからな!!」
「なぁ、これ本当に大丈夫なのか? 息してるか?」
ーー……あぁ、もう騒がしいなぁ
頭が痛くなりそうな思いで眉間に指先を当てていると、心配そうに顔を覗き込んだ神楽と視線が合い二人でクスリと笑った。
窓際では初夏の風に揺れるカーテンと、茜が勝手に持ってきた風車が心地良い音を奏でている。
カラカラと、まるで狂った時計の針のように回り続ける赤色の風車は、この景色を嘲笑っているのだろうか。
カラカラと、カラカラと。
未来への針は進み始めた。




