15話 もう一度、世界の外側へ
夕闇の中、いっそう輝きを増す刃物。
小学生の時、私は運悪く通り魔に遭った。
たまたま酔っていた犯人だったから、凶器は掠めただけで大怪我はしなかったものの幼い心には、少なからず恐怖とトラウマを植え付けてしまい、それ以来両親は私をあまり外へ出そうとしなくなったのだ。
でも私には、違う意味での恐怖も植え付けられた。
私を助けてくれたのは通りかかった近所の青年なのだが、両親がお礼をしている時彼は笑顔でこう言ったのだ。
『神楽ちゃんは、大切ですからね』
最初はただのロリコンかと思ったが、次の瞬間両親がとった行動を見て、すぐにそれは違うと悟る。
お金を、渡していた。
とどのつまり、私は近所の知り合いだから助けられたのではない。
金持ちの娘だから、助けられたのだ。
それが嫌で、たまらなく不快で。何度家出しようと思ったか。何度死のうと試みたことか。
だから、変わりたかった。
「御崎家」の名を背負う私ではなく、もっと違う自分に生まれ変わりたくて、両親の反対を押し切り公立高校を受験したのだ。合格した時は本当に嬉しくて、一緒に喜んでくれる人はいなかったけれど友達が出来て、楽しく過ごせれば認めてくれると思っていた。
私の気持ちを、分かってくれると。
でも現実はうまく事を運ばせてはくれない。
変わり者と呼ばれ、周りから邪見にされて。
違うんだよ、私はただ皆と友達になりたいだけなんだ。
皆と同じ場所に立ちたいだけで。
同じ景色を、感情を分け合いたいだけで。
少し環境が違うだけで、私はそばにいちゃいけないの?
何でもかんでも、私を仲間ハズレにしないでよ。寂しいから。
涙が溢れるくらい悲しくて、傷つくから。
そんな私だったから、あなたが手を差し伸べてくれたのが、本当に本当に嬉しかったんだ。
◇◆◇
「……ねぇ、神楽ちゃん」
窓を見つめたまま、理久は静かに語りかける。庭一面に生えた芝生が足元で、そよ風に揺れていた。
「もし、神楽ちゃんが本気で変わりたいって思うなら私手伝うよ」
自分で言いながら、似たようなことを茜にも言われたな、などという考えが頭をよぎる。
あの時自分が助けられたように、この子も助けてあげたい。本気でそう思った。
「いっぱい、いろんなこと話して発見して、神楽ちゃんのことたくさん知りたい」
イーゼルの前で勇気をくれた少年の姿を思い出す。
「本当の友達に、なりたい」
理久が力強く言った言葉に、茜と悠介は顔を見合わせると呆れながらも笑う。きっと理久は「なりたい」のではなく断られても「なろうとしてる」のだ。それは、一度決めたら最後まで歩こうとする理久の頑固さを知っている者だけが考察出来る、いわば裏の本心でもある。こうなったらもう止まらないことを予測した茜は勝利を確信したが、遮るように呟かれた低い声に意識を戻した。
「何……言ってるのよ」
ワナワナと拳を震わせながら、そう言ったのは玲楽だった。
「神楽は、神楽はうちの大切な娘よ! 無闇に外へなんて連れ出したら何が起こるか……! 変わりたいだなんて、そんな都合の良い我が儘言わないで。まだ、ここで安全に暮らしていればいいの! あなたたちに何が分かるのよ!」
「お母さん」
有無を言わせない迫力の口調に、玲楽は驚いて顔を上げる。
「私は神楽ちゃんが、お母さんの言うような弱い子だとは思いません」
「ッ……! だから、あなたに何がーー」
「知ってますか? 神楽ちゃん、学校で軽いいじめを受けているんです」
一瞬にして玲楽の表情が凍った。
まるで今目の前で誰かが殺されたかのような、その目に次々と涙が溜まっていく。
薄々とだが、何となく気づいていた茜と悠介は「やっぱりそうか」と言いたげな顔色を見せた。感情が高ぶるのを必死で抑えながら、理久はあくまで淡々と告げる。
「苦しくて悲しくて、心配して退学させられるかもしれないから親にも言えずに、あの子は一人で闘っていたんです。どれだけ傷だらけになっても、ひとりぼっちで寂しくても立ち上がる。きっと誰よりも神楽ちゃんは優しくて、強い」
嗚咽が漏れて、豊かな緑に雫がポタポタとこぼれ落ちる。ついにしゃがみ込んで泣き始めた玲楽を一瞥すると、理久は再び上を見た。
「神楽ちゃん」
「外は楽しいよ、不思議なこととか面白いこと、たくさんある。この際だからバラすけど、茜は自称未来人だし悠介は現役作家なんだよ。知ってた?」
「ちょ、理久! それ今暴露すること!?」
「いいじゃんか、別に。どうせ入部すれば分かることなんだし」
「あ、もう入部は決定事項なんだ」
「相変わらず横暴だな、お前は……」
呆れたように溜め息混じりで、二人はそう言うが心なしか理久には嬉しそうに見えた。
笑顔で両手を広げる。
「一緒に行こうーー神楽ちゃん」
ーーあぁ、いいのかな
窓の下で自分を待っていてくれる三人を眺めながら、そう思う。
ずっとずっと、ここから出たかった。
外の世界に憧れていた。
でも、分かってたんだよ。仮に出られたとしても行く宛がなくて。どうせ私を歓迎してくれる人はいなくて。
だけど、それでもいいよって、あなたたちは迎えてくれるの?
一緒に行こうって、私の手を引いてくれるの?
ーーだったら行かなくちゃ
きっとこれを逃したら、もうチャンスはない。開くはずのなかった扉が開かれ、身を乗り出すと毎日見ていたはずの青空が、いつもより輝いて見えた。
「ーーえ」
三人の声が見事にハモる。
それもそのはず、窓が開いたと思った瞬間少女はーー。
軽やかなダンスを思わせるジャンプで、宙に体を投げたのだから。
◇◆◇
窓に足をかけた辺りから、理久の顔色は青ざめ始めた。何となくだが、これから絶対に起こるであろう出来事が茜より先に予測出来たのは、これが最初で最後かもしれない。
「茜! 走れ!」
それを合図に弾丸の如く飛び出した茜とほぼ同時で、ふんわりとレースのスカートが上へ、神楽の体は下へ動く。
「ッッッ!」
ーー間に合わない!
全身を使って走らせながら、そう判断した茜の横を風を連想させる勢いですり抜けた人影。通り過ぎる瞬間、目に止まったのは見覚えのある紫色の光で気がついたら、その人影は落ちてきた神楽の下敷きになっていた。
見事なスライディング音が芝生と共に、風で舞い上がる。
慌てて駆けつけた悠介は神楽に手を貸してあげるが、後から来た理久は立ち尽くす茜に声をかけようとして、草をはたきながら体を起こした人影を見た。
いっそうボサボサになった茶髪が揺れ、徐々に上げた顔に表情を変える。
「……どうも」
「あぁッ! イーゼルの人!」
「思い出したッ! 居眠りしてた人!」
茜と理久の奇妙な言葉が続く。叫んだ後、二人は顔を見合わせると口を揃えて、短く声を発した。「……え?」
「なんだ茜。知り合いか?」
「理久こそ、知ってる人なの?」
「いや、だってさっき会ったばっかりだし」
「さっき!? 俺は結構前なんだけど……」
「何の話してるんだよ」
訳が分からない悠介は冷静にツッコミを入れる。隣でその様子を見ていた神楽は、玄関先で座り込んでいる母親を見つけ近づくと「お母さん」と小さく呟いた。
「あのね、私ーー」
「神楽」
玲楽は名前を呼んで立ち上がると、神楽を優しく抱きしめた。涙混じりの声音が耳を震わせ、暖かい体温で体が包まれる。
「ごめんなさい……お母さん、何も気づいてあげられなかった。辛かったでしょう……ッ本当に、ごめんなさい」
「……そうでもなかったよ」
ゆっくりと玲楽の体を引き離すと、神楽は微笑みながら言い放つ。
「嫌なこと、たくさんあったけど楽しい放課後になれば全部、忘れられた」
すごく楽しいんだよ。
そう言って嬉しそうに、はにかむその姿はあどけない少女の面影を残しておきながら、どこか大人で凛としていた。
再び自分の頬に伝うものを感じ、玲楽は指先で目頭を拭うと「そうなの」と笑う。
「良い友達が、出来たのね」
「ッ! うん!」
「……いってらっしゃいよ、あの子たちのところ」
「ーーえ?」
「帰りは寄り道せずに真っ直ぐ帰ってくるのよ、暗くなったら迎えに行くから」
そう言うと玲楽はポケットからおもむろに一枚の紙切れを取り出し、何かを押し付けた。神楽の手に握らせたそれは、かなり前に捨てたはずの入部届け。何枚も書いて、やっぱり勇気が出なくて何枚も捨てていたのを玲楽は知っていたのだろうか。家の判子が押された立派な紙へと早変わりしたものを、胸に抱いてスカートの裾をひるがえす。
「いってきます!」
元気な声で伝えた言葉が、青空に吸い込まれた。




