14話 歌、心の灯り
忘れもしない「あれ」は自分が小学生の時。
いつものように友達と遊んだ後、一人で夕暮れに染まる道を歩いていた。小さな背中から伸びる影は不気味なまでにユラユラと蠢いていたのを、今でもはっきり覚えている。
あと少しで家に着く、そう思って道角を曲がろうとした。刹那、
私は、正面で振りかざされた刃物が夕闇に輝くのを見た。
「……ッ!」
早くなっていく心臓の鼓動を感じながら、神楽は目を覚ました。自室の壁に寄りかかって考え事をしていたら、いつの間にか眠ってしまったらしい。時計に眺めるとさほど時間は経っておらず、意識を手放したのはせいぜい15分程度だろうか。爽やかな初夏の風が吹き抜けているのに体中、嫌な汗が張り付いていた。
ゆっくりと頭に浮かんでくるのは、さっきまで見ていた昔の夢。
吐き出しそうになる恐怖心を飲み込んで縮こまると、窓から入ってきた風と共に机の上から何かがハラリと落ちた。床に着地した入部届けには女子特有の丸字で「文芸部」と書かれている。
ーー教えてくれて、ありがとう
偶然聞いてしまった理久の言葉が脳裏を掠める。本当はあの時、入部届けを出したくて話しかけるチャンスを窺っていたら運悪く自分のクラスメートに先を越され、おまけに家のことまで言われてしまった。しかも、それに対して理久はお礼の言葉を述べていたのだ。
ーー……やだ
きっと理久は自分を特別視する、クラスメートと同じように。
短い間だけだったけど仲良しで過ごせたのが嬉しくて、だからその分嫌われるのが怖くて。
部活にも顔を出さなくなった。
クラス内での自分の立場も脆くなった。
学校に行きたくない。
会いたくない。
震える手で紙切れを掴むと、歯を食いしばって指先に力を入れる。ゴミ箱へ捨てよう、そう思って立ち上がった、その時。
「ーー!」
家の外から響いてくる声にビクリと反応する。何を言っているのかよく聞き取れないが、必死に叫んで呼んでいるのはすぐに分かった。やがて、それが言葉の形になって神楽の耳を震わせると驚いて部屋を飛び出す。
廊下の突き当たり、正面玄関が見える窓を開けると久しぶりに対面する三人がいた。
◇◆◇
「本当にここで合ってんのか?」
「うん、多分」
「間違ってたらどうするんだ、一回クラスの奴に連絡とって確認した方が……」
「もぉ、悠介は頭固いなぁ。謝れば許してくれるよ、多分」
「確証なさすぎて心配なんだよ!」
喚く悠介を笑いながら流した茜は「理久」と無表情で家を眺める少女の名前を呼んだ。
「着いたけど、何するの?」
茜の問いかけに理久は反応せず、そのまま門の前に立つと細い棒になっている部分を選びながら足をかける。慎重に門をよじ登る、というごく自然にやってのけている行動だが、肩を震わせ始めた茜を見てか、心配になった悠介はその光景を目の当たりにし一気に顔を青ざめた。
「おまッ! 何やってんだ、下りろ! 不法侵入だろ!」
「平気平気、真っ昼間から不法侵入する馬鹿な犯罪者はいないから、大丈夫」
「どこも大丈夫じゃねぇよ!」
「り……理久ってば、最高……! アハハッ!」
「何にツボってんだ! 笑ってる場合じゃねぇだろーが!」
そうこうしている内に、理久の姿は既に門の向こう側へと存在していた。何の躊躇いもなくズカズカと足を進ませる背中を、悠介はただ唖然と眺める。
「何だよあいつ……正気か?」
「あぁー笑った笑った。ほんと、理久って面白すぎ」
言いつつ、同じように足をかけている茜を悠介は「おい、コラ!」と叫びながら止める。
「お前まで行くのかよ!」
「え、もしかして悠介寂しいの? だったら一緒に行こうよー」
「寂しくねぇ! つーか、それ犯罪だからな! 何でそんな、どっか遊びに行くみたいなノリで出来るんだよ!」
「何でって……面白そうだからに決まってるじゃん」
「世の中それで全部乗り切れると思うなよ!」
まるで猫のような動作で門から飛び降りると、茜は背を向けたまま喋り始めた。
「……悠介は俺が未来人だってこと、信じてくれる?」
どこから出てきたのか変化した話題と、いつもより冷たい声音に一瞬たじろぐ。しばらく考えた後、小さく息を吐いて悠介は呟いた。「……いや」
「半信半疑、ってとこだな。むしろ疑うことの方が多い」
「でしょ? それが普通の反応なんだ。それでもーー理久は信じてくれた」
だから、と茜は続ける。
「俺も理久がやること全部、信じてみたい」
それだけ言うと茜は急いで理久を追う。
人様の敷地内だと言うのに、堂々と庭を横断する二人分の背中はどこか滑稽で、真っ直ぐとしていて、思わず悠介の口元から溜め息が漏れた。
「……ったく、しょうがねぇコンビだな」
そう言いながら門をよじ登る自分も、きっとしょうがねぇ奴の一人なのだろう。
そんなことを思いながら体を上に運んだ。
◇◆◇
「かーぐーらーちゃん!」
「かーぐーらちゃん、あーそーぼー!」
「真面目にやれ、茜」
「はぁい」
「じゃあ、せーので行くぞ。せーの」
「……いや、ちげぇだろ!!」
玄関先、口元に両手を添えていた二人は不思議そうな表情で悠介を見た。
「何だよ、松野。ツッコミする暇があるなら神楽ちゃん呼べ」
「まずこの状況が理解に苦しむからな!? 何なのこれ、お前は一体何がしたいんだ!」
「神楽ちゃんに会いたい」
「じゃあ玄関から行けよ!」
「駄目だよ悠介、いい加減に常識から自立しなきゃ」
「自立する必要性はないからな!」
悠介がそう叫んだと同時に、指さした玄関からガチャリと鍵の開く音がした。三人が目を向けた先にいたのは、ファッションモデルのような洒落た服に身を包む女性。
その女性は理久たちに不審そうな視線を向けながら、苦笑いで問いかけた。
「……神楽の友達かしら?」
明らか不審者を見るような目に悠介は何とか弁解させてもらおうとするが、一言早く理久が口を開いた。
「そうです、ご家族の方ですか」
「えぇ、私は神楽の母親で玲楽と言います。随分叫んでたみたいだけど何か用事?」
「神楽ちゃんが最近学校に来ていないので、様子を見に来ました」
理久の言葉に女性はカールのかかった優しい色の長髪を揺らしながら「そうなの」と返す。
「せっかく来てもらって悪いんだけど、今日は帰ってもらえるかしら? 神楽も少し疲れてるだけだから」
「一つ、質問していいですか?」
まるで話を聞いていないような態度に悠介は冷や汗をかいて、玲楽を見つめる。案の定、眉間にしわを寄せており視線だけで理久にストップを訴えるが、構わず理久は続けた。
「神楽ちゃん、音楽は好きですか?」
ーーは?
思いがけない質問に茜と悠介は目を丸くした。玲楽も面食らったような表情をしているが、しばらく考えた後答えを返す。
「……そうね、よく聞いていたわ」
「聞いていたのはイヤホンですか? それともヘッドホン?」
「ヘッドホン……かしら」
玲楽の言葉に理久は満足そうな笑みを浮かべると小さく「そうか」と呟き、無言のまま庭へ飛び出し二階の窓を見つめた。
そっと中から覗いていた神楽とガラス越しに目が合う。恐らくこちらの会話はすべて聞こえているだろう。
「理久、どうしたの?」
「……勘違いだ」
「は?」
「神楽ちゃんのクラスメートが言ってたことは、全部勘違いだったんだ」
言うや否や、理久は真っ直ぐに神楽を見据えるとゆっくり、思い出すように言葉を紡ぎ出す。
「話しかけても無視されるっていうのは、ヘッドホンで音楽聞いてたからだ」
「そうなの?」
「多分、頭に乗せるんじゃなくて細くて小さいタイプのやつを首元に置いてるんだと思う。髪の毛で隠せば見えないだろうし、結果的に話しかけられても気づけなかった」
あとは、と理久は続ける。
「ずっと不思議だったんだけど、神楽ちゃんのそばにいると微かに音楽が聞こえた」
「音楽?」
「しかも毎回同じ曲で、私も何か聞き覚えのある歌。気になって家で調べてみたんだ」
一際大きな声で名前を呼ぶと、恐る恐るこちらを見つめる。
今にも泣き出しそうで潤んだ瞳を見て、理久は確信した。
「ーー変わりたかったんだよね、神楽ちゃん」
◆◇◆
「お、良い歌だなぁ」
風呂上がり、神楽のそばから聞こえてくる歌をすっかり覚えてしまった理久が口ずさんでいると居間でビールを飲んでいた父、琴平和義がそうぼやいた。
「父さん、知ってるの?」
「おうよ、俺もその歌大好きだったなぁ。これだろ?」
和義が呟いたメロディはまさしく、理久が聞いたものと似ていた。歌詞はよく知らなかったが、良い歌詞だなと思う。
「勇気が出る歌でなー。パパも辛いことがあった日はよく聞いて、明日はやってやるぞっていつも思ってたよ」
辛いこと、という単語に反応する。
「……そうなんだ」
「にしても珍しい歌知ってんだなぁ理久は。どこで聞いたんだ?」
「友達がよく聞いてるから、覚えて……」
「へぇ、若いのに聞いてるのか」
コップに残ったビールを一気に飲み干す。
一息ついた後、和義はポツリと呟いた。
「その子もきっと、頑張ろうって思ってるんだろうな」




