個人情報保護法はどこにいったんですか!?
向井様の端正なお顔に真っ赤な紅葉が咲いている。
さっきまでの喧騒が嘘みたいな耳に痛い沈黙。
ああ、いっそ死にたい!
でも死ぬのは怖い。
じゃあ逃げるしかない!
なら向井様達が動揺している今だ!
動かない向井様をすり抜けて、入り口の扉に向かって走る。
扉まで数十メートル。
この距離なら逃げ切れるはず!
「待てゴラアア!」
任侠映画でしか聞かないような見事な罵声が背中から飛んできた。
体重を前にかけていた私の襟を、向井様は片手で引く。
力が強すぎて私は背中から床に叩きつけられる。
眼鏡がどこかへと飛んでいった。
それでもゆっくりと上体を起こすと、目の前には怒りの形相を浮かべる向井様がいらっしゃった。
顔を背けると髪を乱暴に掴まれ、無理矢理視線を合わせられる。
「おいテメエ。俺の顔にビンタ食らわせておいて逃げる気か?もし逃げるってんなら地獄の果てまで追いかけてやるぞ?」
今までとは比べ物にならない殺気に本当に殺されると思った。
恐怖で体は強張り、目からはぼろぼろと涙が流れる。
向井様の手が振り上げられた。
私は目をつぶる。
次の瞬間に平手じゃなくて握りこまれた拳が飛んできた。
だけどそれは私へ当たる前に誰かに止められた。
「落ち着け拓哉。今のはお前も悪いだろ?」
少し焦ったような男の声がした。
ゆっくりと目を開けると青髪のお兄さんが向井様の拳を止めてくれていた。
この人は向井様のお友達の関元湊様。
身長は向井様と同じくらいで優しい目元と雰囲気が魅力なお方。
向井様を俺様系ドSイケメンだとすると、関元様は近所のお兄さん系イケメンだ。
誰かが困っている時には助けてくれて、優しい笑顔が素敵だと評判である。
実は優しい顔をして腹黒いという噂があるけどそれはそれで美味しいと思う。
お二人で妄想したこともあるけど、さすがにこの状況でそんなことをするほど私はバカじゃない。
「あぁ?湊はこいつの味方をすんのか?」
「そういうわけじゃない。だけどいきなり女の胸を触って怒られるのも当然だ」
関元様は子供をさとすように向井様に進言する。
向井様は舌打ちをし、しぶしぶといった様子で私から手を離した。
「大丈夫?」
関元様の申し訳なさそうな声に私は勢いよく首を縦に振った。
「それはよかった。それで高槻憩さんにお願いがあるんだけど聞いてくれる?」
関元様は笑っているのに目が笑っていない。
それだけなのにどうしてこうも恐ろしいんだろ。
蛇に睨まれた蛙のようなじっくりと絞め殺されるのを待っている感覚になる。
「な、なんですか?私にも出来ることですか?」
「そんなに難しいことじゃないよ。ただ今回のこと黙っててくれない?拓哉のやったことが公になると高槻さんも困るでしょ?家族にも迷惑がかかるかもしれない」
「家族にも……?」
「高槻さんは拓哉の噂をどれくらい知ってる?」
他校の不良五十人相手に無双した、百人以上の女と寝た、気に入らない教師を辞めさせたとか色んな噂がある。
その中で一番ヤバイ噂が“親がヤクザ”だということ。
まさかと思うが、先ほどの殺気は普通の人の出すものじゃない。
「もし今回のことを誰かに話したら一家離散か一家心中が妥当かな。高槻さんは大好きなご両親と弟さんをそんなに遭わせたい?」
関元様の口調は穏やかだった。
私のことは全部バレている。
きっとすでに住所も知られているんだろう。
それはつまり向井様達にとって私の家族に手に出すのは造作もないということ。
私だけならいい。
自業自得だから。
でも家族は違う。
私のやったことに巻き込みたくはない。
「だ、誰にもいうつもりはありません!」
「高槻さんが話の解る人でよかった。じゃあこれ以上俺達と関わらない」
「湊、何勝手に話を進めてんだよ」
関元様を止めたのは他でもない向井様だった。
「高槻さんの大事な物を拾ったお礼にここを片付けてもらった。それで終わりなはずだろ?何が不満だ?」
「俺はこの女に面子を潰されたんだぞ。喋らねえって保証もねえしこのまま黙って帰せるか」
確かに不意打ちとはいえ女にビンタを食らわされたとなれば、向井様の面子が潰されたといえる。
でも私は家族の人生がかかっているんだ。
ほんとに誰にもいうつもりはない。
「それではどうするんだ?」
「この女を半殺しにする。口ではなんとでもいえる。だから痛い目を見ねえとダメだろ」
とんでもなく物騒な言葉に息が詰まった。
半殺しなんて嘘ですよね!?
「それはダメだ。トマさんにまた怒られるぞ」
「こいつが喋らなけりゃわからねえよ」
向井様は本気で許すつもりはないようだった。
そんな態度に関元様は深いため息を吐く。
「一つ賭けをしよう。今日から一週間“鬼ごっこ”をする。拓哉が高槻さんを捕まえたら好きなようにする。高槻さんが捕まらなければまもう二度と関わらない」
「んなもんすぐに終わるだろ」
「人数は一日一人。時間は下校時間までだ。それなら拓哉も納得するだろ?」
「……わかった」
向井様は獲物を狩るライオンのような目で私を見下ろす。
「高槻さんもそれでいいかな?」
私に拒否権なんてあるわけがない。
だから小さく縦に首を縦に振った。
昨日、向井様と会ったことは悪い意味で運命だったのかもしれない。