始まり
平穏、とは何なのか。
今となっては、もう誰も分からない事だ。
科学が発達し、様々な事象の本質を解き明かしていったこの時代に。
突然起きた、謎の出来事。
人為的には有り得ないソレが、突発的に発生したお陰で、世界は壊れた。
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「音環?音ー環ー?」
「ん?凜?なぁに?」
「…また空眺めてたの?」
「う…うん」
凜。日下部凜は、私―小此木音環―のクラスメイトで友人。
ショートカットの栗色の髪を弾ませながら、窓際に立っていた私の所に来た。
“また”と言う凜の顔はやや曇っている。空なんて眺めても仕方ない、とは何度も言われた。「大体、あんなもの見てどうするのよ」
くいくい、と私の背中まである長い黒髪を引っ張りながら、もう何度と無く交わした会話を繰り返す。
「いたたた…。空はもう返って来ないのかなって…」
青空。晴天。空色。
色んな言葉があるけれど、私たちは見た事が無い。
分厚い雲が空を常に多い、日の光は僅かに入ってくるものの、どこまでも気分が落ち込むようなモノクロの空。
昔の写真で見るような…青い綺麗な空はもうどこにも無い。
20年前に、静かに、しかし唐突に現れた巨大で深い円形の海溝。
太平洋のど真ん中にできた、まるでブラックホールのようなソレ。
ブルーホールと呼ばれるソレは、初め上空を飛んでいた旅客機に発見された。一時間前に同じルートを飛んでいた旅客機では確認されなかった事から、予兆も何も無く唐突に出現したことが分かる。
発生しただけならば良かった。深さとでかさ故に、地球上に存在する他のブルーホールとはレベルが逸していたが。ただ、それだけならば、良かったのだ。
しかし、世界を壊したソレの恐ろしさは桁違いだった。
そのブルーホールから霧状の謎の物質が発生し、上昇して膜となり雲のようになった。謎…と言われるのは、本当に分からないからだそうだ。地球上のどの物質とも構造の異なる物。
ブルーホールのもたらしたものは、それだけじゃない。もっと恐ろしい異形の存在。かつての生態系を根源から破壊しかねないもの。
「音環、そろそろ授業始まるよ」
凜の声に、ふと思考をやめる。全ては私が生まれる4年前に現れた事で、現在20歳未満の人はその時の世界中のパニックを経験しなくて良かった…と取るべきなのか。平穏を知らずに育ったことを嘆くべきなのか。
「いーかげん、考え込むのやめなよ」
凜の呆れた顔がすぐ近くにあって、すぐにごめんと謝る。
「今から何だっけ?」
「公民!」
間髪入れずに返答が飛んでくる。苦笑しつつ机の上に教科書をだす。私たちは高校生で、勉強が本業だ。ネガティブな世界情勢を少しだけ頭の隅に追いやろうとしたけれど。公民の教科書の最後辺りのページをパラパラとめくると、上空から写した巨大なブルーホールの写真。とても有名な一枚だ。
身近な事でもあるのだと思い知らされる。
パタリと教科書を閉じた瞬間。
授業の開始を告げるチャイム…が、サイレンに変わった。
「シェルを!!」
クラス委員長が鋭く叫び、一番前の席の子が、黒板横の大きなレバーを思い切り下ろす。
ガシャン! ガシャン!
素早く、窓全てに鉄製のシャッターが下ろされた。
日の光が完全に遮られた薄暗い教室の中。女子生徒も男子生徒も、震えながらお互いの肩を抱き合う。私の隣に座った凜も、触れ合った肩が小刻みに震えていた。
「B…?J…?」
殺戮を予測したが、しかしその後に続くはずの悲鳴は無かった。
代わりに響いたのは、外から聞こえる、降り注ぐような銃声。
「と、討伐隊だ…」
安堵感が広がる。いつの間にか張り詰めていた空気が僅かに緩む。
こんな非日常が日常。
20年前に現れた巨大な穴によって。
ブルーホールから出てくる、異形。
実際には見たことが無いが、ニュースやワイドショーで時折映る異形の存在は皆、固い鱗に覆われ昆虫や動物に近い形態を取り、大きさは人よりも一回り程大きい。
それらは海から現れた魔物。
神話から名前を取りレヴィアタンと呼ばれていたが、後に空に浮かぶ雲から、あるいは稀に地上に発生する黒い霧から現れることも報告された。レヴィアタンは海の生物に近い形態を取り、棲息範囲も海や水の中だ。
飛行能力を有する存在は、ジズ。地上に棲息するのはベヒモス。
それぞれ頭文字をとってR,J,Bと呼ばれている。
そして、それを討伐する特殊組織。“特殊生物に対する国際的な武力行使および地球環境保全に関する法律”が制定され、その法の名のもとに武力でもってレヴィアタンたちを退治する人たち。前身は自衛隊の一部が集まった組織だったが、今や各国の人間が入り混じった国際部隊だ。各国に支部が、そしてそれぞれ自治体に駐屯地があると聞く。
一般市民は討伐隊と呼んでいる。まぁ、ある意味正義の味方だから。
それでもヤツラによる死者や負傷者の数は減らない。
ヤツラは、弱点と呼べるものが無い。退治するときは、銃で蜂の巣にするのが普通…だと聞いた。
きっとさっきも、銃弾の嵐を降らせたのだろう。
「警報、解除されたみたいだね」
ゆっくりと委員長が立ち上がり、シェルのレバーをあげる。頼れる委員長の姿を見て、頬を赤く染める女子も多い。
「久野木くん、職員室に行ってくるね」
女子のクラス委員長である凜が、イケメン委員長の久野木くんに声をかけて教室を出て行った。
「小此木さん…大丈夫?」
「え、あ、うん」
ボケッと、凜の後ろ姿を見ていた為か、心配そうな声と顔の久野木くん。
こんな風に、学校が襲われることは珍しく、半年に一回程だ。
その為に避難訓練や防衛策を考え、中心になるのはクラス委員長だ。有事の際は、クラスメートの人数確認と報告。
これはまぁ火事や地震の避難訓練と同じだが。
「私、凜のトコに行ってくるね」
言い捨てて教室を飛び出し、凜を追う。廊下を曲がってすぐ、階段を降りかけていた凜を捕まえた。