4-5 問答と力の差
――みゆきが人質になる五分前
藤花は、ほくそ笑んだ。
――幸運が重なる。
これまでの道のりを思い返す。
思えば、幼竜殺しは二度目にして危機を迎えていた。様々な違法行為の講義をおじさんから受けてはいたが、それだけで幼竜殺しを続けられるほど甘くはなかった。二匹目の竜を食したとき、目撃者が出てしまった。動きづらくなることはなかったが、それでも危険性に気付かないわけにはいかなかった。
そこで目を付けたのが、機械型のパートナー。その中にはレーダー機能とステルス機能の双方を持つものがいて、それらを使えば楽になるのではないか、と考えたのだ。機械型のパートナーも食べることができ、能力を得られるのは、施設にいたときに実証済みだ。
結果は大当たり。それ以来、目撃者のいないときを狙って犯行が可能になっただけでなく、軍部による索敵もなんなく切り抜けられた。竜そのものの選別は、飛行しているときを狙えば容易く目視で可能。
そうして、幼竜殺しこと中村藤花は今でもなお自由を謳歌しているのだ。
そして今、その能力が十全に発揮されている。
雨竜のパートナーが機械型であり、しかもレーダー搭載型であったのは驚いたが、それは逆に幸運となった。機能に依存すればするほどそれを破られたときの隙は大きくなる。若干ドジを踏みやすい雨竜の性格もプラスに作用するだろう。
轟音を頼りに後を追い、難なく見つけた。レーダーを展開するまでもなかった。
後ろからじっと雨竜を見つめてみる。自分達に気付いた様子はない。
さあ、出番だ。
傍らのユウの背を叩いた。手を離すと赤熱し始め、尾が伸びる。この形態での戦闘態勢だ。
藤花も剣を抜き、足に力を込める。
雨竜が歩達に集中し始めたところを狙い、飛び出した。
「どうも、幼竜殺しです」
藤花はおどけて言った。そんなふうに道化を演じる藤花も初めてだが、その分これまでの優しいが厳しい担任とは別人な気がした。
隣ではユウがみゆきを縛りあげたまま、こちらをじっと見ている。敵意というより、観察しているように見えた。
藤花は言った。
「突然のことで驚かれたと思いますが、どうか落ち着いてください」
藤花が幼竜殺し。だから唯のときも、今もこうして即座に襲えたわけか。幼い竜を狙うことを考えたら、確かに教師は適した職業なのかもしれない。
いまはなにより、現状把握が重要だ。
雨竜のパートナー、機械竜はばらばらに。雨竜が死んでいないことから考えると、命を失ったわけではなさそうだが、おそらく戦力には成りえない。雨竜はうずくまっており、顔色は最悪だ。イレイネはおそらくいけるが、喰われたことが気がかりだ。
歩自身については、まだ胸が痛むが折れてはなさそうで、十分動ける。アーサーは上空でぱたぱたと飛んでおり、身体は藤花のほうに向いていた。
そして、みゆきはというと、人質。容易には動けない。
「貴様が幼竜殺しではあったとはな。きづかなんだ」
アーサーの声が響く。
「アーサーの思慮の外にあったとは光栄です」
「それで、我を捕まえに来たのか? 目的はなんだ?」
「単刀直入ですね」
「答えろ」
いつになくアーサーの声は厳しい。
だからというわけではないだろうが、藤花はあっさりと答えた。
「主な狙いはそうですね。幼竜殺しですし。さて、私の質問に答えてくださいますか、長田先生?」
歩は雨竜を見た。
「何を答えろと?」
「私の質問したことを、包み隠さず」
「嫌だといったら?」
「生徒が、可愛くありません?」
藤花が手にした剣をちょいちょいと動かして見せた。そのぞんざいな動かし方に背筋が凍る。
それを受けてか、雨竜は少し従順になった。
「それで?」
「まずは貴方の所属からでどうです?」
所属? ただの教師に所属も何もあるのだろうか?
「ただの教師だ」
「違いますよね。あなたは私の監視役、そうでしょう?」
雨竜の目が見開かれた。
「――わかっていたのか?」
「まあ如何にもって感じでしたから。新任で、いきなり副担任になって、パートナーは病気がちだから出てこれない、身体能力が異常に高くて、どこか竜の扱いに慣れていて。一般人というには無理がありませんか?」
「お前の察しが良すぎるだけだ」
「アーサー君も気づいてたんじゃないですか?」
アーサーのいるほうに見ようと顔を見上げたが、後ろ姿しか見えない。
だが、アーサーもまたあっさり答えた。
「まあな。言いはしなかったがの」
「お前酒飲んでる時、追求してきた癖に本当に酔ってたのかよ」
「何の話だ?」
「質問するのは私です」
何の話からは気になったが、今は聞くことしかできない。
「それで、所属は? みゆきさんが可愛かったら、答えてくださいね」
「……第一後方支援部隊。今は公安に出向中だ」
確か第一陸戦部隊隊長の前所属先だ。軍の人間だったのか。
「公安というと、やはり私の逮捕のために?」
「残念だが違う。仕事が選べるようになったからだ。隊長が変わって暇になったから、誘われていた公安関係にな。レーダー持ちだからかなり優遇されて入ったんだが、あんたがステルス持ちとなると逆効果にしかならなかったか。それにしても、どうしてあんたのパートナーがそんな能力を? 見たところ、機械型には見えないが」
「それはまた後で答えましょう。何故私に監視を? 私を追えそうな証拠残ってましたか?」
「もとは別件から。四年程前から今までの、いくつか点在していた殺人事件をまとめたら、いつも近くで竜関係の講演会が起こっていることに気付いた。そこで出席者を確認したら、必ずあんたがいて、そこから足跡をたどって行ったら、幼竜殺しにつながった、というわけだ。ここ一年間も、犯行こそ控えてたみたいだが、講演会は続けてたしな。まあ幼竜殺しは意外に悪食だったってことだな」
「お、上手いこと言いますね。そうです、それも私の犯行ですよ」
驚愕の事実だ。数年間、幼竜殺しによる被害者が出ていなかったのは、別の人を襲っていたからだ。
だが、なんでそんなことを? そもそも竜を狙うわけはなんだ?
歩の疑問をよそに、問答は続く。
雨竜は悔しそうに顔を歪めながら言った。
「だが、確証は掴めない。足跡をたどったといっても、それだけで人員をかけるわけにもいかない。他にも候補はいたし、なにより十年前はただのフリーターだったあんたに、そもそも竜殺しなど可能だったのかという疑問もあった。
俺はそれでもこだわって、ここの学校に圧力かけて強引に監視役にならせてもらった、というわけだがな。勘はあんたが犯人だと言っていたしな」
「勘ですか? また大層なものをお持ちで。ちなみに、どんな勘が?」
「あんたからは竜の匂いがした。だからだ」
「それはまたすさまじい」
「第一後方支援部隊は、言うなれば貴族の犬だからな。どこにだれがいますよ、ここで手薄ですよ、って言うだけの便利屋だ。竜使い達には散々使いっ走りにされたから、嫌というほど近くにいたさ。竜の匂いは一際濃厚で、特に血はすさまじいものがある。あんたからはその匂いが微かにしたんだよ、っ」
雨竜がせき込みはじめた。しゃべることすらきつそうだ。
それに気もとめず、藤花は続けた。
「そうですか。それでハンスさんや唯さんも襲われたから、私への疑念が増えたと。それでも私に確定とはいかず、こんなことに。大失態ですね」
「全くだ」
これまで黙ってきたアーサーが言った。
「それで終わりか? こちらからの質問を受けるか?」
「どうぞ」
揶揄するような口調のアーサーに反応せず、藤花はにこやかなままだ。
「そもそも何故幼竜殺しを?」
藤花はあっさりと答えたが、その内容は驚くべきものだった。
「食べるためです」
「はっ?」
思わず気の抜けた声がもれた。
食べる? 竜を? いや、竜以外にも被害者はいるのか。
だが、何故? 異常な味覚? カニバリズムの一種か?
アーサーが矢継ぎ早に尋ねる。
「どうしてだ?」
「本能からです」
「そんな本能を何故?」
「私がキメラだからです」
その一言で意味がわかった。
キメラ。パートナーを食べることで能力を得るという、忌まわしきパートナー。童話でも聞く、最悪の存在。
これまでの犯行を思い浮かべ、理由がわかった。竜をも食べたのなら、竜にも対抗し得る力を得られたのかもしれない。
みゆきを掴んだままのユウを見た。
燃える狼の姿。蛇だったはずの尾は、何倍もの長さに伸び真っ赤に灼熱している。先程見せた異形とも言える変形は、キメラ故のものか。その時に食われたイレイネの身体は、文字通り喰われたのだろう。
「この姿も仮のものです。その気になればもっと別なものにも変われますよ?」
「まさか、機械も食えるのか?」
「はい。丁度レーダーとステルス持ちを食える機会がありましたから、それでその機械竜のレーダーを騙せたわけです。私達、悪食なので」
「何故竜を? 他にもっと楽な獲物はあったろうに、何故わざわざ面倒な相手を狙った?」
「竜が一番おいしいからです。そして、そのための膂力もあった。小さい頃から色んなものを食べてきましたから」
色んなもの、とは色々なパートナーということだろう。
ユウの身体の中では、いくつのパートナーが蠢いているのだろうか。その一つに、ハンス=バーレの翼竜と、イレイネの一部、そしてキヨモリの翼が含まれているかと思うと、頭に熱いものが込み上げてきた。
隙を見つけなくては。まずみゆきを奪い返さなければならない。
ユウを見た。幼竜殺しで、一瞬で森に黒い線を描いた雨竜の機械竜をばらばらにした、途方もない力を持つパートナー。
だが不思議と恐怖感がわかない。森に入ったときから続く妙な興奮と緊張感の無さは続いている。特に、目の前のユウと藤花に対して、怖いという感覚は微塵もわかなかった。
理由はわからないが、今は有難い。
「小さい頃から? どんな幼少期を過ごしたのか?」
アーサーの問いに、藤花は拒絶した。
「もういいでしょう。問答にはもう飽きました。あとは、目的を果たすだけです」
その時、それまでぴくりともしなかったみゆきが動くが見えた。
力なく垂れていた腕が素早く動き、腰に下げていた短剣を抜きとる。そのまま流れるような動作で自分を拘束していたキメラの尾に振るった。
案外あっさりと両断され、みゆきの身体が自由となった。落下しながら首をそらし、藤花が突きつけていた剣を避けて着地すると、短剣を藤花めがけて突く。
だが藤花はなんとか身体をくねらせ、それを紙一重で避けた。一回転しながら身をひるがえし、みゆきと距離をとった。
歩は立ち上がり、みゆきの傍まで駆けよった。首筋には赤い線ができており、そこから軽く血が流れ出していた。
「大丈夫か?」
「軽い切り傷。それより、仕留められなかったのが痛いな」
藤花に視線を合わせると、まだ余裕たっぷりの表情ではあったが、そこに多分の驚きが混じっていた。
「狸寝入りしてたわけですか。役者ですね」
「どうも」
すぐそばで水が流れるような音がして、横目で確認すると、イレイネが形作っていた。大きさはいつもの半分ほどか。大分やられたようだ。
これで人質はなくなったが、それでも劣勢は揺るがない。雨竜は立ち上がりすらしておらず、かなりの重傷を負っているにちがいない。戦力にはならないだろう。キメラであるユウと真っ向から相対時したのだから仕方のないことかもしれない。
雨竜達を除くと、みゆき、イレイネ、歩、アーサー。当初の計画通りとはいえ、いざ幼竜殺しを前にすると、戦力不足は否めない。雨竜と藤花の剣戟と、ユウの圧倒的な力を目にした後では、余計に感じられた。
だからだろう、余裕の表情を強めた藤花が言った。
「では、始めましょうか。ユウ、いきなさい」
合図に従い、ユウが飛びかかってきた。みゆきに切り落とされた尾はそのままだったが、その速度と牙だけで十分以上の兵器となりうる。
歩は身体を左に投げ出した。なんとかユウの射線上からは避け、すぐに身体を起こす。幸運なことに、藤花は動かないようだ。自分が出るまでもないということか。
くやしいことに、それは事実だ。
草地に弧を描きながら、再度ユウは迫ってきた。速度は尋常ではなく、瞬きしたら見失ってしまいそうだ。
歩は覚悟を決めなんとか正面にユウをとらえた。
ユウはもう目と鼻の先。タイミングを計り、今度は真上に飛ぶ。同時に槍の穂先を下に向け、交差法気味にユウにぶつけようと試みた。自分の動体視力ではとらえきれず、このまま体力勝負をしては勝てないと判断しての、半ば博打だ。
賭けは成功した。歩の下方向を烈風が駆け抜け、槍にはかすかな感触があった。
そう感じとった瞬間、歩の身体に何かが巻き付いた。なにかは歩の腹に激しく食い込み、避けたはずのユウの方向に引きずり込んでくる。腹の鈍痛もさることながら、それ以上に困惑と激しく身体を揺さぶられた。
一端上空に向かって跳ねた後、地面に叩きつけられ、そのまま引きずられて行く。叩きつけられた際に腰の辺りが激しく打ちつけられ、息をつく暇もなく身体が地面をすべっていく。何度もバウンドして身体を上下にゆさぶられ、何が起こっているのかまるでわからない。
「ウォォォォォォォォ!!」
恐らくそれはユウが吠えたのだろう、同時に歩を締めつけていた尾に引き寄せられたかと思った瞬間、何かに叩きつけられる。左肩が軋む音がした。
思わず口から息がもれ、痛みが思考を満たした。膝に地面の感触がしても、反射で動くことすらできず顔から地面に突っ込む。鼻から草の青臭さの中に泥が混じってひどく臭った。
痛みにほんの少し慣れたところで、ようやく思考する余裕ができた。
顔を上げ、あたりを見回す。歩がぶつけられたのは、雨竜のパートナーである機械竜の無残な身体だったようだ。胴体のあたりに肩から突っ込んだようで、左肩から左手中指まで完全に痺れている。
左肩に手をあてつつ、今度は逆方向を見る。
みゆきが戦っていた。足元にはイレイネが配置されているようで、機を見て棘が形成される。形としては突っ込んできたユウに刺さるように、ということだろう。
だが、そこを白い疾風が駆け抜けると、イレイネの棘はあっさり散らされた。そうなることがわかっているのか、みゆきは身体をひるがえし、コンマの差でその場から離れる。そしてまたイレイネが棘を形成する。
それが繰り返されていた。棘形成、ユウ突撃、棘崩壊、みゆき回避、再度棘形成。方向と態勢を変え、何度も似た光景と結果が現れていた。
歩は声をかけたかったが、喉から先に出ない。胸のあたりも痛み、呼吸するだけで口から不格好な音が漏れ、とてもじゃないが発声とまでは至らなかった。
ただ見ている間に、みゆき達が動きを変えた。それまで避けられるよう、態勢を楽にしていたみゆきが腰を落とし、斜めに剣を構えたのだ。ユウの動きにあわせてか、向かう方向は変えていたが、機敏に動ける構えではなかった。
――まさか、正面から受け止めるつもりか?
歩が何か思いつく前に、そこにユウが突っ込んだ。弾けるようにみゆきの身体も後方に飛んでいく。
序々に速度が落ちていき、ユウの身体がまともに見えるようになってきた。全く傷ついておらず、燦々と輝いている。両足をたえず動かし、みゆきを押し込んでいた。
そこで歩は気付いた。みゆきに切り落とされたはずの尾が再生している。これで歩を掴んだのだ。そういえば、槍に手応えがあったというのに、傷一つなかった。傷を再生しているのだ。しかも高速で。
対するみゆきはというと、ユウに押されていながらも、態勢をなんとか保っていた。地面に溝をほりながらも、両足はきっちりと地をとらえて離さない。
みゆきの後ろには、イレイネが付いていた。随分小さくなってはいたが、イレイネの背中あたりにへばりつき、伸ばした身体でイレイネの足を、手を、剣を支えている。その補助があるからこそ、みゆきは持ちこたえられているのだろう。
だが、それも長くは持たない。
歩はいくらか身体に感覚がもどったところで、槍をにぎりしめ走り出した。みゆきの援護のためだ。みゆきとイレイネという荷物を抱えたことで、速度の落ちているユウならばなんとか槍を当てられるかもしれなのだが、どうみてもみゆきとイレイネはユウに体力負けをしており、近郊が崩れるとしたらみゆきからだ。
それまでに歩はユウに一撃を加えなければならない。
地を駆ける。呼吸はまだ荒いが、強引に身体を動かしていく。
「そうはさせません」
正面に藤花が現れた。剣を手にしており、自分を止める気なのだろう。これまで道理余裕をこいてくれればいいものを。
「ハァ!!」
歩は槍を振るった。連続で小刻みに、最悪相手の剣が届く位置まで近付いてしまってもいいから、藤花から離れみゆきの援護にいけるように。
一度、二度、三度、四度、五度。
それら全てが、あっさり藤花に捌かれる。全てが空を切った。軽く身を傾けると同時に剣で滑らされるだけで、槍は穿つべき箇所からずれる。左腕の動きが若干鈍いのも、理由の一つかもしれない。
六度目、七度目。何も変わらない。
焦った歩は、意表をついて引き戻した槍を突かずに振りかぶった。藤花の身体に直接当たらなくても、立ち位置を替えられるかもしれない。
だが、失策だった。
藤花がその隙を初手で見抜き、歩に向かって踏み込んできたのだ。
強引に振り切ろうとするが、あたるのは槍でも中央に近い部分。そこでは到底威力が足りない。
案の定、槍は藤花の左ひじで容易く止められた。藤花は更に左手一本で剣を振るってくる。歩はとっさに槍から右手を外すと同時に上半身を傾け、剣を持つ藤花の手首を掴んだ。すぐさま足をおっつけ、なんとか体裁を整える。
そこからは力比べと思い、全身に力を込めた。歩の槍は両者が、剣を持っているのは藤花のみだが、その手首は歩が掴んでおり、自由には動かせない……はずだった。
あっさりと、槍を奪われ、柄をそのまま腹に叩き込まれた。一瞬で痛みが全身に回り、膝をついた。右手も藤花の腕を掴んでいられるはずもない。
「左肩、打ってるみたいですね。力がまるで籠ってなかったです」
とっさに右手を放した時点で気付くべきだったのだ。それまで左手を庇って槍を振るっていたではないか。左手一本になった時点で、槍越しの力相撲なんてしてはいけなかったのだ。
見上げると、藤花は槍と剣を無造作に掴んでおり、顔は余裕のまま。見上げる苦悶の表情の歩と、見下し笑う藤花。如実に力関係を表している。
と、藤花の後方から黒い塊が飛来した。
アーサーだ。戦力には影響を与えづらい関係から、だれもが半ば忘れていたのだ。藤花も完全警戒を払っておらず、無防備。
首筋に喰らいついた。
「つっ」
藤花の顔が驚きと痛みで歪んだ。アーサーが喰らいついた首筋からは血が垂れ始めた。アーサーは必死の形相を浮かべており、顎に全霊を込めているのが分かる。
いけるか、と歩が思ったとき、藤花の表情が変わった。
また余裕の笑みを浮かべたのだ。
持っていた槍を放り、右腕がアーサーの首を掴んだ。途端、アーサーの顔が曇り始め、噛みついていた牙が外れ始める。
すぐさま藤花はアーサーを引き離し思い切り振り被ると、歩に向かって無造作に投げ捨てた。
反応できず、アーサーの翼が顔にあたった。大して痛みはなかったが、それ以上にダメージを受けたため反応できず、そのままぽとりとアーサーが地面に落ちる。
「失念していたのは失態でしたが、力が足らないからこそ、アーサー君は戦力外扱いを受けていたんですよね。失念しても変わりないですね」
藤花の首筋には、確かに血が流れていた。だが、浅い。ほとんど牙が入っていなかったのだ。藤花は竜殺しをいくつも成した幼竜殺しの片割れであり、その力は当然段違いなのだ。アーサーがいくら不意をつき、噛みつこうと、致命傷にはなりえない。
アーサーの付けた些細な傷を茫然と見ていると、傷口が不自然に蠢いているのが見えた。ごくごく小さな蛇がのたうちまわるかのごとく、傷口が動いているようだ。その動きは明らかに、人のものとは思えなかった。
歩が驚愕の眼差しで見ていると、藤花が言った。
「ああ、これもキメラの能力です。ユウの尾もこうして再生しましたし。私もこの位の傷ならすぐ回復しますよ」
藤花がしゃべっている内に、脈動はおさまった。藤花が手で軽く拭ったそこには、傷の跡すら残っていなかった。
化物だ。




