3-7 そして……
唯とキヨモリが襲われたと聞いたとき、ああやっぱりという冷たい感覚と、まさかという熱くたぎる思いが激しくぶつかった。
藤花の制止もほどほどに、夜の学校を飛び出した。
歩は走る。
息は切れ、喉は冷たい外気でからからに乾いている。全身がだるく、足などは悲鳴すら上げている。
それでも脳だけは燃え続ける。もっと走れ、もっと全身を振り絞れ、もっと、もっと。
歩の後ろにはみゆきとイレイネ。肩にはアーサーが乗っているが、歩の動きの邪魔にならないよう、前に屈んで上手く身体の位置を調整している。目は、少し血走っていた。
目標地点が目の前に迫ってきた。
病院。まだ日が昇るには遠い時刻ながら、そこからは燦々と光が漏れている。
深夜用の入口から中にすべりこみ、正面を見た。雨竜の姿があった。どこか達観したような、なにかが抜け落ちたような顔をしている。
「あ、廊下を走らないでください!」
看護師さんの言葉はほとんど無視した。
雨竜の傍に行き、息も絶え絶えに聞く。
「先生! 唯は大丈夫ですか!?」
やはり、止めるべきだったのだ。もしくは、皆で行くべきだったのだ。後悔はいくらでも思い浮かび、浮かんだ分だけ脳を熱く燃やした。
本当に、何を考えていたのか。危ないに決まっているのに、もし、が起こったらどうしようもないことはわかっていただろうに。
雨竜は目の前の部屋を指した。歩は祈りながら扉を押しあける。
そこには、傷一つない唯の姿があった。
「唯! 怪我は!?」
みゆきの声が先に飛んだ。唯が頭を軽く横に振った。本当に傷一つなさそうだ。
ほっと安堵する。とりあえず、唯は無事だ。
だが、ふと気付く。唯の顔に一切の表情がない。無表情というより、感情が欠け落ちた、と言った感じだ。
もしや、キヨモリに何か? でも、唯が生きているということは、キヨモリも生きているということだ。それはこの世界のルールだ。
「唯、キヨモリは?」
みゆきが聞くと、唯の腕がゆらりと上がり、カーテンに囲まれた一角を指した。
カーテンを勢いよく開ける。
そこにあったのは、包帯で全身をグルグル巻きにされたキヨモリだった。頭は目と鼻を除いた箇所が全てグルグル巻きにされており、口を開くことすらできそうにない。身体のほうも、ところどころ血のにじむ包帯が非常に痛ましい。
視線が背中のあたりまで進んだ時、背中があわ立つのを感じた。
背中の中央部分。
あるはずのものがない。
翼がない。
「キヨモリ、飛べなくなっちゃった」
唯の仮面のような顔から一筋の涙が流れた。
控室には重苦しい空気が淀んでいる。歩、アーサー、みゆき、イレイネ、だれも口を開くどころか、みじろぎの音すら立てない。不謹慎だ、とでもいう風に。
あの後、狼狽していた歩達は、やってきた看護師達に促され、別室に案内された。そこには雨竜も移っていたようで、そこで色々話を聞くことができた。
雨竜が駆けつけた時、既に犯人は逃げていたらしい。そこにあったのは、翼をもがれ傷だらけのキヨモリと、泣き叫ぶ唯の姿。それから近くにいた人に病院に連絡してもらい、手当てをしていたとのことだ。
雨竜には、自分を責めるな、と言われた。お前達は学生で、それを守るのが大人の役目なのだと。おかしかったのは自分達で、目を放した自分が一番悪いのだと。
おそらくそれは気休めだったのだろうが、歩には全く効果がなかった。
説明を終えると、雨竜は学校に戻っていった。色々仕事があるらしい。
沈黙がしばらく続く。その間、加速度的に歩の感情は乱高下していた。表面上は何も変わらず、ただ内面だけが混沌となっていた。
感情が異常なまでに高まった時、無造作に歩は右腕を振るった。
耳をつんざく音と共に、木製の壁に大穴があく。手の甲がひりひりしたが、その痛さが弱弱しく余計に腹が立った。
「くそ」
「自分を責めないで。歩に責任はないよ。責められるべきなのは護衛役だから」
みゆきの声は悲痛の色を含んでいる。
再び腕を振り上げ、しばらく震わせた後、そっと下ろした。皮膚を血が流れる感触があった。
「いや、誰の責任って話じゃない。全員が悪かったんだ。キヨモリと二人だけで行った唯も、行かせてしまった俺達も、それを見逃してしまった雨竜も、全員に責任があるんだ」
自分に言い聞かせるように呟いた。答えるものはいない。
重い、本当に重い沈黙が部屋を満たしていた。木製の片っ苦しい椅子も、無機質な石の床も、全てが自分を責めているような気がする。
それを破ったのはアーサー。
「いまさら後悔しても仕方あるまい」
アルコールは抜けているようで、厳かな口調が戻ってきていた。
「過ぎたことは過ぎたこと。悔やむだけでは何も変わらぬわ」
――何だその言い草は。苦手な竜のキヨモリだから、どうなってもいいのか!?
考えるまでもなく、口から激情がほとばしった。
「随分偉そうな口調だな! 酔って寝ていただけのお前に言われたかねえよ!」
すぐに後悔する。自己嫌悪する。物に当たったことも、なによりアーサーに向かって暴言を吐いたことを。完全に八つ当たりだ。それも最悪の。
冷たく燃え広がる歩とは対照的に、アーサーは落ち着いて見えた。いつもと何も変わらず、淡々と口を動かす。
「物に当たっても仕方あるまい。重要なのは、これから何を成すか、だ」
「私達に何かできることがあるの?」
ため息のような、力のないみゆきの声が響いた。
みゆきが口にした言葉と同じことを歩は思っていた。
言いつけすら守れない、ただの学生にできることなどあるのか。
アーサーは言った。
「今回の犯人は件の幼竜殺しで違いないと思うか?」
歩は頷いた。おそらく間違いない。あそこまでキヨモリを傷つけることができる力を持ち、即座に逃げ出すことができるものが多いとは思えないし、タイミング的にもそうだろう。雨竜も恐らく、やつだと言っていた。
「ならば、竜殺しをやればいい」
「どうやるんだよ。相手は警察でさえてこずる相手で、竜を何匹も殺してきたやつだぜ? なにより、俺達がどうやって見つけるんだよ」
アーサーはあっけらかんと答えた。
「見つけるのは簡単だ。我がいる」
はっとアーサーを見返した。平然としていた。
「唯とキヨモリがちょっと一人になった隙に襲ってきた卑怯者だ。我が少しでもそれらしい素振りを見せれば容易く襲いかかってこよう。我のこの姿ならば余計にな」
確かに、唯が一人になった隙を的確についてきた相手だ。ハンスの時も、誰もお付きがいないところを襲っているからこそ、いままで正体不明なのだ。こちらの動きをなんらかの方法で掴んでいると考えていいだろう。
ただし。
「相手は幼竜殺しよ!? キヨモリが成すすべなくやられた相手に、何ができるの!?」
模擬戦では一応の勝利をおさめたが、自力では唯とキヨモリと比べ物にならない差がある歩とアーサー。みゆきとイレイネが加わったところで、キヨモリ達以上の力はおそらくないだろう。そんな四人が組んだところで、何ができるのか。可能性は万に一つもない。
――何ができるのか。
己に問うまでもなく何もできないと答えが出てきた。
歩はアーサーの瞳を見た。
ひどく揺さぶられた。
アーサーの瞳には熱く滾る激情があった。
「何ができる? 何を言っている? 我はアーサーぞ? 竜の中の竜! この世の頂点に位置するものぞ!? 何を恐れる必要がある! 闇に紛れ、不意打ちばかりの卑怯者に臆する必要がある!? かような駄馬など我の障害になりえるはずもない! やつの腕を折り、牙を砕き、脳髄を引きずりだすことなど容易いわ!」
アーサー得意の大言壮語だ。いつもなら笑って済ませる部分だ。
ただ、いつもとはまるで違う。
怒りだ。隠しきれない、煮えたぎるマグマのような深く、熱く、重い、全てを焼き溶かすような、感情の発露だ。
そこには思わず後ろ足をふみそうになるほどの深淵な思いがあった。
控室にいる全員がアーサーに飲まれてしまっている。
「奴を殺す。歩、まさか二の足を踏むまいな?」
ノーとは言えなかった。
いや、言わなかった。
少しずつ自覚がでてきた。
歩もまた、その思いがあったのだ。力が及ばないから、黙っていただけだ。
何ができるか、いや、できない。
違う。
やらなければならない。
無謀だろう。馬鹿だろう。脳なしだろう。
だが、歩には否定する理由がわからなかった。
歩は頷いた。それを見てアーサーは満足そうに鼻から炎を漏らした。




