5
執事の男に背負われてサリュは屋敷への岐路に着いた。
意識を取り戻し次第、すぐに彼女は男の背中から降りた。全身には痛みが残っていたが、足元をふらつかせ、肩を借りながら道を歩く。胸には砂虎を抱えていた。体毛が彼女の衣服についた血で濡れている。
程なくしてたどり着いた豪奢な屋敷の門前に金髪の女性の姿があった。
どこかの巡察に出ていたのを戻ってきたのか、薄い鎧を身にまとった姿で仁王立ちにこちらを見ている。遠めにも険しいその視線を受け、少女はまっすぐに彼女の元へと向かった。
「ごめんなさい」
頭を下げ、血に汚れた格好で少女は言った。
返事はなく、静かに騎士は彼女を見下ろしている。感情が包まれて読めない眼差しに言い知れぬ重圧を受け、サリュは顔を俯かせた。飼い主をかばうように胸元の砂虎がみゃうと鳴いた。
小さな吐息が漏れる音が聞こえた。
「怪我はないか?」
「……はい」
そうか、と再び嘆息とともに呟き、騎士は傍らに控えて立つ執事へと目を向けた。
「ご苦労だった」
男は無言のまま頭を下げた。
「湯を沸かせてある。血を洗うといい。クアルもな」
「――はい」
言いつけを破り外に出たというのに、騎士の口から責めるような言葉が一切出ないことが彼女には辛い。砂虎とともに抱えたナイフを握り締める。ふと、騎士の視線がそれに向けられた。
「大事なものは護れたか?」
優しげな声が、どんな罵声よりもきつく彼女の心に突き刺さった。
唇をわななかせ、彼女は頭を振った。声は出ない。答えることができなかった。
「……そうか」
少女の頭を撫で、騎士は去っていった。
館へと戻るその背中を見送る顔が歪む。金髪の女性のため息のような台詞には、確かに失望のそれが含まれていた。
次の日、少女は剣の鍛錬に出なかった。
ぱたりと扉が閉まり、男が去る。
残された室内の静けさの中にサリュはいた。
今しがた執事の男が朝食に呼びにきたのだが、体調不良を理由にそれを断り、彼女は寝台に横たわっていた。
天蓋に描かれた宗教画が、語りかけるように彼女を見下ろしている。緩やかに流れる長髪を波立たせた女性と、それを祝福するかのように傅く人々。周囲には鳥の翼を持った小さな子どもが舞っている。それらがどういった光景を模写しているのか、水陸で最も信仰されているその教義内容について理解のない彼女にはわからない。ただ、その中央に描かれた描かれた女性の微笑が、この屋敷の主人のそれと重なり、腕で顔を覆った。
かたり、と鳴る音に、寝台から床へと視線を向ける。用意されたミルクに顔を突っ込んだクアルが、一心不乱に中身を舐め取っていた。こぼしかけたらしいが、周囲には今のところ零れた様子はない。
「――クアル」
そっと呼びかける。ぴくりと耳を立てた砂虎が振り向いた。縦に虹彩の入った真ん丸い瞳が彼女を見つめ、それから自分の足元の平皿を見てから、駆け出す。寝台の上に飛び込んできた小さな家族を、少女は思い切り抱きしめた。
砂の香りが胸を満たす。心安らぐその中に混ざる僅かな匂いに、眉が寄った。
昨日あれほどよく洗ったというのに、まだ血の匂いが残っている。毛玉のようなクアルの身体を転がし、どこにも血の跡が残っていないことを確認してから、思い至った。血の匂いが残っているのはむしろ自分かもしれない。
もちろん、彼女も昨日のうちに湯を浴びて身体を洗ってはいる。汚れた服装も洗い、それでも跡が残ったのであとは女中達に引き取られてしまった。血の汚れは少なくとも表面上には残っていない。
だが、血に濡れた感触とその鉄錆びた匂いは、今も彼女の中から消えてはいなかった。
感傷のようなものだ。冷静な気分で少女は考えた。彼女が自分の意志で他人を傷つけたのは、昨日が初めてだった。
その事が彼女の精神に翳りを生んでいるわけではなかった。生きる為に誰かを傷つけ、殺してしまうこともある。砂に生きる者として、その程度のことは彼女もわきまえていた。
彼女の胸に巣食っていたのは全く別の事だった。
剣を振ったことではなく、剣そのもの。つまりは騎士の言った言葉に全てが集約されている。――剣は、大事なものを護れたか。
その答えが否であるから彼女は言葉を返せなかった。
はじめは確かにそのはずだった。砂虎を守れるように剣をとった。しかし次第に少女は剣に没頭し、砂虎を忘れた。いや、そうではない。砂虎ではなく、自分はただ誰かを忘れるために剣を振っていたのだ。クアルはその巻き添えを食らっただけだ。もし自分がはじめからそれが目的だったとしたら――きっかけにまで利用されたことになる。
「……ごめんね」
力いっぱいの謝罪を受け、ぎゃう、と苦しげに砂虎が暴れた。
それまでほとんど一日を費やしてきて剣を振らないとなれば、途端に時間が余るようになる。
今までの清算も込めて存分にクアルをかまいながら、彼女は無為に時を過ごした。脳裏にはどうしても彼のことが浮かび、離れない。
あの夜の別離からすでに十日以上が過ぎている。生きているのか。生きているのなら、いったいどうして見つからないのか。この街にはいないのか。河に下って流れてしまったのなら、自分が見つかった場所よりもさらに遠くまでいったとすれば。生死すら定かではなくなってしまう。
探したい。自分の足で彼を探しに行きたい。ふと、砂虎を探しに外に出たそのまま街を出てしまえば、と考えて、何を馬鹿なと頭を振った。
自分ひとりで生きる力も持たない身分で何ができるというのか。クアルを探しに少し街に出ただけであれだ。あの時、執事の男が来てくれなければどうなっていたか。寒気をおぼえた。それに。
彼のことは、金髪の女性が懸命に探してくれている。失せ人を昔から知るという彼女からは本当に良くしてもらっていた。もちろん、古い付き合いであったらしい彼から直接頼まれていたからではあるだろうが、その厚意を裏切って自儘にするわけにはいかなかった。
自分に出来ることは、彼女と、彼を信じて待つことだけだ。何も出来ないなら、せめて迷惑だけはかけないように。そう思えばこそ以前は部屋に閉じこもっていたのだが、前のように心を空にすることもできなかった。
遊びつかれたクアルがいつの間にか寝入ってしまっている。
起こさないよう静かに立ち上がり、少女は棚机に向かった。残された遺留品の中から塗料の剥げた玩具に手を伸ばす。色の揃ったそれを適当にバラし、改めて揃える。――すんなりと揃ってしまった。嘆息して、戻す。
旅の道具だったのだろう幾つかの小道具に手を伸ばし、用途の知れないそれらをしばらく眺め透かし、元へ。最後に彼女は本に手を伸ばした。表紙の次に挿された乾花を壊れないよう脇に置き、ぱらぱらとページをめくってみる。
文字の読めない彼女には、呪文のようにしか見えない文字の羅列。時に挿絵のようなものがあり、なにか後ほど書き加えられたような跡も見かける。元の持ち主であった彼女の村の長のものか、それとも――唐突にその可能性に思い至り、彼女は目を見開いた。
これは彼の文字かもしれない。
脳裏に、熾した火の下で本を読んでいた男の姿を思い出した。つまらなそうに頬杖をつき、ページをめくっていた男の横顔を、瞼が自然と落ちるまで彼女は眺めていた。
ずきんと胸が痛む。たった一月も前ではない出会いと、少しの旅路が遥か昔のことのように思えた。視界が滲む。涙が本に落ちないよう慌てて天井を仰ぎ、本を胸に抱いた。
そこに温かさの幻視を覚えたのは、ただ彼女の願望のものであったとしても。身近にあった彼の痕跡に、サリュは少しの間だけ声を出さずに泣いた。
「――文字を?」
夕食の際、少女は不思議そうに訊ねてくる女性に頷いた。
「本を、読みたいと思って……」
今朝の鍛錬に出なかった負い目があったから、それを願い出るのには勇気がいった。しかし女性は嫌な顔を見せず、むしろ大きく頷いて言った。
「それはいい。実は、私からも提案があったのだ」
今度はサリュが小首をかしげる。
「文字もそうだが。日中、時間があって暇だろう。サリュさえよければ、勉強をしてみてはどうかと思ってな」
「勉、強?」
少女には聞きなれない言葉だった。貧しい村で育った彼女には今までそうした機会がなかった。精々が数かぞえと、育ての親でもあった老婆が生業としていた薬草について多少の知識があるだけである。閉鎖された環境ではそれだけで充分でもあった。
「ああ、そうだ。生きていく為の知識はあって損はない。言語、数術、歴史。座学だけでなく、作法なども。剣術と同じだ。身体だけでなく、頭も動かしていた方がいいこともある――もちろん、気が向けばの話だが」
女性の上げたそれらがどんな場面で有効なのか、少女にはわからなかった。ただ、彼女が自分の為を思ってそう言ってくれていることはわかる。断れるはずがなかった。文字を学べるというだけで、サリュにとってはありがたかったから、女性の申し出は望外のことだった。
「ありがとう、ございます」
深く頭を下げる。それを見た女性が嬉しそうに微笑んだ。
「わかった。では、家の者にそう伝えておく。夕食にしよう。……腹は空いているか?」
「はい。いただきます」
正直に言えばあまり食欲はなかったが、これ以上、目の前の女性に僅かでも心配をかけたくはなかった。足元では食事を供にすることになったクアルが平皿と格闘している。
出された食事を、全てとはいかずとも半分以上食べることが出来た。それを見た同席の女性の表情が翳らなかったことを彼女は嬉しく思った。




