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次の日の朝、後庭を訪れたサリュに一本のナイフが渡された。
飾りの少ない、しかし柄まで精巧なつくりで少女のような人間にも一見して値打ちのあるものだとわかる。一般的な短剣類より鍔が大きめであることに彼女は気づかず、それよりもむしろ刀身の短さを疑問に思った。その表情を違う意味で捉えた女性が説明する口調で言う。
「短剣術は立派な護身の技だ。引きずって目立つ長剣などより、よほど役に立つ。アルスタ家に関わる者達の中にも、剣を振れない者はいても短剣を扱えない者はいないからな」
少女は脳裏に彼女の知る人物の姿を思い出した。その相手も、確かに短剣を振るっていた。こっくりと頷く。
「では、始めよう。とはいっても、座学で教示できる性分でもないのでな。私はこんな形でしか教えられない」
言って、女性は自らも手に剣を持った。
昨日のものとは違う、やや小振りな剣だった。ちょうど長剣と短剣の中間にあるような長さで、幅広に伸びた刀身が調理に使う類の道具を少女に思い起こさせた。鍔がないのも彼女にそう思わせる要因だった。
鞘の役目を果たすのか幾重に布が巻かれている。ほとんど平べったい棒のように見えるそれを構え、金髪の女性は告げた。
「いいぞ」
少女は困惑した。
女性は剣を構え、鋭い視線を彼女に向けている。つまりは打ってこいということなのだろうが、しかし、刃物を手にしたことくらいはあっても、その扱い方について少女は全くの素人だった。どうすればよいだろうと手元に目を落とし、その瞬間に金髪の騎士が動いた。
手首を痛烈に打たれ、短刀が落ちる。静かな声で叱責が飛んだ。
「相手から決して注意をそらすな。視線を外す時もだ」
サリュは呆然とその声を聞き、痛みの走る右手を抱える。女性はそれ以上何も言わず、無言で少女がナイフを拾うのを待っているようだった。
屈みこんでナイフを拾う。適当に柄を握り前方に構え、一呼吸した。ふと、鞘に入ったままであることに気づき、その次の瞬間には少女は再び手首を打たれていた。
見上げると、金髪の女性はあくまで静かな双眸を向けている。
――後はその繰り返しだった。
結局、一度も短刀を振るうことができないまま、その日の鍛錬は終わった。
朝食の前に汗を拭いて着替えるよう、自室に戻された。痛む右手を使わず、女中が用意してくれた新しい衣服になんとか着替え終えると、計ったように扉を叩いて執事の男が姿を現した。
数え切れないほどの痛打を受けた少女の右手は赤く腫れあがっていた。それを見て、男がわずかに息を漏らした。
男は手に水の入った桶と布、そして深い碗を持っていた。碗の中からは強い香りが漂ってくる。なにかを磨り潰した液状のものが見えた。
「湿布薬をご用意しました。お手をよろしいですか?」
桶につけ、よく絞られた布を手の甲にあてがわれると、凍るような冷たさが患部を包み込んだ。痛みはほとんどなかった。そのことに逆に違和感をおぼえて、彼女はわずかに顔をしかめた。
よく冷やされたあと、茶色と緑を捏ねた色合いをした粘着質の液体を塗りつけられる。薬は冷水の布をあてられた以上に冷やりとした感触を彼女に与えた。そこではじめて、少し痒みが生まれる。
「若干、痛痒いかと思いますが……我慢してください。皮膚に悪いものではなく、効能が染み込んでいる証拠です。アルスタ家に代々伝わる薬ですから、明日までには腫れもひいているでしょう」
湿布薬の上から布をあて、その上を包帯で巻いていく。鮮やかな手際で男はすぐに処置を終えた。不自由さはあるが、必要最低限の拘束に留まっている。これなら物を持つこともできるだろう。
「ありがとうございます」
彼女が言うと、男は少し困ったように眉根を寄せた。
「驚かれましたか?」
少女は黙って首を振った。
そうですか、と顎を引く。立ち上がって、男は呟くように言った。
「昔、私がこの家で働くようになり一月ほど経った頃、同じように短剣を持たされました。相手は当時、執事長を務めていた初老の男性でした。全身を手ひどく打たれ、その日の夜は痛みでとても眠れませんでした。次の日からは仕事終わりに仕事の上役に打たれるようになりました」
不意に語りだした男を、少女は驚きの感情で見あげた。そうしたことは今までに一度もなかった。男は続ける。
「アルスタ家に仕える者なら誰もが受ける稽古だ、などと言われましたが、私にはとても信じられませんでした。男達はにやにや笑ってましたからね。嫌がらせやいじめの類だろうと思い、打たれる日々が一週間続いたところで私は逃げ出しました。仕事もほっぽり出してお屋敷の裏で泣いていたら、叱りつける声が聞こえました」
懐かしむように口元がほころんだ。
「そこにいたのは私より年下くらいの小さな女の子でした。その女の子は言いました。泣くくらいなら、なぜその剣を振るわないのかと」
新しく現れた登場人物が誰のことか、彼女はすぐに察することができた。その表情や仕草すら、容易に想像できるような気がした。
「お前が持っているのはその為の物だろうと。悲嘆にくれて泣き寝入るくらいなら、それで相手を刺し殺してしまえばいい。そうして、お前はやっと剣というものの重さがわかるのだと。そんなことははじめからわかっていて、できないのではなく、お前がお前の意思でそれをやらないだけというのなら。剣を持つ者は、決して泣いてはならないのだ――十にも満たない女の子がそんなことを言うのですよ」
「よく見れば、その子は私以上にボロボロでした。目元が少し赤かったようにも思えました。けれど、その子は決して泣いていませんでした。たとえ頬が濡れていても、絶対に認めなかったでしょう。ええ、確かにその方は泣いてはいなかったのですよ。あとで知りましたが、当家に生まれた者に幼少から課せられる鍛錬は、それはもう、私なら一日ももたずに裸足で逃げ出すくらいのものだったそうです」
男が息を吐いた。慈しむような吐息だった。
「不器用な方々なのです。家も、人も。……とても」
「クリスティナさんとは、昔から――?」
男は首を振った。
「雑務役から家付きの使用人を経て、私がお嬢様のお側で働けるようになったのはずっと後のことですから。覚えてもいらっしゃらないでしょう」
話はそれで終わりという合図とばかりに、男はいつもの柔和な笑みを浮かべた。
「参りましょう。朝食の用意が整っております」
「はい。――あの」
呼びかけようとして、少女は男の名前を知らないことに気づいた。
「ありがとう、ございます。……お薬じゃなくて」
「お嬢様にはどうぞご内密に。主人も覚えていない昔のことを語る使用人など、煙たがられるだけですので」
執事としての礼儀に、かすかにおかしみを含めた口調で男は言った。
食卓へ現れた少女の包帯に覆われた手を見ても、金髪の女性は少なくとも表向き、表情の筋肉をわずかにも動かすことはなかった。それを平然と見届けるようにして、
「――おはよう」
「おはようございます」
いつもに比べて口調が素っ気ない。さっきの話を聞いていたから、その違和感はますますわかりやすかったのだが、傍に控えた執事の男がそ知らぬ顔をしていたから、サリュも何も気づかない振りをして席についた。
目の前には既に皮を剥かれ、食べやすいように切り分けられた果肉が皿に置かれていた。
「では、食べよう」
「はい」
朝食は無言のうちにすすんだ。
時々、女当主の気遣うような視線が注がれるのがわかった。少女が顔をあげると、あくまでさりげなさを装って視線が逸らされる。横に立つ執事の男が咳を払い、それにつられるように少女の口元も動いた。
「……どうした?」
怪訝そうに訊ねられるのに、首を振ってサリュは言った。
「お腹が空いてしまって」
彼女の言葉に女性は瞳を瞬かせ、それから嬉しそうに笑み崩れた。
「すぐに持ってこさせよう。私と同じものでもよいか?」
「はい。お願いします」
サリュも同じように返す。表情にはかすかに微笑らしきものが浮かんでいた。
三度もある贅沢な食事以外。一日の間にある膨大な時間で、サリュは翌日の鍛錬について考えた。
どうすれば打たれないか。何が悪かったのか。かまってもらえずつまらなそうなクアルに服をひっぱられながら終日を費やして思考した結論を、彼女は次回の鍛錬でさっそく実践してみせた。
大きく、後ろに跳ぶ。
距離をあけ、金髪の女性の剣が届かない範囲に逃げる少女を見て、金髪の騎士はにっこりと微笑んだ。
「それが間合いだ。サリュ」
まっすぐに剣を持った腕を伸ばす。騎士の持つ剣先からさらに一本分の距離が少女との間に空いていた。
「剣とは硬い。長い。重い。自分は痛まず、相手を痛める。使う側にとってはそういうものだ。あくまで手の延長上にある便利な道具に過ぎない故に、必ず届く範囲というものが存在する。持って扱うものは全てそうだ。槍も斧も。あとはそれぞれの癖による。形状や長さ、重さ。槍のように握る位置である程度の間合いを変えられるものもあれば、はじめから相手に防御されることを前提としたものもある。なにかしらの意図を持ってかたどられた、それを推測するのにも距離は重要だ」
一息に告げ、女性は小首を傾げた。それからどうすると、その瞳が訊いている。
サリュは目の前の相手を観察した。昨日はそんな余裕がなかった、その佇まいをしっかりと網膜に焼き付ける。やや右脚を後ろに引いた半身。片手に持った剣先がちょうど肩の高さにあるように構え、全体としてはとても自然な風に見える。その格好を、見よう見ままに少女は模倣した。
不恰好に短剣を構えてみせる少女に、出来のよい生徒を見つめる教師の表情で騎士は頷き、
「――いくぞ」
一歩踏み出すのにあわせて、少女は退いた。もう一歩。さらに後退。すぐにらちがあかないことを悟った。ふと背後に壁が迫っている事に気づき、わずかに後ろに気を取られる。その失策にも気づいた。
二度目の注意はなかった。
無言のまま、間合いに入り込んだ相手からの一撃が振り下ろされる。少女はその剣を、右手に構えたナイフの根元で受けた。重い衝撃にそのまま弾かれる。布に包まれた剣先がしたたかに肩を打った。
「人と剣の動きが線なら、打撃はその終着。点だ。人の身の重さに剣の重さが加わって集中するその一点同士がまともにぶつかれば当然、重いほうが勝つ。サリュ。ほとんどの相手がお前より大きくて、重い。そのことを忘れるな」
苦悶の表情に歪めながら、声はあげずに少女は地面に落ちたナイフを拾った。無言で構えなおす。一息毎に肩の痛みを癒すようにしながら、頷いた。女性の言ったことなどほとんど頭に入っていなかったが、それでも返事を搾り出す。
「はい」
「点をずらせ。力は受け流せ。コツは、自分で掴むしかない」
「はい」
その日の鍛錬が終わるまでに、彼女はさらに二十を越える剣打を受けた。
手先から肘、肩までまんべんなく打たれ、鍛錬が終わるとすぐに執事の男が湿布薬を塗ってくれたが、さすがにその日の食事では右腕を持ち上げることすら難しかった。腕中をぐるぐると包帯巻きにした少女に、仏頂面を自らの表情に強要させた騎士が言った。
「明日からは左手で構えるといい」
冷淡に言い放ってから、気遣うように付け加える。
「……いつでも休んでいいんだぞ」
少女は首を振って、左手に持ったスプーンで食事を流し込んだ。昨日よりもさらに自然に、用意された食事は喉を通った。
部屋に戻ると、やんちゃな砂虎が部屋の中央に置かれた皿に頭を突っ込んでいた。周りにはミルクが飛び散っている。クアル、と呼びかけても顔を向けもしない相手にため息をついて、彼女は棚机に置かれたナイフを手に取った。
左手に構えてみる。右手の時よりもさらにぎこちなく思え、まぶたを閉じて庭先で見た女性の姿を思い浮かべる。眼差し、姿勢、右足と考えたところで、いまさらながらに女性が左手に剣を持っていたことを思い出した。食事中はスプーンを右で使っていたことも。
その意図はともかく、イメージは右手に構えたときよりも容易だった。騎士の動きを再現しようと、左足を踏み出す。同時に剣を打ち下ろし――何か違う。頭を捻り、女性の打撃が一歩の着地とほとんど同時に行われていたことを思い出した。
線と、点。かすかに記憶の淵にひっかかっていた言葉を拾いあげる。あの女性は他に何を言っていただろう。ずらす。受け流す。抽象的な意味を掴めずに途方にくれ、何か考える手助けになるものはないかと部屋の中に視線を泳がせた。
彷徨った視線が部屋隅の棚机に止まり、それを振り切るように身体ごとそむけて、彼女はナイフを振るった。
なんの理解もないまま、闇雲に振り続ける。
少なくともその行為に没頭する間、誰かのことを忘れられるということに少女は気づいていた。