19
ツヴァイ帝国首都ヴァルガードには巨大な水源とその周囲に聳え立つ石壁という要塞都市としての一面があるが、その帝都の中央から離れた一画に濛々とした砂塵が沸きつつあった。
肥沃な黒土を覆って敷き詰められた黄砂が、疾駆する騎馬が地面を蹴り上げる度に巻き起こり、行き場を求めて無限の蒼穹へと舞い上がる。その様子を鳥の目から俯瞰したとすれば、それは帝都で盛大に行われる焚火のようであったかもしれない。火の乱用を忌避する水天の教徒にとっては眉を顰めかねない類の例えではありはしても、その日、その場所に集中する熱気は、燃え盛る炎のそれに近しい。
その熱気の中心は無論、円状の競技場において相対する東西あわせて総勢百名の選抜された若者達だが、その熱気の源はむしろそれを観戦する万を数える人々の怒号と熱狂こそにあった。
模擬戦場の周囲を取り囲む観席からは、やや角度がありながらもその模様を俯瞰的に捉えることが可能となる。一秒毎に西軍が東軍に“してやられ”つつある中央戦局。観衆は大いに不満を持ち、自国の不甲斐なさを大音声でがなり立てたが、そのすぐ傍で些細な、それでいて異様な打ち合いが始まったことに気づいた者は多く存在したし、気づかなかったとしてもそれは彼らの視野狭窄を意味しない。他に否応なく目を惹かれる動きがあったからだった。大勢が見守る眼下、両軍の左右両翼が今まさに激突しようとその距離を狭めつつあった。
中央先陣同士の“激突”という意外な開幕は、あくまでその始まり方が意外だったという意味であり、先陣同士のやりとりから事態が推移するということは事前に予想があった通りではある。戦術的な思考や推論などではなく、単に物理的距離の由縁によるもので、中央隊が最短距離を駆け抜ければよいのに対して、左右に位置する騎兵隊は模擬戦場の外周を大回りにとるように運動しているからだった。そのような機動をとる理由は無論、戦力を左右に置く意味が、相手に自分達の左右(当然、背後も)をとらせないことを主目的とするからということになる。
自陣の左右から背後にまで回り込もうとする相手を牽制し、撃破して、自分達こそが敵の後方を突き、あわよくば包囲へと持っていく。左右騎兵の動きとしてはこれがもっとも基本的なものだが、いずれにせよ、両翼ともにまずは眼前の相手を拘束することに注力すべきだった。
西軍陣営の両翼部隊において、中央戦局の苦境を見てとった者がクリスだけだったとは限らないが、そこからなにかしら行動をとれた者は皆無だった。そもそもが騎馬突撃中の急転換は難しく、集団としての練度も乏しいことに加えて、躊躇や迷いから馬足を緩めてしまえば、それは俄か集団の統一性を易々と乱すことになるだけではなく、騎馬隊種のもっとも優れた長所でもある突衝力――突撃衝撃力を失うだけの結果に繋がりかねなかった。目前に敵を迎えつつあって、それはただの自殺行為にしかならない。
だが、実際には右翼集団から弾けるように飛び出した彼女に付き従う影のように、その背後に並んだ一名の姿があった。
自分の背後にひたと追従する気配に気づいて睨みつけると、胸甲のみをつけた身軽さで馬上にあるヨウはいつものように静かな眼差しのまま、肩をすくめるだけだった。勝手にしろ、と胸の裡で吐き捨てて、クリスは大きく息を吸い込んだ。
「――ハッ!」
裂帛の気合を一声、さらに速度を上げて馬駆ける。
西軍における左右両翼隊はそれぞれ十二名から成り、右翼ではクリスとヨウをのぞく十名が密集隊形をとって敵方への突撃を敢行していた。対する東軍は、中央では少数をもって優位な状況に立っており、代わりに両翼の人数が厚い。その数はどちらも二十に届くかどうかというところだが、彼らは西軍のように密集した隊形はとらず、単縦の形で疾駆している。人数で言えば倍程の差があるが、それでも彼らが正面からぶつかってくることはあるまい――クリスの予想通り、二十名程の細く長く連なる一団、一本の紐のように伸びた途中からがぷつりと途切れるように動きを変えた。一匹の蛇が二つに分かれ、西軍右翼を両側から呑み込もうとする意図を察して、クリスはさらに脚を早める。視線は二匹に分かれた蛇の一方、先をいく集団のその先頭を駆ける騎馬の姿を捉えていた。
集団から離れたクリスの行動は、無論のこと相手からも視認できていた。
それを受けて東軍左翼に動きの変化はない。たかが一、二名の騎馬に出来ることなぞたかが知れている、と判断したのは、東軍左翼の先頭を務め、今は二匹に分かれた蛇の一方の頭と成った青年だった。浅黒い肌と彫りの深さが示す通り、生まれはボノクス。一翼を任されるだけあって、馬術のみならず、将来の有力者と目される器量を備えた人物だが、その若者が眉をひそめたのは、わずか二騎ばかりでこちらに向かって来る相手の、その角度と速度とを読み取ったからだった。あのまま駆け続ければ、こちらと――よりはっきりと言えば、自分と――激突してしまう。抜き打ちを狙って直前で身を躱す目論見か、それともまさか、捨て身の体当たりで先頭だけでも潰してしまおうとでも考えているのか。――だとすれば、なんと愚かな。唾棄しかけた彼の心中で、きらりと金砂の髪が視界に輝いた。きつく結い上げられた金髪の、その細やかさが女性の頭冠のそれであると知って、急激に警戒の念が膨れ上がる。あれはアルスタ。我らが仇敵たる“両狩りの一族”。
そのアルスタが、一騎駆けでも仕掛けようかという勢いで突進してくる様は、彼の警戒心を最大限に高めるのに足りた。まさか、我らが首魁の如く、魔術的な馬術の腕前でも披露しようという腹積もりではあるまいな。脳裏には、先日の追い物で後ろから獲物に向かって放たれた矢を叩き切ってみせるという俄かには信じられない芸当が鮮明に思い浮かんでいる。
一旦、距離をとるべきか――胸の裡に沸いた衝動を、いかにも弱気の虫のそれだと男は即座に恥じて捨てた。今現在、東軍左翼は二匹の蛇が左右から相手を包み込もうという機動をとりつつある。彼我の人数差が倍程にもあれば、然程の無理も苦労もない。いわば必殺の陣形だが、彼がみだりに隊列を乱してはその包囲に綻びが生じかねない。ほんの少し前、彼らの大将が見せた奔放な動きにかき回された敵方の無様さを横目にしていればこそ、その思いはさらに強まった。
いいだろう、と決意を固める。相手がどのような奇策に出るにせよ、その目的はこちらの機動を崩すこと以外には考えられぬ以上、こちらが動揺しなければ如何程のこともない。最悪、自分と相手が衝突する結果になったとて、それだけのこと――自分が落伍したところで、すかさず後続が指揮を引き継いで作戦は続行される。自軍の練度に対する絶対的な自身が彼にはあった。
確認の意味を込めて肩越しにちらと背後を見やれば、了承の輝きを灯した無言の眼差し。短く顎を引いてそれに応え、男は改めて前方から斜めに突進してくる相手を睨みつける。よかろう、アルスタ。刺し違えてでも、貴様の無謀はこの身をもって止めてくれる。
相手集団の動きには、やはりわずかな動揺もない。そのことを確かめて、クリスは馬上に頭を伏せた。ほとんど乗り馬の首に縋りつく姿勢に身を屈め、少しでも風の抵抗を減らそうと試みる。
この後の行動について、既に彼女の心は定まっていた。迷いはない。だが、一抹の不安はあった――果たして、自分に叶うだろうか。内心の自問に応える誰かがいようはずもなく、ただ汗にじむ馬首から熱い鼓動が鳴り響く力強さが彼女を後押しした。にこりと微笑み、呟く。
「――往こう、ロフォレ」
左手で腰から剣を抜き払った。
視界のなか、徐々に向かって来る迫力がさらに強まったかに思えた。それともあれは錯覚か、自分が相手に気圧されてそう見えてしまっているだけか。――そうではない。厳しい砂原に生きるなかで培われた空間認識力を以って、男は自身の判断に異常がないことを確信した。自分は怖気づいてなどいない。目の前の光景が意味するのは、単純に相手が速くなっているに過ぎない。
その乗り馬は西側の人間が好んで使う鈍重なそれではなく、東方で使われる馬種に近い。ならば相応に速度が出せても当然――思いかけたところで、視界に映る相手の脚がさらに早まって、馬鹿な、と男はわずかに目を見開く。ボノクスという生まれついての騎乗生活者だからこそ、その速度が尋常でないことが容易に理解できた。その馬脚の伸びは、明らかに彼らのそれを凌駕している。まさか、あちらの馬のほうがこちらより優れているとでも。否、そんなことはありえない。では、この異常な脚を生むものはいったいなにか。乗り手の技量。それこそありえない話だ。ならば――そこではっと思い至り、そのことに今の今まで気づかなかった自分の迂闊さに男は歯噛みした。違うのは重量。乗り手自体の重さ。
相手の速度がこちらの予測を超えたことで、衝突に至るまでの道筋にも変化が生じていた。その結果をなぞって愕然と、男はあってはならない未来に直面した。今のままでは、相手とのぶつかり合いにすらならない。彼の予想するところ、この速度差では相手はこちらの鼻先をかすむようにして、目の前を駆け抜けていくことになってしまいかねなかった。当然、鼻先で躱されるだけで終わるはずがない。相手の騎乗者が左手に握る抜身の剣、無論、刃先の潰された模擬剣には違いないが、その刃がぎらりと輝いたように思えた。
舌打ちして、男は即座に対応策を考える。とりうる術は二つ。向かって右斜めから猛然と駆けてくる相手に対し、馬体を開いて衝突地点を横にずらすか。あるいは、こちらも速度を上げることで相手に応じるか。
どちらの手段にも不都合は考えられた。前者の場合、大きく外側に膨らんだ機動になるために、後ろをいくもう一匹の蛇――味方との距離が離れてしまう。そのわずかなズレが包囲の時期を逸してしまう恐れがあった。加えて、こちらが角度を修正したことに対してさらに相手が合わせてきてしまった場合、再度の修正が必要になることも考えられる。相手の突進が、こちらの包囲の意図を崩すことにあると考えれば、その時点で向こうの作戦勝ちだろう。後者は、現時点で彼らがすでに集団としての最高速で駆けているということがあった。彼個人とその乗り馬に限って言えば、これ以上の脚を使うことはできる。しかし、それを集団全体に求めた場合、果たして一糸乱れぬ運動が可能かどうか。だが、自分一人が乗り馬の脚を潰す覚悟で体当たれば、必ず目の前の相手と刺し違えることはできる。
どちらにも不確定な要素が存在する以上、決断は彼個人の嗜好に拠った。積極と慎重。あるいは集団か、個人か。瞬時に脳裏で考えを巡らせた男の視界で、いよいよ目前に迫りつつあった相手の顔がちらと垣間見えた。馬体に伏せた頭が持ち上がり、視線が真っ直ぐに男を捉えた。――その眼差しを受けた瞬間、心は定まった。
後続に片手で示し、指揮を委譲する。馬腹を締め、それに呼応した彼の馬が脚を速めた。曲刀を抜き、集団から先行して男は相手に向かって突進した。
二頭の騎馬が接近する。
互いに全速。ぶつかれば人馬ともにただで済む道理がない。ここに至って、脚を止めるという選択肢ももはや存在しなかった。馬とはそれほど器用な生き物ではない。そして、半端に速度を殺せばその瞬間、相手に蹂躙される未来が確定する。
得物はどちらも剣。東軍の男が右手に曲刀を構えているのに対して、相手は左手に流し持っている。相手がすれ違いざまの抜き打ちを狙うとすれば、角度は左から。あるいは、“両狩り”ならば、その直前で右手に剣を持ち直すこともありえるか――しかし、それは不可能だった。なぜなら、自分の背後には大勢の味方が存在する。もしもアルスタが左に馬を切ろうとすれば、たちまちに殺到する馬群のなかに打ち沈むことになるだろう。あの速度から衝突を回避しようと急転換することも不可能だった――それこそ、相手がジル・イベスタ・スムクライをも上回る騎乗の腕前を持ってでもいない限り。
事ここに至れば勝負は単純だった。斜めに交差するように突進する彼と我。その鼻先を相手に行かせた方が負け。怯えて速度をわずか緩めても、手先が馬首を迷わせてもその時点で勝利は手のうちから零れて落ちる。――相手の機動を一方に限定できている時点で、こちらの優位は揺るがない。となれば、後は互いの心胆こそが勝負の肝となる。そして、それを承知で相手は自分に勝負を仕掛けているのだと、先ほどの眼差しから男は理解していた。
眼前に迫り来る相手の圧力がさらに増した。それに負けじと男も乗り馬の脚を速める。人馬どちらか、あるいは双方から弾ける汗の一粒ごとに距離が詰まり、さらにその数滴を経て、――勝った、と確信する。相手の速度はどうやら打ちどまり、こちらの鼻先を躱すことはもはや不可能だった。残る相手に許された行動は、自滅覚悟の体当たりのみ。その後に訪れる悲惨な結末にさすがに身が竦んだのか、もはや目と鼻の先にまで迫った相手の視線がわずかに揺らいで、
「――――」
その表情に、微塵も己の敗北を認めた色がないことに、男は息を呑んだ。
――まさか。まさか、本当に我らが首魁とおなじことをやろうというのか。自身の体重と、両手と両足で乗り馬の首をほとんど折り曲げるように捻ってようやく可能とする大転換。だが、あんな無茶な仕業を行えるのは、たとえボノクスにでも二人とは存在しない。するはずもない。さらには、目の前の相手が左手に剣を握っていることを考えれば、残る片手で同じ真似を出来ようはずがなかった。それはもはや技術云々の話ではなく、人間という生物の不可能事に他ならない。
相手の目線がちらと横滑る。その眼差しが見据えるのは男ではなく、その背後。
瞬間、男は相手の意図を理解した。と同時、
(――ありえない!)
と猛烈に否定する。そんなことはありえない。そんなことが可能なはずがない。
男が目の前の相手に合わせるために脚を速めたことで、後続との間に生まれたわずかな距離。ほんの一馬身、一丈にさえ満たない空間は、全速で駆ける馬にとってはまさに刹那のものでしかない。まさか、まさか、その刹那の合間を“掻い潜ろう”などと、そんなものは常人の考えることではない。それは狂人の発想だった。
今、目の前にある人物は、少なくとも狂ってはいない。そう思えた。あるいは思いたかったのかもしれない。ほとんど恐怖にも似た感情を抱きながら、男は右手の曲刀を振り上げる。目の前にもしや訪れるかもしれない現実を否定しようするかの如き、渾身の一撃が振り下ろされて、
(ああ――)
それが躱されたと悟った瞬間。男は諦観じみた心地に包まれていた。
息を吐く。剣が躱されたということは、相手が馬の向きを変えたということ。外に開いたか、内に切り込んだか。外に開けば、自分と正面からぶつかって然るべき。その衝撃がないということは――
常識的に考えれば、その結末はわかりきっていた。わずか一丈。突進する馬群に突っ込んで、ほんの刹那を走り抜けることなど到底不可能。後続の味方と衝突した可能性の方がよほど――否、それ以外の可能性などありえない。しかし、同時にそんな常識的結末は覆されるのだろうという確信を男は抱いていた。
深い敗北感と、それでいてどこか胸を空く清々しさ。相反する気分に浸りながら、首をもたげてその実際を確認することも彼には叶わない。こちらの内に切り込みざま、“両狩り”の名にふさわしく右手にも抜いた剣腹を柔らかく押しつけられて、男の意識はそこで途絶えたからだった。