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中央の混乱ぶりは、右翼を駆けるクリスの位置からもはっきりと見て取れた。
――やられた。騎乗中に唇を噛めば、拍子に舌まで噛み切ってしまいかねない。代わりに手綱を握りしめて、彼女は不覚の念に歯を軋ませた。突出したわずか数名の騎馬を相手に、味方の先陣部隊は見事なまでに攪乱されてしまっている。
そもそも、互いの先陣同士が正面から接触するという展開が意外という他ない。ナトリア所縁の選抜者で構成された先陣部隊は、西軍において、間違いなく最も練度の高い集団である。個々人の技量というよりはその装備も含めた統一性を鑑みて、完全重装から成るこの騎馬集団に正面から相対するには最低でも同数以上が必要だろう、というのが模擬戦の関係者や、関係者以外の多くの人々に共通する認識だった。
それに対する東軍の対応としては二つが考えられた。より可能性が高いと思われていたのは、単純にその矛先を避けようとするだろうというもので、右か、左か。西軍としてはその相手の変化を見て取って左右両翼と連携する――進路を塞ぐ、あるいは逃げ道を失くすような進路を取ることで相手部隊を牽制し、そこに改めて中央の部隊が突進するという目論見だった。味方の一部が相手を拘束したところで決戦兵力を投入するというのは、ツヴァイの常套戦術をそのまま踏襲している。
あるいは、東軍側が西軍の先陣に対して同数以上で対抗しようと中央に戦力を集中させる場合も考えられたが、これは西軍の左右両翼が中央の支援に入ればよかった。必然的に、敵味方の戦力が狭い戦域に密集することになるが、西軍にとってはそうした状況での乱戦はむしろ望むところでもある。
いずれにせよ、打撃力があるが鈍重な中央先陣を最初に突出させることで相手の反応を窺い、その動きに対して(中央集団との比較で)機動力の高い左右両翼が呼応するというのが西軍の構想であった。もちろん、戦場ではどのようなことも起こり得る。しかし、そうした展開の千変万化についても、西軍中央の突出に対して東軍が避けるか、あるいはなにかしらの行動を起こすことが契機となるだろうというのが大方の予測だった。他ならぬクリス自身もそう考え、東軍側の採り得る策について様々に思考していたが、これは彼女も含めたほぼ全員が、ある意味でそうした前提を思考の根幹にしていたことを意味している。
それがまさか、ほんの少数の軽装騎によって、完全突撃状態にあった重装騎兵集団が正面からいなされてしまうなどと、誰が予想しただろうか。――いや、違う。クリスは苦い気分で否定した。西軍の中央部隊は、決して少数の相手に対して無様を見せたのではない。彼らを手玉にとったのは、たった一人の女性だった。
ジル・イベスタ・スムクライ。自分自身を重しとするかのような騎乗姿勢で、乗り馬に通常では不可能な旋回機動を可能にした女性は、それによって西軍の部隊に動揺を生み、その隙をついて容易く倍以上の兵数を翻弄してみせた。
ツヴァイと水陸の覇を競うボノクスは部族的な集合体であり、そこでは生まれてくる子が産道を降りながらにして手に馬綱を握っているという。誇張された表現ではあるが、彼らの在り方を端的に表したものではあった。即ち、ボノクスとは弓馬の上手である。
だが、たとえボノクスという生粋の騎乗熟練者達が、いくら幼少時から馬に慣れているにせよ、あのような行いが誰にでも可能とはクリスにも思えなかった。ましてや、大将という立場でそれをするなどと――つまりは、それこそがジル・イベスタ・スムクライという人物なのだ、と苦みを覚える。
大将による先駆けという突飛でしかない行動は、しかしその結果は効果的だった。いまや東軍はその大将を含めたわずか数名で、西軍主力というべき十五名を丸ごと拘束することに成功していた。五十名という小規模の模擬戦においてその意味は極めて大きい。西軍は東軍に比べて中央に多くの人数を割いているからだった。当然、その他の戦場では数が劣ることになり、単純な計算だけで言ってしまえば、それは西軍三十五名に対して東軍四十五名という戦力格差が現出していることを意味していた。主力の行動を封じられている上に数でも劣勢とくれば、状況は西軍にとって甚だ不利だった。
西軍右翼を駆ける面々で、そうした状況を瞬時に把握できた者はほとんどいなかった。まず、騎馬突撃中に周囲を見渡すという行為が不可能に近い。ただでさえ練度の乏しい集団突撃中、そのようなことをすれば大事故に繋がりかねなかった。クリスがすぐに中央の状況を見て取れたのも、右翼の端を走っていたからに過ぎない。
「なにがあったのですかっ!」
全力で早駆けながら、さすがに余裕のない様子のブライが隣から叫ぶように問いかけてくるのに、クリスも叫び返した。
「中央が不味い状況です!」
「っ……、助けに!?」
「駄目です!」
即答する。そんなことをすれば、東軍の左翼集団が自由になってしまう。相手が中央に戦力を結集しようとしたところに呼応してこちらも中央に向かう場合と、ただ味方の危機的状態を見てやみくもに救援に行くのとではまるで意味合いが違う。不用意に中央を助けに行った背後を突かれればひとたまりもなかったし、あるいは相手の左翼がそのままこちらの本陣に流れ込んでしまえば、それだけで勝負がついてしまう恐れがあった。
「では!」
焦りの滲んだ相手の声に急かされて、クリスは答えに詰まった。
今すぐ中央に向かうことはできない。有利、不利以前に全体が瓦解してしまう。かといって、中央の状態がこのままでは西軍にわずかな勝ち筋が見えないのも確かだった。相手左翼と対しながら、同時に中央を救う手立てが必要になる。考えるまでもなく、そのようなことは至難だった。――ならば。クリスは果断に心を決めた。吠える。
「左翼を潰し、その上で中央へ!」
発想としてはまったく尋常なものだったが、彼女はさらに続けた。
「私が囮になります!」
「囮とは――!?」
問いかけに答えず、クリスは右翼から徐々に離脱しつつ、馬の行き足を緩めた。何人かが怪訝な顔つきでこちらを横目にしながら集団が走り去るのを見送りながら、乗り馬の首に手を当てる。極度の興奮状態を素早くなだめて落ち着かせながら、その場でぐるりと頭を巡らせた。
中央で先陣隊が右往左往している様子が見て取れた。その奥、味方左翼の状況までは、巻き上げられた土煙に遮られてさすがに見通せない。そちらについては、セフェリノやイバンターグの勇戦に期待するしかなかった。今、自分のやるべきことは一刻も早く相手左翼を無力化することだ。今のところ、中央部隊はなんとか混乱に留まってはいるが、あの様子ではそれがいつ“壊滅”に転じるかわからない。中央の味方が離散してしまえば、その時点で勝敗は定まってしまう。果たして、あとどれくらい持ち堪えてくれるか――祈るような思いで再び中央に目をやろうとして、そこでクリスは流れた視界のなかに違和感を覚えた。
ぎょっとする。本来、こちらの大将と共に最奥に収まってあるべき陣旗。遠目にも意匠を凝らしたことがわかる鮮やかな赤の大旗が本陣を離れ、あろうことかゆっくりと中央に向かって近づいている。その旗を担う人物の顔を見て取って、クリスは唖然とした。
大陣旗を片腕一本で肩に担いだケッセルト・カザロは、悠然と戦場のさなかを闊歩している。飄々とした表情で、そのまま散歩して横断しようとでもいうかのような態度にクリスは激しかけたが、遠く男の視線が一瞬、こちらに向けられたのを見て、黙って馬首を翻した。あの男へ言いたいことはあるが、今はそんな場合ではない。言い分も言い訳も、後からきっちりと聞かせてもらえばいい。
「はッ!」
鐙を打って、乗り馬に合図する。弾けるように駆けだす愛馬の上で前屈みに、クリスは突撃姿勢をとった。目線はしっかりと、行くべき方角を見定めている。今まさにこちらの右翼隊と接触しようとする東軍の左翼集団へと、彼女は全力で疾駆した。
石積みの劇場内は照りつける日と集まった人々の熱気が相まり、外から内側へ向かって強い風が呼び込まれている。巻きあげられた砂塵が空高く吸い込まれていく様子を見上げ、ケッセルトは笑みを浮かべた。たとえ大帝都であろうと、戦場に吹く風と、そこに舞う砂の在り様は変わらない。少しばかり騒がしくはあるが――怒号じみた声を張り上げる観衆を見まわして、咽喉の奥で笑う。
両軍が中央で正面から激突するという事態は少しでも軍事を知っていれば意外だが、観衆の多くはもちろんまったくの素人でしかない。だからこそ連中は東軍大将スムクライの勇武を称賛し、状況のわかりやすい展開を喜んで、そして今、その後に訪れた状況に強い不満の声を挙げている。
水陸に誇るツヴァイ重騎馬(を中核とした)部隊が、その半数にも満たない相手にいいようにやられている様子は、一言でいって無様だった。観衆の激怒する心境も理解できる。酒でも呑みながら観客席から野次を飛ばすのも面白そうだ、などと気楽に考えながら、ケッセルトは無精な顎の髭を撫で上げた。右肩に担いだ大旗を握るのは右腕一本。高々と掲げられた旗地は強風に煽られて激しくたなびいているが、旗そのものはわずかとも揺れていない。
強い視線の気配を感じて顔を向けると、遠くからこちらを睨みつけているアルスタ家令嬢の姿があった。陣旗を持ち出したことに文句があるのだろう。遠目にもはっきりと眦が吊り上がっているのがわかる相手に対して、にこやかに手でも振ってやろうかと考えているうちに、生真面目な令嬢はさっさと馬を返し、自身の戦場に向かって駆けだしていってしまった。
苦笑して、男は改めて戦場全体を一望する。中央は不利。左右両翼はまだ相手と接触していないが、そちらも決して楽ではないだろう。数の差がある上、東軍側としては馬鹿正直にぶつかりあう必要もなかった。中央の状態を維持するだけで戦況は東軍有利になる一方なのだから。
「ま、それじゃ面白くない」
他人事のように呟きながら、ゆっくりと乗り馬を進める。
目の前では西軍の面々が醜態を晒していた。速度を失くしたところに投げつけられた縄が馬の脚に絡まり、それを嫌がって暴れた馬同士がぶつかって、なかには鞍上から投げ出されている者までいる。ひどい有様だった。狼狽する十五名を取り囲む東軍の面子はたった五名。だが、連中は巧みな馬術と、なにより西軍の混乱を利用することで、相手に立て直す余裕を与えないでいる。密集隊形の欠点、そして騎馬という在り方そのものの弱点を知り抜いているからこその手腕だった。
このような場合、いっそ下馬した方がよいのだが、それも難しい状況ではあった。降りようとしても乗り馬が大人しくしてくれるとは限らず、降りたところで味方の馬に蹴り飛ばされてはたまらない。騎兵としての誇りも、まあ、あるだろう。なにより――連中の装備は徒歩には重過ぎる。落馬して容易に起き上がれず、懸命に地面でもがいている味方の一人へ哀れみを込めた視線を送りながら、ケッセルトはあくびをかみ殺した。
混乱の極みにある西軍の面々を狩りでもするかのように追い詰めていく東軍の五人で、実際に行動しているのは四人だった。もう一人の女性は冷ややかにそれを見守っている。振り返らないまま、その女性が口を開いた。
「それは一体なんの真似だ」
「あん?」
視線が向く。一見すると静かな印象を湛えた切れ長の眼差しが、ケッセルトの担いだ陣旗を見やって、つまらなそうに言った。
「味方の無様さに呆れ果て、早々に勝利を献上しにでも来たか」
「ふむ。そいつは考えてもなかったな」
そういうのも面白いか、と男は真面目ぶって考え込んでみせた。意外な展開ではある。それで激怒する某令嬢の顔などが即座に脳裏へと浮かびあがり、ケッセルトは苦笑した。享楽的な性格には自覚もあるが、決して破滅的というわけではないつもりだった。
「面白いことは面白いが、それ以上に興醒めってもんだろう。なにより、そんな仕舞いじゃあ、お前さんだってつまらんだろうぜ。そうじゃないか?」
ジル・イベスタ・スムクライが目を細めた。超然とした気配さえあった醒めた眼差しに、ちらと野性的な輝きが灯る。
「ならば貴様が相手をするか」
「そのつもりだが、ご不満かな?」
ケッセルトはにやりと口の端を崩すと、周囲を取り囲む観衆を睥睨するように見回した。先程から、陣旗持ちの不審な動きに気づいた一部の客がどよめき始めている。彼らの反応を煽るように大旗を掲げてみせると、ためらいがちな歓声がそれに応えた。観衆の初心な反応を笑って、
「他人に見られて悦ぶ趣味なんざ持ち合わせちゃいないが、見させてやると考えればそう悪い気分でもない。この間のように、今度は馬遊びと洒落込もうじゃないか」
寡黙にして苛烈なスムクライは、それ以上のやりとりを行う意思を持たなかった。無言で腰から曲刀を抜き放ち、乗り馬の脇腹を絞めて一気に駆けだしてくる。
「おお、怖え怖え」
手綱を振るって逃げ出しにかかる。その背後から、一瞬で迫ったジル・イベスタ・スムクライが襲い掛かったが、
「ほい、っと」
背後から振り下ろされた一撃を肩に担いだ陣旗の竿で受け止める。そのまま、男は大陣旗を両手槍の如くに振るってみせた。旗地が風を巻き込んで、轟音が唸りを挙げる。片腕でそのようなことを行うのは無論、尋常な膂力の為せるものではなかった。
「――――」
横薙ぎの一振りはスムクライの女性を捉えず、すでに彼女は“槍”の間合いから駆け抜けてしまっている。女性を乗せた駿馬は適当な距離を駆けると、まるで自ずとそうするかのように回頭して再び突進してくる。実際には、女性が馬腹を絞めるその強弱で乗り馬を自在に操っていることを看破して、ケッセルトはひゅう、と軽薄に唇を吹かせた。
「大した足技だ。いや、腰ワザか? こういうのとはまた違った時と場所で、是非お相手してみたいもんだが」
「下種な男は好かぬ」
「そいつは残念――」
激突するような勢いで、二頭の馬が交錯した。




