16
◇
その日、ツヴァイ帝国首都ヴァルガードの一角には多くの人々が押しかけていた。
水陸各地から招かれた貴族子女達による「大学」。その存在は、帝都に住む人々にとって以前から周知のことではある。しかし、だからといって日頃からその門戸が開かれているわけではなかった。ツヴァイ帝国皇女アンヘリタ・スキラシュタを始めとする各国の重要人物が集う大学敷地は当然のように厳しい警備体制が敷かれており、平時であれば一般人がその姿を見かけることも不可能だった。一歩、門の内側に足を踏み入れれば、そこは帝都のなかにあって隔絶された別世界と言ってよい。貴族と臣民の隔たりは大きく、両者が交わることはほとんどなかった。
だが、開校一か月となったその日、大学からやや離れた屋外劇場において貴族子女による馬上模擬戦が開催されるということは臣民にも通知され、その観戦は自由であるとして広く開放された。銀真鍮製の絢爛な意匠を施された劇場正門は開け放たれ、その内部に多くの臣民を呑み込み続けていた。
一月の期間をかけて用意された模擬戦の舞台は外から運び込まれた砂土で念入りに踏み固められ、その周囲にはぐるりと取り囲むように複数階の観客席が設けられている。一万人を超えて収容可能な立体の観客席はすでに隙間なく人の山に埋め尽くされ、彼らの発する熱気と歓声によって異様な雰囲気が醸し出されつつある。あちらこちらでは酒商いの声が響き渡り、ほとんど祭りのような様相だった。
その観客席の最上段、中央に位置する貴賓席に一人の人物が姿を現すと、観衆からどよめきが起こった。
ツヴァイ帝国九代皇帝フーギ・スキラシュタ。水陸に覇を唱える大帝国の支配者が臣民の前に姿を見せる機会は決して多くない。若くから端正な容姿で高い人気があり、壮年に入ってそこにさらに男性的な円熟差を加えた帝国皇帝が右手を挙げると、観客臣民から爆発的な歓声が起こった。
皇帝フーギの両隣には皇妃ヴェルサリ、そして皇女アンヘリタが優美に腰を下ろしており、その周囲にはずらりと帝国重臣の面々が立ち並んでいる。そこにあるのは帝国宰相ナイル・クライストフやその長子オルフレット、ナトリア公女クーヴァリィンなど錚々たる顔ぶれだった。さらには他国の王侯貴族も少なくない数が招かれている。
その一段下の階層には大学関係者や学生、その身内のための観戦席が用意されていた。優将として名高いバルガ・アルスタも妻を伴ってその姿があった。
自分の姿を見つけたらしい母親が、嬉しそうに胸元で小さく手を振ってくるのに気づいて、クリスは微笑を浮かべた。長い髪を結い上げ、緩衝用の布を当てた上で板金兜に覆われているために視界はひどく制限されているが、同時に表情も隠されていることは幸運でもあった。母親の隣に佇む父親からの眼差しは自然と厳しく、クリスは背中を正した。
「よう、いよいよだな」
後ろから軽薄な声を受けて嫌な顔になる。黙って馬首を巡らせると、ケッセルトが馬を近づかせて来ているところだった。
堂々たる体躯の雄馬に跨ったケッセルトは緊張感の欠片もない様子で、表情はほとんど緩みきっている。兜どころか当て布も見当たらない相手の姿にクリスがその疑問を口にする前に、視線の意味に気づいたらしい男が肩をすくめてみせた。
「暑苦しいのはどうも苦手でね」
「好き嫌いの問題ではないでしょう」
睨むように見ると、ケッセルトは軽薄な表情に面白がるような笑みを浮かべて、
「そうかい。そちらだって随分と身軽そうじゃないか」
「好き嫌いでやっているのではありません」
クリスは憮然として応える。
ツヴァイにおける騎馬は重騎馬、重装甲による重装騎馬である。膠着した戦況の打破、及び決定的な一撃を与えることが主役割であり、その本懐は馬上剣を担いでの敵集団への突撃にあった。
ツヴァイ騎士の騎馬突撃こそは、水陸でも随一の破壊力を持つ最精鋭であるという評判は決して誇張が過ぎたものではない。正面からのぶつかり合いという前提の上でなら、それは正しかった。ただし、突撃騎兵という兵科の宿命上、相手に多大な被害を与えるのと同時、自分達にも少なくない被害が出ることからはどうしても逃れられなかった。
その際に少しでも被害を抑えようという試みから、装備が大型化していった結果こそが現在のツヴァイ重装騎馬化でもある。その一般的な装備内容は兜、喉当、胸鎧、肩当に肘当、手甲と腕筒、臀下帷子や脚甲、膝当に拍車つきの鉄靴と細部に渡る。当然、総重量も相当のものだった。装備の質の良さにもよるが、ほとんど大人一人分にも迫る。さらには、乗り馬にも板金の馬鎧を装備させようとすれば、当然、それに耐えうるだけの馬体が求められた。その為、どうしても敏捷性や速度で犠牲になる部分も出てくることになる。
今日、これから行われる模擬戦にあたってクリスが着こんできたのは馬上装備と呼ばれるそれらの一式から大部分を省いたものだった。兜や鎧。腕や足にも板金をつけてはいるが、馬上鎧としては最低限に過ぎる。
そうした装備を選んだ要因は、クリスが女性であるからだった。全身鎧とは出来る限り多方向からの攻撃に備えるため、文字通りに“全身”を護り、その隙間をなくそうとしている。その結果、重量は嵩み、関節の自由度は失われてしまう。無論、最低限の運動は可能ではあるが、非力の身で男性と同じ重量を着込んでいては不利は免れない。さらには、そのことが自分の有利さをも消してしまうことを考えた上での選択だったが、彼女の目の前にいる男はそれよりさらに極端な姿だった。
ほとんど鎧というのもおこがましい。男がその身に着けているのは胸甲だけだった。あとは全身を丈夫な木綿の衣装に包んでいる以外は兜もなく、ただし拍車だけは脚に備えてある。兜の下の当て布さえ頭に見えないのでは、その恰好が今だけのものではないことは明白だった。
「正気ですか?」
「もちろん、正気だとも」
男は平然と、
「俺にしてみりゃ、なんで着込んでるんだかって感じなんだがな。槍も矢も飛んでこなけりゃ、伏兵だっていないってことがわかってんのに、どうしてわざわざ自分の身動きを取りづらくしなきゃならないんだ?」
男の言葉は正論だった。
確かに、今回の模擬戦に弓矢や投槍の類は禁じられている。全身鎧は正面からの攻撃はもちろんだが、横合いからの攻撃や不意打ちに対する意味合いが強かった。
それでもツヴァイ出身の若者が全身を頑丈に固めているのは、それこそがツヴァイの騎馬であるという自負があるからだろう。それはそれでいいのだ、とクリスは思う。彼女が恥じたのは、彼らのように自分達の在り様を貫くのでもなく、かといって目の前の男のように開き直った態度も取れないでいる自分自身についてだった。
ご大層に板金兜を被りつつ、各部の鎧は可能な限り省いてみせる自分の在り方が、途端に無様で、ひどく不格好なものに思えてくる。
クリスは黙って板金兜を脱いだ。長髪を結い上げ、当て布を置いて露わになったその渋面に、くつくつとケッセルトが笑みを零す。
「素直なのはいいことだと思うぜ」
「……うるさい」
相手を睨みつけ、
「前回の話し合いの際、どうしてそのように進言されなかったのですか」
「無駄なことはしない主義なんでね」
肩をすくめたケッセルトが視線を巡らせる。
青毛の馬に乗ったヨウが二人に近づいてきていた。その姿も全身鎧ではなく、ひどく身軽な恰好だった。ケッセルトと同じように胸甲だけをつけている。
「おう。お前さんも俺と一緒か。いい狙いだな」
「さすがに、貴族のお歴々のように全身鎧を持ち合わせてはおりませんので。それだけです」
「なんだよ。クライストフにだって馬上鎧くらいはあるだろうぜ。貸しちゃくれなかったのかよ」
「そういう風には言っていただけたのですが、サイズが合いませんでしたので。今回のためにわざわざ手直しするのもどうかと思い、お気持ちだけ受け取った次第です」
ヨウが淡々と答える。
全身鎧の一式を揃えるのには非常に金がかかる。貴族でも、そうそう簡単に新品を誂えるものではなかった。大学に通うような高名な家柄であればその限りではないが、クリスの生家であるアルスタ家は決して裕福ではない。彼女の鎧も、十五歳になった今年にようやく与えられたばかりの代物だった。それまでは代々伝わる古鎧を着込んで練習するばかりだったのだ。
彼女が真新しい鎧を着込んできたのも、せっかくの晴れ舞台という意識がないとは言えなかった。今さらのように、周囲に馬を並べる選抜者達が身に纏うものが、どれも磨き上げられたように新しいものばかりだということに気づく。
クリスがふと視線を観客席に向けると、先ほどより格段に広がった視界に、遠くからこちらに視線を投げかける彼女の父親の姿が映った。その口元がわずかにだが満足げに綻んでいることに、彼女はさっと頬を染めた。
――私は未熟者だ。
改めてその事実に思い至り、息を吐く。よし、と気合を入れて顔を上げた。
「ヨウ。そう言えば、貴方の持ち場は本陣だったのではありませんか?」
クリスがいる場所は右翼に近い。ここに居ることを不思議に思って尋ねると、ヨウは淡々とした表情のまま、
「ブライ様のご厚意で、右翼に宛がっていただきました。私は貴女様を護衛することが仕事ですから」
先日の一件の記憶はまだクリスのなかに残っている。彼女は不機嫌に顔をしかめて、
「不要です。模擬戦に参加するなら、まず西軍の勝利を目指すべきでしょう」
「ならば、貴女様が西軍の勝利を勝ち取られればよろしい。それならば、私が護衛することにも意義があるというものです」
クリスが眉を跳ね上げたのは、その物言いがまるでニクラスのそれのように聞こえたからだった。相手を睨みつけ、まったく動揺しないことにますます腹を立てる。
「……言われなくてもそうします」
「それはようございました」
面白そうに二人の会話を見守っていたケッセルトが、頬をにやつかせた。
「なんだ、面白そうな話だな。俺もそっちに行けばよかったか」
「……貴方の所属は本陣でしょう。今さら、そんな勝手は許されません」
ケッセルトは肩をすくめて、
「わかってるさ。まあ、こっちはこっちで面白くなりそうだからな。――約束、忘れんなよ」
軽口を残して、男は去っていった。
「なにか約束を成されたのですか」
「貴方には関係ありません」
ヨウからの問いたげな視線を無視して、クリスはふと遠くの集団に見知った姿を見つけて手を挙げた。
セフェリノとイバンターグらしき騎影が、彼女の合図に気づいて手に持った得物を掲げてみせる。どちらも長槍を手にしていた。
クリスがそちらに馬を向けようとしたところで、場内に大きく銅鑼が鳴った。
競技場を支配していたざわめきが徐々に静まっていく。やがて完全に音が途絶えたのを見計らって、一人の文官が進み出た。広大な場内に遍く響き渡るよう、声を張り上げる。
「――これより模擬戦を開始する。双方陣営、準備に入られよ!」
一瞬の間。
続いて、怒号のような歓声が沸き立った。
クリスは馬を進め、右翼の陣内に収まった。密集した陣形のなかでに、やや粗い馬の息遣いと、そして人のそれが耳に触れる。
すぐ隣にヨウが控え、反対側には別の人物がいる。少ししてから、クリスはそれが見知った相手であることに気づいた。
「いよいよですね」
語り掛けてくる声がやや硬い。兜を通しているせいか、ややくぐもっても聞こえた。
板金兜の奥の相手に向かって、クリスは意識して柔らかく笑いかけてみせた。
「ブライ様、感謝します」
「……は?」
「貴方のお陰で、少なくともなんの悔いもなくこの場に立つことができました。――本当に、有難うございます」
板金兜をかぶった貴族の若者は、なぜかたじろぐような仕草を見せた。
クリスは眉をひそめて、
「どうかしましたか?」
「いえ。少し、不意を打たれて」
「はあ」
男の肩が揺れる。
「なんでもありません。――私こそ、お礼を申し上げます。せっかくですから、今晩の夜会は祝宴会といきたいところですが」
その声から先ほどよりも硬さがとれていることに、クリスは安堵した。
「そうですね。そのために、頑張りましょう」
「承知いたしました」
クリスは頷き、前方に目をやって、そこで眉をひそめた。
遠くに東軍の陣営が窺える。
その陣模様が、異様だった。
西軍は事前の打ち合わせにあった通り、複数の集団に分かれている。
正面、左右両翼。そして大将と陣旗を守る本陣の四つだった。
一方の東軍は、全体が横一列になっていた。あれでは幅があっても深みが足りない。こちらの集団と一当たりしただけで突破されてしまうだろう。
もちろん、正面から当たるつもりがないはず、という予想はあったが、それにしてもあれだけ広がってしまえば必ずどこかで接触してしまいそうだった。
東西の陣営のあいだにある距離は、長くも短くもない。
馬は無制限に全力で駆けられる生き物ではない。両者のあいだに広がる空間は、全力で疾走すれば相手と接触する前に息切れしてしまう程度のものを測られていた。
その距離を使って、なにやら仕掛けてくるのか。クリスは考えた。
彼女が思考している間にも、舞台場では先ほどの文官が粛々とその役割を進行していっている。各国から招かれた賓客の紹介、及び寄贈された贈り物の内容が大声で語られていく。最後に、帝国皇帝フーギからこの場にいる観衆全員に飲めるだけの葡萄酒が下賜されたことが告げられると、再び場内に歓声が沸き上がった。
辛抱強くその落ち着くのを待った文官が、彼に与えられた最後の言葉を発した。
「では、これより模擬戦を始める! 正面、大旗が振られたことを以ってその開始の合図とせよ!」
役割を終えた文官が舞台から下がる。
皇帝フーギの鎮座する位置の真下に、ゆるゆると巨大な青旗が用意される。それが大きく左右に振られるのと同時、両陣営から気勢の叫びが上がった。
西軍は、前もって打ち合わせにあった通り、正面と両翼が一気に前進する。馬の軽重に、装備の様々なことを含めても、その行動は集団として合格の域にある。このあたりは、さすがに各国から選抜されただけはあった。
それに対する東軍の動きはそれとは異なっていた。
前進ではある。だが、横一列に並んだ東軍はその中央から左右に分かれ、それぞれ斜めに向かうような軌道を取っていた。西軍の先陣を避け、左右の両翼のさらに大外を回るような動きだった。
それだけではない。
ぽっかりと空いた中央の穴に、その背後から猛然と突撃を仕掛けてきた集団があった。数は十にも届かない。
いずれも軽装の、その先頭にいる相手が何者であるかに気づいた全員が仰天した。
褐色の肌と漆黒の髪。男どもを従えて堂々と疾駆するその人物は、それこそがまさに東軍大将ジル・イベスタ・スムクライその人に他ならなかった。




