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砂の星、響く声 外伝  作者: 理祭
戦人の奏功旗
40/46

15

「まったく不愉快だ。ああ糞、思い出すだけでむかっ腹が立つ!」

 鋭い言葉と共に、拳が叩きつけられた。

 頑丈な棗木の長机がみしりと音を立てるが、殴った本人はそれ以上の痛みがあったらしい。わずかに顔をしかめてみせる相手へ、その隣に座った岩のような男がとりなすように口を開いた。

「そう怒るな、イバン。無駄だったわけではない」

「無駄であってたまるか」

 浅黒い肌の若者、イバンターグは唸るように吐き捨ててから、険しい眼差しを向けた。

「気が進まないところを、わざわざ実演までしてみせてやったんだ。これで当日、連中がどんな無様をしても知ったところじゃないぞ」

「その時は思い切り笑ってやればいい」

「そうするとも。だがな、セフェリノ。その時にもしも連中が『見せられたものとはまるで違った』などと言い出したらと思うと、それだけで今から腹が立つんだ!」

「起こってもいないことに対して怒ったところで、仕方あるまい」

 大きな苦笑を浮かべたセフェリノから同意を求めるような視線を受けて、クリスは首を振った。

「いえ、イバンターグ様がご気分を害されても仕方ありません」


 つい先ほど、会合が終わったあとの話だった。話し合いのなかであった通り、ボノクスが模擬戦で使用してくると思われる「投げ縄」とはどのようなものか、実際に目にしてみようということになり、選抜者達は競技場に足を向けた。

 そこでイバンターグが騎乗し、実演してみせたのだが――それに対する反応はあまり芳しいものではなかった。

 投げ縄を片手に、一気に早駆ける。目標に見立てた藁木をかすめるようにすり抜け際、そちらに向かって縄を投じると、輪をつくった先端が見事に目標を捉え、締めつけるように窄まった。

 そのまましばらく藁木を引きずり回すように駆けてから、イバンターグは馬を止めた。見学するその他一同を振り返り、

「――ざっとまあ、こういった具合だが」

「素晴らしい」

 マヒートが拍手した。

「さすが遊牧のご出身だ、大変に上手でいらっしゃる」

 賞賛を受けたイバンターグは渋面になる。マヒートという人物の声や動作には、無意識にでも相手を不快にさせるものがあるようだった。

「騎馬の巧みさで知られるボノクスの面々も、あるいはその全員がイバンターグ殿に近しい腕前であるのかもしれない。しかし」

 そこで首を傾げてみせる。

「率直な感想としては、あまり心配に及ばない気がしますが……皆さんはどう思われますか?」

 問いかけに、周囲の人々は一様に困惑したような表情を浮かべた。全員が目の前で見せられた妙技と、それが今度の模擬戦に及ぼす脅威度合いについて合致させることが出来ないでいる様子だった。


 それも無理はないか、とクリスも内心で考えた。

 投げ縄という武器そのものについては、決して目新しいというわけではない。ツヴァイではあまり主流ではないが、ツヴァイが戦ってきた他国にはそれをよく使う敵国もあったし、それがどのような扱われ方であったかも記録に残されている。

 基本的にその用途は束縛、相手の行動の阻害。そして、使うのは徒歩から馬上へ。あるいは、馬上から徒歩の兵へという場合も多い。

 だが、“馬上同士”の戦いでそれが使われたという記録は、少なくともクリスの知る限りではあまり聞いたことがなかった。

 投げ縄は手に持ったまま使われることに加えて、一種の投擲武器のように扱われることもある。その場合、先端に重りをつけることで相手の身体の一部、たとえば足などに絡ませることを狙うのが専らだった。あるいは手に持ったままの場合であれば、馬上の人間をそこから引きずり下ろすことを目的とする。

 つまり、『投げ縄』という武装は「距離や速度、また高さなどが自分と異なる対象」に向かって使用されることが多い代物なのだ。相手を自分の得意な舞台に引きずり込むことを本意とする。それがクリスの認識だった。


 では、騎馬同士の戦いでそれを扱うことになにか利点が考えられるかとなると、なかなか難しい。

 同じ方向に走らせる場面を想定した場合、騎乗者の腕や足に引っ掛けることは出来ても、それだけで相手を倒すことは出来ない。少なくとも片手に縄を持った状態でそこから相手を打倒する必要がある。そのまま相手を馬上から引き落とすことは考えられるが、倒されるリスクは両者共に存在するはずだった。結局は腕力の問題になる。腕の力に頼らず、馬の力を利用するのであれば、逆走してすれ違いざまに縄をかける方がいいが、その場合にも強烈な衝撃はどちらにもある。相手だけ引きずり倒して、自分はまったく影響を受けないことは難しいはずだった。しかもボノクスの馬は軽騎馬であるから、単純な力比べなら(もちろん速度の問題もあるが)重騎馬には劣る。

 クリスが考えたもので、もっとも有効な手立ては、やはり「縄を投げつける」というものだった。相手の乗り馬の脚に投げ縄を引っ掛けて倒す。そうすれば馬上の人間を相手するまでもなく、また自分に加わる衝撃もなしに倒すことができるが、しかし今回の規則では「片方の縄は必ず手に持っていること」とある。

 使用される投げ縄の長さも問題だった。ボノクスが模擬戦で使用する投げ縄は二丈だという。決して短くないとはいえ、騎馬同士の戦いでは長くもなかった。状況にもよるが、大抵は馬の一駆けで済んでしまう。


 以上のようなことを考えた場合、投げ縄という武器が今度の模擬戦で脅威になることは考えにくい――という気がするのはクリスも同意見だった。とはいえ、自分にはない発想がありえるのかもしれない。そう思ってイバンターグの様子を窺うと、精悍な眼差しの若者もどこか不満そうな表情のまま沈黙している。

「……逃げるように駆けつつ、後ろに縄を流す。それに追手の脚を引っ掛けるくらいのことは狙ってくるかもな」

 しばらくして口にしたその内容は、それを言った本人も納得していないのがはっきりと見て取れた。イバンターグにも、ボノクスがどういった使い方をしてくるか思いつかないのだった。

 それを見てマヒートが笑みを浮かべ、

「なるほど、それは確かに気をつけなければ。しかし、相手が逃げを打つということは我々にとって有利でもあります。なにしろ、競技場は無限に広いわけではないのだから」

 これも正論だった。

 模擬戦が開かれる舞台は、普段から大規模な観劇や競技会など多目的に使われている場所で、百人が騎馬で縦横に駆け回っても十分な広さがある。ただし、もちろん無制限というわけではない。やや楕円気味の舞台の果てには観客席とを隔てる石壁が反り立ち、ひたすらに後退していてはやがていずれかの壁にぶつかってしまう。ボノクスが得意とする「距離をとる」行為もなんの考えもなしに行うことは不可能だった。

「であれば我々は馬鹿正直に相手を追うのではなく、左右両翼と中央先陣が連携して相手を包囲することが必要ですね。相手が逃げたということは穴が開いたということで、他が孤立する。もちろん、自分達が突出しすぎて包囲されるようなことには気をつけなければ」


 このマヒートという人物は決して愚鈍ではない。クリスは認めた。

 ある程度は軍事的な知識も有しているし、それなりに頭も回る。言っていることも決して間違ってはいないのに、こうも不快な印象を持ってしまうのは何故だろうか。これもまた生理的なものと言ってしまえばそれまでではあったが。

「そうだな。そうするべきだろうよ」

 恐らくは同じ思いを抱いているのだろう、吐き捨てるようにイバンターグが応えた。

 マヒートは相手を論破したことに得意げな表情を隠そうともせず、一同をぐるりと見渡すと、

「投げ縄には気をつけなければなりませんが、相手を警戒して萎縮してしまうのも問題です。我々はあくまで正々堂々と、猪口才な敵を正面から粉砕してやろうではありませんか」

 そう言葉を締めくくった。



「――はッ。正々堂々。猪口才だと? 正面から戦争することが偉いとでも思っているのか、馬鹿馬鹿しい」

 いまだ怒りの収まらない様子のイバンターグに向けて、クリスは頭を下げた。

「すみません」

「別にあんたに謝って欲しいわけじゃない、アルスタ」

 それとも、と胡乱な眼差しで、

「まさか、あんたまで『正々堂々』なんてものを貴んでるわけじゃあないだろうな」

「いいえ。仮にそうだとしても、それは自分に律するべきものであって、相手や味方に強要するものではないでしょう」

 クリスは答える。搦め手を使うことは得意ではなかったが、戦争やそれに類する行為が全て「正々堂々」としたものであると信じているほど愚かでもなかった。

「投げ縄を使われることにどれだけの脅威があるか、正直なところ、私もあまり実感は持てていません。しかし、先ほどの態度はあまり褒められたものではなかったと思います。同じ国の者として謝罪いたします」

「ふん。まあ、ああいう連中が将来この国で上に立ってくれるのなら、俺達は歓迎だがな。随分と楽ができる」

「そうかな。俺は少し違うことを思っている」

 皮肉っぽく言うイバンターグに、顎に手を当てたセフェリノが真面目な口調で言った。

「どういう意味だ」

「……確かにあのマヒートとかいう男は小人だ。ああいう人間がもし自国で上に立てば、我々のような小国はたちまちに滅びてしまうだろう」

 だが、とそこで目線をクリスに向けて、

「多くの取るに足らない人物をその身に抱えながら、なお強大。あるいは、それこそがこの水陸で最大の勢力を誇るツヴァイ、貴国の本当の恐ろしさなのだろう。そのように思える」


 ――結局、帝国の偉大さとはそれに尽きる。


 脳裏にニクラスの言葉を思い出しながら、クリスは曖昧な笑みを浮かべるに留めた。探るような眼差しに、目の前にいる二人がいずれ自国にとって“敵”になるかもしれない相手であることを思い出したのだった。

「ともあれ、まずは今度の模擬戦のことだ」

 クリスの緊張を感じとったように、セフェリノが表情を和らげた。

「投げ縄がどういうものか見てもらっただけでも意味はあった。確かに、ボノクスがどういった扱い方をしてくるかは不明瞭ではあるが」

「……あるいは、イバンターグ様のおっしゃっていたことで正解なのかもしれません」

「なに?」

 顔をしかめる二人に、クリスは自分の考えを披露した。

「馬の尾から後ろに流す。そうすることで、相手は背後からの追撃が難しくなります。相手を追い詰めるためには迂回するか、あるいは他と連携するしかない。一方向、相手の進行方向における選択肢を減らせるわけです」

「なるほど」

 セフェリノが頷いた。

「つまりは牽制か。迂回にせよ、連携をとるにせよ、大きな運動になる。連中にとってはつけ入る隙だ。そもそも、周囲との連携に不安があるのは我々西軍の一番の心配どころだからな」

「はい。あまり積極的な利用方法というわけではないかもしれませんが」

「いや、十分に考えられる。結果的につかず離れずの距離を保てるなら、囮役としては重畳でもあることだしな」

「ふん、それに気づかず延々と中央の連中が追っかけっこに興じてみろ、それこそ笑いものだな」

「そうは言うがな、イバン。中央先陣をどう生かすかは我々次第でもあるんだぞ」

 セフェリノの言う通りだった。


 そもそも、ツヴァイが水陸に誇る重装騎馬は決して無敵の存在“ではない”。

 よく知られている通り、ツヴァイが“決戦兵科”としての騎馬に注力したのは、その前身と言われるガヘルゼン王国が遊牧民族バハル相手に被った手痛い敗北を鑑みてのことだった。密集隊形をとった歩兵による前進圧迫を基本戦術としたその太古の強国は、騎馬による機動と遠距離からの弓矢の繰り返しにまったく為す術がなかった。

 そのためにツヴァイでは歩兵のより柔軟な運用が図られ、それと同時に騎馬兵力の充填が図られた。しかし、そこで考えられた騎馬兵の姿とは、バハムや現在のボノクスのような騎馬弓兵ではなかった。

 弓も馬も、生まれながらにそれを扱う遊牧民と自分達では技量が異なる。同じ土俵で争っても敵うはずもない。

 そこでツヴァイが志向した騎馬とは、つまりは「より速い歩兵」であった。


 機動力を生かして距離をとり、遠くから弓を使うのではなく、機動力で一気に相手との距離を詰め、その突撃衝力を以って相手を粉砕する。思想的には重装歩兵の延長、その発展と言えた。

 そのために、乗り馬、乗り手ともに重装甲が求められたが、それは必然的に馬の速度を殺す結果となった。馬にもその重量に耐えられる体格が必要となるために、そこでもやはり代わりに脚は犠牲になる。

 もちろん、そうした重装甲の騎馬では軽騎馬には追いつけない。追いつける状況を作る必要がある。それがツヴァイにおける歩兵の役割だった。まず歩兵が相手との戦端を開き、相手を拘束する。そしてここぞというところに騎馬が突貫する。故にツヴァイにおける騎馬は“決戦兵科”であり、あくまで主力は歩兵であるとされている。


 今度の模擬戦に歩兵は存在しない。ナタリア団から多く構成されている中央の重装騎馬集団は鈍重であり、彼らという存在を生かすためには左右両翼との連携が不可欠だった。


「わかっているさ。だがな、俺はあのいけ好かない連中のためにお膳立てをしてやるつもりなんてないぞ」

 イバンターグが言った。

「俺が今度の模擬戦で担うのは、あくまで自分の国の栄誉だけだ。それこそが大事で、西軍の勝利など二の次だ。俺がお前達に協力してやっているのもその為だ」

「わかっています」

 クリスは頷いた。あのマヒート達のために、それ以外の他の参加者が犠牲になる必要はない。所詮は寄せ集めの限界と言えばそうだが、仕方のない部分ではあった。

 ふん、と不満げに鼻を鳴らしたイバンターグが、

「それと、もう一つ。約束は忘れていないだろうな、アルスタ」

「もちろんです」

 クリスの表情が苦笑になる。

 イバンターグから後日、改めて決闘を申し込まれているのだった。セフェリノに不意をついて強引にその協力を取り付けてから、クリスは何人かに同じように奇襲をしかけており、イバンターグもその一人だった。その時の勝敗はやはり不意をついたクリスにあったのだが、イバンターグはその結果を不満に思っているのだった。奇襲などで一方的に仕掛けられたのだから当たり前だと思うので、クリスも当然のようにその再戦の申し出を受けていた。それは彼女自身にとっても望ましいことだった。


「ならいい。まあ、先陣や本隊の始末は知らんが、少なくとも左翼側が劣勢になることはあるまいよ。俺とセフェリノがいるのだからな」

 イバンターグは言い切った。確かな自負が見て取れる。その隣のセフェリノも、こちらはわざわざ口にはしないが、やはりその静かな外観に自信がみなぎっていた。

「心強いです。私もそうありたいものですが、」

 彼らのように力強く断言までは出来ないクリスだった。彼女は水陸北方出身ということもあり右翼集団に所属することになっていたが、同じ集団を形成する他の面々とは、セフェリノ達のように話をできていなかった。そちらは自分に任せて欲しい、とブライが言ったからだった。そのブライは同じ集団に属してくれるが、本人がこういうことが得意ではないと言っていた通り、あまり頼れそうにもない。

 いずれにせよ、左右両翼のどちらかが瓦解することは、一瞬で全体の敗北に繋がってしまう。クリスは自分の弱気を恥じ、頭を振った。

「いえ、私もお二人に負けないよう、必ずや左翼を勝利に導いてみせます」

「その意気だ」

 セフェリノが大きく頷く。イバンターグは肩をすくめて、

「まあ、右側が片づいたら、そちらの援護に回ってやらんこともないぜ。中央の苦戦を横目に、というのも面白そうだしな」

「助力していただけるのはありがたいですが、そのまま相手方の本陣に向かっていただいた方がよいかもしれません」

 相手の軽口にクリスが言うと、ふとセフェリノが思案するような表情になった。


「なにか?」

「いや、気になることがもう一つ。件の女傑のことだが」

 わざわざ名前を挙げずとも、模擬戦に参加する女性はクリス以外にもう一人しか存在しない。ボノクスを主導する四部族の一つの出身であり、今度の模擬戦では東軍大将を務める相手。ジル・イベスタ・スムクライだった。

「大将ということは恐らく、本陣に身を置くとは思うが。そのまま、最後までそこに留まっているものだろうか」

 それはクリスも前から考えていた疑問だった。

 模擬戦では軍旗、大将、そして陣地の奪い合いになる。大将が敗れることが敗北に直結するわけではないが、その失点が著しく不利に働くことは間違いないため、普通は軍旗と共に本陣に在るだろうと思われたが、

「……もしかすると、前に出てくるかもしれません。彼女の気性なら、十分にあり得ると思います」

 クリスはそう答えた。先日の園遊会で実際に相争った経験から来る勘だった。

「なるほど。まさに女傑だな。これはますます、相対するのが楽しみだ」

 セフェリノが不敵な笑みを浮かべる。強敵を前にして血を踊らせる、武辺者としての本能がさせている表情だった。

「おい待て。セフェリノ、俺が先だぞ」

「なにを言う、早い者勝ちだ」

「言ったな。ならお前こそ、あとで吠え面をかくなよ」

 仲がいい様子の二人を見て、クリスは羨ましさを覚えた。いや、とすぐに考え直す。顔合わせの時は模擬戦がどうなるのかまるで光が見えなかった。このように頼もしい知己を得られただけで幸運なのだ。


「では、私は少し用事がありますので、これで失礼します。セフェリノ様、イバンターグ様、当日はどうぞ我々を利用して、存分に武勲をお立てになってください」

「クリスティナ殿。貴殿にも武運があらんことを」

「もちろん、利用させてもらうとも。そちらもそのつもりだろう?」

 イバンターグの言葉にクリスは快活に笑った。

「もちろん、私もお二人を利用させていただいて、我が国と陣営の勝利に大いに役立たせてもらう所存です」

 三人は笑い、そして別れた。



 セフェリノ達と別れたクリスはそのまま工房地区に向かった。

 変わり者の教授、イシクから呼び出しを受けていたからだった。どんな用件か身に覚えがないが、あの老人と会えることは楽しみだった。

 大学に隣接されるように作られた工房地区に、アルスタ領に流れ着く石炭が運ばれるようになったのはつい最近のことだ。新しい炉にも火が入り、イシク老人はさっそく泊まり込んでなにやら没頭しているという話をニクラスから聞いていた。


 ――もしかすると、ニクラスも呼ばれているだろうか。

 喧嘩のような別れ方をしてから、もう随分と話をしていない。実際には十日もない間だったが、クリスにはひどく長い期間のように思われた。

 もしもニクラスがいるなら、少しでいいから話したい。模擬戦の前に心残りは失くしておきたかった。きっとあのひねくれ者も、頑張れの一言くらいはかけてくれるだろう。


 だが、期待に胸を躍らせて足を向けた先に、彼女が求めた相手の姿は見つからなかった。

「おお、おお、クリスティナ君。よく来たな」

 以前に訪れた時と同じ、いやそれ以上に炎と熱が荒れ狂う室内。そこで出迎えたイシクが、煤で顔中を真っ黒にしたままにかりと笑う。子どものように邪気のない笑顔に、クリスは内心の失望を隠して挨拶を返した。

「イシク先生。ご無沙汰しています」

「ああ、うん。そうだったかな? ここ最近はずっと泊まり込んでおってな、正直、日にちの感覚もあんまりないのだ」

「お忙しいのですか?」

「うん、うん。なにせようやっと炉を動かすことができたからな! それも君のお陰だ。君のところから送ってもらう石炭のお陰で、燃料を気にしないで炉を炊くことが出来る。ありがとう、本当にありがとう」

 手を握って勢いよく振られる。

「とんでもありません。父も喜んでいました。石炭を買い取っていただけるおかげで、今年の冬は領地の者たちに楽をさせることができます」

「うんうん。じゃあ、お互いによかったと言うことだな。なによりだ!」

 イシクはそこであたりを見回して、

「ところで、あいつはおらんのかね」

 クリスは眉をひそめた。

「ニクラスですか? いえ、一緒ではありませんが……。お呼びになられていたのですか?」

「ああ、そのはずだが。まったく、なんという不届きな奴だ。師匠の呼びつけを無視するとは」

 師匠と弟子という関係だったとは知らなかったが、あのニクラスが理由なく約束を反故にするとも考えられず、クリスは不審に思った。なにか急用か、それともよほど多忙なのだろうか。脳裏にクーヴァリィン公女と仲睦まじげだった光景が浮かんだ。


「クリスティナ君、どうかしたかね」

「……いえ。それで、先生。今日はどういったご用件でしょう?」

「ああ、まあ用があったのは君なのだがね。あいつはついでのようなものだ」

「はあ」

「聞いとるよ。今度の週末、大きな見世物に出るらしいじゃないか」

 水陸各国の代表者が国の誇りと自身の栄誉を賭けて争う選抜模擬戦も、目の前の老人からすると普段から行われている観劇の類と変わらないようだった。苦笑しつつ、クリスは頷いた。

「はい。光栄なことに、選抜される名誉に預かりまして」

「うん、うん。グンジンの世界のことはよくわからんが、さっき言った通り、君には恩があるからな。それで、なにか役に立つ物でも用意できないかと思っておったのだが。――砂鋼の話は覚えておるかね?」

「もちろん覚えています」

 この鋳炉が作られた目的でもある、青銅でも唯の鉄でもない新素材。完成すれば、それはツヴァイにとってもひどく有益だろうと思われた。

「成功されたのですか?」

 イシクの顔が皺くちゃになった。嘆息をつく。

「それが、まだなのだ。……十分に高温は保てているはずなのだが、その温度の調整が上手くいっていないのか。それとも他に石炭の使い方で問題があるのかもわからん」

「なるほど……」

 クリスは曖昧に頷いた。生家のあるアルスタ領では炉鍛治が盛んとはいえ、彼女自身はそういった分野についてほとんど門外漢であるため、そうした反応しか返せない。

「もしも砂鋼が間に合っていれば、武器や鎧でも持たせてやりたかったのだが。不甲斐ないことで、まったく申し訳ない」

「いえ。そのお気持ちだけで有り難いです」

 本心からクリスは言った。


 まだ炉が動き出してから一月も経っていない。それで新しい素材の製造方法を確立するというのはさすがに難しいことだろう。それを使った武器防具の開発となれば言わずもがな。それでも、相手がそんな風に気にかけてくれているということが純粋に嬉しかった。

「それでだ、老人の苦労話だけを土産にするのも悪い。こんなものを用意させてもらったんだが」

 そう言って取り出して見せたのは、一振りの短剣だった。装飾のない拵えに覚えがある。

 手渡されたクリスが鞘を抜くと、鈍い光が零れた。その輝きにもやはり見覚えがあった。

「これは、砂鋼ですね」

「そうとも。前に見せたことはあったかな? 以前、儂が偶然に手に入れた代物だが」

 イシクは頷いて、

「良かったら、御守り代わりにでもしてやってくれたまえ」

「いえ、先生。こんな貴重な物を頂くわけには――」

 クリスは慌てて短剣を相手に突き返した。まだ砂鋼の製造に成功していない以上、偶然とはいえこの代物は貴重品であるはずだった。

「なに、問題ないとも。所詮はたまたま手に入ったものだ。儂はこれから、それを必然で手に入る物にしなければならん。そして、儂が目指す硬度はそれではなく、空から降ってくる隕鉄や、南の連中が使っていたような代物だからな」

「しかし……」

「もし必要になったら、その時は君に貸してもらえればいい。つまりだ。大事に使ってやってくれと言うことだよ。どこぞでうっかり失くされても困る。必ず、持って帰ってきてもらわにゃな」

 まるでこれから戦場にでも赴くような物言いだった。だが、模擬戦にも事故は起こる。少なくともその気概だけは、戦場に出る時と同等の覚悟をもっているべきだった。


「……わかりました。それでは、この短剣をお預かりします。お返しに戻るために」

「うんうん。そうしてくれ」

 イシクは嬉しそうに頷いた。

「話によると、色々と苦労しとるそうじゃないか。まあ、そんな短剣が一本あったところでどうなるとも思わんが。出来のいい生徒にいなくなられるのは辛い。頑張ってくれよ」

 やはり先生は、今度の模擬戦を戦争かなにかと間違われているのではないだろうか。思わず苦笑しかけてから、クリスはふとした違和感に気づいた。


 老人の言葉は、自分が模擬戦のことで問題があることを知っている口振りだった。工房にこもりきりで、そうした外の話が自然と耳に入ってくるものだろうか。模擬戦のことだけならともかく、その内情まで知悉しているというのは些か不自然なように思われた。そして一般的な貴族は普通、このような場所に足を踏み入れはしない。そう、普通の相手なら。


「先生、」

 開きかけた口を、クリスは寸でのところで思い留まった。

「ん? どうかしたかね」

「……いえ、なんでもありません」

 何故か姿を見せない相手と、目の前の相手の厚意。それらについて思うところはあっても、それをわざわざ口にして確認することはあまりに野暮なように思われた。

 もしかすると自分の勘違いかもしれない。目の前の相手が模擬戦の内情について深く知っていたのは偶然かもしれない。あるいは、工房に出入りする誰かが噂話をしていたのを耳にしたとか、その程度のことなのかもしれなかった。

 だが、例えそうだとしても。

「――先生」

「ん?」

「ありがとうございます」

 クリスは深々と頭を下げた。相手からの厚意に応えるのには、この場ではそれだけしか思いつかなかった。

「なに、気にすることはないさ」

 煤だらけの顔でイシクは笑った。孫を見るような眼差しになって、茶目っぽく続ける。

「まったく、偏屈な教え子を持つと苦労するよ」


 クリスは再び頭を下げた。どちらかと言えば、それは自分の表情を隠すためのものだった。きっと口元が緩み、頬が赤らんでいるだろう。そのようなはしたない姿を誰かに見せるわけにはいかなかった。

 心に温かいものが満ちる。まったくだ、とクリスはイシクの言葉に強く同意した。


 ――まったく、自分の友人はとんだひねくれ者だ。


 ◇


 クリスが襲撃を受けたのは、彼女が晴れやかな気分で帰路についたその途中のことだった。


 工房地区から一度大学を経由せず、そのまま自宅に向かう道を選んだのは単にその方が近いから以外の理由はなかったが、あるいは気の緩みがあったかもしれない。そこまではいかなくとも、思いもしなかった気遣いに浮かれ心地であったのは確かだった。


 不自然に人通りの絶えた路地に、前後から複数名の不審者に挟まれて、クリスはすぐに気分を切り替えた。

 以前にも、大学の夜会の後で何人かに囲まれたことがある。その後もクリスは自らに護衛の者をつけることはしなかったが、その代わり護身の武器を手放すことも決してしなかった。今日も短剣を身に着けている。それ以外に、先程イシクから預かったばかりの砂鋼の短剣もあるが、彼女はそちらを抜くつもりはなかった。このような輩に扱っていい代物ではない。

 先日の夜会で襲われた際、襲撃者はいかにもそこを途中で抜け出してきたといわんばかりの正装姿だった。頭に布を被っていただけのお粗末な変装だったが、今回の襲撃者はそうではない。どこにでもある些末な服装で、一見して特徴を残すものは見当たらない。この襲撃が、決して突発的なものではないことが察せられた。


「私になにか用か?」

 護身の短剣を抜き払い、クリスは氷のように冷ややかな声を発した。言葉には剣に生きる者として十分な迫力がこもっている。

「五、六名。それだけいれば、どうにか出来るとでも思ったのか? ――アルスタも舐められたものだな」

 襲撃者に動じた様子はない。

 手にそれぞれの得物を持ち、じりじりと間合いを詰めてくる。それに対してクリスが相手の機先を制して一歩を動き出そうとしたその時、


「――!」


 不意に飛来したなにかが襲撃者の一人の肩口に突き刺さった。悲鳴を上げて後ずさる。全員の視線が注目した、そこに別の集団が現れていた。

 襲撃者と同じように特徴のない恰好で、なんの冗談か、頭に被った覆面まで似通っている。それぞれの手には短剣があって、先程は一人がそれを投げつけたのだと思われた。数は八人。

「クソ、退くぞっ!」

 数の不利を悟った時点で、襲撃者達の決断は早かった。身を翻して逃げ出しにかかる一団を、無言のまま新手の覆面集団が追いかけていく。

 一人その場に取り残され、クリスは釈然としない気分で息を吐いた。短剣を収め、長い金髪を振るう。なんとか自分の感情を抑えようとして、まるでそのことに失敗してから、噛み締めるようにその名前を呼んだ。

「……ヨウ」

「はい」

 すぐ近くの物陰から怜悧な眼差しの若者が現れる。

 クリスはヨウを睨んだ。訊ねる。


「――今。後から現れたあれは、クライストフ家の従士達ですね」

「はい、そうです」

 ヨウはあっさりと認めた。

「ニクラス様のご命令で、クリスティナ様の近辺を護衛させていただいておりました」

「ふざけたことを言わないでください」

 相手の嘘を一瞬で看破して、クリスは言った。

「護衛? あんなにも大勢が自分の周りに潜んでいて、それに気づかないとでも? あの連中が私の近くにいたのは今この時でしょう。私の周りでなく、この場所に潜んでいた」

 ヨウは答えない。クリスは続けた。

「つまり、ここで襲撃があることを事前に予想していた。そうではありませんか」

 工房地区の帰り、自分がここを通ることがわかっていたのだ。クライストフの従士達には。いや、その従士達に命じた“誰か”には。


「……浮かれ気分で、襲撃への警戒も忘れて無様に襲われるだろうから、前もって護衛を配置しておこうと。そういう心遣いですか? それとも、わざとここを歩かせるために、あいつはイシク先生に頼んで私を工房地区に呼んだのですかっ。――ヨウ! 答えなさい!」

 斬りつけるような勢いでクリスは詰問した。

 それに対してヨウはどこまでも淡白な態度を崩さず、

「我々は、我々の役目を果たしているだけです」

 静かに答えた。

「ニクラス様も。ご自分の役割を果たされています」

「役割?」

 クリスはさらに問い詰める。

「役割とはいったいなんです。あいつは今どこで、一体なにをしていると言うのですか!」


「――それを知ることは、貴女様の役割ではございません」


 クリスは目を見開いた。


 憤怒に近い感情が芽生えて、目の前の男をねめつける。相手は微動だにしなかった。その淡々とした表情の向こうに一瞬、ニクラスの面影が写って、唇を噛み締める。

「私の、役割?」

「はい」

「私の役割を、お前が決めるな!」

 クリスは吠えた。

 外向きの言葉遣いも忘れて、素が出てしまっている。ヨウがわずかに驚いたように眉を持ち上げた。すぐにその表情を戻して、

「――失礼しました。クリスティナ様、訂正いたします。……貴女様にそれをお伝えする役割は、私にありません」

 なお腹立たしい思いが収まらず、クリスは唸るように相手を見やって、

「……なら、本人に聞く。今度の模擬戦が終わった後で。文句はないでしょう」

「ご随意に」

 ヨウは微苦笑を浮かべていた。どこか、幼い子どもの癇癪に応えるような表情だった。

「それこそがご自分の役割であると、貴女様がそう自信を持ってお思いになるのでしたなら」


 含んだ物言いに、それ以上の会話を打ち切って、クリスは決然と足を踏み出した。

 怒っていた。物凄く怒っていた。

 ヨウの態度にも、その言い草にも、その背後で自分の前に姿を現さないニクラスにも、ひどく腹が立っていた。――役割。役割だと? ああそうだ。確かにアルスタはツヴァイの剣だ。それは間違いない。だが、私がお前に対する役割に「友人」というものはないのか。


 少なくとも、彼女はそれを相手に宣言したつもりだった。だとしたら、私はお前に文句を言う権利がある。ふざけるな、と言ってやる。陰でコソコソとなにをやっていたのか延々と問い詰めてやろう。

 そのためにこそ、彼女は模擬戦で無様を見せるわけにはいかなかった。自分が欲する役割を主張するために、課せられた役割を損なうわけにはいなかった。なによりも、堂々と胸を張って誰かの前に立つために。


 見ていろ、あの馬鹿。絶対に許さないからな。


 胸中で詰りながら、怒って帰路につく彼女の後ろ姿をヨウはなにか眩しいものを見るような眼差しで見て、それから苦笑を浮かべた。静かにその後をついていく。



 そして、模擬戦の日が訪れた。



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