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会場の音が止んだ。
それほど大きな転倒だった。周囲の誰もが踊るのをやめ何事かと注目している、その中央で息をきらした男が取り繕った笑みを引きつらせていた。
「……これは、これは。クリスティナ様、だからあれほど……無理はなされないほうがと――」
男の声など彼女の耳には入っていなかった。
彼女は呆然と、膝下から破れてしまったドレスを見つめていた。空色を濃く凝縮した蒼のドレス。母とファビオラがこの日のために用意してくれた。二人の笑みと、無骨者を見送ってくれた執事に女中達の顔までもが頭に浮かび、彼女の端正な顔を歪ませた。
惨めな気分だった。
転倒前にとった行動に悔いはない。誰かを突き飛ばして自らの安全をとる道は、誰よりもまず彼女が自身に誇れなかった。もし後悔があるとしたなら、それは男の安い挑発にのってしまったことだ。
やはり自分のようなものが社交の華を気取るべきではなかったのだ。社交嫌いの男。その供として、彼が苦手な部分は自分が役割を果たしてみせると粋がった挙句がこの様だ。頭に響く鈍痛が鋭さを増し、浅い呼吸で無理な運動を続けたせいか吐き気も催していた。泣きたくなるような思いで、ともすれば溢れそうになる自らの感情を必死に抑えこもうとしていた彼女の耳に、聞きなれた声が響いた。
「――音楽を。妖精の沈黙は、いまこの場所に訪れるべきものではないでしょう。どうか皆様、ご歓談をお続けください」
高くも低くもない、耳に心地よい声音はある意味、彼女にとって今この瞬間には最も聞きたくないものだった。
周囲に生まれる戸惑いの小波に対して無理な強制力のない自然さで、その声は続けた。
「沈黙よりも踊りましょう。今宵は新年の宴。この地の妖精にもそのほうがきっと喜ばしいはずです。さあ、音楽を」
やがて、静かな音色で円舞曲が流れ始めた。周囲の人々がそれにあわせ、動き始める空気を肌に感じる。一人顔を伏せたままでいる彼女の目の前に、誰かが立った。
「クリス。手を」
顔を上げる。見慣れた男の顔がそこにはあった。
ニクラスはこちらの無様さを怒っても哀れんでもいなかった。いつものように感情の読めない、静かな瞳が彼女を見据えている。瞳にたまったものを必死に耐えて、彼女は差し出された手を取った。
柔らかく引き上げられ、彼の元にひきこまれる。涙腺の決壊を堪えるのに努力が必要だった。
「や、やあ、ニクラス。彼女は、これはその――」
彼女と対していた時の居丈だけさはどこへいったのか、男がどもりがちに言いかけるのを一瞥で封じ、ニクラスが言った。
「こんばんは。マヒート。連れが世話になったみたいだ」
「いや……すまない、少し悪ふざけがすぎたかも、しれない」
にっこりとニクラスは微笑む。
「いいさ。ああ、そういえばマヒート、妹さんがブライに声をかけられていたみたいだったけど。様子を見にいってみたほうがいいんじゃないか?」
名うての女たらしの名前を告げられ、男の顔面から血の気が失せた。挨拶もそこそこに逃げ出す相手を侮蔑の眼差しで見届ける気にもなれず、クリスは傍らに立つ男を見上げた。震えを隠した声で訊ねる。
「……ダンスの相手はすんだのか?」
「なんのことだ?」
男は眉をひそめた。
「水を持って帰ってきたらいなくなってるから、あちこち探してたんだぞ」
あの馬鹿兄妹。クリスは内心で毒づいた。
「なんだよ」
「なんでもない。……自分の間抜けさに呆れていただけだ」
うかつにも程がある。虚言に惑わされ、ドレスまで駄目にしてしまった。家に帰ったら悲しがるだろう人達のことを思い、クリスは重く息を吐いた。
「もしかして、邪魔だったか?」
クリスはまつげを瞬かせた。男が放った言葉の意味が頭にゆっくりと浸透して、もう少しで彼女は怒声をあげるところだった。
「それはなにかの冗談か?」
「……いや。そんなつもりはない」
ニクラスはしごく真面目な表情で頬をかいている。からかっているわけではないことがわかり、彼女は大きく嘆息した。
「私はお前のそういうところが嫌いだ」
じろりと見る。男には動揺の気配もなく、そのことが一層彼女には腹立たしかった。
「そういうことを聞くな」
ニクラスは顔をしかめ、子どものように唇を尖らせた。
「俺は魔法使いじゃない。聞かないと、わからない」
「察しろと言っている」
切り捨てて、彼女はもう一度息を吐いた。ひどく疲れていた。
まったく。とんだ歓宴会になった――その場を離れようと肩を落として歩き出し、連れが動きださないことに気づいた彼女は後ろを振り返りかけた。
「ニクラス? ……きゃっ」
引っ張られる。さっきの相手と違うことは、その後に柔らかく抱きとめられたことで、男の体温を至近に感じた彼女は心臓の鼓動を強くした。
「ちょっと。ニクラス、何を――」
男は待たず、無言のままゆったりとステップを踏み始めた。連れの強引さに戸惑いながら、クリスもそれに併せて身体を寄せる。相手の腰に手を回し、怨じた上目で見た。
「いったいどうしたのだ」
「察してみた」
「……なに?」
男は淡々とした声音で告げた。
「戦には勝って帰るべきだと思う」
言葉に詰まる。確かに今の自分の顔を鏡で見れば、ひどく情けないものになっているだろう。このまま帰ったのではあれだけ応援してくれた家の者達にあわせる顔がない。しかし、だからといってこれはやや強引に過ぎるだろうと思えた。
「だが、ドレスが……」
彼女の美しいドレスは膝下からちぎれ、その下の肌着が露になってしまっている。破れた裾を引きずりながらでも、ゆっくりした動作なら転ぶことはないとはいえ、長くしなやかな脚がのぞく様子は品のいいものではなかった。
「戦場で格好を気にするやつがいるか?」
ニクラスが言う。
一瞬、自分の言ったことへのあてつけかと思い、彼の真っ直ぐな瞳を見てクリスはすぐにそれを否定した。そうではない。この男は、本当に彼なりに察してみただけなのだ。私が、クリスティナ・アルスタが何をもっとも大事にするか。そのために必要な行為はなにか。それに対する行動をとっている。
もちろん自分勝手には違いない。子どもじみてもいる。いや、大人じみた達観さであるかもしれない。出会ってから半年、男は彼女にとってわけがわからないままだった。
だが、不快ではない。感情の読めない表情も、つかみ所のない性格も突飛な行動もその強引さも。不快ではなかった。その理由について考えるのも、決して嫌なことではない。ただし恥ずかしさはあったから、彼女はいつものようにそのことに関しては深く考えずに、男の様々な感情を内包して混沌とした黒瞳を見透かすよう、薄く笑った。
「なるほど」
相手がそう言ってくれた以上、彼女に恥ずべきものはなかった。いつのまにかあれほどしつこく頭にこびりつくようだった痛みも既に遠く、晴れ晴れとした気配が全身を包んでいる。周囲の奇異の瞳をものともせず、彼女は堂々と連れに身を預けた。その耳元に囁きが触れる。
「それとも、嫌か?」
「……ばか。だから聞くなと言っている」
くすぐったさに口元を綻ばせ、すぐに仏頂面に戻ってクリスは答えた。
「戦には勝つ。それだけだ。――いったいどれほど曲がかかるかはわからんがな」
「ワルツがロンドになったところで、気にはしないさ。なにせここは“妖精の地”だ」
「くだらんことを言う……」
甘さのないやりとりを交わしながら、二人は周囲にまじって踊り始めた。例え破れた衣服を身につけようと、自然と優雅なその姿に見惚れることこそあれ、眉をひそめる者はない。
宴の夜は更け、新年を迎えた妖精の地には灯りが煌々と闇を照らしている。大水陸で覇を争う貴族達の子弟は交流と策動に忙しく、黒々としたものを内に煮つめられたその場は決して見かけどおりの華やかさはなく、むしろ醜悪さの極まりでさえあった。
そんな中で、共に上級貴族と呼ばれる家柄に生まれ、異なる性格を持ちながら奇縁で巡り合った二人は、今はただお互いの呼吸を肌に感じて時を過ごしている。
時々、思いついたように言葉を交わす他は、互いに無言で身体を揺らすのみ。先ほどとはまるで違う、穏やかな居心地のよいリズムに身を任せながら、クリスは少しだけ迷い、それからほんの一握り分だけ、自身の距離を相手へと近づけた。
ひっそりと吐息を吐く。
あとしばらくの間だけ妖精がこの輪舞曲に飽きぬよう、彼女は心の中で祈った。
彼女が彼と別れる、一年以上前の夜の出来事だった。
妖精の輪舞曲 完