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来る模擬戦の開催に向けて帝都中が盛り上がりを見せるなか、その裏方に徹する人々は多忙を極めていた。
大学開校一カ月を記念して行われる各国選抜模擬戦。その華やかな催し事の後には、参加者や招待客を含めた壮大な歓宴会が予定されている。模擬戦の準備運営はアンヘリタ皇女の名の下、帝国宰相ナイル・クライストフによって進められていたが、一方、歓宴会の領分はあくまで学生のものであるとされたままだった。
その責任者に伸し掛かる重圧の程は、模擬戦の準備運営にも勝るとも劣らない。前回、第一回の大学歓宴会が、アンヘリタ皇女によって誰一人文句のつけようのない見事な出来に仕立てあげられたものだったからこそ、今回の催主にはそれに過不足なく続く手腕が求められた。
この場合、過不足という言葉が意味するところはひどく微妙だった。
ホストとして饗する以上、参加者を満足させなければならない。しかし、目も舌もいかなる饗応にも人は容易く馴れるものであるため、前回と同じでは物足りない。大学ある限り、今後もこうした歓宴会が度々に開かれることを考えれば、今回の夜会こそが今後の饗応における方向性そのものを左右しかねないこともあった。
さらには、臣下の分を過ぎず、という点にも特に留意が必要となる。
前回の夜会を主催したのはアンヘリタ皇女である。であるならば、あまりに前回のものより目立った夜会にしてしまうことは、帝室に対する不敬ともとられかねない。この場合、アンヘリタ皇女個人の器量や、彼女が実際に不快ととるかどうかは問題ではない。気を付けるべきはその周囲にあった。
つまり今度の歓宴会においては、あくまで前回より控えめに、かつ何一つとして劣るところがないという出来が求められているのだった。奇を衒わず、かといって無難に終わってもならない。もちろん、アンヘリタ皇女も参加者の一人である以上、彼女にも十分に満足できる代物である必要があった。仮に麗しい皇女殿下に「加減された」などと意識されたならば、それこそ不届きの極致と成り果ててしまう。
そうした繊細な、あるいは面倒な匙加減について少しでも考えを巡らせてみれば、大抵の者はうんざりと頭を抱えたくなるだろう。少なくとも、ニクラス・クライストフなどにとってはそうだった。
父親である宰相ナイル・クライストフが、歓宴会を学生達の手に委ねたままにしている理由もわかろうと言うものだ。素知らぬ顔で模擬戦の準備運営に注力している内心を思って、苦笑するニクラスだった。宰相として水陸随一の大帝国を差配するその人物は、万事において抜かりない指揮運営を可能とする処理能力を有していたが、だからといって自ら面倒事を抱え込むような奇特さまでを持ち合わせてはいなかった。無論、それは歓宴会やその参加者達のことを侮っていたためではない。むしろその逆だろう。
水陸内外にその手腕を発揮する帝国宰相さえ望んで引き受けようとはしない、歓宴会催主。今回、その非常に重要な役処を任された人物はクーヴァリィンという女性である。
クーヴァリィン・ナトリア。かつてバーミリア水陸における強国として一大勢力を誇り、ナトリア水源を抱えるその名家は現在、帝国公爵の地位にある。トマス水源、水陸経済の要とされる「唯一の水源」を要するベラウスギ家と立場を等しくする、ツヴァイにおいては押しも押されぬ大貴族であった。
その第一公女として帝都大学に在籍するクーヴァリィン・ナトリアは、浅黒い肌と夜闇を永遠に溶かし込んだような艶やかな黒髪を長く伸ばした美貌の主である。“闇に眩む”と称されるその外見の美しさは“煙る美貌”アンヘリタ・スキラシュタ皇女にさえ比するとされていた。
彼女が歓宴会の催主を務めることは、家格の上からも、あるいは大学社交界における席次としても当然のものだったが、本人の資質に拠るところも大きかった。複雑な様相を見せつつある大学社交界において、肩肘を張るでも徒に他者を攻撃するでもなく、自然とアンヘリタ皇女に続く第二席の地位を占めることとなった公女の態度は悠然としたものだった。
そうした態度は今度の歓宴会の準備においても表れている。
「皆様、お疲れのところ無理を言って申し訳ありません。第二回の大学歓宴会も、いよいよ今週末となりました。皆様のご協力のお陰で、当日は素晴らしい宴を用意することが出来そうです。どうぞあと数日、皆様のお力をお貸しくださいますよう、何卒よろしくお願い致します」
連日の作業に追われ、さすがに疲労の色も濃い人々に対して、見目麗しい公爵令嬢は深々とそう頭を下げてみせた。その時、その場に居たのはなにも貴族の者ばかりではない。職工など、社会的に卑賎の立場とされる者も大勢の姿があった。それら全てに対して等しく、公爵令嬢は頭を下げていたのだった。
貴人の思いも寄らない行為に、一瞬、その場は静まり返った。
自らを卑賎の出と自覚ある者は、恐れ多い、と顔色を青褪めさせて目線を逸らした。そして、恐る恐る窺うように彼が視線を戻すと、そこには頭を上げ、口元を柔らかにたおやかな微笑を浮かべているクーヴァリィン公女の姿があったのである。
――これが人の格というものか。
無言のまま、士気の絶頂に達したその場に居合わせながら、簡潔に感想を得たニクラスだった。
名将は腕の一振りで万軍を指揮するという。一度の微笑で万人を虜にする貴婦人の器も、それに劣るものではないだろう。アンヘリタ皇女とはまったく異なる趣ながら、その存在感は他を圧倒している。
アンヘリタ・スキラシュタ皇女に、クーヴァリィン・ナトリア公女。さらには東からは大国ボノクスよりジル・イベスタ・スムクライなどの錚々たる顔ぶれこそが、今現在の大学社交界の主役である。その全員が女性というのは興味深い事実だった。トマスのベラウスギ公爵にも年少の令嬢がいたことをニクラスは思い出し、多くの貴婦人がやがて一堂に会する場面を想像して口元を歪めた。そのような夢想を自分がしてしまったことが酷く奇異に思えたのだった。
「ニクラス様? どうかなさいましたか?」
「――いえ、なんでもありません」
物思いから我に返ったニクラスの目の前で漆黒の瞳が瞬き、柔らかな笑みの形を象る。
「ニクラス様にも、色々とご面倒をおかけしました。お疲れではありませんか?」
「とんでもありません。クーヴァリィン様こそお疲れでしょう」
「そうですね。こんなにも盛大な会を準備するというのは初めてのことでしたから、少し肩が凝りました。気疲れ、というのでしょうか。いえ、それにはまだ早いのでしょうけれど……」
苦笑してみせるその様子にさえ上品さに満ちている。ニクラスは丁重に頭を下げた。
「確かに、当日にも色々と不測の事態はあるかもしれません。ですが、ご心配には及びません。必ず上手くいきます」
「そうでしょうか」
「はい。クーヴァリィン様はそれだけの用意を整えておいでです」
ニクラスが断言してみせると、公爵令嬢は嬉しそうにはにかんでみせた。
「ありがとうございます。ニクラス様にそのように言っていただけると、安心できます」
「……いえ」
相手の微笑がやや近いことに、ニクラスがさりげなく距離を開けると、それに気づいた公女がくすりと笑みを浮かべた。細やかな腕が伸び、頬を撫でる。滑らかで冷たい心地がほんのわずかに擦れ、すぐに離れた。
「なにか」
「――やっぱり、少しお顔の色が悪いわ。なにかご心配がおありなのね」
暗闇よりも深い黒色の眼差しが、ひたりとニクラスを見据えた。その瞳孔に映る自分自身の表情になんの動揺もないことを自覚しながら、答えかける。
「あっ」
息を呑むような声が響いた。
ふと見ると、まだ年若い少女が大きな目を瞠っていた。クーヴァリィン公女の傍によくついてまわっている人物だった。
「どうしました?」
「いえ、あの――」
幼さがまだ強い表情を真っ赤にして、
「すみませんっ。私ったら、とんだお邪魔をしてしまって……!」
「あら。邪魔だなんて、そんなことはないわ。そうですよね、ニクラス様」
優しくそう微笑んだ公女から視線を向けられて、ニクラスも首肯した。
「はい。ゼラビア様、クーヴァリィン様に御用でしたら、どうぞ私にはお構いなく」
ニクラスが言うと、少女は驚いたように目を丸めた。
「――私の名前をご存じでいらっしゃるのですか?」
「もちろんです」
一介の貴公子として不足のない態度でニクラスは答えた。
ゼラビア・メイジャン。メイジャン家はナトリア領における中堅貴族で、その姓を持つ者は二人が大学に在籍している。一人は目の前にいるゼラビア・メイジャン。もう一人が彼女の兄であるマヒート・メイジャンだった。マヒート・メイジャンという名前は記憶に残っている。大学では所属によって徒党が組まれることが多いが、マヒートはそのナトリア団の中心的人物のはずだった。
その名前をアンヘリタ皇女から聞いた時の経緯などから、ニクラスにとってはあまり関わりたくない相手だったが、その妹は自分の名前を知っておいてもらえたことがよほど嬉しかったらしく、感激の態で両手を合わせていた。
「宰相閣下のご子息にお名前を憶えていただけていたなんて、嬉しいです。帰ったら兄に自慢しますっ」
「それはいささか以上に大袈裟ですよ」
ニクラスは苦笑した。
「それより、兄君のマヒート様は模擬戦にもお出になるのでしたね。ご武運をお祈りしております。どうぞよろしくお伝えください」
「ありがとうございます! 兄も喜びますっ」
言ってから、令嬢はなにかを思いついたように頬を紅潮させて、
「あのぅ、ニクラス様」
「なんでしょうか」
「今度の歓宴会では、もうご一緒される方はお決まりでしょうか?」
「ああ、いえ。それは」
一瞬、ニクラスは答えに詰まった。相手がなにを求めているのかを察し、それに対してどのように応えるべきか躊躇したところに、隣から助けが入る。
「ごめんなさい、ゼラビア。ニクラス様には、当日も色々とお助けしていただくつもりなの。だから、どなたともご一緒は出来ないのよ」
「そうなんですか……」
肩を落とした少女が、すぐにぱっと顔色を輝かせて、
「それでしたら、今度、いいえ、次でなくとも構いません。いつか、是非、私を同伴相手に選んでいただけませんでしょうか。ニクラス様、どうかお願いしますっ」
まだ少女といっていい年齢の令嬢は懸命で、それを無下にすることは出来そうになかった。
「わかりました。必ず、お相手いたします」
「ありがとうございます……! あ、私、お手伝いの途中でした。行ってきます! お二人とも、失礼いたします!」
喜び勇んで駆け去っていく後ろ姿を見送って、ニクラスは苦笑するしかなかった。困ったような笑みを浮かべたクーヴァリィンがそっと息を吐く。
「あの子ったら。ニクラス様、ごめんなさい」
「なにがでしょう?」
「ゼラビアのことです。ほとんど無理矢理に、あんな約束まで」
「いえ、わたしにも妹がおりますから。わたしなどでよければいつでもお相手しますし、それに彼女の器量であればすぐに引く手数多になるでしょう。あの利発さにあとほんの少しの場数が加われば、男が放っておくわけがありません」
「そうですね。私もあの子のことは本当に可愛いと思っています。ほんの少し、素直すぎるところが珠に傷なのですが……」
なにかを危ぶむように言ってから、頭を振る。
「ニクラス様のご心配事をお聞きしていたはずなのに、いつの間にか自分のことを話してしまっていますね。お恥ずかしい」
「お気になさらないでください」
「本当にごめんなさい」
公女が歩き出し、ニクラスもそれに続く。周囲で働いていた人々が気づき、傅くように道を開けた。静謐な気配を伴って漆黒の貴婦人が進む、その傍らに侍る自分に向けて、低頭して見えない角度で様々な感情が渦を巻いているのをニクラスは知覚した。
この週末にある歓宴会に向けて、ニクラスはその補佐を頼まれてクーヴァリィン公女と共にいることが多かった。それについて、大学内で多くの噂や風聞が流れていることも承知している。
それもまた誰かの思惑の一つなのだろう。冷静にニクラスは考えた。その思惑を抱いているだろう人物というのは、目の前にいるクーヴァリィン公女に限った話ではない。アンヘリタ皇女や、あるいはその周囲の人々。ツヴァイにおける社交界そのものが、自分の行動とその因果までを絡め取ろうとしている。――蜘蛛の糸だな。ニクラスは胸の裡で呟いた。
「模擬戦のことでしょう?」
そっと囁いた公爵令嬢が、からかうような眼差しを向けた。
「は?」
「ニクラス様のご心配事は、週末の模擬戦についてのものではありませんか?」
「……仰るとおりです」
ニクラスは認めた。誤魔化したところで、目の前の相手にそれをしたところで意味があるようにも思えなかった。
「大丈夫ですよ」
優しげな口調で公女が告げた。
ニクラスは冷静に言葉を返す。
「西軍が勝利するという確信をお持ちですか?」
公爵令嬢はゆっくりと頭を振り、
「勝利についての確信ではありません。なにもかもが、です。必ず、全て上手くいきますわ」
予言のような台詞は、間違いなく先ほど公女に応じた態度をやり返されたものだった。ニクラスはさらに訊ねた。
「何故、そのようにお考えなのでしょうか」
「あら。だって、ニクラス様はそれだけの用意を整えておいでですもの」
一瞬、互いの視線が絡み合う。
ニクラスはすぐに柔和に笑んで、
「ありがとうございます。公女殿下にそう言っていただけて、安心いたしました」
ほっとしたようにクーヴァリィン公女が胸を撫で下ろした。表情には少女のような微笑が浮かんでいる。
「よかった。ニクラス様、あと数日のことですが、どうぞよろしくお願いしますね」
「は。わたしに出来ることなら、なんなりと」
頭を下げつつ、ニクラスは呼気を吐き出した。自分がどのような思惑を持っているかもとうに知られている。それでいてこの態度、この振る舞いは、さすがに社交の頂点に座する内の一人と言う他なかった。
ふとした感触を覚えてニクラスは袖を払った。なにかの気配がそこに感じられたからだった。
目に見えず、触ることも出来ない。だが確実に自分の四肢に絡みつく、細く長い糸の存在がそこにはあった。