12
模擬戦が開かれるまで五日と迫っていた。
この日まで、クリスは度々に同じ西軍の選抜者に対して、その下見に現れたところに一戦を仕掛けている。無論、板金兜で顔を隠した上でのことであり、その中身がクリスティナ・アルスタその人であることは明らかになっていなかった。「分不相応にも模擬戦に選ばれたアソカット家の人間が、練習中に怪我を負って『止む無く辞退』したがっているらしい」程なく、そうした噂が流れたが、クリスが驚いたのはそれがブライ本人が意図的に流したものであると聞かされたからだった。
「何故そのようなことを」
彼女が訊ねると、洒脱な青年貴族はいかにも人の好さそうな表情で、
「そういう噂が流れていた方が、都合がいいですからね。この私が模擬戦に選ばれるような方々を相手にして立て続けに倒してしまうなんて、いかにも不自然すぎる。しかし、そうした噂が広まっていれば、情けない真似で模擬戦への参加から逃げ出そうとする輩に、その思い通りにさせないよう、わざと手を抜いた、という言い分が立ちます。自分はあくまで本気でやってその上で負けたのだと、そんなことをわざわざ力説される人もいないでしょう。皆様、立場がおありですから。それに見栄も、ね」
「しかし、それは貴方とて同じではありませんか。そのような風聞が流れてしまっては、」
「問題ありませんよ。怪我をして辞退したいと考えているのは本当ですから」
ブライはにこりとして言った。
それに対してクリスは相手を正面から見据えて、きっぱりと断言した。
「本気でおっしゃっているとは思えません」
「ほう。それは何故ですか」
「そのようなお考えの方が、わざわざ手助けをしてくださるとは思わないからです」
ブライが苦笑する。
「確かに、本気で言ったわけではありませんが。まったく本心でないというわけでもないんです。あまりこうしたことは得意ではありませんので」
クリスは眉をひそめた。そうであるならば、どうしてブライが大勢のなかから厳選された模擬戦の選抜者となりえたのだろうかと考え、それを見透かしたようにブライが曖昧に笑ってみせる。
「まあ、色々とあるのです。そのあたりはいずれ、クリスティナ様にもおわかりになるでしょう。ともあれ、そんな私ですが西軍の勝利を願っていないというのでもありません。つまりは、自分にやれることをやろうというだけで」
クリスは先日、ヨウから聞かされた言葉を思い出した。統べる者。剣をとる者。憤る者。様々な多数が集合すること、帝国の偉大さとはそれに尽きる――彼女はそっと息を吐いた。風変わりな友人と自分のあいだには、識見にいったいどれほどの差があるのだろうと考えたのだった。
「――貴家にご迷惑がかかることでは、ないのですね」
「もちろんですとも。私も貴族に生まれた人間ですから、外聞というものとは生まれた頃からの付き合いになります。それから自由になることは生涯ありませんよ。粗末にできるはずもない」
「……わかりました」
幾らかの不安を感じたまま、クリスは頷いた。ほとんどつい最近見知ったばかりでさえある目の前の人物について、完全な信用は置けてはいない。だが、この相手の協力があってこそ、手詰まりと思えた状況が変わりつつあった。
「ところで、他の方々はどういうご様子なのだ」
そう口を開いたのは水陸南方の小国ナウガラからやってきているセフェリノだった。大柄で筋骨隆々とした偉丈夫で、武人ばった顔つきをいかにも厳めしく、腕を組んでいる。
ブライが笑う。他の方々、という言葉の意味するところを過不足なく受け取って、彼は答えた。
「ここ数日、我が国の選抜者同士のあいだでは色々と活発な動きが続いていたようですが、どうやら話がまとまったようですね。まずはよかった」
不調に終わった顔合わせ以来、陣営の参加者全体を集めた話し合いの場は開かれていない。ブライのいうものは、あくまでツヴァイ国の選抜者のあいだでのことだった。全員というわけでもない。少なくとも、クリスがそうした場に誘われたことは一度たりとなかった。
……本当に疎まれてしまったのだな。
苦い笑みを浮かべて、クリスは自分自身の境遇を認めた。水面下での思惑があった顔合わせの場を引っ掻き回した挙句、その後もしつこく面談を求めて八方を回っていたのだから当然かもしれない。彼女にも言い分はあったが、それを言う相手もいなければ言わせてもらえる場所が与えられるわけがないことも承知していた。想いは行動によって表すしかない。そしてそれは彼女の生家であるアルスタが遥か昔より実行してきていることだった。
「話がまとまったというのは、当日の作戦方針も含めてのことだろうか?」
「ええ。まあ、概ねのところは定まっているようです。明日、改めて陣営参加者を全て集めて話し合いの場が開かれますが、そこで行われるのは話し合いというよりは連絡会の意味合いが強いでしょう」
「ツヴァイ以外の者は、策決めの場に居合わせることも許されぬか……」
自嘲するようにセフェリノが言った。
「申し訳ない、などとは申しませんが。しかし――」
「いや、わかっている」
取り成すようなブライに、セフェリトは大きな苦笑を浮かべて応えた。岩のような顔つきが、そうするとひどく印象のよい表情になる。
「大国には大国の責務というものがある。所詮は急場揃えの集団に、心からの団結など求めるべくもない。結局は誰かが主導する以外にないのだから、それを貴国が行おうとすることに文句をつける謂れはないのだ。それに意を唱えるなら、クリスティナ殿のように先日の顔合わせで堂々と声を上げるべきだった。あそこで黙っていたのだから、それは自業自得というもの」
だが、と若者は続けた。たくましい眉根に一筋の皺が作られる。
「不安はある。果たして我々が勝利することは能うだろうか。いや、決してツヴァイのお歴々を疑っているのではないが」
慌てて付け足す相手に、今度はブライが人好きのする笑顔で頷きかけた。
「わかっております。私も軍事には全く明るくありませんが、クリスティナ様から説明を受けて、どうにも簡単にはいきそうにないのだなと顔色を暗くした次第でして」
「……ボノクスの騎馬が四十。五十人同士の小規模集団戦闘という括りにおいて、その練度の高さは飛びぬけている。ほとんど圧倒的とすら言ってもいい」
厳かな面持ちでセフェリノが告げる。全く同感の思いで、クリスも頷いた。
「騎馬と言っても、国によってその品種も違えばそれぞれ装備も異なる。そんな状態のなかで“足を揃えられる”ことは、その一点で他より格段も優位に立てるでしょう」
「その通り。そして正面からぶつかれば、個ではなく集団が勝つ。ボノクスの馬は軽騎馬というから、重装甲であればそうそう当たり負けをすることはないと思うが、」
「それについてですが、セフェリノ様。私は、ボノクスが正面突撃を仕掛ける可能性は少ないのではないかと考えているのですが」
セフェリノが眉を持ち上げた。
「正面ではない? となると、迂回突撃でも――ああ、そうか。なるほど。“散開”だな」
打てば響くような相手の反応に、クリスは嬉しさを覚えて口元を綻ばせた。
「はい。重騎馬、特にツヴァイのように乗り馬にまで装甲をつけた相手と正面からぶつかり合うのは、いくら精強なボノクスといえど骨が折れるはず。相手を機動で圧倒して、遠くから弓で射掛ける。過去にガヘルゼン王国が手ひどくやられた手法は、今度の模擬戦では使えません。弓が禁じられており、彼らにもなにかしらの近接手法が必要とされます。その上で自分達の優位である練度、数、そして機動力を生かす戦い方となると」
「――攪乱。陣容を乱し、その横腹を突く。いくら重装といえ、二対一ではさすがに敵わない。圧倒的な機動で瞬間的な数的優位をつくり、各個に撃破する。散開突撃――擾乱突撃とでも称すべきか」
セフェリノが大きく息を吐く。
「状況は戦術というより、文字通り一対一という戦闘の積み重ねにもなりかねない、ということだ。いや、そうした状況でもあくまで全体としての意思統一を欠かさず維持できるという、練度の高さが成せる業ではあるか……」
感嘆するように言ってから、大きく表情を歪めた。
「となると、やはり四十という数はやや度が過ぎているように思える。ボノクスの得意である弓が使えないから、ということではあるのだろうが。その見返りというわけではないだろうが――」
そこでふと、気遣わしげに瞬きをする。苦み走った顔で呻くように、
「まさか」
「どうされました?」
「いや。……しかし、これは」
迷うようにクリスとブライの顔を交互に見てから、セフェリノは重々しく口を開いた。
「これは私の考え過ぎかもしれないが。……今度の模擬戦、貴国は勝とうとしていらっしゃるのだろうか」
「もちろんです」
「クリスティナ殿がそうお考えでいることは、理解している。……だが、他はどうだ。あるいは、その上にいる方々は」
「上?」
クリスは眉をひそめた。
「上というのは、いったいどういう意味でしょう」
セフェリノがちらとした視線をもう一人に向ける。曖昧な笑みを浮かべているブライを見てから、
「貴国は大学のホストのはずだ。多くの水陸国家から賓客を迎え、それを遇する立場にある。であるならば、模擬戦という催事においても単純な『勝った』『敗けた』を重要視しているわけではないのではないか。いや、『勝つ』という意味合いが少し異なるのかもしれない。そう思ったのだが。たとえ自国の与する陣営が敗れたとして、それで大学や、ひいては貴国にとってなにかしら益があるのなら、それこそが貴国の求める勝利なのではないか」
そこで口を閉じ、促すように視線を強める。
ブライが小さく笑った。
「そうですね。それは確かに」
クリスは大きく目を見開いた。
「では、本当に勝つことを求めていらっしゃらないのですか?」
「いやいや、そういうわけではありません」
やんわりと首を振って、
「セフェリノ様がおっしゃったように、我が国にはホストとしての役割があります。水陸各地から招かれた多くの人々を饗応すること。その誰一人として、不満を持たれるようなことがあってはなりません。今回の催しはアンヘリタ王女のお名前でなされていますから、帝国の面子がかかっています。ボノクスの方々に四十人という大人数を譲ったのも、まあその一環でしょう。殺傷事にならないよう弓矢の類を禁ずるのは当然ですが、どうしたって『ツヴァイが負けたくないから禁止した』と見られてしまいかねない。そんなことを他国や臣民に言われてしまうのは、我慢なりませねんからね。そんなことは帝国の誇りが許さない」
唸るようにセフェリノが腕を組む。
「あくまで公平に――公平だと周りに見られるための処置と。その結果、勝負に敗れることがあっても仕方ないということか」
「まさかまさか。そんなわけがありません」
ブライが肩をすくめた。
「我が帝国はそこまで慎ましくありませんよ。ホストとして完璧に他国を供し、あくまで公正公平に。その上で、さらに求めます。ツヴァイは水陸一の大国です。それはもう、とんでもなく貪欲なんです」
朗らかに語る相手に、一瞬、クリスは得体の知れない気配を覚えた。それはブライ個人ではなく、その背後に感じたものだった。貴族。あるいは、それ以上の存在に。
まるでツヴァイという国家そのものの意思を代弁するように、柔和な青年貴族は断言した。
「帝国が求めているものは常に一つです。完全なる勝利。それだけですよ」
二人と別れ、クリスは一人で構内を歩いていた。物思いをしながら進む前方にふと影が差したことに気づき、顔を上げる。嫌な顔をした。
「よう。どうした、曇り顔をして。雨季が来るにはまだ早いと思うが」
とぼけた物言いで砂味の薄い青空を見上げるケッセルトに冷ややかな視線を突き刺す。無言で頭を下げ、そのまま脇を過ぎようとしたクリスの横を男がついてきた。
「なにか御用でしょうか」
「相変わらず冷てえ挨拶だな。いや、頑張ってるみたいじゃねえか。今日もこれから、下見の連中を不意打ちかい?」
一瞬、クリスは息を止めた。動揺が歩速に表れないよう慎重に足を運びながら、
「なんのことでしょう」
「そう隠すなって。別に言いふらしたりはしねえさ。ただ単に、面白そうだから俺もついて行こうかなって言うだけでね」
クリスは疑わしげな眼差しを向けた。
「……貴方が?」
「おう、そうとも。ちゃんと変装用に用意してるんだぜ。ほら」
脇に抱えた板金兜を掲げてくる相手に、クリスは冷たく応えた。
「止めたほうがよろしいのではないですか。貴方のその体格で、いったい誰の代わりをするつもりなのかは知りませんが」
「ああ、そりゃそうか。あんたの恰好をして東軍陣営の下見に乗り込んでみようかなんて考えてたんだが。当日の参加が失格になったらさすがに不味い」
本気で残念がっている様子の相手に呆れて、クリスは頭を振った。男はまだついてくる。
「まだなにか」
「そうツンケンすんなよ。これでも、けっこう感心してるんだぜ。随分と進展してるじゃないか。自分一人で企んだことじゃないとはいえ、大したもんだ」
かなり速足で歩くクリスに苦もなくついてきながら、ケッセルトが顎を撫でる。
「ナウガラのセフェリノ。あいつを最初に味方に引き入れたのはでかいな。選抜された連中のなかでもかなりの腕利きだし、あれで案外頭も回る奴だ。なにより人柄がな。その伝手でイバンターグあたりも同心してくれたんだろう? なにより、南方小国家群の連中に目をつけたのは偉かったな。連中、こっちとあんまり近くないから、情報を欲しがってるからな。味方になってくれなくても、十分に旨味がある。一度、話をしておけば当日の急な連携だってとりやすいしな」
この男はいったいどこから情報を手に入れているのだろう。内心で驚きながら、クリスは表情には努めて平静を心掛けていた。
「まあ、そういう相手を選んだのはあんたじゃないんだろうが。アソカットのブライか。まだ話したことはないが、色々と面白そうな奴はいるもんだ」
「……おっしゃるとおり、事を進めてくださっているのはブライ様です。お話なら、ご本人に聞きにいけばよろしいでしょう」
クリスがそう言ったのは相手との会話を打ち切りたかったからだが、あるいはそこに自分自身も意識しない感情が滲んでいたかもしれない。
眉を持ち上げたケッセルトが、
「なんだ? 拗ねちまったか? 悪い悪い、あんたがなにもしてないなんて思ってないさ。実際、あんたが行動しなければ今みたいな状況はありえなかっただろうからな。正直、意外だったよ。どうせ空回りしておしまいだって思ってたんだがね。予測が外れちまった。あいつの言った通りになったな」
「あいつ? あいつとは、誰のことですか」
「さあてね」
クリスは男を睨みつけて、それで相手がまるで動じないのを見ると顔を背けた。相手を引き離そうと大きく足を踏み出して、ふと思う。悠々と隣を歩くケッセルトに、彼女は訊ねた。
「――完全な勝利とは、なんだと思いますか」
「は? なんだそりゃ」
「ブライ様がおっしゃっていたのです。帝国が求めるものは、完全なる勝利だと」
「完全なる勝利、ねえ」
唇を突きだすようにして、しばらく考え込むようにしてから男は肩をすくめた。
「どうだろうな。偉い連中が考えることなんざ、さっぱりだな」
「偉い、偉くないではなく、帝国としての話です」
「だから、その“帝国”を表してるのは誰だって話だよ」
そこでクリスの頭に浮かんだのは皇女アンヘリタの姿だった。煙る美貌と謳われる彼女は、皇位継承権の上位にある。当然、この大学においてもまず間違いなく最重要人物であり、彼女こそは大学、ひいては“ツヴァイ”を象徴するという発想はそう見当外れでもない。
アンヘリタ皇女の求める“勝利”。クリスの脳裏に数人の顔が浮かんでは消えた。ナタリア公女クーヴァリィン。そして、帝国宰相実子ニクラス・クライストフが。
「まあ、そんなことを考えるくらいなら、自分にとっての“完全なる勝利”とやらを考えた方がよほど有意義だと思うが」
「自分にとっての、完全な勝利……」
ニクラスの笑顔が脳裏をよぎり、クリスは頬を染めた。頭を振る。なんということだ、と自分を叱った。私は、国家の威信をかけた催事に対するのに、あいつに認められたいなどと私的なことを考えている。
それを見ていたケッセルトが、
「なるほど。“完全な勝利”か。――ああ、そりゃちょっと面白い」
「なにがですか」
不審そうに見るクリスに、ケッセルトはにやりと笑って、
「いや、なに。俺にとっての“完全な勝利”ってやつを考えてみたんでね」
「それはよかったですね」
「聞きたいかい」
「別に聞きたくありません」
にべもなく答えると、苦笑する。
「そう言うなよ。あんたにも関係あることなんだから」
「私が?」
眉をひそめるクリスに、ケッセルトは大きく頷いて、
「ああ、そうだ。模擬戦のあとに、歓宴会があるだろう? 大学の一か月を記念して、かなり派手な。そこであんたが俺に同伴してくれるってのはどうだい?」
「お断りします」
一瞬も考えることなく、クリスは答えた。
「おいおい、即答かよ」
「私が貴方に同伴する理由がありません」
「まあ聞けって。だから、あくまで“完全なる勝利”さ。簡単に達成するんじゃ意味がない」
「それはそうですが、私が貴方に同伴する可能性がまずありえません」
「それを言っちゃ話が始まらねえな。――で、だ。賭けをしようじゃねえか」
ケッセルトがにやりと口を歪めた。
「賭け?」
「ああ、そうだ。今度の模擬戦で、俺が西軍の危機を救ったら。あんたが、そうと認められるしかないくらい俺が大活躍をしたら――そん時は、あんたは歓宴会で俺に同伴する。それでどうだ?」
「意味がわかりません」
「わかるだろ。活躍した勇者は称えられるべきだし、その勇者の隣には美女がいるべきだ。まさに、『完全なる勝利』ってやつじゃねえか」
「美女がお望みなら、他にいくらでもいらっしゃるでしょう」
「なんだ、卑下してるのか? 安心しろよ。あんたも中々だぜ。まあ、もう少し年が上の方が俺の好みじゃあるがね」
「誰が卑下など……!」
クリスは憤慨しかけたが、ケッセルトはそれに取り合わず、ふと思いついたように渋面になると、
「――待てよ。もしかして、これもあいつの企みだったりするのか?」
「だから、あいつというのは誰のことですっ」
男は聞いていないように頭を振った。
「……まあいい。どうせなら、あいつが羨むくらいに踊り切ってやるとも。ああ、見せつけてやるってのも面白いな。それはいい。悔しがる顔を見てみたいもんだ」
一人、納得するように頷いて去っていく。
「待ちなさい! 私は約束などしていないでしょうっ!」
荒らげた声も届かず、だからといって相手を追いかけるのも業腹で、クリスはそのまま相手を放置することに決めた。歩き出す。あの不愉快な男がなにを言ったところで、それを私が守る必要はない。
それに、いかにも気乗りしない様子だった男がやる気を見せたというなら、それは西軍陣営にとって益になるはずだった。無論、だからといって同伴などするつもりは彼女にはなかった。
――それにしても。ケッセルトが言っていた「あいつ」とはいったい誰のことなのか。
ふと閃くものがあって、クリスは足を止めた。小さく呼びかける。
「……ヨウ」
「はい。なにか」
木立の陰からクライストフ家の従士が姿を見せた。ブライと面会した日以降、ヨウはあまり表には出ず、クリスが呼びかけるまでほとんどいないもののように気配を消していることが多かった。セフェリノなどと話がある時にも姿を見せようとはしない。恐らく、宰相家の政治的な影響を考えてのことだろう、とクリスは考えていたのだが、
「聞きたいことがあります。ケッセルト・カザロに、模擬戦に参加するように言ったのは、……ニクラスでしょうか」
ヨウは答えなかった。
だが否定もしない。それで十分だった。
「そうですか。私のため、などではないのでしょうね」
ほんの僅かとはいえ、それを期待しなかったわけではなかった。それに対してヨウはまぶたを閉じて、
「――いえ、違います」
淡々とそう答えた。
「あの方がなさることは。全て、あの方のためのことです」
「……そうですか」
ずきりと胸が痛む。唇を薄く噛み、クリスは自分を奮い立たせた。
――完全な勝利。
まずは全力で勝利を目指さなければならない。帝国のために勝利を。そして自分のためにも。
自分が活躍すれば、あいつは喜んでくれるだろうか。自分の知らないところでなにかをしている友人のために、私は勝利を捧げられるだろうか。そして、もしもニクラスが笑いかけてくれたなら、それこそが自分にとっての『完全なる勝利』だ。
決意も新たに顔を上げる。絹糸の金髪をなびかせて、クリスは大きく一歩を踏み出した。
模擬戦まであと五日。
明日には西軍陣営の話し合いの場も設けられる。恐らくそこで発言する機会は与えられないだろうが、そのあとに相談できる知己が自分にはいる。セフェリノや、その他、好を得ることが出来た数人と話し合い、対策を考えなければならない。
勝利を。自分に、自分と関わりある人達に、西軍に、帝国に。
そう、アルスタこそはツヴァイの剣なのだから。