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砂の星、響く声 外伝  作者: 理祭
戦人の奏功旗
31/46

 翌日、ニクラスは朝から図書館塔に出向いていた。

 特に理由があるわけでもなく、単純に午前の予定がないからだった。まだどの講座も開かれない程に早い時間、この場所でよく顔をあわす彼の知り合いもまだ来ておらず、塔内には一切の気配がなく静まり返っている。厚さの不均等な紙質を摘んで捲ると、ぱらりと微かな音が伸びるように空間に響いて端々に届く様は、悪い気分ではなかった。


「――なんだ。本の虫って噂は本当だったのか」

 ニクラスは顔を上げた。つい先日、見知ったばかりの男が立っている。

「本はお嫌いですか」

「嫌いじゃないが、どうせなら誰かに読んで聞かせてもらえる方がいいね。寝床で軽い運動をした後、気怠いまま色々と聞かせてもらうとかな」

 男が漁色家であるという話は耳にしている。それに対して大した感想もなく、そうですかとニクラスは素っ気なく頷いた。

「にしたって、初めて上まで登ったがえらく不便な造りだな。これを毎日やってれば、相当に足腰は鍛えられるんじゃないか」

「健康の源ですからね。悪いことではないでしょう」

 相づちを打ちながら、ニクラスは相手の視線に気づいて手元の本を閉じた。

「それで、わたしになにかお話が?」


「いや? 今朝方、ちょいと間の悪い場面に出くわしちまったんでね。早々に寝床を追い出されてやってきたら、護衛らしい人間が囲んでるへんてこな建物が見えた。要するに暇だったのさ」

「それはお気の毒ですが、ここでは葉茶の一杯もお出しできませんよ」

「茶が飲みたいならどこか別の女のところに出向いてるさ」

 ニクラスは肩をすくめた。

「男を相手にお茶を囲んだところで心が休まらないのは同意します。どうせなら、お茶でもあった方がまだましとは思いますが」

「そう邪魔にすんなよ。本を読むなんざいつでもできる。せっかくこんなとこまで登ってきたんだ、世間話にくらいつきあってくれてもいいだろう」

「別に邪魔とは思っていません。なにか面白い話があるのでしたらどうぞ」

 少なくとも、ニクラスに自分から相手の関心を誘う意欲がないことは確かだった。苦笑したケッセルトが、

「さて、どういう話なら意気投合できるもんかね。昨日のことも、とっくに話は聞いてるんだろ?」

「聞いています。なかなかに前途多難なようですね」

 ニクラスは認めた。顔合わせがどういった雰囲気で行われたかについては、クライストフ家から参加する者からの報告で耳にしている。

「他人事だな。まあ他人事か。俺にとっても、別にそれでいいんだがね。ちょいと気にならないわけでもないんで聞いときたいんだがな」

「お答えできることでしたら」

「お前さん、あの嬢ちゃんに一体なにをやらせたい?」

 手入れをする暇のなかったらしい顎をなでるようにしながら、男は言った。

「正論ぶった生真面目な令嬢が、いったいどんな惨状になるかくらい見当がついてたはずだ。それを見越してわざわざ従士をつけてやったのかと思いきや、そういうわけでもなさそうだったしな。まさか、笑い者にしようとしてたわけじゃあるまい」


 ニクラスは即答しなかった。答えに迷ったわけではなく、目の前の相手がそう訊ねた真意を考えたのだった。手持無沙汰に本の表紙をなぞりながら、やはり茶は必要だなと考える。茶杯で表情を隠そうとするのは、この頃からの彼の癖だった。

「……彼女はそれほど笑われていましたか」

「ああ。惨めなもんだったぜ。あそこに多少なりとも良識のある人間がいたら、心苦しさのあまり助けに入ってたに違いない」

 その場にいてそのような行動にでようともしなかった男が、悪びれもせずに言う。ニクラスはそれに頷いて、短く応えた。

「そうですか」

 ケッセルトが顔をしかめる。

「それだけかよ」

「それだけです」

 淡泊に応答する。万事に人を喰ったような印象を纏うケッセルトが、さすがに困惑した様子を見せた。

「おい。まさか、本当になんの手出しもねえのか?」

「わたしは彼女の友人ですが、別に保護者かなにかだと勘違いしているわけではありませんよ」

 ニクラスは苦笑して告げる。

「そりゃ昨日も誰かから聞かされたがね。……そいつは宰相閣下のお考えか?」

「父は関係ありません。もちろん、父は父なりの思惑を持っているでしょうが――別にわたしがその指示を受けて動いているわけではありません」

「なら、お前さんはお前さんの意思で、動かないって決めてるわけだ」

 言いながら、男はまだ疑いの眼差しのままだった。


 その誤解を必ずとかなければならない理由もなかったが、それで友人に迷惑がかかってしまうことがあるなら、それは申し訳ないとは思う。ニクラスは補足した。

「……アルスタ家が社交に戻った以上、いずれ必ず起こり得る事態でしょう。先日の遠出の一件は確かにイレギュラーでしたが、それは時機を早めただけのこと。彼女がこれから先、この場所で生き残る為にはどうしても解決しなければならない問題です」

「周囲の嫉妬や非難なんざ跳ね返して、結果を出してみろってことか? それで自分自身の立場を得てみせろって?」

「一般的な社交の立ち振る舞いの中でそれを成そうとするよりは、彼女にとっては機会であるはずです。彼女はアルスタであり、アルスタは武門の家柄なのですから」

「そりゃ、茶会と舞踏の中でひたすら地道に立場を固めていくよりは、遥かに向きかもはしれんがね」

 ケッセルトは完全には納得し難いという表情で首をひねった。


「貴族令嬢方の健全なお付き合いが深淵極まるってことは俺だって知っちゃあいるさ。しかし、昨日のあの様子を見る限りじゃまるで楽な様には思えないんだがね。男の嫉妬っていうのも、そりゃもう酷いもんだぜ。宰相家の人間なら当然、知らないはずがないだろう」

「どちらが容易いかが問題なのではなく、彼女がどのように在りたいかだと思いますよ」

「なるほど。まったくその通りだ」

 一応の納得を示して、男は肩をすくめた。

「……しかし、あれだな。正直に言って意外だよ。遠大な謀略とまでは言わないが、もう少し物事に裏があるとばかり思ってたんでね。実にまともな発想だ。真っ当すぎて、いささか拍子抜けでもある」

「ご期待に応えられず、すみません」

 ニクラスも肩をすくめた。父の影響か、あるいは彼自身の不徳のせいでそうした誤解を受けることは珍しくなかった。

「別に悪かないさ。そういうことなら、俺だって変に気をきかせたりしないでよさそうだ。ますます他人事でいられるってわけだからな」


「わざわざ足腰を鍛えて世間話をしようとするくらいには他人事ですね」

 ニクラスはさらりと言った。

 話は終わりだといいたげに手を振り、背中を見せかけていたケッセルトが足を止めた。振り返る。

「何が言いたい?」

「別になにもありません。今、目の前にある事実を述べたまでです」

「そうかい」

 目を細めた男が不服そうに鼻を鳴らして、

「ああ、なんだ。自己紹介ってわけじゃないが、これからの付き合いのこともあるからな。一応言っておくから、よければ参考にしてくれ。俺は誰かに利用されるのも誰かを利用するのも別に嫌いじゃない。だが、偉ぶった態度で、さもそれが当然であるかのように指図されるのは、大っ嫌いなんだ」

「皇庭園遊の折にわざわざ昼寝をしているくらいですから、そうなのでしょうね」

 ニクラスは動じることなく応じた。


「あなたを動かすのは骨が折れそうですから。その場に居合わせさえすれば、楽しめそうなら自分から首を突っ込んでいくのがあなたという人となりに思えます」

「会ったばかりだっていうのにえらく断言してくれるもんだ」

「それが誤解なら、今後の付き合いのなかで印象を変えていくことにします。そこまでの付き合いにならなければ、それまでのことでしょう」

「いい性格してるじゃねえか」

 唸るように男は言った。

 睨みつけるような視線にニクラスはにこりと微笑んだ。

「よく言われます。模擬戦、楽しみにしておりますよ」

「手前――」

 獰猛な表情で口を開きかけたケッセルトが、息を吐いた。がしがしと頭をかいて、張り詰めた気配を四散させる。


「……まあいい。どっちにしたって確約はしねえぞ。せいぜい、俺が首を突っ込みたくなるように事態が転ぶのを祈っててくれ」

「それについては心配していません」

 ケッセルトが眉を持ち上げた。

「なんだ。やっぱりなにか企んでやがるのか」

 ニクラスは苦笑する。

「なにもしませんよ。クライストフが関与してしまえば、彼女の現状は変わりません」

 だからこそヨウをつけたのだった。模擬戦そのものについてクライストフが裏で暗躍しようとするなら、あれほどあからさまな真似には出ない。


「つまり、なにか?」

 眉間に皺を寄せた男が、信じられないと頭を振った。

「お前さん、あの根回しどころかその場の駆け引きすらできなさそうな潔癖なご令嬢が、事態を好転させられると思ってるわけか」

「他人に誇れない友人を持った覚えはありません。そこまでわたしは人ができていませんし、暇でもないつもりです」

 ニクラスは応えた。

「別に謀主を気取る必要も、指揮を取る必要もないでしょう。疎まれ、反発されようが、彼女は彼女であればいい。アルスタとはまさにそうした生き方でしょう」

 それに、と続ける。

「正直に言ってしまえば、わたしは楽観的です。先日の一幕は、さぞ見苦しいものであったかと思いますが――疑念に嫉妬、足の引っ張り合い。我が国にはもちろん様々な悪癖や悪習がありますが、なにしろそれはただの悪習ではありません。このバーミリア水陸で最大を誇る国家の偉大なる悪癖であり、悪習なのですから」


「そんなもんかね」

 ケッセルトが首をひねった。その瞳に好奇心が灯っている。

「まあしかし、お前さんがそう言うなら興味深く拝見させてもらおうか。気分がよけりゃ、一緒に踊ってやらんこともない。ああ、残念だな。お前さんのいる場所からじゃあ、そいつだけは叶わない」

「ええ、残念です」

 まったくそう思っていない口調でニクラスは同意した。

 鼻を鳴らしたケッセルトが去っていく。男が石階段を下る音を聞きながら、ニクラスは今あった会話のやりとりなどなかったことのように、再び手元の読書へと戻った。



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