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王宮をこの街の中心として、やや東に離れた地区に大学はあった。
周囲には国立図書館や工房地区も併設されてあり、独特な雰囲気がある。学生達の住処、そして彼らを目的とした店も多数開かれていた。夜になると路上で眠る学生の姿を見ることもある、それを自由な空気というか、らしからぬ品のなさと見るかは人それぞれであろう。
馬車が目的の場所に着くころには、すっかり日が落ちて暗くなっていた。同伴者のエスコートを受けて降りた先に、闇に浮かび上がる石積みの建物がそびえ立っている。
派手な服装に身を包んだ案内役の少年が、勢い込んだ直角の礼で二人を出迎えた。
「こんばんは。ご案内致します、どうぞこちらへ」
目をあわせる。ニクラスの左隣に立ち、クリスは彼の腕にそっと自身をからませた。
毛織の敷き詰められた道を歩く。先を歩く少年の後ろ姿がしゃちほこばっていた。緊張しているのだろう。大学で行われる催事で運営にかりだされるのは、まだ社交の場に立つ前の年少者達の役割だ。それは場の空気に慣れ、人の顔をおぼえるためということでもある。精一杯に大人ぶろうとしている態度は素直に微笑ましかった。
ぎくしゃくした少年の案内の先にいたのも、やはり派手な服装の男だった。その人物は二人と同年代で、男は二人を見ると、おおげさな態度で表情を輝かせた。
「お待ちしておりました、ニクラス様、クリスティナ様」
少年が驚きの表情でこちらを振り返る。微笑もうとしたが、怖がらせることになりそうだったのでクリスはやめておくことにした。代わりに、その無作法には気づかない振りをする。
「こんばんは。遅くなって申し訳ない」
「とんでもありません。皆様、お待ちでございます。どうぞ中へ」
男が頷きで合図を示すと、扉の前に立っていた別の厳しい男がドアを開け放ち、中に向かってよく通る声を発した。
「ニクラス・クライストフ様、クリスティナ・アルスタ様!」
新たな招待客の到着の案内に、ざわりと中の空気が蠢いたのがわかった。
扉を抜けると、天井の高い部屋に大勢の人間が集まっていた。普段は観劇などにも扱われる大講堂に色とりどりの華やかさが溢れている。人と物、その両方の贅沢の極みがそこにはあった。
その中で、人々の視線が二人に集中していた。隣で男が小さく息を吐く音が聞こえる。
「戦はまだ始まってもいないぞ」
「わかってる。……それにしても、少し香りが強いな」
クリスは小さく頷いた。室内にはあまり嗅ぎ慣れない香りが焚かれていた。こもるようで、あまり彼女の好きな種類のものではない。
「悪酔いしてしまいそうだ」
「飲むのか?」
意外そうな声に、ちらりと上目を送ってクリスは言った。
「私はお前の心配をしている」
ニクラスは肩をすくめた。
「この雰囲気じゃ、楽しんで飲む気にはなれないな」
減ることのない無遠慮な視線の群れに、クリスは目線を動かさずに周囲を観察した。多くの人間が到着したばかりの彼らの同行を見守っているが、あえて気にしない素振りをしている人物も何人かいた。その中で本当に気づいていない人間がいたとしても、ごくわずかだろう。他には何かしら理由がある。虚勢か、悪意か。その理由が何かはともかく、彼女はその人物の顔を記憶にとどめておくよう注意した。それは自分の役目であると彼女は思っていた。
もっとも、そのようにわかりやすい連中ならそう危険でもあるまいが。そんな感想を抱く。面従腹背どころか、一瞬前まで味方だったはずの者がいっそ華麗に裏切ってみせるのが、政治という伏魔殿の恐ろしさだった。
「お前がまず誰に話しかけるか、賭けでもしてる連中もいるだろうな」
今現在の大学社交界において、ニクラスは最も注目される一人である。その彼が最初に挨拶を交わすのは誰か。くだらないことだが、そんなことを気にする輩がここには大勢いる。他国の王族のように一挙手一投足が見られるというのは、確かに煩わしいことではあった。
「向こうから来てくれればまだ気が楽なんだけどな。とりあえず、イシク先生でも探そう」
「……顔を出してくれているといいが」
彼らがよくしてもらっている人物だが、やはりというべきか、大の社交嫌いで通っている。
結局、その人物と会うことは出来なかった。通りがけのテーブルで顔見知りに捕まり、それを機に他の連中までもが集ってきてしまい、彼らはそのままそこに長く留まることになった。
立食式の夜会は、参加者こそ大学に関わるほとんどの人間を呼び込まれた盛大さではあったが、形式としてはそこまで堅苦しいものではなく、開宴して数人が挨拶に立った以外は自由な歓談を中心に推移した。講堂の中央では演奏にあわせて踊りを楽しんでいる人々もいる。
クリスは一人、壁際のソファに腰掛けていた。連れの男はさきほど、水を取りにいったきりまだ戻ってこない。恐らくどこかで誰か出席者に捕まっているのだろう。
テーブルで何十人目からの挨拶を受けていた頃、彼女は頭痛がひどくなってきていることを自覚した。それに気づいたニクラスが居合わせた人々に断りを入れて、彼女を人ごみから離れたここへ連れてきてからまだ半刻もたってはいない。
耳飾りのせいだ。それにこの香りも。耳から外した水晶のきらめきを手のひらに転がし、クリスはため息をついた。偉そうなことを言っておいて、自分が彼の足を引っ張ってしまっては意味がないではないか。
――やはり、不向きなのだろうな。
自嘲に笑う彼女の前に影が立った。連れかと思ったが、違う。彼女は表情を固くした。
「これはこれは。アルスタ家ご令嬢様ではいらっしゃいませんか」
言葉面は丁寧な裏にある刺に気づかぬわけもなく、しかし彼女は努めて感情を抑えた口調でそれに答えた。
「……ごきげんよう。マヒート様。ゼラビア様」
そこに立っていたのは一組の男女だった。
ともにこれでもかというほど華美な服飾に包まれた二人。平面じみた顔の造作が似通っているのは、彼らが実際の兄妹だからだった。表情に張りついた笑みまでが不気味な相似形をかたどられている。特権階級という文字通りの透明なマントを羽織った態度だった。
「こんばんは、クリスティナ様。とても素敵なドレスでいらっしゃいますわね」
小柄な少女は小鳥の囀るような可憐さだが、そこに毒花の美しさを重ね合わせたのはクリスの偏見かもしれなかった。しかし、彼女がそう思ってしまうだけの理由も存在している。
「クリスティナ様のお姿に似合っていて、とても綺麗……。やっぱりスタイルが違いますのね。私も今度、剣を習ってみようかしら」
「おいおい、やめてくれ。お前が剣を振り回したりなんかしはじめたら、親父も母様も卒倒してしまうぞ」
「あら、どうして? クリスティナ様はどの殿方にも劣らない剣の腕前だと評判ですのよ。お茶会などでもよく話題なのですから」
大仰に身をのけぞらせる男に流し目を送り、それからクリスへと視線が向けられる。
「ねえ、クリスティナ様?」
それが何についての同意を促した言葉であるのか、クリスには理解できなかった。いや、そうではないとすぐに思い至る。これはただの皮肉だ。
諭すように男が言う。
「クリスティナ様は武門の生まれでいらっしゃる。お前が剣など握ってみろ。すぐにタコができて、舞踏会にも出られるなくなるぞ」
その言葉に、ぴくりとクリスは膝上で指先を震わせた。
「まあ、それは大変……そういえばクリスティナ様は、今日は踊られないのですか?」
「――少し、気分が悪くなってしまって。休んでいるところです」
「それは大変! お水は必要ございませんか?」
「いえ。今、連れが取りにいってくれていますので。どうぞお気づかいなく」
気を使うくらいなら早くどこかに行ってほしい。とも言えず、やんわりと断る彼女に少女は思案するような表情になる。
「あら、ニクラス様でしたら、先ほどどなたかと踊られているのをお見かけしましたけれど……気のせいだったかしら?」
「ああ、確かヴィスコーラ家のアリアス様と一緒だったね。今もそうじゃないかな」
まさか。いや、一人でいるところに相手から誘いを受ければ、断るに断れない状況もあるだろう。それにヴィスコーラ家といえば他国の大貴族。ホストたるツヴァイの人間が、外交上の礼を逸するわけにはいかない。充分にあり得ることだ。
彼女は平静に思考をすすめたが、目の前に立つ少女が首をかしげた。
「クリスティナ様? お顔の色が悪くなったようですけれど、どうかなさいましたか?」
「いえ――」
優れぬ気分では、苦手な相手への応対もそろそろおっくうになってきていた。陰湿な言葉にもうんざりする。いっそ堂々と罵ってくれたほうがまだましだ、と彼女は内心で呻いた。
「そうですわ。クリスティナ様。よろしければ、お兄様と少し踊られてはいかがです?」
「いえ、私は」
「身体を動かした方が気分も晴れるというものです。ねえ、お兄様。いかがでしょう」
善意の固まりといった笑顔で少女が言い、隣に立つ男もそれに鷹揚に頷いて言った。
「ああ、それはあるかもしれない。どうでしょう、クリスティナ様。もちろん、私などがお相手でよろしければですが……」
このように言われてまで断るのは無礼であるし、それにこのままの状態が続くよりはそちらのほうがまだ救いがあるように思えた。少なくとも、相手をするのが二人でなく、一人には減る。
彼女にしてみれば短絡的な判断で、クリスはそう決断した。室内に充満する香りと鈍く続く頭痛の影響もあっただろう。
「……それでは、お相手していただけますでしょうか。マヒート様」
「喜んで。さ、どうぞ」
恭しく一礼した男が手を伸ばす。クリスは立ち上がり、手を預けかけて一瞬戸惑った。
日頃の鍛錬で傷とたこのできた指先は、自分でも美しいものには見えなかった。さきほどの二人の会話のやりとりが脳裡をかすめ、ふっという鼻息を聞いて顔を上げた先で、男が見下した笑みを口の端にたたえている。
薄く唇を噛み締め、彼女は男の手を取った。
剣とは、呼吸と間合い。そして礼儀である。
幼少時のクリスの記憶にある、それがまず始めに身体に叩き込まれた父からの指導だった。
呼吸とは自制。間合いとは相手との距離。礼儀とは相手への敬意。そして剣とは、アルスタ家の人間にとって自分自身に他ならない。つまりその三つはそのまま彼女の生き方でもあった。
よく自らを抑え、相手との適正な距離を心がけ、礼を逸しない。それがクリスティナ・アルスタという人間の根本である。彼女は今まで家訓に疑いを抱いたことなど一度もなく、むしろ誇ってその生き方を貫いてきた。
茶会や読書。人の輪を作って噂話に興を求めるより、ただ一心に剣を振るう。それが周囲の同性達とあまりに違う姿であることも、気にはならなかった。少なくともあの男に出会う前までは。
回転する視界のなかで男の顔を思い出す。彼が今、別の場所で他の誰かと踊っている。そのことに気を取られたわけでは決してなかったはずだったが、
「――っ」
体勢を崩し、彼女はあと一歩で転びそうなところをなんとか踏みとどまった。無意識によりかかってしまった胸板の上から、甘ったるい声が降ってくる。
「大丈夫ですか? クリスティナ様」
クリスは険しい目つきで睨みつけるが、相手は動じない。全身に怒気がこもりそうになるのを抑え、彼女は自身の非礼をわびた。
「はい。……申し訳ありません、マヒート様」
「いえいえ、不慣れなことなどお気になさらず。楽しんで参りましょう」
言って、男は柔らかな口調とは裏腹な強引さでダンスを再開した。
「……っ!」
あわててそれを追いかけるクリス。
彼女にとっては舞踏もまた呼吸と間合い、礼儀である。好みではないとはいえ、嗜みとして彼女も人並み程度には踊ってきた経験がある。身体を動かすことは不得手ではないし、そもそもこの場でいう踊りとはある程度以上の運動神経がなければ難しい類のものではない。
舞踏とは一組の男女が行うものである。その意味で、必要なものは確かに呼吸と間合い、礼儀であった。そして、その全てが今の彼女の相手からは徹底的に欠けていた。
リズム。挙動。目線。呼吸があう、あわない以前の問題である。男はまるで自侭に、弄ぶように彼女を自分の腕のなかで振り回していた。それでも崩壊せず、なんとか崖の一歩手前で踏みとどまっている現状をむしろ褒めるべきであろう。呼吸を乱す。間合いを外す。模擬戦で幾度もそうした相手と剣を交わした経験を持つ、クリスならではといえた。
しかしそれにも限界があった。主導権は常にエスコートした男側にあり、上背も純粋な力でも相手には及ばない。先を読んで相手の稚気に対応し続けたとして、いつかコインの裏側をひきあててしまうのは必然である。
やがて、その時は訪れた。
「きゃっ」
男の強引な反転に腕が伸びきり、足が追いつかずに彼女はその場に倒れこんだ。
「ああっ。申し訳ありません、クリスティナ様……私が未熟なばかりに貴女にあわせることができず――」
彼女だけに語るのにはあきらかに大仰な声と仕草で男が言う。周囲の視線が集まり、踊りを続けながら人々が冷たい笑みを彼女に向けて閃かすのが視界をかすめた。
「舞踏が剣のようにいかなくても仕方ありませんな。……そろそろお休みになりますか?」
男のその言葉はしかし、むしろ彼女の闘志に火をつけた。
無言で立ち上がり、彼女は完璧な動作で一礼すると、もはや一分の隙もない表情で相手を見据えた。
「いいえ。どうかもう一度お相手いただけますか? マヒート様」
彼女の気迫に一瞬、男がたじろぎ、虚勢の笑みを張って応じた。彼女の手をとり、舞踊の開始を告げるため互いに頭を下げ、その余韻が終わらぬ間に強引に自分側へと引き寄せる。
男の姑息な奇襲を、しかしクリスは完全に見切っていた。一拍と一歩を速めて見事に相手の側に自身を持っていく。驚きの表情を見せる男が次の動作に移る前に、彼女は流れのままさらに一歩を踏み出した。
「っ!」
今まで引っ張る立場だったのが一転して逆の立場になり、男の顔が歪む。クリスはそれに冷笑で応じた。
そのまま彼女が先手を打ち続ければ、男は無様に床にはいつくばったことだろう。しかし彼女はそうしなかった。
踊りの主導権はあくまで相手側にある。受け手が強引に先導してしまってはマナー違反だが、一歩だけという彼女の行動ならその儀礼を逸してはいない。もっとも、例えそうだとしても転ばされることが侮辱であることには違いないし、それをわかりきったうえで手を抜かれるのも、また同様だった。それは挑発であるとともに、男の連動した行動を妨害する実際的な意味もあった。まさに間合いを外し、呼吸を乱させた上で形式上の儀礼も守った形である。
その意図のどこまでを読んだのか、憤怒の表情で男が動いた。腕の力だけで強引に彼女を振り回そうとするのを、彼女は余裕の体捌きで受けきってみせる。
男のやってくることは、数としてそう多いわけではない。強引に振り回す。意図しないステップを踏む。たったそれだけである。クリスは純粋な反応の速度で前者に対応し、後者には今までの相手の癖を読むことと、頭に血を上らせ相手の意識を単純化することで、もとから分の悪いコインの裏表当てというリスクを最大限減じてみせた。力に逆らわず流れにのった一歩で相手を撹乱し、連動した行動を防いでもいる。この舞踏を試合とするならば、攻防から心理戦に至るまで、全てクリスの勝利であった。
だが、彼女は事ここに至ってもあくまで受けきることを主眼に、決してそれ以上を求めてはいなかった。相手の面子を叩き潰すことではなく、相手の悪意に対して如何に正々堂々と自らの誇りを守ることしか頭にない。この場合、それはむしろ短所と呼ぶべきものだった。愚直そのものである。
誤算もあった。止まぬ頭痛と慣れぬ矯正具。それが最終的には彼女に敗北をもたらした。
男の無理な先導と、それに反応するクリス。当然ながら彼らは他の男女とは勢いも動きの幅も違いすぎていた。剣の模擬戦のように周りに誰もいないわけではない。そのことが頭から抜け落ちていたわけではないにせよ、確かに彼女の注意力はその時、周囲から外れていたのである。
男が乱暴に腕を引っ張ろうとする、それに対抗するために大きく足を踏み出しかけたクリスは、その先に別の男女が親しげに踊っていることに気づき、とっさに身体を捻った。
普段の彼女なら、それでも最悪の事態は回避しえたかもしれない。しかし彼女の腰には矯正具がきつく巻かれ、深く呼吸することさえ疎外していた。彼女の肉体の持つ柔軟さは失われ、衝突を避けるためには無理な一歩を踏むことしか選択肢にはなく。向かってくるこちらにようやく気づき、恐怖に顔を強張らせる名も知らぬ誰かの表情を瞳に映した瞬間、彼女の決意は固まった。
絹を裂く音があたりに響いた。




