1
バーミリア水陸において、作られる書物の大半には羊皮紙が用いられる。
名前にある通り、羊の皮を原材料としたその記録媒体(厳密には紙とは呼べない)は、実際には羊以外にも多くの動物の皮が使われている。正式な紙、つまりは植物の繊維を紐ほどいて薄く成形しなおしたものも既にあったが、全体が乾燥した惑星における慢性的な植物不足から、そうした代物は限りなく少数量だった。
さまざまな種類の紙、あるいはそれを模造した被写物の外装は、ほとんどが似通った形に収束される。両手に余らず、持ち運ぶ重さにも配慮した長方形の物体が「本」と呼ばれるそれだった。
バーミリア水陸のどの国家でも、学業に従事することは一部の特権階級の人々だけに許された行為だった。その彼らも、日々の学習に一々、紙を使うような真似は許されない。粘土板に文字を記し、覚えては消して上書きする。その為、個人の優秀さを示す端的な能力の一つが記憶術であった。
要するに、書物に残されるということはそれだけで重要な意味があった。
それは個人の頭の中にあるものが、生きゆく者なら決して免れない寿命やそれ以前に降りかかる突然の死で失われることを防ぐ目的であり、目の前に知識者を招かれずともその泉に触れるための手段だった。
その貴重な価値を持つ書物が、恐らくは水陸で一番の質量を兼ね揃えて備えられているのが、ツヴァイ帝国首都ヴァルガード、そこに開かれた大学に隣接して新しく用意された図書館塔である。
螺旋を描くように渦を巻いて空に突き出す塔。その内側の外周壁にびっしりと水陸中の知識を書き記した書物を溜めこんだ塔は、昇降手段も内部を外周沿いに連なる階段でひたすら上を目指す仕組みになっており、そこにはより多くの知識を求めるならまず足腰から鍛えあげよという意地の悪い教えが込められているようだった。
当然、利用者――特に年配者にはこの新しい図書棟はまったく評判が悪かった。そして、代わりにあれこれをとってこいと指図される羽目になる若者にも、同じように評判はよろしくない。
図書棟を利用する顔ぶれの中でそうした不満を覚えない方が少数だったが、その少数派の一人にニクラス・クライストフという若者がいる。相当に奇矯な性格の持ち主である彼は、自身の内面のように捻くれたこの建築物のことを嫌いではなく、逆に気に入ってさえいた。
利便性がよければ人が集まる。秘め事や密談に使おうという輩も出てくるだろうから、少し不便な方がいい。とはいえ、人が寄りつかない場所なら寄りつかない場所で似たような目的に訪れる連中も出てくることになるが、そのあたりについてはどうでもよかった。つまりは、彼にとっては自分が静かに読書をすることができればそれで十分なのだった。
もっとも、と考える。嫌がらせかと老人達が考えるような意図は、この建物を設計した人物にはなかっただろう。ではどんな思惑が、という疑問にも彼なりの見当をつけていた。
その人物はただ建てたかったのだ。こうした少し変わった建物を。
本人に確認したわけではないが、恐らく大きく外れることはないだろうと確信に近いものを抱いている。それは、彼がその設計者に近しい気分を感じることができるからだった。
自分と似たような変わり者が他にもいることを実感するのは、彼のような人間にとっても愉快なことだった。読みかけだった書物を棚から引き出し、階段途中の机に席をとって口元を綻ばせながら頁をつづっていた彼に、その目の前に立った人物が声をかけた。
「随分と機嫌が良さそうだけど、そんなに面白いことが書いてるのかい、ニクラス」
ニクラスが目線を上げると、そこには彼が親しくする数少ない知人の一人が立っている。
ふんわりと柔らかな茶色の髪をおさまりが悪く伸ばした、ニクラスと同年代のその相手は、年齢以上の幼さを感じさせる人物だった。屈託のない表情が、日向でまどろむ猫科を想像させる。
「僕にも教えてよ。読んでみたい」
「ロカはもう読んだことがあるんじゃないか。それに、本のことで笑ってたわけじゃない」
「へえ。なら、誰かのことを思い出してたの? 誰だろ、最近よく一緒にいるあの人かな」
あえてあいまいな問いかけにひっかかるような素直さは、ニクラスは持ち合わせてはいなかった。表情をぴくりとも動かさず、目の前の本に視線を落とす。
「さあ。誰のことだろうな」
「……つまんないなあ、ニクラスは」
頬を膨らませたロカと呼ばれた少年が、机の反対側に座って頬杖をついた。
「噂話がしたいなら、茶会にでも混ざってくればいいだろう」
「うん。今ね、その帰りなんだよ」
ロカという人物は、その害のなさそうな風貌と人懐こい性格から、大学に所属する子女達が時間さえあれば開く茶会の類に招かれることも多かった。そこで披露される様々な艶話や醜聞も数多く耳にしている為、いつの間にか他の誰よりもそうした噂話に詳しくなっている。
「色々と面白いこと、聞けたよ。ふふ、ニクラスも知りたい? 教えてあげよっか」
覗きこむような眼差しに、ニクラスは鼻を鳴らした。目の前の相手が秘密を漏らすようなことはないことを彼は知っていた。
ロカ・トルト。中堅貴族の三男坊という、ツヴァイの貴族社会においてはほとんど端にも関わらない立場にある彼が、多くの秘密を聞くことがあるのは、そうした立場にあるからこそだった。
人畜無害。立場や能力だけでなく、そうした性格であると広く認知されているからこそ、多くの女性達は彼の前でつい口を開き、秘密を暴露する。それは自身が可愛がる愛玩動物の前では、なんら黙することがないのと似た心境の成せるものだった。
その性格は間違いなくロカの生来のものだったが、重要なことは彼がそれをきちんと認識していることだった。だからこそ、手に入れた秘密や噂は例外なく彼の中で完結するのだった。
一度、どんなものでも口にしてしまえば、ロカの存在する意味は消滅する。ばれなければいい、という程度の低い話ではなかった。まず彼自身が、秘密を口にした自分自身を知らずにはいられないからだった。
なんでも耳にできる代わり、決して外には漏らせない――漏らさないのではなく、“漏らせない”秘密の穴。それがロカ・トルトであり、純朴だが愚かではない彼はそうした自己の在り方を正確に理解していた。
一見まともに見えても、ニクラスの親しくする相手はやはりどこか奇矯な部分を併せ持っている人物ばかりなのだった。
「なんだよー。馬鹿にしてさ。でも、ほんとに今日は教えてあげるってば」
「必要な話ならそのうち手に入るさ。誰に恨まれることになるかわからないぞ」
「大丈夫だよ」
えへんと薄い胸を張って、少年は断言した。
「話してあげるのは、誰かの秘密なんかじゃないからね。すぐにみんなが知ることになるのを、ちょっと早く聞くくらいじゃ怒られたりはしないでしょ?」
そこでようやくニクラスは読書を中断して、顔を上げた。
そうしてまで自分に聞かせたいということは、話の内容が自分と密接に関わることだからだろう。頭の中の推測から目の前の相手の意図をさらに考えて、
「ようするに、それを聞いた俺の反応が見たいんだな」
「そーいうこと」
にへらと笑い、無邪気に身体を揺らす相手に悪態をつく気分になれず、ニクラスは肩をすくめた。
「……わかったよ。聞かせてくれ。リアクションは、約束できないけどな」
「ふっふー。仕方ないなあ。あのね、ほら。今度ある模擬戦のことなんだけど――」
同じ頃、クリスティナ・アルスタは自分の置かれた状況に困窮していた。
大学構内。帝都の一角に広大な敷地を囲って幾つか設けられた遊びの区画、豊富な地下水を汲みあげた泉で周辺に芝生を埋め込んだ中庭の一つに、十人近い令嬢が顔をそろえていた。
いずれもツヴァイでそれなりに名の通った家柄の、貴族子女達にまじってクリスがいるのは、彼女達が開く茶会に招かれたからだった。そうした事態は今回に限ったことではない。最近、クリスはほとんど見知らぬ相手からそうした誘いを受けることが多くなっていた。
理由は本人にもわかっている。先日の皇庭園遊の際、茶会の余興にて催された追い狩りでクリスが目立った活躍を見せたからだった。
狩りでは始めから終わりまで活躍したのはほとんどボノクス人ばかりであり、その最後になんとかクリスが一矢を報いたことで、ツヴァイはホスト国としての体面をたもった形だった。当人がその結果に満足していなかったとしても、周囲が彼女に称賛を送るのは当然ではなくとも自然ではあった。
元々、アルスタ家は落ちぶれた元名門として決して良い評判ではない。地方で軍務につき、他国との争いに才を見せる代々当主の力量がまったく認められていないわけではなかったが、それも実際の脅威として対する他国の方がより深刻なものとして受け取っていたし、中央で戦火から遠い人々にとっては、一戦線における軍個人の優秀性など、よほどのことでなければ些末事に過ぎなかった。
少なくとも開校当初、そこに姿を見せたアルスタ家令嬢に周囲から向けられた視線は、中央から追いやられた落伍者。戦場働きしかできない粗忽者。そういったものだった。
それが、実際に馬を駆り躍動するクリスの姿を見て、周囲が掌を返してみせたことは非難されるようなことではない。特に、見目麗しいクリスが男顔負けの活躍をすることに、同性である子女からいささか倒錯めいた喝采があった。
同時に、口さがない陰口も当然あった。それはやはりクリスの同性から、そしてそれ以上に、彼女に活躍をとられた他の男達からあがった。
自分自身の微妙な立場にクリスは気づいていたが、それを冷静に受け入れようと努力していた。アルスタ家が中央社交に戻るということは、そういうことだと割り切っていた。
だが、やはり慣れないものは慣れないというのも事実で、自分とまるで異なる世界に生きる子女に囲まれ、矢継ぎ早に質問され、好奇の眼差しを向けられることには面映ゆさと苦痛を伴った。
それでもそうした誘いを断らず、できる限り参加するよう最近では心がけているのは、自分自身の力で社交の術を覚える必要があると彼女が考えていたからだった。いつまでもニクラスの世話になるわけにはいかない。逆に、友人として自分が彼を助ける立場になりたい。その為には、どれほど馬を巧みに操り、華麗に剣を振るったところでそれだけではまったく不足していた。
葉茶の香りの微妙な違いに、数々に彩られる花の種類。夜会で繰り広げられる会話のやりとりや舞踏における礼儀手法。ツヴァイばかりか各国から集まる人の顔と立場。その背景。誰とどんな関係にあるか、どの話題に気をつけるべきか。
今まで決して怠ってきたつもりはなくとも、彼女が自分の渾身をただ剣に捧げてきたことは確かだった。圧倒的な経験の不足もあり、同年代の人々より目立って未熟だという自覚のあるそれらについて、クリスは懸命に学ぼうとしている。
驕るのでも遜るのでもないクリスの姿勢は、今のところ周囲に受け入れられていた。少なくとも表面上はそうだった。好意というより好奇に近く、高貴な子女達にしてみれば珍獣を愛でるような感覚であったとしても、悪意ではなかった。
「そういえば、クリスティナ様。楽しみにしていますわ」
茶会に参加している令嬢の言葉に、クリスはやや強張りのある笑みで返した。
「楽しみに、というとなんのお話でしょうか」
「来月の歓宴会の前にある催し物のことですわ。各国から選ばれた人々が、陣地争いをなさるという模擬戦の。クリスティナ様もご参加されるのでしょう?」
「ああ。そうですね、参加できるのであればそれは大変に光栄なことだと思いますが、それが叶うかどうか……」
各国代表の対抗戦が行われることは、先日の遠出でアンヘリタ皇女から発表されたことだった。ボノクスの一人勝ちだった追い狩りの、溜まった鬱憤を晴らそうという他国への配慮かと思われたが、ツヴァイにもそうした猛る想いを秘める者は大勢いるはずだった。
ただでさえ大学に関わる人数がもっとも多いのがツヴァイだった。他国に比べて多数を模擬戦に参加させるわけにはいかず、その選抜者に自分が選ばれるとはクリスは思っていなかった。女性の身ということもある。水陸各国における女性の扱いでは、ツヴァイはいやましといったところだったが、限られた枠内に不利の要素を含める理由もなかった。
「そんなこと! 先日のご活躍ですのに、選ばれない理由がありませんわ。皆さんもそうお思いでしょう?」
「ええ。口だけの殿方などより、よほどその方が良い結果がでるはずですもの」
その場にいる令嬢達が優雅に笑いあう。だらしない男達への叱咤と、それを同性のクリスが晴らしてくれたことに対する優越感の投影がそこにはあった。
それから彼女達は、好き勝手に囀り続けた。いっそのこと、私達が馬に跨ったほうがよろしいのでなくて? ああ、そうかもしれませんわね。私、乗馬が苦手なのですけれど、クリスティナ様にご指導いただければきっと上手くなりますわ。
自分が男性より優れているなどとは思っていないクリスは、ひきつった笑顔でそれに応えていたが、令嬢の一人が口にしたことに過敏に反応した。
「そういえば、こちらの指揮はクライストフ家のニクラス様がおとりになるご予定だとか。先ほど、アンヘリタ様がそのようにおっしゃられていたとどなたかからお聞きしましたわ」




