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砂の星、響く声 外伝  作者: 理祭
樹霊の賛々歌
24/46

 馬世話の者から手綱を受け取り、鐙を踏んで一息に背に跨る。

 クリスの乗り馬は、濃い黒にうっすらと混濁した白斑を抱く葦毛だった。まだ歳が若く、全体が白には至っていないが、鼻梁と四肢では特にはっきりとその色が浮かびあがっている。武門の家が持つだけあって、風貌も良く体格も均整が取れた見事なものだったが、全体のサイズとしてはそこまで巨大ではない。


 ツヴァイでは騎馬とは特に重騎馬を指し、逞しく重量感のある馬体が持て囃されることが多いが、クリスの乗り馬はどちらかといえば草原の民達が好む軽騎馬種に近かった。クリスと共に追い狩りに出るボノクスのスムクライ、ジルが駆る馬などがまさにそれで、こちらはごくありふれた鹿毛の軽騎馬で、クリスの馬よりさらに細くしなるような馬体である。


 互いに馬に乗った両者の視線が絡み合う。

 冷笑じみた表情を閃かせる相手の騎手に、クリスが闘志を秘めた眼差しを送り続けていると、彼女の家からついてきた世話師がそっと声をかけた。

「お嬢様、どうぞ」

 両手で捧げるように持ち上げられたのは二振りの剣だった。女性の身でも扱える重量の片刃剣。彼女はそれを狩りの得物にしようというのだった。

「――ご武運を」

 家人の言葉に、クリスは精悍に微笑んだ。

「行ってくる」

 両剣を左右に佩き、馬腹を脚で撫でるようにすると、主人の意を介した馬がゆっくりと歩き出す。

 好奇と関心の視線で取り囲む観客の間を抜ける途中、最奥の宴席際に立つ男の姿が彼女の視界によぎった。渋面で視線を投げるニクラス・クライストフに、クリスは小さく頷いてみせた。男は応えない。眉間に皺を寄せた視線が怒っているように見えて、クリスに先日の夜会の一幕を思い起こさせた。

 そんな男の表情を見て、罰が悪いどころか、少し愉快に思ってしまっている。自分自身に彼女は苦笑した。ひどく悪い性格になってしまった気分だった。


 堂々と馬を進める友人を、ニクラスは苦虫を噛み潰す表情で見送った。背後に、方々に散っていた彼の従士達が集まり始めている。

「……ニクラス様」

「駄目か」

「申し訳ありません。今朝方には姿を見かけたという話もあったのですが」

「急だったからな。仕方ない」

 スムクライが興味を持つ男の協力を得るには時間がなさすぎた。

 ケッセルト・カザロという名前を聞いてから、ニクラスはその相手がどんな人物か調べさせはしていたが、まだ直接話をしたことはない。事態に対して不足があったとするならば、むしろそちらだったかもしれなかった。

「如何いたしますか。アルスタ側の随員は出ないようですが」

 彼の友人は馬引きの世話係以外、誰も連れてきていなかった。


 追い狩りは個人の技量を競うものであるが、止めを刺す人物の助力を目的とした補助が随走することはある。自らの腕に絶対的な自信を持つ遊牧民が、勝負の場でそのような振る舞いをするとは思えなかったが――思案して、ニクラスは控える従士達の一人に声をかけた。

「ヨウ。行ってきてくれ」

「は」

 怜悧な眼差しの若者が頷いた。どのように、と目線が問いを投げかけている。

「手出しは無用だ。勝負がどう転ぼうと絶対に、手出しをさせるな。ボノクスにも、それ以外にも」

「了解しました」

 主人の命令の意図を理解した表情で、若者が乗り馬に向かって駆け出していく。


 他の従士達にも細かな指示を与えてからニクラスが幕で仕切られた中に戻ると、アンヘリタ皇女が人の悪い笑みを浮かべて彼を出迎えた。

「面白いことになってきたではないか、ニクラスよ」

 心から素直な台詞に閉口して、ニクラスは頭を振った。

「叶うなら、今すぐにでも雨季の訪れがやってきてくれないかと願うばかりです」

「確かに天の恵みが始まってしまえば勝負どころではなくなるか――しかし、見よ」

 皇女が細く長い指先を伸ばした先に、底抜けの蒼が果てなく透き通っている。

「この通り、一天も座して眼下の催しを楽しんでおるところだ。つまらん無粋は言わず、そなたも楽しむがよい」

「そうですわ、ニクラス様」 

 皇女の隣に座るクーヴァリィンが微笑んだ。

「クリスティナ様ならきっとやってくださいます。信じて見届けましょう」

「……そうですね。そのようにいたします」

 どこまでも悠然とした二人に気づかれないよう、ニクラスはこっそりと嘆息した。


 周囲の人間になにやら指示をだしているベディクトゥと視線があう。肩をすくめて送られたのは、敵意でもなく軽蔑でもなかった。

 振り回される者同士の連帯感じみた目線を受けて、これにはニクラスも苦笑を返すしかなかった。



 狩子が新しい獲物を追いやり、旗が振られる。

 草原に飛び出した一匹のカウディに、待機していた一団の中で誰よりも早くクリスが先頭に駆け出した。それは彼女の得物と、乗り馬の双方の理由による行動だった。


 彼女は弓どころか槍すら持ち合わせていない。馬上からでは、地上を低く走る獲物に剣は届かない。もしその剣で獲物をしとめようとするなら、そのやり方は唯一つだった。投槍よろしく叩きつけるしかない。

 激しく馬に揺られつつ、小さな獲物に剣を投げつけて命中させるなどということは、もちろん至難である。だからこそ、彼女は誰よりも獲物に近くある必要があった。

 そして、クリスが駆る馬は彼女の望みを叶えるべく、他より一歩も二歩も先んじることに成功している。

 如何に優れた馬を得てそれを飼い増やすかということは、砂にまみれたこの地でも国家の大計に他ならないが、軽騎馬は速く、重騎馬は遅いという簡単な理屈は少なくとも、傾向としては正しかった。


 そのクリスの後を追いかけるのは、やはり軽騎馬の面々だった。五馬身程離れた先頭にはスムクライの女性が無言のまま、追走するようについている。

 二つ目の集団から遅れて最後に進む一団は、見映えこそ華々しく、馬格も立派な重騎馬を駆る数人だった。既に先頭との間に生じた差は如何ともし難く、しかもその距離はますます広がるばかりである。これが参加者全員に見せ場をつくるための場であるなら、彼らにも後半の活躍はできるところだったが――少なくとも、今回に限ってそれはありえなかった。


 スムクライのジルが左手の弓に矢を番える。

 まだ獲物の姿は遥か遠く、武器を構えようとする者すら他にはいない。しかし、生まれて母乳を吸うのと時を同じくして手綱を握るという遊牧の民は、それを威嚇の類で行ったのではなかった。


 地を逃げる獲物の姿は、女性の目から見てもほとんど点でしかない。距離に風。獲物の突然の転進。不確定な要素があまりに強く、いくら弓馬に自信があろうとも今しばらくは距離を詰めるべきところを、女性は大きく弓を引き絞った。

 その意図にあるのは場を盛り上げようなどという計らいとはむしろ逆だった。寡黙にして苛烈な女性は、このくだらない催しにその一射で止めをさそうとしていた。


 胸を越え、耳まで弦が引き絞られる。動物の腱を幾重にも丁寧に紡ぎ合わせた複合の弓は、その威力を既に知らしめていた。

 一切の盛り上がりを欠いたまま、ボノクスの矢が放たれかけるのを、ちらりと先に立つ金髪の乗り手が掠み見た。

 先頭を駆ける馬が左にぶれた。 

 獲物への射線をさえぎられ、ジルは小さく目を見開いた。鼻で笑う。

「賢しい」

 弓を下ろし、改めて手綱をとる。それだけで、乗り手の意図を汲み取ったように彼女の馬が速度を増した。


 

 背後からの気配が高まるのを察して、クリスは肩越しに背後を振り返った。

 自分を乗せて駆ける愛馬がぴくりと動揺するのを感じとって、素早く首を撫でて落ち着かせる。

「気にしないでいい、ロフォレ」

 声をかけながら再び背後を顧みる。スムクライの馬はそのわずかな間にも彼女との距離を詰めて来ていた。それを騎乗の腕の差とは一概に言うことはできなかった。獲物を追いながら背後を気にしなければならないクリスと、前を向いてただ駆ければいい相手とでは、技量以外のものが関わりすぎている。


 クリスの前を懸命に逃げるカウディが大きく右に流れた。

 すかさずスムクライが右に打ち、背後を気にしていたクリスはその相手の反応ではじめて前を行く獲物の動きに気づいた。すぐに手綱を右にかけるが、その一瞬のやりとりだけで、クリスと追手の差がさらに一馬身ほど縮まった。



「ハッ――」

 先頭を駆ける騎手が大きく手綱を振った。

 見る見るうちに獲物との距離を縮め、後続を引き離す相手の後ろ姿を、ジルは嘲笑と共に見送った。

 じりじりと背後から圧をかけ、クリスに逃げ足を早めさせたのは彼女だったが、その彼女には先馬とそれ以上の距離を縮めるつもりはなかった。

 既に獲物との距離は十馬身程。六馬身先に邪魔が走っているが、その邪魔が獲物に近づき、自分との距離をあけてくれることはむしろ彼女にとって優位になる。そうした位置関係の方が射線の確保は易いからだった。


 距離そのものは充分すぎるほど射程の中にある。

 改めて、左手の弓を握り締める。それを見た先をいく金髪の乗り手が、腰から剣を抜いた。彼女はさらに嘲笑を強くした。

 先手をとるために無理駆けをしている自覚くらいはあるらしい。一刻も早く獲物に追いつき、剣を投げつけたいとでもいうかのような行為のあさましさに、ジルは相手への興味を完全に失った。


 ――くだらん。

 さっさと仕舞いにすることを心に決め、弓を絞る。

 クリスが振り返る。すっと馬が揺れ、獲物との射線を遮った。

 苛とした感情が湧き起こる。

 射線が遮られれば、矢は撃てない。そんなものは、矢が自分の身体を穿たないからという前提でしか在り得ないことだった。戦でなく遊戯。そうした性根がひどく腹に据えかねて、彼女は鋭く舌を打った。

「くだらん」

 強く馬体を締めた両脚の、膝の内に一段と力を込める。

 ジルの乗り馬が倒れこむように右へと流れた。

 手綱もなしに行き先を操ってみせる。その曲芸にクリスが目を見開かせる前に、ボノクスの女性はその次の行為まで終わらせていた。

 一瞬で引き絞られた弦が弾け、乾いた音と共に矢が放たれる。

 神速の狙いからの射。

 人馬を盾にして遮る間もなく放たれた矢は、地を駆ける獲物のもとに吸い寄せられるように伸びて、



 半ばから折れた矢が中空に舞った。



 ぱしんと軽い音を立て、半回転して落ちる。

 一瞬、事態を忘れてジルはぽかんと放った矢の最期を見送った。

 乗り手が自失のまま彼女の馬は走り続け、落ちた矢の傍を駆け抜けた。目の先の地面を流れた矢が間違いなく叩き折られているのを確認して、ようやく我に返る。

 それでもなお信じられない面持ちで、顔をあげた。

 右手に剣を構えた女が、獲物へと馬を走らせながら、油断なく背後に注意を向けていた。


 ――剣で、叩き落としただと?

 先ほど手綱を使わずに乗り馬を操ってみせた彼女にとっても、そんなものはありえるはずのない曲芸だった。いや、と考える。

 不意打ちではなく、充分に注意を払い、あらかじめ射線を予測さえしていればあるいは――当てるのではなく、添える為に剣をだせば決して不可能ではない。弓矢の穿つただ一点に、激しく揺れる馬上で剣を添えることなどが果たして叶うのであれば、だが。


 ジルは再び弓矢を番えた。

 充分に呼吸を整わせ、両膝の細やかな締め付けで馬を左右に振って先馬を煽り、一瞬の射線を確保して間髪なく、一気に射る。

 放たれた矢が、あっさりと叩き落とされた。

 一度ならず二度までも矢を迎撃するなどという神業を見せつけて、それを成した相手は自身の技量を誇る様子は欠片もなかった。

 静かな眼差しに闘志を秘め、背後と前方に忙しく視線を交互させている――意識はあくまで、競技に集中していた。


「――くふっ」 

 唇から薄い息が漏れる。

 目の前で繰り広げられた行いが偶然でも奇跡でもないことに、それまで一貫して冷ややかだった野生的な美貌に笑みがこぼれた。

「……面白い!」

 口の端を大きく吊り上げたそれは、まごう事なき肉食の笑みだった。



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