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アンヘリタ皇女が気まぐれに言い出した遠出は、慌ただしく数日の用意を以って行われた。
場所は帝都の南離れ、恐らくはヴァルガードの大水源と関わりのある、確かな水源の沸く一帯を御料地とした区画で、皇室以外の者が足を踏み入れることは滅多にない。平時では、雨季の訪れとともに行われる年に一度の歓宴の席だけがその貴重な機会だった。
風景雅な一帯には常緑が無尽に咲き誇り、囲いに放たれた小動物が天敵のない生を謳歌している。あくまで自然の形を残しつつ、多くの人の手を日々それだけの為に費やして整備される広大な皇庭に、多くの人々が集まっていた。
馬に乗った姿が目立つが、全てではない。馬曳きの従者や世話係、さらには茶会の催しもあるということであまり乗馬の得意でない人々まで招待され、裏方として準備に勤しむ者達の数を考えれば、さらにその数倍となる。
至るところに幕が垂れ、地面には厚手の敷き布がひかれている。さすがに急なことであった為、装いそのものは急ごしらえの感が強いが、花と緑に溢れる景観がこれほどの規模で視界に圧倒しては、それだけで十分な歓待となっていた。
遠くからでも胸に迫る芳しい香りを嗅ぎながら、招待客の一人として馬に騎乗したクリスは、雑踏とした人群れから見知った顔を探していた。いまだに大学社交に馴染んでいない彼女の知る人物はわずかだが、特に探していたのはもちろん一人である。
周囲は喧騒に満ち、人馬の気配がごった返していた。この数倍の人が訪れようとも余裕がある程に広い敷地ではあるが、それが一所にあつまれば当然混雑は起こる。さらには、招待客には馬に慣れていない者もあった為、あちこちで人馬双方の悲鳴じみた声があがっていた。
手綱を巧みに操って人の波をかきわけ、ようやく見覚えのある顔を見つけて、クリスはそちらに向かって馬首を向けた。
「ニクラス」
声をかける途中で気づき、つぐむ。馬先を交わすほど近づいた男は、彼女が今まで見たことのない表情だった。
「やあ」
応える声が不機嫌そうにやや篭っている。その声と、それから相手の頬にいくつか残る擦過傷に、クリスは眉をひそめた。
「鼻を当てられたのか。暴れ馬に巻き込まれでもしたか?」
「なんでもない」
素っ気なく答える男の背後で、忍び笑いが漏れた。そこにはクライストフ家縁の者だと思われる数人がニクラスに付き従っている。その中の何人かは、前の夜会などでクリスも見覚えがある若者だった。
自分の従士を睨みつけたニクラスが、それからクリスを見て咎めるように訊ねた。
「クリスティナ。今日も一人なのか」
「ああ。世話をしてくれる者なら向こうに呼んである」
何か言いたげに、ニクラスが首を振る。
「……まあいい。それなら、こっちに来るように言っておくといい」
「しかし」
「どうせ声がかかるさ。それならはじめからそうしておいたほうが面倒がない」
ニクラスが顎をしゃくった先には、ここからでも機嫌の良さが窺えるアンヘリタ皇女が、供の者達と馬上で歓談していた。なるほど、とクリスは得心した。
「ああ、もうすぐ始まりそうだから、こちらで呼んでこさせよう。――頼む」
ニクラスの指示に頷いた一人が、手綱を翻して駆けていく。一目で馬術の得意がわかる挙動を見送って、クリスは改めて男を振り返った。
「それで――その傷はいったいどうした。それに、その顔も」
問われたニクラスは嫌そうに顔をしかめた。
「そんなに酷いか?」
「率直に言って、不貞腐れているように見える」
とうとう堪えきれないといったように従士達が笑いだした。彼らの反応の意味がわからず、クリスは目を瞬かせる。
「ちょっと転んだだけだ」
ニクラスが拗ねた口調で言った。その手綱の握りに目がいって、そこから辿った全身にそこはかとない違和感をおぼえたクリスは、まさかと思いながら訊ねた。
「お前、馬が苦手なのか」
むっつりと押し黙り、ニクラスは返事をしなかった。
意外どころではない思いで、クリスは男を見つめた。
ツヴァイの貴族にとって、乗馬とは出来て当然とされるものの一つだった。戦場を駆けるわけではない女性の身でも、ある程度の馬術は嗜みとして身につける。誰しも得手不得手はあるとはいえ、ツヴァイ宰相の実子がそれではあまりに格好がつかないだろうと思えた。
「馬が嫌いなわけじゃない。馬の方がこっちを嫌ってるだけだ」
子どもじみた言い訳に、思わずクリスは吹き出してしまう。
クリスはニクラスの乗る馬に寄り、そっと鼻先に手をかざした。理性的な眼差しが、静かにクリスと目の前の手を往復する。怯えた様子も入れ込んだ気配もない。さすがに宰相家で用いられているだけあって、馬格も申し分なく毛艶も整っていた。気性が荒いようにもみえないから、問題はニクラスの苦手意識にあるのだろう。馬はとても繊細だ。言葉によらず、人の気分を容易に察してみせる。
「あの時は、問題ないというような口振りだったじゃないか」
「別に得意とは言ってない。……だから、嫌な予感だったんだ」
男の一言が、アンヘリタ皇女に今回の催しを思いつかせたのだから、自業自得ではある。男の不機嫌な理由を知れば、その顔の傷にも容易に推測はたった。
「つまりその傷は、練習の痕か。だから昨日、大学で姿を見かけなかったんだな」
一日中、姿を見かけなかったことは少し気になっていた。クリスが訊ねると、ニクラスは不本意とばかりに首を振った。
「休みたかったわけじゃない。後ろの連中がどうしてもと」
言い訳じみた台詞を途中で切り、ニクラスは言った。
「そういえば、直接会うのはほとんどはじめてになるか。うちに仕えている従士達だ。変人ばかりだ」
お前が言うな、と言いたげな表情を浮かべたのはクリスだったが、その彼女の反応に従士達は満足げだった。クリスは彼らに向かって姿勢を向けた。
「クリスティナ・アルスタです」
男達がそれぞれ名乗る。所作よろしく、口元に微笑を浮かべて丁寧に挨拶していく一同の中で、一人だけ笑みがない。ヨウと名乗った男はクリスが父親と二人、クライストフ宅を訪れた時に出迎えた人物で、その時に見せた笑顔の欠片も今は浮かべていなかった。それが不快だったわけではないが、クリスが少し気になっているところに、周囲の気配が揺れた。
「始まった。行こう」
アンヘリタ皇女を先頭に、人々が動き出している。ゆるやかな脚で進む人馬の群れに取り残されないよう手綱をひきながら、クリスはふと心配になって訊いた。
「大丈夫か?」
ニクラスは少し傷ついた表情だった。
「苦手といっても、そこまでじゃない。走らせるくらい普通だ」
男が手綱をひくと、どこか億劫そうに馬が反応してみせる。それを見たクリスは無言で男の傍に寄り、何かあればすぐに反応できるよう心がけた。
移動を開始した一向は、しばらく緑の充満する中を遊歩した。
左右を大勢に並ばれては、さすがに周囲の自然に見とれる余裕はなかったが、一呼吸ごとに取り込まれる空気には瑞々しい新鮮さが満ちている。森葉と水源が降り注ぐ陽射しの鋭さも緩和するようで、クリスは常にない爽快感に口元を緩めた。
隣に轡を並べるニクラスの様子を盗み見て、ますます頬が緩む。普通だ、といってみせた男は確かに、決して馬を走らせられないわけではないらしく、挙動にもおかしなところはない。ただし、どこか乗り馬に遠慮するような手綱捌きと、先ほどの会話のやりとりを思い出せば、自然と笑みがこぼれていた。
捉えどころのない印象だった男のふとした素顔を見た思いで、意地の悪い意味ではなく、クリスは愉快だった。他には聞こえないよう、小さく囁く。
「今度、私が稽古をつけてやろうか」
「遠慮する。馬なんて、乗って進めばそれでいいだろう」
発言に異を唱えるように、ニクラスの乗馬がいなないた。周囲を囲む従士達が笑う。
「ニクラス様、お言葉に甘えたほうがよろしいのではないですか。なにせ私ども、しごきにしごこうにも、どうにも遠慮というものがぬけません」
「お前達、あれで遠慮をしているつもりなら、いったいどれほど痛めつければ気がすむ」
ニクラスが嘆き、従士達が笑う様子を、クリスは意外な感情で見守った。
従士とは貴族の家に仕える身分のことで、領地を持つ貴族に奉公としてあがる人々の総称だった。本家、分家という血縁関係のこともあるし、まったくの平民ということもある。
爵位のないクライストフ家は特別な領地を持たない。傍流の、ということも無論ない為に、彼らは純粋な意味での奉公人ということになるのだろうと思われた。確かに一つ一つの仕草に畏まった貴族らしさは薄いが、それに平然と応対するニクラスの方も奇妙だった。
今さら、クライストフ家を平民にも等しい下級貴族あがりの成り上がりめ、と謗る声はない。だが、貴族社会にあって異様な在り方であることは確かだった。
「クリスティナ、向こうを」
物思いに声をかけられ、クリスはニクラスの視線が指す方を振り向いた。
そこには集団から離れるようにして、数十名の人馬が集合している。遠目にするその佇まいだけで、それが何者達であるかはわかった。
ボノクスの一行は、集団からつかず離れずの距離を保ち、足音をひそませるような静けだった。ただの追従でないことを示すように、時には前方に進み、背後で左右を横断してみせるなどの行為を繰り返している。
「挑発のつもりか?」
ニクラスは微妙な表情を浮かべていた。
「連中、ずっと風上を外していない。それに集まっているのはいつも見晴らしがいい場所だ。障害がなくて、走らせやすい」
クリスは目を細める。
「……戦をしているわけか」
「演習。それも含めてまあ、挑発ってことだろうな。あれほどあからさまにされたら、他にも気づく人間は出てくるだろう。血の気が多い連中はどこの国にだっている」
ニクラスは空を仰いだ。まだ季節には程遠い、天からの恵みの雨を望むように呟く。
「どうやら、やっかいなことになるのはこれかららしい」
ニクラスの言葉どおり、奇怪な運動を繰り返すボノクスの集団に対して、徐々に一行から不安と反発の声があがりはじめた。
無礼な、と顔を怒らせる若い貴族の呟きを聞きながら、クリスは先を行くアンヘリタ皇女へ視線を向けた。事態に気づいていないはずもない皇女は、楽しげな微笑のまま悠然と闊歩している。
やがて、一向は特に開けた場所に出た。小高い丘は全方に見晴らしがよく、眼下にはなだらかな草原が広がっている。そこに敷き詰められた布には、既に茶会の準備が整っていた。
それぞれが下馬し、主人から手綱を渡された馬曳き達が世話に入る。
「ニクラス・クライストフ様。ニクラス・クライストフ様、皇女殿下がお呼びでいらっしゃいます――」
声を聞いて、ニクラスはそれを無視しようとしたらしいが、使いの者から見つけてやってくる。
「ニクラス様。皇女殿下がお呼びでいらっしゃいます。ご足労いただけますよう」
「わかりました」
使者について歩き出したニクラスの後にクリスも続いた。ちらりと振り返ったニクラスが何か言いかけて、頭を振る。言っても無駄だと悟った様子に見えた。
「追い狩り、ですか」
毛足の深い敷物に腰を下ろしたアンヘリタ皇女は、用件を聞いて答えたニクラスの表情を仰ぐように小さく笑った。
「そう渋い顔をするな。何も、徒に煽ろうというわけではない。むしろこのまま放っておいては、どこで問題が起こるかわからん。そうであろう?」
相手の正論を認めながら、ニクラスは素直に首肯する気分にはなれない。晴れやかな表情を見れば、皇女が今の事態を楽しんでいることは明らかだった。邪気がない分、性質が悪い。さらには、それを引き起こした発端が自分にあるとわかっていたから誰を恨みようもなかった。
「ちょうどここからなら、共の活躍が一望できる。茶会のよい余興になる」
「余興ですめばいいのですが」
せいぜい控えめに、ニクラスは囁いた。
追い狩り。つまり騎乗して追いかけ、獲物を狩る。狩猟は貴族の楽しみとして広く一般的だが、元は騎乗の熟練と、弓槍の上達。さらには集団としての運動錬度を高める軍事訓練として用いられている。遠出の遊びとはいえ、ツヴァイとボノクス、その他の水陸国家の若手が会する場でそれを行うことは、余計な感情を刺激する素にもなりかねなかった。
「ボノクスの人々は皆、弓馬の上手ですよ」
「ふむ。勝てぬか」
「勝てないでしょう」
あっさりとニクラスは言ってのけた。正直に過ぎる発言に、皇女の周囲に控える近衛と、ニクラスの背後のクリスがぎょっと目を見開いた。
「彼らの騎馬と、我が国の騎馬では意味合いが違います。遠くから弓で射掛けるのは、彼らが生活としてやってきていること。同じ舞台では敵いません」
「なるほどな」
怒るのでもなく、アンヘリタは頷いた。
「よかろう。ならば、盛大に負けてみせるがいい。わらわが許す」
ニクラスは無言で皇女を見つめた。
訪れた沈黙の意味を量って、むしろ周囲が緊張した気分を味わっていると、小さく嘆息が漏れた。
「では、私の役目というのは」
「うむ。あちらに行って、使者として用件を伝えてきて欲しい」
ニクラスは露骨に嫌そうな顔を浮かべてみせた。
「挑発以外の何物でもありませんね」
「先に仕掛けたのはあちらだ。それくらいの返しは受けてもらわねばな」
言って、アンヘリタは楽しげに笑った。
皇女の前を辞して、ニクラスとクリスは従士達の下へ戻った。馬曳きから手綱を受け取りながら、従士の一人に言伝を残す。
「ケッセルトという男が今日、ここに来ているか探せ。必要なら、すぐに連絡がつくようにしておきたい」
「了解」
命を受けた従士が四方に散った。ただ一人ヨウという男だけが残った。
ニクラスは騎乗して、やや離れた小高い丘に陣取ったボノクスの集団へ向かった。自分の持ち馬に跨ってその後を追いながら、クリスが訊いた。
「ニクラス。皇女殿下のお言葉はどういうことだ」
「勝ち負けではなく、向こうを舞台に呼び込むことが目的なんだろう」
ニクラスは答えた。少し考えて、クリスは思いつく。
「政治、――社交か。なら、お前がケッセルトという男を探すのは」
「この間の昼にその名前を聞いた。スムクライと因縁のある人物なら、いざという時に頼れるかもしれない」
「……カザロ。ケッセルト・カザロか」
「知っているのか?」
クリスは渋面をつくった。
「前の夜会であの女と一緒だった。剣練で姿を見せることがある。個人的には、あまり好きになれそうにない男だ」
彼女がそう言う反応を見せることに興味をおぼえて、ニクラスはちらとクリスの様子を窺った。
「変わってるのか」
「恐らくな。剣はできるようだった。スムクライが認めたのも、だからだろう」
「なるほど」
ニクラスは思案するように沈黙した。
不思議に思い、クリスは男に馬首を並べた。いつになくやる気のあるように見える相手にそれとなく訊ねる。
「今日はやけに積極的だな」
「身から出た錆びだからな。つくづく、自分の失言を呪っている」
答えながら、ニクラスは苦み切った表情だった。




