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「どうかしたのか」
背後からの声を受けて、クリスは我に返った。
振り向いた先に若い男が立っている。茶色の髪に同色の瞳。仕立ての良い白生地に身を包んだ格好は普段と変わらないが、それがひどく馴染んでみえるのは、恐らく彼女の気分がもたらした錯覚だった。彼女は今、その相手の屋敷にやってきている。
不思議そうな表情を作っている相手の眉が寄った。男の造作の細かな部分まで観察しかけていた自分に気づき、クリスはついと視線を逸らした。
「いや。――凄いなと、思っていたところだ」
眼前に広がる光景を視界に収める。そこには草木が溢れていた。
緑と花が鬱蒼と生い茂り、花壇というよりは植物の巣窟といった印象が強い。水源豊かなヴァルガードにあっても、ここまで緑が密集して映え茂っている風景は珍しかった。さすがに敷地の規模では比べなくもないが、集められた植物の多彩さだけならば王宮南座に位置する硝子館内の庭園にも比肩し得る。
ああ、と頷いた男が近づきながら言った。
「父の趣味のようなものだからな」
「宰相閣下の」
「ああ。子どもの頃は、よくあの中に隠れて遊んだりしてたよ」
「……ニクラス。それはお前の話か?」
もちろん誰にも子どもの時分というものはあって然るべきだが、目の前の相手が庭駆け回るという姿が容易に想像できず、彼女は深く眉間に皺を寄せた。
相手は心外だとばかりの表情を見せた。それから茶目っぽく瞳を笑わせる。
「妹の話だけどな」
「だろうと思った」
クリスも微笑を浮かべて、ふと考える。
ニクラスの妹といえば、ミュゼ・クライストフという名前を知ってはいるが、彼女はまだ会ったことがない。クライストフ家は三人兄妹だった。誠実な長兄と変わり者の次兄。二人の兄を持った妹御がいったいどういう人柄か、気にならないといえば嘘になる。
「しかし、見たこともないものも多いな。あの大きく開かれた葉などは、あれは異国のものか」
「水陸各地から。水があわないのか、土の問題か。根付かないものも多いが、それも含めて色々と試しているらしい」
「趣味と言うより研究だな」
「実際その通りだ」
ニクラスは頷いた。
「ヴァルガード周辺でどういった植物が根付いて、もっともよく水を蓄えることができるか。それの為にやっているんだ」
「例の緑地化を促す植林か。しかし、この菜壇はお前が子どもの頃からあったと言っていたじゃないか」
言って、自分でその意味に気づいてクリスは眉をあげた。感嘆の息を漏らす。
「それほど昔からのお考えだったのか」
ヴァルガード周辺の緑地農化。昨今、ツヴァイ帝国が国を挙げてとりかかっている事業は、宰相の声掛かりから始まった。突発的な思いつきではないのは当然としても、いったいいつからその思案を温めていたのか。改めて目の前にそそり立つ植物群を仰ぎ見ながら、クリスはさきほど言葉を交わしたばかりの人物について思い出していた。
ナイル・クライストフ。ツヴァイ帝国宰相にして、稀代の変人とも呼ばれる人物についての噂はとかくあった。彼女の家にとっては恩義ある相手でもある。
その相手と顔をあわせたことは以前にもあったが、しかし、父親に従った宮内で彼女に為し得たのは挨拶のみの短いやりとりのみだった。その時以来、改めて先ほど直に面会した感想を顧みれば、緊張の名残がまだ身体の節々に残っている思いがある。
その日、アルスタ家の父娘は正午を少し過ぎた頃合に屋敷を出た。
帝都に碁盤状に敷かれた大通りを馬車で駆け、上級貴族達の邸宅が立ち並ぶ一画に止まる。帝都の中でも特に古くからある石積みの風景に埋没するようにして、目的の邸宅はあった。
建てられた年季を感じさせる造りには、一定の時を経たものしか持たない独特の風情があったが、しかしそれを含めても、過去この家を訪れた訪問者の胸中には等しく同じ想いが生まれたことだろう。そこにある邸宅は、帝国宰相が住む屋敷としてはささやかに過ぎた。
一軒家としては決して規模が小さいわけではない。しかし、少し小金を稼いだ商家でも(大商人ともなれば、小国の王よりも裕福であることは事実である)もう少し見得をはって土地を縄張るだろうと思われた。実際、貴族の中で名はあれど決して裕福な方ではないアルスタ家の屋敷と比べても、どちらがましかという程度に見える。
もちろん、家の大小でそこに住む人物の器が量れるわけではない。ただし人となりの一片には成り得る。ちらりと横の父親を窺ってみれば、武人焼けした顔からは感情を読み取ることは出来なかった。
壮年を迎えるまで数多の戦場に立ち、筋骨隆々とした彼女の父親は、平服を着てもその静かな威風を散らすことができずにいた。どちらかといえば文官じみた衣装は母親の見立てだが、意図はあまり成功しているとは娘の贔屓目からも思えなかった。とはいえ、まさか宰相の邸宅に伺うのに父似合いの格好で出向くわけにもいかない。腰に剣を佩いて乗り込むことになってしまう。
クリスが父親の前に立ち、重厚な鉄輪で扉を叩くと、中から使用人の若者が現れた。あ、とクリスが声をあげかけたのは、その怜悧な顔に覚えがあったからである。男は先日、歓宴会の帰りに彼女が暴漢に襲われた際、ニクラスの後ろに付き従って現れた相手だった。
従者らしい若者の方ではまるで驚いた表情も見せず、クリスとその後ろのバルガをちらりと確認して、深く頭をさげた。
「お待ちしておりました。バルガ・アルスタ子爵様。クリスティナ・アルスタ様」
「少し早くなってしまった。申し訳ない」
砂に枯れた声でバルガが言った。若者は頭をあげ、小さく微笑んだ。
「とんでもございません。主人がお待ちです、どうぞこちらへ」
案内された館の中はやはり質素だった。ひどく庶民的な、と彼女が感じたのもやむをえないところがある。
クライストフ家は爵位を持たない。身分は帝国騎士としてのものであり、最も低い階級だった。本来ならば役人や門衛といった立場にあるべき家柄といえる。それが帝国宰相の地位にあるのは先帝ファマスが彼を重用し、後継した皇帝フーギが任命したからであるが、血統と門地が重要視される貴族社会にあって、そのことは極めて異例だった。
ツヴァイにおける宰相とは「皇帝から任命されて国政を司る者」の意である。常任の役職ではない。特にツヴァイ帝国では、建国当時から皇帝による親裁が統治の基本姿勢であり、若くして帝位についた二代皇帝“軍王”シェハンの外征に異を唱えた宰相スイクリが罷免されて以降、空位であることが常であった。
通常、皇帝の下には内政と軍務を担当する数名の執政官が存在する。宰相はその上位者として立つのだから、任命されるのにはそれなりの政治的理由と配慮が必要だった。
実際、ナイル・クライストフがその役に推された時にも不満の声はあった。影で言うだけにとどまらず、表立って堂々と成り上がりを非難した貴族も多い。所詮は先帝から寵されていただけで確かな派閥もない下級貴族なら、簡単に権力の座から引きずり降ろせるはずであった。
だが、それから二十年たった今も、ナイルは宰相の座に留まり続けている。
魑魅魍魎の跋扈する政治社交の裏側を、ナイルがどのように渡り歩いたかという記録はあまり残っていない。その片鱗として窺える幾つかの事実――彼に敵対した貴族が降って沸いた罪状によって取り潰されたり、または険悪だった家同士のいさかいで互いに降格されるといった出来事が残るのみである。
ナイルの政治手腕が卓越していたことは確かだが、同時に彼は政治社交における立場も独特だった。その顕著な一例が先に挙げられた爵位といえる。先帝に仕えていた当時から、彼は爵位の授与を固辞し続けていた。
自分に利する派閥もつくらず、蓄財や社交にも興味を持たず、粛々と国政に専念する男には、やがて稀代の変わり者という評判が立った。その評判ゆえに、彼という存在が認められている節もある。ナイルがもし自らの権力をさらに強大な、確固なものとすべく動いていたならば、反発は必至だったことは想像に難くない。
それを意識してのものかどうかはともかく、その在り様が如実に現れているのがこの屋敷だといえた。そこまで深い洞察をクリスは意識しなかったが、彼女の生家もつい最近まで名ばかりの名門でしかなかった家柄である。派手さのない内装には素直な共感を覚えた。
通された広間も、自らの財や権威を誇るのではなく、訪問客に素朴な温かみを与える配慮が為されていた。宰相閣下の奥方は、確か某男爵の末娘の方だっただろうかとクリスは思い出した。あのニクラスの母親でもあるという人物をどのように頭の中に想像すればよいか、数寸の思考の挙句に断念する。
部屋の中央の椅子に座り、屋敷の主人の訪れを待っていた彼女の父親が立ち上がった。後れてクリスの耳にも扉を叩く音が届き、慌てて立ち上がる。無作法にならないよう彼女が姿勢を正し終えたところで、中の用意を計ったように扉が開かれた。
「ご来訪痛み入る。アルスタ卿」
「こちらこそお招き頂きまして光栄の至りです、宰相閣下」
厳かな声音。相手の姿や表情を認識するより早く、クリスは頭を下げていた。彼女の耳に届いた声には、威嚇も迫力も含まれていたわけではない。しかしそれでも、彼女がそうするだけの重みがあった。
帝国全土に差配を振るう宰相ナイル・クライストフは、決して大柄な男ではない。
そうした事実を既にクリスは承知の上だったが、改めて近くに見れば意外に思えるほど、その人物は普通だった。平凡というよりは、むしろ自然というべきだろう。不必要に身体が強張った状態での打ち込みには、速さも重さも欠ける――武家の令嬢らしい表現でクリスは目の前の相手への感想を抱いた。帝国百万の民草を背負って自然でいられることが、如何に尋常でないことか。
型通りの挨拶の後、そのまま客間で歓談が始まった。
宰相の隣には柔らかな表情の若者が座り、その隣にはニクラスが控えている。男はいつもと変わらない表情だったが、クリスと目があった一瞬、小さくその目元が笑ったようだった。クリスは内心の動揺を抑え、相手から視線を外した。ファビオラに選んでもらった衣装が急に気になりだした。
「こちらに戻られてからは、如何かな」
「ゆるりと戦場の疲れを癒しておりました。重ね重ね、有り難く――」
クリスの隣では、父親同士が社交的な会話をかわしている。ふと宰相の視線が彼女を向き、クリスの背筋が緊張に凍った。
眼差しに気づいたバルガがゆるく手のひらを向けて、紹介する。
「娘のクリスティナです」
「息子から話は聞いている。先日は息子がご迷惑をおかけしたようで、誠に申し訳ない」
「――とんでもございません。宰相閣下」
クリスの答える声がわずかに上ずった。対面からニクラスが面白そうな表情で眺めてくるのに、クリスは内心で文句をつけた。
「我が娘こそ大学での歓宴会でご同伴の栄誉を頂けたと。厚いご配慮の程、感謝の言葉もありません」
「いや、なに。むしろ前日までお誘いが遅れたというこちらの不手際を申し訳なく思っている次第。紹介が遅れたが、これが長男のオルフレット、向こうが次男でニクラスという」
「オルフレットと申します」
表情に似合いの柔らかい口調で若者が言った。オルフレット・クライストフ。父親とも弟とも異なる雰囲気の持ち主だなとクリスは考えた。中性的な気配は、生まれつき身体が弱いことが影響しているのかもしれない。
「ニクラス・クライストフです」
一方、隣の男はあくまで普段通りの態度だった。実の娘でも正面に立てば威風を感じる相手を前にしてまるで恐れ入った様子がないことに、クリスは呆れるのと感心するのとが半ばまざった想いだった。
クリスは隣の父親の反応を窺った。彼女の父親は物静かな男で、クリスは父親が声を荒げたところをみたことがない。恐らく戦場ではまた異なるのだろうが、普段は自らの感情を深く律していようと努めていた。故にその判断も自らの裡にあり、深い。父親がニクラスに不快な気分をもたないか、彼女はそのことを心配した。
家名を背負い、長らく戦場働きに駆けてきた男の顔には労苦の後が刻み込まれている。砂に水分をとられ乾いたままの肌にはひびが入り、視力も決して良くない。砂で洗われた髪の色は、いつしかそれと同化してきているような気配だった。
しかし、その瞳の色は失せようがない。正面からその眼力を受け止めながら、クリスに普段通りの態度だと呆れられたニクラスだったが、内心では感嘆していた。自らの存在を一個の剣に置き換えてぶれない強靭さは、彼の父親が求めたものでもある。
今、目の前にある事態は決して彼の父親の企みではなかった。それを主導したのはニクラスだった。
父への反逆というわけではなかった。暴走でもない。むしろ当然のことだとニクラスは考えていた。彼は既にクリスティナ・アルスタと知己だった。つまり彼がお膳立てした今日の全ては、父親に対してそう宣言してみせただけのものである。
ナイル・クライストフは、その深い知性を感じさせる眼差しで無言だった。彼の片腕として、特に折衝関連に既にその才能を発揮しつつある男の長男も穏やかな表情のまま、場には緩やかな緊張が伴った。わずかな息苦しさとともにそれを知覚したクリスが困惑して隣を見ると、バルガ・アルスタもまた自然と厳しい眼差しを眼前の男達に向けている。
クリスはニクラスを見た。周囲の雰囲気を察していないはずもない男は、まるで気にも留めていないようなそ知らぬ態度で、それがまた彼女には腹立たしかった。
扉が叩かれた。家の者が茶を出しに来たのだろう。それが少しでも空気が変わるきっかけになればとクリスは願ったが、すぐに驚きに瞳を見開いた。
盆を持って現れた人物は家人の者ではなかった。掛衣を羽織るその相手が何者であるか、初対面のクリスでも一目でわかった。
「お茶が入りましたわ」
「これは、奥方」
さすがに驚いた声でバルガが言った。
ナイル・クライストフの妻、そしてオルフレットとニクラスの母でもあるその人物は、朝方の太陽を思わせる微笑みを浮かべていた。
貴族の夫人がわざわざ茶を出しにくることは極めて珍しいが、他の家族の反応を見るに、クライストフ家ではそうした限りではないらしい。馴れた手つきで茶を配ると、夫人はそのまま退室せず、盆を抱えてにこにこと佇んでいる。
自分から口をつけるわけにもいかないクリスの隣で、まず彼女の父親が碗をとった。
「美味い……」
短く顎鬚をたくわえた口元から声が漏れた。嬉しそうに婦人が笑みを強めた。
「変わった香りなので、お嫌いではありませんでした?」
「いえ、初めて嗅ぐ香りですが、とても美味いです」
「よかった」
頬の下に年齢を現す皺を持った女性は、少女を思わせる表情だった。クリスも小振りの碗を手に口に運ぶ。透明な香りが鼻腔を過ぎ、舌を洗う風味にはしつこさがなかった。わずかに薬効じみた刺激が残った。
「どうかしら?」
「美味しい、です。薬湯のような……」
「あら、わかるかしら。そういう葉っぱを含めてみたのだけれども――」
嬉しそうに両手をあわせる婦人に、ナイルが小さく喉を鳴らした。
「あ。ごめんなさい。いつも家の者にしか出してないから、ついはしゃいでしまって」
悪意の抱きようのない素朴な言動に、バルガが口元を緩める。
「長の疲れも癒える心地です。ありがたく存じます」
「よろしければ、葉っぱをお持ち帰りになってくださいな。あなた、後でお庭に案内しても?」
辣腕振りを噂される宰相は、渋い表情で頷いた。
「……今でかまわん。ニクラス、ご令嬢を案内してさしあげなさい」
「わかりました」
ニクラスが立ち上がる。クリスが父親を見て視線で了承を訊ねると、バルガは重々しく頷いた。
「ご無礼のないようにな」
「はい。お父様」
「あら、よかった。それじゃあいきましょう。バルガ様、どうぞごゆっくりと」
婦人の後について部屋を出る際、クリスは室内の様子をちらりと振り返った。三人の男が黙して碗を傾けている。そこに漂う気配が彼女の危惧したそれとわずかに違うことにほっと安堵の息を吐き、クリスは改めて前をいく女性の背中を見た。
――不思議な人だ。この人にして、あの宰相閣下にして、この息子か。ちらりと横を見ると、ニクラスと目があう。言いたいことはわかるとでもいう風に、男が肩をすくめてみせた。
「変わり者ゆえ、許されよ」
婦人が二人を連れて退室した後、わずかに苦労のこもった声でナイルが言った。おかしみを覚えて、バルガは礼儀としてそれを表情にはださず、代わりに率直な感想を口にした。
「少々、意外ではありました」
「普段からあまり来客がないのでな。久々のことに楽しみにしていたようだ」
ツヴァイ帝国宰相の家庭事情など、どのような身分であれ滅多に漏れ聞けるものではない。慎重に聞き流して、バルガは言った。
「私の妻も同じです。今まで長く遠く離れておりましたので、娘ともども苦労をかけてまいりました」
バルガの妻は爵位もなく門閥からも遠い貴族の出だった。興国から続くとはいえ、先祖の代に主流から外れたアルスタ家に喜んで娘を嫁がせようとする家は決して多くなかった。彼の妻は善人で、ほとんどそれが全てといってよい人物だった。決して貴族社交に向いた性格でもない。
「これからは少しは楽をさせてやりたいと。そう考えています」
「……左様か」
何かを考えるようにナイルが瞼を閉じ、手元の茶碗の香りに口元を緩めた。
「――茶のもたらすものとは偉大だと思う。それとも女性の偉大さと言うべきか」
「確かに。閣下」
頷いて、バルガも卓に置いた碗をとった。
「さっそくだが、今日お呼びした件について話したい」
相手が碗を置くのを待ってから、ナイルが言った。権謀の手練手管に長けた人物があっさりと話を切り出したのは、それが目の前の相手には好ましいと考えたからだった。先ほど彼自身が言った、茶の効用も大きい。
「アルスタ領で採れる石の炭。それを買いつけたい。もちろん相応の額で」
「話は娘から聞いております」
一も二もなく飛びついて然るべき話に、バルガは当然必要な慎重な口調で応えた。
帝都から離れたアルスタ領は決して豊かな土地ではない。それは水源としても、農工業の場としても同じだった。唯一、豊富にあるのが近くの砂海から採れる石の炭で、それは周囲を掘り返すだけで容易に手に入れることができた。それを用いて北の領地に住まう人々は、暖を取る手段にだけは欠かさなかった。
「卿が懸念されるのはもっともだと思う」
「ありがたいお話ではあります」
ナイルが言った。バルガはそれを否定しなかった。
「領地に住む者の生活が少しでも上向くのであれば、願ってもないこと。しかし不思議に感じることも事実です。彼の物が地下に眠るのは何も我が領だけではありますまい」
「確かに、他にも幾らか見立てはある」
「ならば、理由をお聞かせ頂けますか」
「積極的なものではない。むしろ否定する理由がない程度だ」
バルガは眉を持ち上げて驚きを示した。
「正直でいらっしゃる」
「この場に及んで隠しても詮ない。それに、あるいはあれは莫大な富を得るかもしれんが、厄介な面倒もつきまとう」
「――水天の教え、ですか」
声を潜めたバルガの台詞に、ナイルは無言の頷きを返した。
ツヴァイ国教の水天の教えでは、その中で火を有益でありながら忌むべきものともしている。この惑星の不毛な地、それを生んだのが人の誤って用いた狂火とされているからだった。石炭を利用した鍛冶鉄業が彼らの反感を得る危険は大いにあった。
もう一方の見方もある。人類文明に必須なその技術を制限し、牛耳ることによって、水天教は独占的な地位を得ているのだった。
「もちろん、皇帝陛下からの印可を得てのことではある。それでも向こうはいい顔をしないだろう。事は直接的な利権の問題にもなって、繊細な話だ。ならばせめて少しでも暴走の恐れがない相手を選ぶべきだろう」
男の言葉に嘘はなかったが、それは裏を返せばもっとも御しやすい相手にということでもある。それを不満に思ったわけではなく、バルガは訊ねた。
「では、何故ご子息は我が娘を?」
クライストフが石炭を利用した商売に乗り出さないのは、その政治的な立場を崩さない為と理解できる。それに権力への意欲に乏しいアルスタ家を使おうとすることも。
しかし、それならば互いの息子と娘を親しげにするべきではなかった。いくら皇室からの下達と言われようが、周囲は石炭供出にクライストフ家の口利きがあったと自然にみなすだろう。クライストフとアルスタが戚をつくったと、そう捉えられる。
「我が家を利用されるおつもりなら、捨て置かれるのが当然でしょう」
「まさにその通り」
核心をつく質問に、ナイルは皺に笑みを刻んでみせた。
「あれはそれを不服と思ったらしい」
言葉の指す人物を脳裏に浮かべながら、バルガは次の言葉を待った。水陸でも屈指の政治家として知られる宰相ナイルは、おかしみと、苦悩と、それ以外の諸々を込めた複雑な表情で言った。
「自分の友人に謀を以ってあたるなと。そう言っておるのだろう」
保管してある茶葉をとってくると去ったクライストフ夫人が戻ってくるまで、クリスはニクラスの案内で屋敷の庭を散策していた。
帝都ヴァルガードは皇帝直領であり、そこに住む人々は貴族も平民も皆、特に配慮を受けて住居を許された形となる。どれほどの大貴族でも、地方に自らが持つ屋敷のように並外れて広大な敷地は持たないが、それに加えて、クライストフ家の主人にはその庭を意匠をもって飾る趣味はないらしかった。もっとも目をひくのが、先にクリスが言葉を失った巨大な植物の菜壇である。
「砂地に緑を。素晴らしいことだな」
「……そうだな」
クリスは男を振り返った。
「何かあるのか?」
「いいや。難しいだろうな、と思っただけだ」
ニクラスは首を振った。内心で考えている。
砂漠の緑地化。確かに画期的ではある。先日の討論で彼が語った話でいうなら、それは点でも線でもなく、まさにその先をいく“面”であるからだった。
だが同時に、難しさもある。砂海、砂漠。それぞれ土地の成分も違えば水はけも異なる、そこに植物を植えて水を与え、植物の保水性で土地改善を行っていく手法が間違いではないにせよ、この惑星で水を得る手段は限られている。
一年の中でわずかに訪れる雨季以外、ほとんど全ての水は地から沸く水源に由来する。その湧出量は場所によって異なるが、決して無限のものではないことは共通していた。
あるいは大水陸の源、基水源であろうと目されるヴァルガード水源であってもそれは変わらない。そこから溢れる水は帝都に住む人々に命を与え、支流を作り、河川水路となって水陸の重要な基盤ともなっている。
帝都周辺の緑地化にその水を使うということは、その分どこかに水がいかなくなるということだ。人か、場所か。それが与える影響は決して小さくないはずだった。
そのことについて、もちろん彼の父親でもある人物が考えていないわけではないだろうが、疑念じみた思いはなくならなかった。水天教を信じてやまない素朴な人々への皮肉めいた想いにもそれは通じている。
――この水が絶対だと、いったいどこの誰にわかるのか。
さすがにそうした全てを目の前の相手に伝えることは彼にもできなかった。彼女のことを友人と思っていたが、だからこそ迷惑をかける行為は控えるべきだと心得ている。
「お兄様」
闊達な声が響いた。小瓶を持ったクライストフ夫人の横に幼い姿が立っていて、二人の方に駆け寄ってきた。
クライストフ家の末子であるミュゼ・クライストフは、明るい蜂蜜色の髪をした少女だった。年は十を数えた頃だったはずで、幼い表情には活発な性格がそのままあらわれている。大きく澄んだ瞳がニクラスの横に立つクリスを見て、驚いて立ち止まった。あわてて淑女の礼をとる。
「失礼しました。クリスティナ・アルスタ様。わたくし、ミュゼ・クライストフと申します。いきなり大声を出したりして、無礼をお許しください」
「ああ、いえ。はじめまして、ミュゼ様。クリスティナ・アルスタです。どうかお顔をあげになってください」
クリスが言うと、ぱっと顔をあげる。まじまじと観察するようにクリスを見上げ、少女はにっこりと微笑んだ。
「クリスティナ様はお花、お好きですか?」
「人並みにでしたら――」
「でしたら、ぜひご案内したいところがあるんです! どうぞこちらへいらっしゃって」
小さな手のひらがクリスの手をつかんで、そのまま菜壇の奥へと引っ張っていく。為されるがままに歩き出しながら、クリスは困惑した表情で後ろを振り返った。
夫人が微笑をたたえて楽しげに、その横でニクラスは眠たげに見えるいつもの表情で見送っている。異を唱える暇もないまま、彼女は緑の茂る一帯に連れ込まれていった。
「御家には、迷惑をかけることになると思う」
深い思慮の結果を教える声でナイルは言った。
「この水陸の現状は決して穏やかではない。落ち着いているようにみえて、至るところで緊張が起こっている。凪いだ砂海の底で起こっている物事を、我らに知る術がないように――変化は突如として起きよう」
「閣下は、それに抗おうとしていらっしゃる……?」
バルガが問いかけると、男は笑った。疲れのある笑みだった。
「人一人にできることなどたかが知れている。自分がやってきたことなど、それこそ砂でつくった塔のように一瞬で崩れ去ってしまうことと思うことも多々ある。かといって、為しえる頭も暇もあるなら、それから目を背けるわけにもいくまい」
「……長く戦場を駆け回って参りました。私などには、宰相閣下の深慮などとても理解の及ばないことかと存じますが」
不吉な予言に巻き込まれることを防ごうとするかのような台詞に、ちらとした視線が送られる。バルガは表情のまま続けた。
「ただ一事。ツヴァイの平穏が為に剣を振るう、それがアルスタの生き様と心得ております。その為になら、朽ち棄てられたところで本望と」
自然な覚悟を秘めた眼差しだった。
男の答えを聞いて、ナイルは瞼を閉じた。深く何事かを考え込むように皺が寄る。沈黙が段々と積み重なり、砂が流れ、室内にいる三人の喉元にまで這い上がってきた頃に口を開いた。
「ならばその誠心。ツヴァイの将来の為に利用させて頂こう」
「承りました」
「――そなたの娘御にも、苦労をかけることになる」
それまで鉄面皮の如くあった表情が、わずかに揺れた。肉親への情を刻んだ皺が一本生まれ、バルガは感情を抑えた声で言った。
「娘もアルスタに生まれた者として、覚悟しておりましょう」
「ならば、頼みたい」
相手の返答に如何ほどの葛藤があったか、ナイルはその内心をまるで忖度しない口振りだった。
「今すぐにということではない。杞憂であればそれに越したこともない。だが、もしそうなってしまった時、それから動き出しては恐らく間に合うまい。だからこそ、今の時点で卿に伝えおく」
「どのようなことでしょう」
「あれのことだ」
ツヴァイ帝国宰相ナイル・クライストフの言葉には、先ほどのような肉親の情など微塵も含まれてはいなかった。
バルガは馴染み深い心地を感じた。今、自身がいる場所が戦場となんら変わらないことを改めて自覚する。
「あれとは、ご子息のことでしょうか」
「左様」
淡々とした声音でナイルは言った。
「いざという時には、ご息女にあれを斬ってもらうことになるだろう。――あれはこの水陸にとって、毒にも薬にも成り得る。中庸にだけはならん。そういう生き物であろう」