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「それで、今日は何時頃に向かうつもりなのだ?」
屋台で適当に食べ物を漁りながら訊ねたクリスの言葉に、ニクラスが眉をひそめた。
「向かう?」
クリスは呆れた。
「今夜は大学の来新歓宴会だろう。忘れていたのか?」
「ああ。そういえば、そうだった」
ニクラスは嫌そうに頷き、脳裡をさらうように瞳を閉じた。
「大講堂で、開始は十九時からだったか? あまり、気が乗らないな」
「子どものようなことを言うな」
ぴしゃりとした声でクリスはたしなめる。
「普段の夜会とはわけがちがう。今夜の観宴会は我々にとってほとんど公的なものだ。ホストたるツヴァイ、そして大学を一番に推し進められたナイル様の顔に泥を塗るつもりか」
正論に、ニクラスは渋面になって押し黙る。さらに言葉を放とうとして一瞬それに戸惑い、やや勢いの乏しい口調で彼女は続けた。
「我々には……責務があるのだ。ニクラス」
その言葉を聞いたニクラスは、今までがそうであったように、顔に微妙な表情を浮かべた。異物を飲み込むような表情のまま、ゆっくりと首を頷かせる。
「わかってるよ。だけど、ちょっと困ったな。別に忘れてたわけじゃないんだけど、誰にも同伴の話をしてなかった」
やっぱり、完全に忘れてたんじゃないか。浮かんだ言葉は繰り出さず、かわりに彼女は別のそれを舌の上に転がした。
「ならば、私が供をする」
ニクラスは軽く目を見開いた。
「何を驚く」
「いや。……相手、決まってないのか?」
「決まっていない。それが何か?」
当然のようにクリスは言うが、ニクラスが意外に思うのも無理からぬことではあった。彼女ほどの相手であれば夜会の誘いなど引く手あまただろうし、当日までパートナーが決まっていないはずがない。
この時ニクラスの知らない事実は二つあった。一つは、彼女への誘いは決して多くなかったこと。それはもちろん彼女自身の魅力所以のことではなく、むしろ彼女の連れは既に定まっているものとほとんど周知されていたも同然だったからである。もう一点、それでも彼女に声をかけてくる者もないではなかったが――クリスは丁重な返事をもってそれら全てを断っていた。そのことと理由について、わざわざ彼に話す必要を彼女は認めなかった。
「私では不足か?」
「そんなわけないだろう」
貴族らしからぬ簡素な服装に身を包みながら、さきほどから道行く人々の視線を一心に浴び続けている彼女に、苦さのまじった笑みでニクラスは言う。
「助かるよ、クリス。今夜、一緒に行ってもらえると嬉しい」
「喜んで。ニクラス」
夕刻の迎えを約してニクラスと一旦別れたクリスを、玄関の前で男が出迎えた。
「お帰りなさいませ、クリスティナ様」
そっけなく頷き、そこからさらに感情をそぎ落とした声と態度で彼女は続けた。
「今夜の舞会、ニクラスと出ることになったわ」
「おめでとうございます」
「……ん」
綻びかけた表情をあわてて引き締める。
「すまないけど、誰か手のあいている者がいたら、あとで私の部屋に呼んでくれないかしら。全く、今からでは準備も事だわ」
「はい。至急、ファビオラをお部屋に参らせます。ご一緒にお飲み物などは如何ですか?」
「ええ、お願い。部屋へは一人でいいわ」
自室までついてこようとする男を下がらせ、クリスは屋敷の自室に戻ると窓際の椅子に腰掛けた。よく庭師の手入れが行き届いた中庭を眺め、それから落ちつかなげに立ち上がると姿見の前に立つ。自分では鋭さの勝ちすぎているように思える顔を睨みつけ、ため息をついて今度は衣装棚へと足を向けた。
相談役の相手が来るのも待ちきれないでいる。なんとも気の急いたことだ。自分を笑いながら、一人きりの部屋では他の誰に憚ることもなく、彼女はようやく自身に思う存分口元を緩めることを許した。
開けた衣装棚には数多くの衣装がしまわれている。一見して、それらは全て、既にニクラスの目に触れたものばかりに思えた。こんなことならなじみの服飾屋に頼んで新しいドレスを仕立てておけばよかった。体型に変化があったわけではないと思うが――月に一度の測りの結果を思い出しながら、物思いに悩む自身の表情が小さな鏡に映り込み、彼女は顔を赤くした。
これでは女そのものだ。いやもちろん、そうであることを忘れたつもりなど一時もないが。
ふと、胸元に光る石飾りに目がいって、彼女の瞳が夢から醒めたように色を戻した。今日のこれまではおおむね彼女の思い描いたとおりに進んでいたが、唯一つ不満だったことといえば、ニクラスがこの飾りについて何も感想めいたことを言ってくれなかったことだった。
もともと世辞の類を言うような性格ではないから、仕方ないのかもしれない。落胆が勝手な思考であるとは自覚しつつ、すこしばかり差した心の影を振り払うように彼女は頭を揺らした。
斜陽に転びかけた気分を晴らすために日課の剣を振りに部屋をでかけ、扉を出たところで飲み物を伴って現れた女中と鉢合わせしたクリスは相手に大笑いされてしまうこととなった。
幼くから砂にまみれてきた者の証である褐色の肌をしたファビオラは、アルスタ家に多く勤める女中達の中でも特に古株の一人だった。女中長と料理長の両方の経験を持つ異色の人間で、幼い頃にはクリスの乳母役も務めている。自身の子育てが落ち着いてから再びアルスタ家に戻り、それからは堅苦しい役職から離れクリスの侍女のような役割を負っていた。職責と階級差の激しい女中達のなかで特異な存在ではあるが、持って生まれた人柄のために彼女を毛嫌う者はない。クリスにとっては文字通り、母にも似た存在でもあった。
「そんなもの気にすることじゃありませんよ、お嬢様」
主人の奇行の原因を知った彼女は、遠慮のない態度でそう言った。
「男なんてものは元々、細かいところまで目が行き届く生き物じゃありませんからね。宝石の価値にも値札がついてはじめて合点するような輩です」
「……そういうものだろうか」
家の中では彼女を相手にした時にだけ使う、繕いのない口調でクリスは言葉を紡ぎ、息を吐いた。老女中はにんまりと笑み、
「もっとも、あのクライストフ様のご子息のこと、世の男どもとは一味違うかと思いますがね。気づかなかったのは、違う理由があったのかもしれません」
「なんのことだ?」
素直に訊ね返すクリスに、ファビオラは澄ました顔で告げた。
「こんなにも愛くるしいお顔が近いとあらば、いくら光り輝く宝石でも目に霞んでしまうというものです。ニクラス様のことをお話になるお嬢様は、それが良いことであっても悪いことであっても、どの物語にでてくる姫君より人の琴線を震わせます」
「からかうのはよせ」
自身の無粋を知る彼女は苦虫を噛み潰した顔になったが、ファビオラの目は真剣だった。
「とんでもございません。婆の言葉を疑いますか。なんなら街の雀どもに聞いてまわってもようございます。お嬢様は如何な深窓の姫君にも劣るところございません。なにせ、この婆のお嬢様なのですから」
「わかった。わかったから無茶はよしてくれ」
老齢にも近い身で街を歩きまわるようなことになれば、寿命を縮めてしまいかねない。苦笑してクリスは彼女の言葉を受け入れた。
「いいですか、お嬢様。女は皆、生まれながらに宝石でございます。輝く術も違えば、光り方も異なる。お嬢様は既に充分な輝きをお持ちですが、それ以上のものをご所望とあらば、よろしい。術は婆が存じております。いくらでもお力になりましょう」
「……あの唐変木の目を向けさせるのには、いったいどの程度の努力が必要だろうな」
「さしあたっては、この程度のものでしょうか」
言いながらファビオラが取り出したものを見たクリスの顔が歪む。女性の胸部から腰にかけて矯正することを目的としたその着装具は、息苦しさがあって彼女にはどうしても慣れなかった。
「自然体の美しさもあるんじゃないかと思うんだが」
「宝石の輝きも圧力があってのものでございます」
逃げの言葉を打つクリスに、年老いた女中はあっさりとそう切り返した。
ニクラスは、約束の十分前に家を訪れてきた。
家を訪れるのに遅れるのは無論、訪問の儀礼に反しているが、早すぎるのもまた相手にとって迷惑なことではある。しかし、こういう場合必ず丁度の時間に現れる男の徹底ぶりは、少し度が過ぎているほどだった。
自身の背にある家名を慮ってのことだ。早い時間に訪れれば、クリスが来るまで代わりに誰か家の者が彼の相手をすることになる。なにせ帝国宰相の実子なのだから、家にいれば彼女の父親だって顔を出さないわけにはいかない。相手にそう気を使わせるのを嫌い、それ以上に自分自身そういったことを煩わしく思っているから、彼は決してその時間帯を外さない。
気持ちはわからないでもないが。執事から男の訪問を聞いたクリスは、壁時計の針を見て相変わらずぶれがないことに苦笑し、椅子を立った。
実際、近頃になって再び社交のしがらみに絡まれ始めているアルスタ家の一人として、同じような思いはある。彼の場合、さらにその数倍だろう。あの奇矯な性格はそのなかで形成されたのか。いや、あの性格だからこそ、そういう反応になるのだろう。つまり自分もあちら側であるという自覚は、彼女にもあるのだった。
「お持ちするお飲み物は暖かい葉茶でよろしいでしょうか」
自室を出る際そう訊ねてきた執事の男に彼女は考えて、首を振った。
「今、キッチンは忙しい?」
「夕飯の準備中ではあるかと存じます」
「そう……。私が行くと、邪魔になるかしら」
「なにか御用でいらっしゃいますか?」
「私が、お茶を淹れようと思ったのだけど」
男は薄く穏やかな微笑みを浮かべ、
「どうぞお気遣いなく。キッチンでも何も戦争が起きているわけではございません。ご案内いたします。しかし、ニクラス様をお待たせしてしまうことになりますが」
「ファビオラがね、言っていたの」
男の言葉に本心を隠しながらかわす為、クリスはさっきまで着付けを手伝ってくれていた女中の言葉を用いて言った。
「空腹こそ最高の調味料。男は少しくらい待たせておいた方がいいって。……あなたはどう思う?」
男は口元の笑みを少しだけ強く、執事として過不足ない態度で頭を下げた。
「まさに砂海をさまよった果てのオアシスの如くかと存じます」
そこまでいくと、逆に嫌がらせな気がするが。苦笑しながら、クリスは男の先導に従った。
急に家人が現れた料理場の人間は誰もが驚いた様子だったが、年若い彼女の希望を聞いて嫌な顔をする人間はいなかった。
忙しそうに働く彼らの邪魔にならないよう、クリスは執事からてほどきをうけてお茶淹れの準備を整えた。ティーカップも彼女の好みのものを選び、沸かしたお湯で温めておき、分量を吟味して香りの高い茶葉をポットに落としお湯を注ぐ。それらを全て自ら手に持って、彼女はキッチンを出た。
「みんな、邪魔をしてごめんなさい。ありがとう」
夕食前を迎え、執事の言葉でいうならキッチンはまさに“戦争のような”状態だった。そんななかで我儘を許してくれたことへの感謝を伝えると、彼らはさすがに手を止めることは出来ない様子だったが、笑顔を返してきてくれた。
「お嬢様、がんば!」
「こぉら、タリア。あんたはさっさとお皿の準備をしろ! ……いってらっしゃいませ、お嬢様。ご武運をお祈りしております」
戦場へ見送るような文言に生真面目に頷いて、クリスは男の待つ部屋へと向かう。
応接間では、ニクラスが眠そうな表情で頬杖をつき彼女を待っていた。
「すまない、待たせたな」
「いや、少し早かったか?」
言いながら、男が自分の持つ盆に視線を向けたのがわかった。
「今日は私が淹れてみた」
「それで遅かったのか。どうしてまた」
「向こうに着くのは、少しでも遅いほうが気が楽だろうと思ってな」
彼女の言葉の意味を理解したニクラスの眉に皺が寄った。小さく笑う。
「気を使ってくれたのか」
夜会の開宴は十九時だが、そのような場合、一般的に参加者は一刻程前を目処に会場を訪れる。それから開宴まで行われるのは挨拶回りと歓談、つまり社交なのだが、それはこの男が一番毛嫌っていることでもあった。
「煩わしく思っているのは、私も同じだからな」
澄ました顔で彼女はお茶を淹れ、男の前に差し出した。青白い陶器製のカップを手に取ったニクラスが、暖気のなかに混じる香りに口元を綻ばせる。それを見届けてから、クリスも自身のカップに手を伸ばした。
しばらくの間、会話はなかった。彼女はそれを不快に思わなかった。
葉茶の香りを楽しみながら、窺うように彼女は男を見る。正礼装ではないが、黒の礼服を自然と着こなした姿は生まれながらの貴族として堂にいっている。それなのに奇妙におかしみを感じてしまうのは、普段とのギャップがあるからだろう。
もっとも、それを笑える自分でもない。急にクリスは自分のことが気になった。
濃く引き延ばした新しいドレスは、着るのは初めてだ。ファビオラが母の意を受けて昨年のうちに注文してくれていたのだという。サテンの滑らかな触り心地も空を純粋に溶かしこんだような色も、装飾を控えめに抑えながら流行をとりいれたデザインも彼女の好みにあっていたが、それが似合っている自信はあまりなかった。
ニクラスも何も言わない。いや、この男が何も言わないのはいつものことだ。クリスはわずかに顔をしかめた。昼間は挫折した耳飾りだが、今また水晶石をあしらった飾りをつけているせいで、さっきから耳朶に鈍い痛みがあった。
「大丈夫か?」
そういうところにだけはすぐ気がつく。クリスは肩をすくめた。
「問題ない。少し、堅苦しいだけだ。どうにも身動きが取り辛い」
「似合ってるよ」
「世辞ならいらんぞ」
思わず仏頂面で返すクリスに、男は息を吐いて言った。
「素直に受け取ってくれてもいいだろう」
誰のせいだ。言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。その台詞はあまりに本心が透けて見えて、はしたないもののように思えた。
「こういったものが似合わないというのは、自分で一番わかっている。私は剣しか振ってきていないからな。それが社交の華を気取るなど、おこがましいというものだろう」
「後悔してるのか?」
ほんのわずか、男の口調に咎めるような響きを感じとり、クリスは首を振った。
「まさか。そういうわけではない。すまん、おかしなことを言った」
会話を打ち切って彼女はカップを口に含んだ。何か言いたげな表情で、しかし口は開かずにニクラスは壁掛けの時計を眺めやる。
「そろそろ出ようか。半前にはついていたほうがいい」
「ああ。行こう」
立ち上がり、部屋を出たすぐそこに執事の男が控えていた。
「それじゃあ、行ってきます」
「は」
一礼し、男が先導して先に歩き始める。ニクラスと連れ立ってクリスは廊下を歩いた。すれちがう女中達が立ち止まり、頭を下げて見送ってくれる。正門を出てニクラスの待たせていた馬車に乗り込む際、外までついてきた男が言った。
「ご武運をお祈りしております」
ゆったりと馬車が動き出し、少ししてからニクラスが口を開いた。
「相変わらず、今から戦争に行くような気分だ」
「私にとってはどちらも大して変わらん」
男が笑う。
「社交は剣のない戦か」
「剣ならある」
「……そうなのか」
ニクラスの視線が興味深そうにドレスのラインをなぞるのを見て、クリスは顔を赤らめた。
「ばか。心がけのことだ。不埒だぞ」




