9
歓宴会が行われている講堂から外までは距離がある。馬車の通用は大学の入り口までで、その先は徒歩が必要だった。内部にまで馬車をつけさせるよう求める声もあったが、アンヘリタを代表とする各国の王侯皇族がそれに従っている以上、周囲も倣わないわけにはいかない。
講堂以外の建物は闇に落ち、周囲に灯された明かりは決して少なくないが、それでも全てを照らすには程遠い。出口まで半ばといったところでクリスは足を止めた。
肩越しに振り向き、口を開く。
「何者だ」
応える闇は静かだった。虫の音も周囲にはない。宴の喧騒は遠く離れ、人気のない建物が怪しく暗い淵に沈んでいる。
「女一人を襲うのに、姿も現せないか?」
クリスが言った。僅かに気配が揺れた。
物陰から数人の男が現れた。いずれも正装で、頭から布を被っている。そぐわない取り合わせに失笑の衝動が生まれ、クリスはそれを留めて周囲を見渡した。数は六人。他に隠れている気配はない。
男達は声を上げず、黙したままクリスに滲み寄った。
顔を隠してあげる口上もないだろうが。冷ややかに思いながら、クリスは細く浅い呼吸で息を整えた。相手の足取りは慎重ではなかった。数のせいもあるのだろうが、専門的な経験のある人間ではないと彼女は判断した。もとより水陸各国の特別階級者達が集まるこの場に不審者など忍び込めるはずもない。相手はすなわち会の参加者と見るべきだった。
もちろん、目の前の狼藉者がいったいどこの誰でその狙いがなんであろうと、相手の好きに辱めを受けるつもりなどなかった。
――ふざけるな。先ほど口に出来なかった台詞を抱く。
剣を持たないだと? 剣ならある。
華やかだが身動きの取り辛いドレス姿で一振りの誇りを身に抱き、彼女は男達と対峙しようとした。
小さく飛来する物音が空を裂いた。
「ぎゃ」
男の一人がうずくまる。闇に投じられた何かにクリスは気づいた。
クリスを囲む男達の後ろから、ゆっくりと誰かが歩いてくる。暗がりからその相手がわかり、クリスは顔をしかめた。手に何かを持ったニクラスが憮然とした表情で現れた。わずかに肩を上下している。
「貴様……」
唸り声をあげる相手に投げつける。慌てて男が飛びすさった。クリスの足元まで転がってきたのは、硬い皮に包まれた何かの果実だと見えた。
ニクラスの背後からさらに複数の影が生まれた。従士礼装の男達が二人。数にはまだ差があるが、襲撃者は明らかに尻込みする気配が顕著だった。
そこに、上空から降ってきたものが男達の次の行動を決定付けた。足元に鋭く突き刺さった矢に悲鳴をあげ、彼らはそのまま恐れ慄いて逃げ去っていった。
「如何なさいますか」
ニクラスの背後に立つ、短い髪をした怜悧な眼差しの若者が訊ねた。
「放っておけばいい。向こうの家の人間と鉢合わせしても面倒だ」
答えたニクラスが地面に突き立った矢羽へと近づき、引き抜いた。それを見たクリスは目を見開いた。大クイの矢羽。ツヴァイの弓に使われるものではない。
もう一人の男が口を言った。
「お返ししてきますか」
ニクラスは首を振った。
「素直に借りておこう。恥ずかしいところを見られたのはこちらだ」
貸し。あるいは相手からすれば、これは借りを返したということになるのだろうか。襲撃者達の服装はツヴァイのそれだった。同国でのいざこざを見られたのだから、こちらとしては相手の思惑をありがたく受け取っておくしかない。
先ほど握手をした男の表情を思い出しながらニクラスは周囲に視線を向けた。どこか高所からの射には違いないが、見回した建物はどれも黒く落ち込んでいる。射手の存在はわかりようもなかった。
ニクラスはクリスを振り向いた。クリスが見返す。
「馬車を用意してくれ」
ニクラスが背後に言った。無言で頭をさげ、二人の男は闇に溶けた。
後には二人が残る。クリスは視線を逸らさず、ニクラスの口からため息が出た。
「何故、護衛がいないのですか」
クリスは答えた。
「アルスタは護る者です。護られる者ではありません」
「……逃げなかったのは。大声を出すのでもいい」
「そのようなことを私は習っていません」
「ああ――なるほど」
迷いのない返答に、忌々しげにニクラスが頷いた。
「失礼ながら、馬鹿かと」
「なっ」
罵倒に色を失うクリスへ、不機嫌さも顕わに続ける。
「いくら学内とはいえ、社交の席であればその程度の用心して当然でしょう。中央に戻ってきたばかりのアルスタ家の立場を考えればなおさら誰にだってわかる。習うとか護るとかそれ以前だ」
遠慮のない物言いに、クリスもかっとなって返した。
「貴方こそ、なんでこんなところにいる。馬鹿はそちらではないですか」
「何がです」
「人がせっかく退いたというのに、それを追ってくるのが馬鹿でなくてなんだ。剣ではなく口が得意なら、舞踏会で饒舌振りを発揮していればいいでしょう」
「剣で倒した後で何を語れというんだ。馬鹿らしい」
「命さえ賭けないうちに、相手の何がわかる」
そのまま互いに退かない眼差しで睨み合い、時が流れる。気遣うような声が囁いた。
「……ニクラス様」
「わかった。お前達も戻れ」
「は」
ニクラスは大きく息を吐き、言った。
「帰りましょう。送ります」
「一人でいいと言いました。どうかアンヘリタ姫のお近くに」
「意味がわからない」
苛々と言って、ニクラスはクリスの腕をとった。そのまま強引に歩き出す。
「わたしが誘ったのは貴女だ。なんで貴女を放っておいて、アンヘリタ様の近くにいないといけない。馬鹿にしているのですか」
「そうではありません。そうではなく――」
語尾を濁らせて、クリスは答えに詰まった。振りほどこうと腕を振るがかなわない。男の力は強かった。
顔を俯かせるクリスを見やり、ニクラスは内心でもう一度息を吐いた。
いったいどんな噂話を聞かされたのか知らないが、そんなものを一々まともに聞いていたのでは身がもたない。皇女の言った通り、相手の素直さは度を越していた。これでは虚実いりまじる社交の場で、そこを住処に生きる人々と渡り合うことなどできるはずがない。
ではどうなるのか。それも既に皇女との会話の中で言った通りだった。溺れて、沈む。それだけのことだ。
黙したまま連れ立って歩き、待たせてあった馬車に乗り込む。不服そうに窓の外を見る令嬢を見やり、ふとニクラスは訊ねた。
「口調が、違いました」
クリスは恥ずかしさを隠し、努めて素っ気ない口調で返した。
「気にしないでください」
「癖ですか?」
気にしないでと言ってるのに、気にも留めずに続けてくる。クリスは返事に棘を含めた。
「そうです。がさつなところをお見せしてしまい、申し訳ありません」
「あちちの方が貴女らしかった」
クリスは奇妙な表情で男を見た。男には冗談を言っている気配はなかった。貴族令嬢の口振りとは思えない言葉遣いを聞いて、そんな台詞を吐く。自然と言葉が突いて出ていた。
「変な方ですね」
「よく言われます」
ニクラスは笑った。社交の席で見せていたものに、少し翳りが加味されている。
「……言われますが、別にわざとそうあろうとしてるわけじゃあないのです」
男の表情を注意深く見ながら、クリスは訊ねた。
「何が、嫌なのですか。貴方は」
「嫌というわけじゃない。ただ、鬱陶しく思うことはありますが」
「何がです」
「何もかもが」
クリスは眉をひそめた。ニクラスは笑った。
「わかってます。我侭だってことは。子どもの言い分ですよ」
男は口をつぐんで外を見た。その瞳が夜の闇を映している。外の色を映した瞳孔の輝きが暗かった。その色に誘われるようにクリスは口を開いた。
「――お聞きしてもよいですか」
「どうぞ」
言葉を吐きかけてから閉じる。息を吐き、改めて訊ねた。
「何故、工房で使う石炭を私の家に頼もうとお考えになったのですか」
「後腐れがないからです」
ニクラスは即答した。
「もしあれが将来的に多く生産されることになれば、石炭の需要は増えます。そうでなくとも、これから鍛冶量が増えればいずれ必ず。その産地は莫大な利益を生む。商売に敏い者ならすぐ気がつくし、それをクライストフ家が独占する、あるいはどこかの派閥の家に口を利けば角が立ちます」
正直すぎる返答に、クリスは拳を握った。
「アルスタならその心配がない。商売の腕もそれを生かす伝手も、閥もない。託すのに都合がよい存在だったということですね」
顔色を暗くして言葉を継ぐ。ニクラスが答えた。
「そうです」
唇を噛み、クリスは続けた。
「……では、貴方が私に気を遣ってくださるのも。それは」
彼女が口にしたのは、はじめに訊ねかけた問いだった。
ニクラスが顔を歪める。視線を逸らし、再び窓の外へと投じながら言った。
「面白そうな人だと。興味を持った相手と親しくなるのに、理由が必要ですか」
クリスは瞳を瞬かせた。
予想していたものと異なる答えだった。聞き間違いかと思うが、男は外を眺めたまま振り向かなかった。吐き捨てる。
「そういう煩わしいのが、嫌なんです」
クリスは意外な思いで彼を見た。それを無視するようにしていたニクラスが、ため息を吐いた。
「しかし、こっちの我侭で迷惑をかけてしまうのは、別ですね。すみません」
クリスを振り向いて続ける。
「明日からはわたしと距離を置いた方がいいでしょう。貴女のことは、アンヘリタ様が目をかけてくださいます。誰かを特別扱いするような方ではないですが、社交の場から除け者にされることはないでしょう。あとは貴女次第だ」
「それは、しかし」
「もちろん、石炭の件はそのままで結構です。結論がどうなるかは互いの父が話してのことになりますが、アルスタ家にとって決して悪い話ではありません。あれにはそれだけの価値がある。わたしは、あの炉が動いてさえくれればそれでいいので」
そうではない、と言いかけてクリスは言葉を飲み込んだ。ニクラスが静かな眼差しで彼女を見据えていた。そこに浮かぶ感情を彼女は読み取れず、ただ先ほど相手が口にした言葉を思い出していた。煩わしいのが、嫌なんです。
「――わかりました」
クリスの言葉を聞いて、ニクラスはにこりと微笑んだ。社交の笑みだった。
「よかった。それでは、週末に」
「これから私はお前をニクラスと呼ぶ」
「……は?」
きょとんとした表情になる。はじめて見るその顔に内心で稚気じみた自己満足をおぼえながら、クリスは続けた。
「ああ、さっきのも訂正だ。わかりましたじゃない。わかった、だな。これからはこちらの言葉遣いでいかせてもらう」
息を吸い、宣言した。
「面倒なのは嫌いだ。だから、私はこれからもお前と一緒にいる」
堂々とした物言いにニクラスが絶句した。ふんと鼻を鳴らして、クリスは続ける。
「文句があるか? なら言ってみろ。ただし、お前もさっき、ずいぶん口調が違ったぞ。そっちじゃないと聞いてやらない」
「いや、そうではなくて」
「なんだ。ニクラス」
再び声を失う。この弁が立つ男を立て続けに黙らせることができたことに彼女は満足した。
急な頭痛が起こったように額に手を当てたニクラスが言った。
「……ああ。なるほど」
諦め、呆れ果てた声だった。
「わかったか」
「――わかった。君は変だ。その上、頑固者だ。稀に見るくらいに」
「お前が言うな」
「厄介事に巻き込まれるのにな。わかってるのか?」
ニクラスが呆れた眼差しを向ける。
「さっきの連中だって、こちら絡みかもしれない。ああいうことが何度だって起こる。さっきの連中はただの酔っ払いかもしれないけど、本当に刺客が来ることも」
「かまわん」
クリスは平然と言い放った。
「お前は私が守ろう」
それじゃあべこべじゃないか。ニクラスは苦笑した。
「アルスタの剣は国家に向けられているはずだ」
「そのとおりだ」
クリスは言った。
「クライストフが国に尽くすのであれば、同じことだ。そうだろう」
一瞬の間。男が首を振った。
「……わかってる」
深く嘆息する。苦笑のままニクラスは顔を覆った。この結果のいったいどこまでが予想されていたのだろうかと考える。答えは容易に出なかった。
「どうした」
「いや。やっぱり怖いな。さすがに一日の長だ。社交の頂点か」
ニクラスは言った。怪訝そうに見るクリスに首を振る。
「なんだ。意味がわからない」
「いいんだ、なんでもない」
馬車の窓から後ろを見る。
広大な敷地の奥、大講堂の姿は視界になかった。全体が暗く沈んで不気味な気配を漂わせている大学から目線を背け、ニクラスは瞼を閉じた。不快な窮屈さを感じて襟を広げる。しかし、その程度のことでは気分が変わらないとわかっていた。
まあいい、と考える思考が慰めに近い。知己を得たことは嬉しくても、そうしたことにまで周囲から糸を絡めてこられるのは不愉快だった。
誰が、何の為に。そういったものを考えることすら面倒でも、好きにされない為には考え、防ぎ、こちらから先制せざるを得ない。そうして自らもまた否が応にもその場に立たされてしまうことが、彼にとっては何より煩わしく、また馬鹿馬鹿しく思えるのだった。
歓宴会が盛況に終わり、講堂では片づけ作業が始まっている。
催主として全ての参加者の帰りを見送った後、ツヴァイ帝国皇女アンヘリタは取り掛かる一同に声を掛けてまわった。
「皆の者、今日はご苦労だった。遅い時間に一手間だと思うが宜しく頼む」
励ましを受けた給仕や従士が身を粉にして働く中、彼女に近づいた人物はナトリア公女クーヴァリインである。
「アンヘリタ様、主催のお勤め、誠にお疲れ様でした」
「クーヴァリイン。そなたもご苦労だったな」
「はい。家の者達を呼んでおりますので、お手伝いさせてくださいませ」
如才のない申し出だった。彼女は次回の歓宴会の催主でもあるから、その引継ぎということもある。招待客の好みや注意など役立てることは多い。
「おお、助かる。誰かから話をさせよう。人手を扉の前辺りに集めておいてもらえるか」
「わかりました。では、私もそちらに控えております」
「頼む。ああ――それから、クーヴァリイン」
しとやかな足取りで立ち去る背中に声をかけて、アンヘリタが言った。
「そなた、あの噴水が気に入っておったようだな」
振り返ったクーヴァリインが微笑む。
「はい、とても感動しました」
眩む美貌、と称される相手を見やり、アンヘリタは続けて問う。
「どこか好みの角度は見つかったか? 会の途中、色々と遠回りに向かっていたようだが」
「色々と見たのですが、どの角度からみても味わいがあって、素晴らしかったです」
淀みのない口調で公女は答えた。声には驚きも焦りもない。
「そうか。どこか気に入った部分があれば、あとで同じものを作って届けさせようかと思ったが。次の宴に使うという手もある」
「嬉しいです。ですが、さすがに今からでは間に合わないのではないでしょうか……?」
ふむ、とアンヘリタは考える素振りを見せた。笑いかける。
「確かにな。職人を焦らせても詮無い。では次回はそなたの趣向、楽しみにさせてもらおう」
「はい。微力ながら努めさせて頂きます」
優雅に一礼して去っていく公女を見送って、アンヘリタは満足な笑みを浮かべた。あの程度の揺さぶりでは瞼一つ揺らすことはないのはさすがだった。
アンヘリタは歩き、彼女が作らせた噴水を眺める。公女の言葉通り、確かに角度によって表情が異なった。それを楽しむ為に色々な方向から噴水に近づくことは不自然であっても、不条理ではない。
そして、その様々に歩く道すがら誰かに出会い、その人物が何か言うことで、決して彼女が非難されることもなかった。その相手が供に歩いていた人物を動揺させる言葉を口にしたことまでが、公女の差し金かどうかは定かでない。その意図さえも容易には図れなかった。何かの策謀があると疑うことすら今は早計に過ぎる。何故なら――
撒いた種を、その撒くことに意味があると考える者もいる。必要な分を撒き、丹精を込めて実らせる。そうした手法とは全く異なる観点に生き、方々と種を撒き、その中から育ったものだけを選ぶ者もいれば、自由気ままに伸びた菜園で自分好みに形を刈り取って整えようとする者もいる。
社交とはまさにその刈り取り場に他ならない。撒くも自由、腐らすも自由。そこに方はあって法はなく、利はあって理はない。法理ならず方利によって成り立つその伏魔殿の舞台は、開かれて僅か十日しか経っていなかった。種が撒かれ、育ち、実がなるのは全てこれからのことだ。
水陸全体を巻き込んだ虚実の宴。その楽しげな予感に気分を委ね、アンヘリタは声もなく笑った。
それでこそ、と考える。女に生まれ戦場にも立てない身ではあるが、女には女の戦がある。どれほど槍捌きの巧みな猛者であろうと、そこで立ち行くかはまた話が異なる。そして、その場所こそが彼女の生まれ着いての戦場だった。
「悪魔の伏せる殿上に、戯れに集って踊るがいい。皆等しくわらわが愛でてやろう」
煙る美貌の皇女は、詠うように呟いて身を翻した。
その背中、大講堂の前方には巨大な水陸の地図が掲げられている。砂に乾いた惑星で人がかろうじて生を許された水陸の一つ、そこで威勢を振るう一国を中点に置いてその壁画は描かれていた。
アンヘリタ・スキラシュタ。彼女こそは、その強大な帝国を支配する一族の一人である。
悪魔の伏戯場 完