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砂の星、響く声 外伝  作者: 理祭
悪魔の伏戯場
18/46

 語り合う男達に険悪な雰囲気がないことにほっと胸を撫で下ろしたクリスは、愉快そうなアンヘリタの声を聞いた。

「ペテン師め」

 皇女は手にした杯で口元を隠し、可笑しくて仕方がないといった様子だった。 

「さすがは宰相様のご子息ですね」

 讃える笑みでクーヴァリインも同意の言葉を紡ぐ。少し距離の慣れたその集団まで届かぬよう、潜めた声でアンヘリタが訊ねた。

「クーヴァリイン、そちは先日の例の講座、確か見ていなかったな」

「はい。ちょうど、次回の食材の仕入れについて連絡がきておりましたので、お噂だけ。素晴らしいものだったと聞きました」

「よい見世物だった。我が国で一等の口利きはあやつで間違いないかな」

「社交の術もお見事です」

「実際、あの場でも話の内容がわかったものなどそうおらんだろう。あれは論の成否でなく、ただ上手かったな。それでいて本人はそれを疎ましく思っているというから、なお可笑しい」


 不思議そうにクーヴァリインが首を傾げた。

「やはりお嫌いで……?」

「変わり者だ。偏屈だしな」 

「ご血筋、でしょうか」

「だろう。とはいえ、あやつの兄はまるで異なる風だが。そちらの方が異色なのかもしれぬ」

「オルフレット様のお人柄は私もよく耳にしております」

 ニクラスの兄であるオルフレット・クライストフは既に国政で父親の補佐を務め、その誠実な人柄で知られていた。クライストフ家の優秀な跡取りとして衆目一致するところだったが、生来体調を崩しがちなことだけが不安視されている。

「さて、この話はこれくらいにしておくか。会場のあちこちで言われているだろうからな。わらわ達くらい勘弁してやるのが情けというものだ」

 アンヘリタが常の声量に戻し、半ば背を向けたニクラスが小さく苦笑を浮かべるのがクリスに見えた。間違いなく声が聞こえているのだった。


「どのようなお話だったのです?」

 興味深げにブライが言った。帝国の誇る美姫達を前に全く恐れ入る風がないのは、性格による。男はニクラスと異なる意味合いでの話術に長けていると評判だった。その評判は特に貞淑で噂好きな貴族令嬢達の間で流れていた。

「秘密だ」

「秘密です」

 ブライは大仰に肩をすくめ、クリスを見た。

「クリスティナ様、後ほどこっそりとお聞かせくださいませんか」

 邪気のない笑顔で話の水を向けられ、不意をつかれて戸惑う。呆れた声でアンヘリタが口を挟んだ。

「初対面で、もう口説きにかかっているのか」

「いえいえ、クリスティナ様に今度、剣のお相手をして頂こうかというだけですよ」

「ほう。しかしそなたの腕では相手になるまい」

「これは姫、手厳しい」


 愛想の笑みを振りながら近くで交わされる会話から意識を離し、クリスはニクラスの様子を窺った。男はベディクトゥ達との会話を続けている。剣呑さはまるでなく、むしろその場を見る周囲の方にこそそういった気配が漂っていることにクリスは気づいた。

 慎重に視線を気遣う。

 アンヘリタやクーヴァリイン、ツヴァイの主要な子息子女が集まる卓への注目は当然あったが、その中で特にニクラスへの注目も強かった。

 向けられた視線は、決して好意的なものばかりではない。

 クライストフ家は爵位に寄らず、一代で権勢を得た特異な存在である。社交場における彼の家の立ち位置を目の当たりにし、クリスは薄寒さを覚えた。温かみのない笑みと極寒の眼差しが全周から男を貫いていた。


「ご心配ですか?」

 クーヴァリインが囁いた。クリスを見ないよう俯きがちに視線を半ば伏している。

「……クライストフ様には、御恩がありますので」

 視線をそらしたクリスに公女が微笑んだ。

「クリスティナ様。果実などいかがですか? あの噴水の細工作りを見にいきたいと思っているのですが、よろしければご一緒に」

「はい。お供致します、クーヴァリイン様」

 食欲はなかったが、断る理由まではない。深窓の姫君に付き従い、クリスはクーヴァリインの後を追った。


 アンヘリタが作らせたという噴水細工は言葉を失うほどの見事さだった。内壁と同じ白理石の土台に磨き上げられた水晶細工を置き、どのような仕掛けか地下からくみ上げられた噴水が放物線を描いている。そこに冷やされた果実はどれも熟れきった色合いで、そのほとんどがクリスがはじめて見るものばかりだった。

「凄いですね」

「……言葉もありません」

「このお水は、いったいどうやっているのかしら……? さすがはヴァルガードの大水源、というところでしょうか」

 西のナトリアにも長く安定した水源があり、トマスとの間に長大な水路が引かれているが、さすがにここまでの代物ははじめて目にした様子だった。

 感嘆と感想を囁きあいながら、近くに控えた給仕の者に声をかけて幾つか果実をとりわけてもらう途中、小柄な人影が迫った。


「公女様」

 振り向いたクーヴァリインが微笑んだ。

「ゼラビア。楽しんでいますか?」

「はい、食べ物も飲み物も美味しくて、困ってしまいます」

 健気な表情で答えたのは年少の貴族子女だった。やや幼い面立ちに、豪奢さが背伸びした印象を与える。

「クリスティナ様。私の領内に仕えるメイジャン家のゼラビアと申します。ゼラビア、ご挨拶なさい」

 クーヴァリインの言葉を受けた少女は、非の打ち所のない礼儀作法で腰を落とした。

「ゼラビアでございます」

「クリスティナ・アルスタと申します」

「まあ」

 ゼラビアが瞳を見開いた。

「あのアルスタ家の。お噂はかねがね。ぜひお会いしたいと思っておりましたっ」

 手を握らんばかりの勢いに、クリスは戸惑いを隠しきれずに応える。クーヴァリインが微苦笑でいさめた。

「ご迷惑をおかけしないようになさい」

「ああ、申し訳ありません。クリスティナ様、ぜひ今度私どものお茶会にいらしてくださいませ。ご存じないかもしれませんが、クリス様とお話したいという方々はとても多くいらっしゃるのですよ」

「私と、ですか?」


 クリスは困惑するばかりだった。剣しか振れない自分のような者が何を楽しませることもできないと思うのだが、その彼女に向かって、興奮した様子のゼラビアに苦笑しながらクーヴァリインが美貌を頷かせる。

「こら、ゼラビア……。ご迷惑でなければ私からもお願いいたします、クリスティナ様。ヴィケの果汁によく合う焼き菓子もご用意してありますので」

 そうした場は、まさに彼女が苦手とするものではある。以前には皇女直々の誘いを断ってもいた。それはニクラスの姿を探していた為ということもあったが、しかし、いつまでも苦手といって避けられるものではなかった。

 自分を誘ってくれた男の意図も、少なからずクリスは理解していた。きっかけを与えられたのだから、それから先は自ら努力すべきだった。

「私のような無作法者でよろしければ、是非」

「わあ、嬉しい!」

 花の華やぎを振る舞い、少女は周囲を見回して頬を膨らませた。


「もう、こんな時にお兄様ったら、いないんだからっ」

「マヒートはどうしたのです?」

「先ほどから、お友達とお話してばかりですわ。それで抜け出して来てしまったのです」

 やんちゃに困った顔で、クーヴァリインが言う。

「ゼラビア。まだ年少のあなたが今夜参席できたのは、マヒートが同伴してくれたからなのですよ」

「わかっています。でも私もはやく素敵な殿方に同伴して頂きたいのに」

 うっとりと夢見るように、ふと気づいたゼラビアがクリスを仰ぎ見た。

「クリスティナ様は今夜、どなたといらっしゃったのですか?」

「私は――クライストフ家の、ニクラス様に。ご同伴頂いております」

「宰相家のニクラス様。羨ましいっ」

「こら、ゼラビア。お慎みなさい」

 クーヴァリインの制止の声をきかず、無垢な表情の令嬢は続けた。

「それでアンヘリタ皇女は、お一人でいらしたのですね」

 クリスは眉をひそめる。ニクラスが自分の同伴相手であることと、皇女がどう関係しているのか。その彼女に小首を傾げ、

「アンヘリタ様とニクラス様はご婚約の噂も聞きますもの。どうしてお付き添われていないのか不思議でしたら、そうしたご理由だったのですね」

 不意な言葉を聞いて、クリスは息を呑んだ。

「――ゼラビア」

 クーヴァリインがため息をついた。


「そのようなお噂事をみだりに口にしてはなりません。災いの元となりますよ」

 あくまで柔らかく叱る眼差しに、少女は首をすくめた。

「ごめんなさい。皆様、そうお噂されていますので、つい」

「……クリスティナ様。申し訳ありません」

「いえ、とんでもありません」

 クリスは答えた。平静を装ってはいるが、笑みがぎこちない。

「クーヴァリイン様、私は先に戻らせて頂きますので、ごゆっくりと」

「わかりました……本当に、申し訳ありません」

 クリスは二人に背を向けて歩き出した。無様な足取りになっていないよう祈るような思いで歩を進める。


「私、なにか粗相をしてしまいましたでしょうか」

 動揺を隠しきれない背中を見送り、ゼラビアが心配顔の主人を見上げた。純真以外の言葉では言い表すことのできない眼差しを見下ろし、クーヴァリインは細く息を吐いた。

「困った子」

 手を伸ばし、頬をなでる。

 くすぐったそうに身をよじる少女は気まぐれな猫のように瞳を輝かせた。



 アンヘリタを含む数人と談笑を続けていたニクラスは、遠くから戻ってくるクリスの姿を確認し、それが至近まで近づいて僅かに眉をひそめた。

「……ニクラス様」

 口を開いたクリスの表情が硬い。やや青ざめて見えた。ニクラスは歓談の場を離れ、小さく声をかけた。

「どこかお加減でも?」

「いえ――はい。それで、誠に申し訳ないのですが、お先に失礼させて頂いてもよろしいでしょうか」

 口調に違和感をおぼえながら、ニクラスは頷いた。


「わかりました。それではわたしもご一緒します。アンヘリタ姫に了承を頂いてきますので、少々お待ち頂けますか」

「いえ」

 クリスが首を振った。

「私一人で帰れますので。まだ歓宴会は半ばです、ニクラス様は、どうぞそのまま」

 ニクラスは顔をしかめた。どうぞと言われても、同伴した相手を放っておけるはずがない。マナー違反であるし、同伴した人間にとっては恥でしかない。そうしたことを狙ってのものとも思えなかった。相手は表情を隠していた。

「本日は、誠に申し訳ありませんでした。この非礼は必ず、近いうちにお詫び致します。それでは」

 問いただされるのを拒絶するよう、一息に述べたクリスは背中を向けた。不審としか捉えられない態度に、令嬢の背を追いかけようとしたニクラスへと声がかかる。

「ニクラスよ。一曲つきあってもらおうか」


 弾んだ声にあわせたかのように、場に流れる曲が切り替わった。

 舌打ち未満の表情を閃かせ、ニクラスは振り返った。アンヘリタがにこやかに微笑んでいる。優雅に差し伸ばされた手に抗うことは不可能だった。彼女は皇族であり、催主である。

 ニクラスは黙って皇女の下に進み、一礼してその手をとった。中央の踊り場へ向かいながら、口早に囁いた。

「お戯れがすぎます」

「戯け。そなた達の為だ」

 四方から向けられるどの角度からも完璧な表情を浮かべたまま、アンヘリタが言った。

「一曲だ。その後はブライに替わらせる。皆の目が集まっていれば、紛れられよう」


 それが皇女の配慮だった。

 誰もが注目を集める宴の席で女が中座し、それを男が追いかける。何事かと目を輝かせるばかりではなく、事実ではないことまで吹聴されてしまうのが社交の常だった。皇女の声掛けはそうした事態を避けるためのものであった。

 ニクラスは瞳を驚かせて、すぐにそれを隠した。会場の中央、開かれた空間に二人が辿り着き、やや距離をおいて一礼する。動きを止めた。

 周囲には彼らに続く数組が現れている。適当な距離をたもってそれぞれが男女を見合わせ、息を整えた。

 緩やかな円舞曲が流れ始めた。


「少し目を離した」

「わたしもです」

「仕方あるまい。誰でも身体は一つだ――といえば言い訳になってしまうか」

 ゆったりとしたリズムに身体を揺らしながら、アンヘリタが言った。

「しかし、事実でもある。平等なればこそ、そうそう特別に目もかけられん」

「それはわかっています」


 先日、工房でアンヘリタはアルスタ家を平等に扱うと言明したが、それで決してアルスタ家の安息が約束されたわけではない。

 全てを平等に見るということは、特別視しないということでもあるからだった。自らが呼び水となり、参加者を舞踏へと誘って自由に動ける機会を作ろうとしていることだけでも、充分な特別扱いと言えた。アンヘリタの立場から許された謝意の現れともとれる行いだった。

「相手はわかりますか」

「さて。理屈でないなら、考えるだけ損というものだ」

 ニクラスは相手の表情を見通した。そこには嘘がないように見える。

「睨むな。よくあることだろう」

 それは、確かに。ニクラスは相手の意見に納得せざるを得ない。


「……ニクラス。何かの考えの故か、それとも気まぐれかは知らん。だが、あの者は決してそなたではない。そのことを見誤るなよ」

 答えず、手に握る力を意図的に抜いた。それを見越したアンヘリタが強く握り締める。身体が引き合い、至近の距離で囁いた。

「あの者は無理だ。伏魔の渦中には生き残れん」

 相手の意図を汲んだニクラスは抱いた苛立ちを表に出さず、冷淡に対した。

「なら、それが定めでしょう」

 アンヘリタは笑った。

「それはそうだ。その台詞、そなたが言うと奇妙だが、その通りだな」

 近くを他の踊り手達が通り、二人は口を閉じた。そのまま沈黙が続き、曲が転調を経て終わりに向かう。ニクラスの耳元でアンヘリタが囁いた。

「急げ。あやつ、護衛の者をつけておらん。恐らく今日もな」


 僅かに息を呑んだニクラスが力を込めた眼差しで睨む。それを平然と、アンヘリタは相手を見返した。

 曲が終わり、見物していた聴衆から拍手が生まれる。皇女への一礼と他の参加者への一礼を済ませ、近くに待機していたブライにアンヘリタの手を委ねたニクラスは、外へと向かった。

 行く手にはこの機を計って彼に声をかけようとする者の姿もあったが、踊りに参加しようと、あるいは近くで見ようとする人々の動きが視界を攪拌していた。


 混乱に乗じて慎重に足を向ける方向を見定めながら、ニクラスは歩を急がせる。

 背後では別の曲が始まっていた。



 歩きながら、クリスは必死に動悸を抑えつけていた。

 あちこちで笑いの波が弾ける会場の脇を通り、出入り口へと向かう。楽しげな声が過敏に耳に触れ、演奏され始めた典雅な曲調も彼女の心を休ませはしなかった。


 舞踏が始まり、それに向かう人々は前方へと集い、残って談笑を続ける人々の声は大きい。歓宴の席も中ほどに至り、酒精が参加者の気配をおおらかにしていた。

 大気にまじって届いた酒の香りが頭痛を誘発する。いや、そうではないと彼女は否定した。以前、母親に連れられた夜会ではじめて口にして気分を悪くしてから彼女は酒を遠ざけていたが、さすがに空気中に漂う幾ばくかで酔うほどではない。それは、冷静に判断する余裕が残っているというよりは、混乱する気分を紛らわせる為の思考だった。


 婚約。初めて耳にしたその言葉が彼女に強い衝撃を与えていた。

 何を驚くことがある、とクリスは自分自身に言い聞かせる。

 貴族同士の結婚は当然、個人としてのものではない。スキラシュタ皇家とクライストフ家との婚約には、それを利とするだけの理由があった。

 クライストフ家には爵位がない。その立場を揺るぎないものとすることを考えれば、皇族と戚になることが最も有力な手法だった。一方の皇家には、派閥の色のないクライストフ家を取り込むことで、皇族自体の影響力を増すことができる。

 もちろん利点ばかりでなく、懸念されることはそれより遥かに大きい。


 皇族の結婚問題は古来より国体を揺るがす。バーミリア水陸においても、過去に外戚が権力を専横して滅んだ国の例は数あった。ツヴァイ帝国、皇帝下に居並ぶ貴族達は、他国や過去の支配者達と比較して善でも聖でもなかった。大国であるからこそ、その力関係には微妙なものがあった。

 そこに皇家とクライストフ家の婚約という話がでれば、今まで均整がとれていた関係が崩壊しかねない。そうした恐れさえあった。

 いずれにしても、本来であれば軽々しく口にすることではない。噂の域であればなおさらである。いかに年少の者であれ、あの幼い少女の発言は不用意に口にするのにも迂闊が過ぎた。

 こうした噂はむしろ自重のある貴族達の口より、その下の者で無責任に広まることが多かった。アルスタ家に古くから仕える家人が噂を集めるなかで伝え聞いたのも、そうしたものだった。


 しかしながら、そういった政治的な思考は今のクリスの頭にはなかった。皇族の婚約というものの真実が、夜会の年少者などの口から漏れ出でるはずがない。そうした当たり前の理屈に論理がいきつくこともなく、彼女は取り乱した頭で自分自身について考えていた。

 アンヘリタ皇女とそうした関係が噂される相手に同伴させる。

 如何に知らなかったこととはいえ、いや、知らなかったからこそ、その無意識の図々しさに赤面する思いだった。それが相手からの申し出であろうとなかろうと、そのようなことは彼女にとって関係ない。自分の分と恥についてきつく意識を縛りあげた彼女は、唇を強く噛み締めながら歩いた。


 会場の注目は中央で始まった舞踏にあり、彼女に声をかける者はなかった。さぞ華やかな場になっているだろう後方をちらりとでも振り向く勇気がクリスにはない。そこでは件の二人が手を取り合っているはずだった。今はただ、一刻も早くこの場を離れたかった。

 扉を出る。すぐ先に控えていた儀仗服の相手が彼女に応対した。体調が優れないので帰りの馬車を呼んでほしい、というクリスの言葉に、男は礼儀正しく腰を折った。

「かしこまりました。こちらにてお待ちくださいませ」

 男が去り、クリスはその場に佇んで空を見上げた。

 夜空には中天の月がかかり、冷えた空気が頬を冷やした。深い呼吸をしようとしてそれを阻まれ、彼女は忌々しく首を振った。早く、この矯正具を外してしまいたい。閉められた扉の向こうからかすかに曲の調べが届き、クリスは眉をしかめた。


「月明かりの下、佇む令嬢。絵になる図だな」

 声に視線を向ける。二人の人物がそこにいた。

 ひどく軽薄な雰囲気の男と、ひどく張り詰めた気配を持った女性だった。彼女に声をかけたのは男の方だったが、そちらではなくもう一人をクリスは注視した。

 感情のない表情で立つその女性は、一見して異国の情緒を身に纏っていた。服装からしてツヴァイのものではない。東によく見られる布を大胆に巻いた衣装が、起伏のある肢体をささやかに隠している。

 女性は暗がりにあってなおわかる褐色の肌の持ち主だった。こうまで条件が揃えば、まず間違いようがない。その人物はボノクスの人間だった。


「ケッセルト・カザロだ」

 男が言ったが、女性の名前ではないことは明白である。クリスは答えた。

「クリスティナ・アルスタです」

「ああ、知っている。前に剣錬の講座で、大した立ち回りをしていたからな」

 男が面白そうに唇の端を歪めた。クリスは改めて目の前の男を見た。今さらながらに見覚えがあることを思い出している。

 ケッセルト・カザロ。大学に招かれた若手軍人貴族の一人だった。大学の年齢層からすればやや高い、模範と指導に招かれた先輩格の相手だった。ケッセルトはその中でも将来を有望される才の持ち主であるとされていた。

 クリスはケッセルトからすぐに視線を外した。彼女が先日、剣錬ではじめて男の姿を見て抱いた感想は好意的なものではなかった。理由はない。強いて言えば、口元の笑みが不快だった。


 男の隣に注意を戻す。改めて視線を向けた女性は先ほどから無言でその場に立ち尽くしている。名乗りを返すつもりが見えなかった。相手の無作法にクリスが眉間を動かす前に、ケッセルトが肩をすくめた。

「なんだよ、照れてんのか」

「照れてなどいない」

 女性が言った。冷め切った口調だった。

「アルスタ家の人間だぞ。知ってるだろ」

「知っている。それが何か」

「なら、挨拶くらいあるんじゃねえのかね。スムクライの人間としちゃ」


 クリスは驚いた。

 スムクライといえばボノクス四氏族の一つである。特に武勇に優れ、ツヴァイとの戦争では先陣をきってその馬を駆けさせてきた武人の一族。長く地方にあって他国と戦ってきたアルスタ家とは浅はかならぬ因縁のある相手だった。

 女性が傍らに立つ男を見た。冷たい眼差しが刺さる。

「剣遊びで一度我に勝ったからといって、調子に乗るな」

「おいおい。遊びかよ」

「命の有る無しがなければ、全て遊びに決まっている」

 女性は言った。


 剣遊び。スムクライ。何故、ツヴァイの貴族がボノクスの名家の一人と共にあるのか。男の腕は女性の腰に回されていたが、その場にある雰囲気はとても親密なそれではなかった。

 不理解と警戒の眼差しを向けるクリスを見やり、スムクライの女性が言った。

「名乗る必要もない」

 表情が動いた。嘲笑だった。

「どこであれ、武器も持たない者など、名乗るに値しない」

 歩き出す。思わず腰を落としかけ、着慣れぬ正装に反応が遅れたクリスの横を、悠然とその女性は過ぎた。

 そのまま一瞥もなく去っていく。頭をかき、ため息を吐いた男が続いた。

「ったく。ああ、悪かったな。気にしないでくれ。またな、アルスタのお嬢さん」

 ひらひらと手を振りながら歩き去った。


 取り残されたクリスは一人、見下された屈辱に身を震わせた。

 努力して息を吸い、吐き、なんとか気分を落ち着かせようとする。握り締めた拳のまま足を踏み出した。案内役の男からはこの場で待つように言われていたが、少しもこの場に留まっていたくなかった。


 暗がりへと歩き出す。馬車付きの玄関に歩き出したその後ろをつける人影が、物音なくそれに続いた。



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