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その日の夜、クリスは晩餐の卓で昼間に依頼された話の内容を語った。
「――クライストフ家の子息が、か」
彼女の正対に座って食事をとるその人物は娘の話す一言一句に静かに耳を傾けた後、皺枯れた声で呟いた。手の銀食器を置く。娘を見る視線は自然と厳しく、威風ある雰囲気が息吐くようにその全身に漂っている。
バルガ・アルスタ。十五の歳に初陣を飾って以降、半生の多くを戦場で過ごしてきたアルスタ家今代当主であった。その武勇は他国にまで轟き、将才は古の名将に例えられることもある。
それほどまでの名声の主でありながらツヴァイ国内で決して相応の評価を得ていなかったのは、アルスタ家が先の時代、皇帝後継のいざこざに巻き込まれて中央を追いやられたことが理由である。ツヴァイ国内よりむしろ他国の敵方において彼を認める声は大きい。
その彼が地方での軍務からヴァルガードに帰参したのは昨年のことである。同時にそれは中央政治、その社交の場に戻ったことを意味していた。それに関わったのは帝国宰相ナイル・クライストフであった。
祖先と等しく、自らもまたいずれ戦場で骨朽ちるのみと達観していたバルガは、突然のその声掛かりに困惑を隠せなかった。そして警戒した。いくら功を挙げても賞されぬことを当然としてきた男にとって、それは何かしらの謀であるとしか思えなかったのだった。
「クリス」
バルガは呼びかけた。長い戦場働きで枯れ果てた男の喉には、いくら濯ごうとも抜けきれない砂色が染み付いている。
「はい」
「大学はどうだ」
クリスは瞳を瞬かせた。唐突な話題に、少し遅れてから答えを返す。
「……興味深いことばかりです。面白い人物とも出会えました」
相手の詳細を問わずに、父親は続けた。
「クライストフ家のご子息の名は、なんと言った」
「ニクラスといいます」
「ニクラス。ニクラス・クライストフ、か」
バルガは瞼を閉じた。脳裏に参内の折、宰相の後ろに控えていた相手を思い出している。その時は挨拶を受けるだけで人となりまでを知ることはできなかったが、一瞬視線を絡ませたその眼差しだけは覚えていた。
奇妙な視線だった。不快ではない。今まで全く見たことがないような――と思い、ふとバルガはそれに近しいものに覚えがあることを思い出した。男がそれを見たのは戦場だった。
男は小さく息を吐いた。不快でなくとも、不安はある。アルスタ家、そして娘のこととなれば当然だった。宰相の次息がいったい何を企んでいるのか。じっと自分を見つめて答えを待つ眼差しを受けながら、男は胸中で思いを巡らした。
工房で図られているという新素材。鉄に変わる可能性のあるそれの製造に必要な為の燃料として、アルスタ家の収める地方で得られる石炭を供給してほしいという。
バルガもツヴァイに仕える軍人貴族である。その素材に関心は当然あった。鉄板を半ばからへし折ってみせたというその素材を用いれば、戦場で散る命の幾ばくかを少なくすることができるだろう。多くの味方を失ってきた彼にとっては、それだけでも充分な恩恵である。
しかし、だからこそ解せない。
石炭は確かに他の鉱物資源と同じく地下に偏って存在するが、それがとれるのは何もアルスタ家領だけではない。暖をとる為に用いられているそれらは、クライストフ家の人脈を使えばいくらでも他から取り寄せることはできるはずだった。別にその為に砂鋼とやらのことまで説明する必要もない。金を払うだけで、その素材研究の功績は全てクライストフ家のものになる。
そこに何故、アルスタ家を仲介しようとするのか。それは独占できるはずの功績を、あえて分け与えようというものに他ならなかった。
そして、それを言ってきたのが宰相ではなく、その子息である。あくまで正式な申し出となることを避けたのか。そこには宰相である父親が糸をひいているのか、あるいは個人の独断か――。
「どういう男だ?」
問いに、彼の娘は一瞬迷うような素振りを見せた。
「……変わった男です」
「そうか」
父の短い返事に何かを感じ取ったのか、弁解するように口調を早める。
「決して、不愉快な男ではありませんでした。むしろ逆に――」
そこで口を閉じた。
自分が何を言いたいのかわからずに苦しんでいる表情の娘を眺めるようにしばらく見た後、バルガは告げた。
「ご子息に返事を。次頃の末、ご挨拶に伺わせていただきたい。その旨、宰相閣下にお伝えいただけますか、とな」
「はい」
「クリス。お前もその時には同行してもらおう」
「私も、ですか?」
驚いたような声の後に、クリスは頷いた。
「――わかりました」
感情を抑えた返事のその端に隠しきれない喜色が見て取れる。
気づかないふりをして食事を再開しながら、バルガは先ほど脳裏に閃いたものを浮かべていた。再び息が漏れる。頭に思い浮かべるそれと、卓の向こうで嬉しそうにしている娘とを等分に、バルガは考えた。
不快ではなくとも、不安はある。自分がそう思う心情が、ツヴァイに仕える武人としてのものか、あるいはそれとも娘を思う父親としてのものなのか。そう考えたのだった。
「わかりました。では、わたしから父に伝えておきます。詳しい日取りはまた追ってご連絡を」
翌日、クリスからそれを聞いたニクラスは、安堵した様子も見せずに頷いた。
「はい。私と父でお伺いします」
彼らの目の前では、気難しい顔をした老人が手先に持った板片に細かな手を加えている。
二人が出ているのは先週、はじめて両者が顔をあわせた講座である。小さな教室には老人と、彼ら以外の存在はなかった。
「クリスティナ様が?」
少し意外なようにニクラスが言った。
「ええ。父からそのようにと。ご迷惑ですか?」
「いえ。失礼しました、迷惑などとんでもない。クリスティナ様、ご伝言ありがとうございました」
ニクラスは答えた。その態度を見透かそうとして叶わないことを悟り、クリスは男から老人へと視線を移した。
その老人が何をしているのか、クリスにはまだ理解できていない。嵌め板を作っている、と言われてから自分なりに調べてみたが、それが何に嵌めて使うものかは全く見当がつかなかった。
老人はいつものように二人を無視して作業に没頭している。二人の話し声が不快そうな気配はなかった。邪魔をしてはいけない、と教室の外でニクラスを待つ彼女に気づき、早く入れとしかめ面で手まねきしたのはこの年老いた工匠だった。
クリスはちらりと横の男を盗み見た。退屈そうにも見える表情で目の前の仕業を見るその横顔は、何かの思案に暮れているように見えなくもない。少なくとも、本人が言っていたように面白がっている風には見えなかった。
――変な男だ。胸の裡で呟き、ふと思いつく。
クライストフ家を訪れるということは当然、その家の当主にも見えることになる。ナイル・クライストフ宰相。ツヴァイ帝国の重臣にして、多くの内政事業を推し進める才の持ち主。水陸各国の子息子女を集めた大学の提唱者であり、高位にありながら爵位を持とうとしない変人としても名が通っている。
間違いなくツヴァイの国政の中心にあるその人物と近しい距離で面会することに、不意な緊張がクリスを襲った。無礼のないようにしなければ、と思い、そういえば何を着ていけばいいのかと次に考えた。
彼女は身動きのとりづらい正装の類を嫌っている。可能な限り、今もしているような平装に近いものを好んでいた。剣が振れないというのがその理由だが、それが他の子女達から失笑を買う原因にもなっている。
しかし、さすがにそんななりで宰相閣下の目の前にでることが出来るはずがなかった。
今からでは新しい服の仕立ても間に合うまい。帰ったらすぐにファビオラに相談しなければ――とまで考えがいったところで、何を自分は舞い上がっているのかと赤面した。
「そういえば」
彼女の内心など知りようもないニクラスが口を開いた。
「今朝、アンヘリタ様とお会いした時、クリスティナ様をお茶会に誘いたいとおっしゃっていました。お会いになりませんでしたか」
「ああ、いえ。お誘いは受けたのですが……」
言葉を濁しかけ、クリスは正直に答えた。
「あまり、ああいった場は得意ではないので、お断りしたのです」
「なるほど」
ニクラスは悪意のない表情で笑った。
「せっかくの皇女殿下からのお誘いで、申し訳なく思ったのですが」
「いえ、わかります。社交や宴会というのは、わたしも苦手です」
男からの同意を嬉しく思い、ふと思い出してクリスは訊ねた。
「宴会といえば。明日は学生同士の歓宴会がありますね」
「ですね」
一転、ニクラスの表情が苦々しくなる。
「アンヘリタ様からきつく釘をさされました。必ず出るように、と」
「ああ。確か今回の催しは、アンヘリタ様が――」
主催たるツヴァイの皇族である彼女が取り仕切るのは当然といえた。学生による晩餐会。それはこれから幾度も行われることになる伏魔の社交、その先駆けとなる。
「怠けようとするなら直接、迎えにいくぞ。と。あの方が言うと冗談に聞こえないのが怖いところです」
不思議に思ってクリスは訊ねた。
「皇女様のお隣がお嫌なのですか? 大変に名誉なことだと思いますが」
「中座どころか、満足に物を食べることもできないでしょうから」
ニクラスは肩をすくめた。ただの冗談だったが、物を食べる暇もないというのは恐らく正しかった。
問題はもちろんそればかりではない。
皇女の同伴にその国の宰相の息子がつく。学生の社交事とはいえあまりに刺激が強すぎる。アンヘリタ皇女は冗談めかしていたが、その台詞にどれほどの本音が隠れているかニクラスは慎重な思いだった。彼女は生粋の皇族と言えた。
「クリスティナ様はどうされるご予定ですか」
憂鬱な話題から一時でも気分を逃すよう、ニクラスは訊ねた。クリスは答えた。
「私は、特に決まっておりませんので」
「決まっていない?」
ニクラスは眉をひそめる。
「はい。あまりそうしたお付き合いも、アルスタにはまだ。父も、こちらには戻ってきたばかりですので」
彼女は一人で晩餐会に出るつもりでいた。
社交とは家の繋がりによって成り立っている。晩餐会などの宴会にはそうした縁から同伴の相手を選ぶのがはじまりだった。そうして出た社交の場でさらに知己を得て、あるいは人を頼りに交流を広げる。
アルスタ家にはそのとっかかりとなる相手がいない。戦場の勇者は社交の場では所詮、田舎者でしかなかった。そうであれと祖先がしてきた道でもある。彼女の父親はそのことを気遣い、乏しい人脈を辿ってみる旨を言ったが、娘は問題ないとそれを断った。例え周囲がそれぞれ知己と連れ合って参加しているところに自分が一人でも、何一つ恥じるところはないと彼女は思っていた。
「それでしたら、わたしがお誘いします」
思案顔になっていたニクラスが言った。クリスは笑って首を振ってみせる。
「大丈夫です。お気遣いなく」
「わたしがお嫌なら、他の誰かに頼みます。貴族の者か、あるいはそうでなくとも同伴の相手を務められるものなら心当たりがあります」
ニクラスがちらりと視線を向けた。つられて彼女も見るが、ニクラスの見た教室の扉には誰の姿もなかった。
「わたしのお誘いではご迷惑ですか、クリスティナ様」
慌てて首を振る。
「いえ。しかし、皇女殿下からのお誘いが――」
「問題ありません。その方がわたしにとっても嬉しい。アンヘリタ様の隣というのは、いささか以上に気が滅入ります」
そういうものか、と考えたクリスはふと自分の心中をいぶかった。一瞬、何かがざわめいたような気がしたのだが、意識した時には既にその声は落ち着いて聞こえなかった。
クリスは自分よりやや高いニクラスを見上げ、確かめるように訊ねた。
「……私などで。本当によろしいのですか」
「もちろんです、クリスティナ様」
ニクラスは言った。クリスは急な事の運びに気が急くばかりだった。
週末の訪問どころか、着古した支度で気楽に出向こうと思っていた晩餐会までが大事になってしまっている。
大変なことになった。家に戻り次第、ファビオラに相談しなくてはならない。
これから剣術の講座があると出向いていったクリスと別れ、ニクラスは中庭へ向かった。
大学の中座に拓いたその一画に彼が昼寝に訪れる木蔭がある。ニクラスは周囲から遠巻きに自分を見る視線を無視して、ごろりと身体を横たえた。
「ヨウ」
「――はい」
声が応える。
「父上に連絡を。イシク先生の工房で使う燃料の件、目処がつきそうだと。そのことでアルスタ家のバルガ様が令嬢と一緒に来られるので、日取りの候補を」
「そのままのご報告ですと、驚かれるのでは」
気遣うような気配にニクラスは肩をすくめた。
「かまわない。それから、明日の夜会にアルスタ家のご令嬢と出ることも一緒に頼む」
声が沈黙した。ややあって、訊ねる。
「……怒っていらっしゃるのですか?」
「そうじゃない」
ニクラスは言った。
「ただ、先に手は打っておく。それに、アンヘリタ皇女からのお誘いを断ることもできる」
「あちらの当主様のご訪問前ですが」
「アルスタ家を中央に連れ戻したのはクライストフ家だ。それが社交の誘いをして、おかしがる相手はいない」
それについて何の配慮もしていない方がよほど見え透いている。内心で続けた。
「その後のことを考えれば、誰か別の者にお相手いただくほうが両家の為によろしいのでは」
「謀を先に持ってこられるのは、気分が悪い」
翻意を促すような響きに向かって、ニクラスは言った。わずかな不機嫌が口ぶりにあらわれている。
「――かしこまりました」
かすかな嘆息と共に気配が消えた。
ニクラスは目を閉じ、しばらく木の葉の囀りに意識を委ねた。木漏れ日からの陽が瞼を赤くちらつかせるのが気に触り、横向けに移って草の香りを嗅いだ。
聴講を予定していた講座が全て終わり、クリスは急いで自宅へ戻った。
立ち止まって頭を下げる家人達への返事もそこそこに、ファビオラの姿を探す。
「ドレスでしたら、既に用意して届いておりますが」
明日の晩餐、そして週末の訪問をどうすればよいだろうと訴えた彼女に、中年の侍女は落ち着き払った口調で答えた。
「……あるのか?」
「ありますとも」
当然と言った態度で頷く。
「お嬢様の晴れの舞台ではありませんか。お母様と私とで既に仕立てさせております」
「そう、か」
ほっと安堵の息を漏らす主人を興味深げに見やり、ファビオラは訊ねた。
「それで、その羨ましいお相手はどこのご子息です?」
「――クライストフ家の、ご子息だ」
おやまあ、とファビオラは丸っこい瞳を瞬かせた。
「いつの間にお仲良くなられたので」
「仲良くなどは、いや。まあ、悪い人物ではない」
答える様子がますますそれらしいことに、内心でファビオラは複雑な思いを抱いた。まさかとは思ったが、これはもしかすると本当にそうかもしれない。
彼女は先日、主人から話を聞いてからクライストフ家の次男についての噂を集めていた。その中には、今の主人には聞かせられない類のものもあった。
所詮は市井の噂である。確たる証拠があるものでもないが、それが事実であった場合、主人は傷つくだろう。明日のことを思ってか、見るからに嬉しそうに表情をなごませている主人を見て、彼女は前もってそのことを話しておくべきか迷った。
忠実な侍女がその決断を果たす前に、扉がノックされた。姿を見せた家人から、旦那様がお呼びですと主人に伝えられる。
「すぐに向かいます。ありがとう。――ファビオラ、助かった」
去っていく主人の背中を、ファビオラは複雑な表情で見送った。
同じ頃、ニクラスも自宅の屋敷で父親からの呼び出しを受けている。
公務から戻ってきたばかりの宰相ナイルは、玄関口で彼の帰りを待っていた執事に息子を呼ぶよう言いつけ、自室に戻った。
「報告を聞いた」
すぐに現れた息子に向けて、ナイルは単刀直入に言った。
「工房の件。アルスタ家を仲介するのか」
「そうしようと思います」
ニクラスは答えた。
「もっともしがらみのない相手が、アルスタ家でしょう」
「そして、明日の歓宴会にもアルスタ家の令嬢を伴うか」
「はい」
ナイルはため息を吐いた。
「見え透いているな」
「関心も疑念も向くでしょう」
「それもわかった上か」
「そうでなければいいことです」
ニクラスは平然としていた。
「アルスタ家の忠誠は国に捧げられています。惑うことはありません」
「剣にするつもりはない」
「盾にされるおつもりでもないはず」
親子が視線を合わせた。
ナイルが瞼を閉じる。組んだ手のひらの向こうから厳かな声を押し出した。
「――まあいい。週末、アルスタ家当主を招く。オルフレットと、お前も同席するのだ。ニクラス」
「はい」
「手紙はこちらから出しておく。さがっていい」
「失礼します」
ニクラスが部屋を去る際、父親の声がその背中にかかった。
「クライストフは戚にはならん」
「わかっています、父上」